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瑠紫琉
遠くから汽笛が聞こえる。
独特のねっとりとした感触をはらんだ潮風が、白いカーテンをふわりと靡かせた。
カーテンがかかっているのはカーテンと同じ色の白い部屋。
白いベッドに白いシーツ、何もかも白。
そこは病室だった。
ぴこん…ぴこん、と規則正しく小さな電子音が響いている。
ベッドの上に静かに横たわっているのは男性の老人だった。
ひからびたような全身。閉じられた目は二度と開かないのではないかという程、ぴくりともしない。
誰もいない、老人さえも無機物のような部屋。
その部屋の白いリノニウムの床に、どこからともなく薄い人影がひとつ降り立った。
床にある靴はつま先がぽっこりとした、踵の高い黒いおでこ靴。
白いニーソックスに、白いレースがところどころに縁取られた黒いゴシックロリータ服。
また風が吹く。白いカーテンと共に、ラヴェンダー色の巻き毛が靡いた。
「っ……」
その影に、老人の瞼がぴくりと動いた。
「……や…あ……」
旧知の者に向ける瞳で老人が微笑む。
「…あの時と…変わらないんだね…」
老人の言葉を、長い髪の少女はただ微笑んで、聞いている。
「今日も…かわいらしい服を着ているね…あの時はゴブラン織りのドレスだった…かな…?」
少女は微笑んで老人のそばに寄った。
そして黙って老人の手をそっと両手で包み込んで握る。
「…ふふ…あいかわらず元気…みたいだね…でも…不思議だ…これは…夢の中なのかい…? 君と会えるという事は…いつも…君と会うのは夢の中だった…捕獲っていうんだったかな…? 君が僕に会いに来る時、いつもそうしていると言っていた…」
少女は微笑んだまま、そっと老人の手に唇を押しつけた。
「…そう…だね…そんな事はどうでもいい…わかってるよ…僕にはもう残された時間はない…だから…君がこうして僕の前に現れたんだろう?」
少女はにこりとにぱっと口を開いた。
「そうみたいやね、だからうち、現実に会いにきたんやで」
「ふふ…やっぱりそうか…色々…あったけど…君と夢の中で会えた事が…一番、僕のはげみになった…君は不思議な子だね…僕が落ち込んでいるのを見越しては現れた…僕はどれだけ君に助けられたのか…わからない…」
「うん。だって、うち、あんたの好きな顔やってんもん。寂しそうにしてる時が、一番好きやったん。だから捕獲してたんやで」
「はは…そうだったのかい…じゃあもっと…寂しい思いをしていればよかったかな…」
「あかん、そんな事したら、価値下がるやん。だからこれでよかったんやで」
「……そう…か…」
「うん」
「でも…どうやってここに?」
「空にあるアレが、ここにきてええて」
少女は窓から見える空を指さした。
そこにあったものは、パステルカラーのピンク、イエロー、グリーンの斑の細い帯。
「あれは…」
「ツヅキ」
「…続き…?」
「そう、ツヅキや。そのうちみんな、そう呼び出す」
「…夢の世界の話なのかい…?」
「うん」
「そう……不思議で…綺麗…だね…」
「そう?」
「ああ…僕はこれから…あそこに行くのかい…?」
「それはわからん。人間が死んだらどうなるかなんて、誰にもわからんよ」
「そう…か…残念…だな…あそこに行けば…ずっと…君と…一緒………に……」
ふらふらと空に向かって伸ばされた手がぱたりと力なくベッドの上に落ちた。
ピーーーー……
電子音が細い帯に変化した。
老人の瞼が閉じられる。
ゆっくりと。
何を見ているのか。
少女か。
それとも空か。
閉じられた瞼はもう二度と動かない。
少女は老人の唇に唇を寄せた。
そして軽くふれ、離す。
初めて会った時のように。
「あんたがこれからどこ行くかはわからんけど、印つけといたったから…また…会えるわ…うちらに寿命はないさかい」
少女の姿が薄く消えて行く。
それと同時に、街にありとあらゆるサイレンが鳴り響きだした。

それは初めてこの現実に後にツヅキと呼ばれるものが現れた日の出来事だった。


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