戻る 日陽子

日陽子
夜。
電気のついていない真っ暗な部屋。
携帯の呼び出し音が鳴っている。
メールではないので、何度も鳴る。
それでも日陽子はそれをただじっと見つめ、出る様子はない。
ベッドにうつぶせに横たわり、ぼんやりとしている。
小さなテーブルの上には何種類かの白い錠剤と、少しだけ水の入ったコップかあった。
携帯から呼び出し音が消えた。
5分ほどして、また鳴る。
今度は日陽子はそれに手を伸ばした。
「………はい……」
〔やっぱりいたんじゃないか〕
それは、行きつけのインド喫茶のバイトの青年の声だった。
「……うん…だるかった…」
〔なんだ、寝てたの?〕
「……ん…まぁね…」
〔じゃあ暇なんだな?〕
「………ん……」
〔今から出てこれる?〕
「…………なんで…?」
〔おもしろい店見つけたんだ。ぴょこちゃんの家から近いんだ。出てこない?〕
「…んー………」
〔っていうか、出てこいって。ずっと家ん中いるって話じゃないか〕
「んー……」
〔これから迎えに行くから。鍵空けといてくれよ、じゃあ〕
電話の相手は一方的にそう言うと、電話を切った。
日陽子は電話をぽすんとベッドの上に落とした。
(めんどくさい…)
目を閉じる。
(ほっといてよ…もう…誰ともいたくないの…)
日陽子は出かける準備をする様子はなかった。

「たくもー、鍵かけてないし、準備もしてねーし…」
電話の主が、日陽子の部屋に入り、主の意志を無視して電灯をつけた。
日陽子は眩しさに目をしばたかせる。
「だって…行くって言ってないじゃん」
「いいから、いいから、行こうよ。酒、呑めるよな?」
「……まあ…ね……あいつのおかげで……」
「………まあねー…あいつといたらな…」
青年は少しとまどいながらそう言った。しかしすぐ、気を取り直す。
「それはそうと、いい店なんだって。あんな気軽に呑める美味い店、ほんと、ないんだよ」
青年は少し興奮して言葉を続ける。
「酒がとにかく美味いの。しかも安い」
「そんなの…ここらじゃ普通じゃん…」
「違うとこはここからだよ。つまみがさ、一種類だけしか作られないんだ。しかもそれ、その時の店主の気分次第で、色々変わるんだよ」
「へー…」
そこでようやっと、日陽子は躰を起こした。
「つまみが何なのか、店入るまでわかんないのがまたおもしろくてさ」
「それって…嫌いなものが出た時どーすんのさ…」
「それでも美味いんだよ。俺、初めてあそこで茄子食べられるようになったよ」
「へー…」
「今日はおごってやるからさ。行こう行こう」
「あ…待ってよ…ちょっと準備するから、玄関で待ってて」
日陽子はゆっくりベッドから立ち上がった。

二人は日陽子のマンションの近くの繁華街を歩いていた。
「で…どこなのさ」
「ここだよ、ここ」
青年が足下を指さした。
そこには看板があった。
店の名前は69-six nine-。
「何よ、この名前…」
「いかがわしい店じゃないよ。先代のマスターが、ここであってここでない、誰もが平等になれる場所って意味でつけたんだって」
「ふーん」
「今は、そのマスターから若い人に代替わりしてさ。その人がいい男なんだけど、しゃべりがおもしろいっていうか、いい加減でさ。それがまた楽しいんだよ」
「男…」
「うん。いい人だよ…その…ちょっと悪いクセあるけど」
青年が店の扉に手をかけた。
「ばわー、朱華さん。今日は友達、連れてきたんだ」
それが日陽子が初めて、朱華の店を訪れた日の事だった。


戻る