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雪花
雪花は自分の部屋にいた。
雪花の師範…黝簾の父が、彼女に与えてくれた部屋は二間だった。
ひとつは私生活の為の。もうひとつはアトリエだった。
その少し薄暗いアトリエの中で、雪花は正座したまま、身じろぎひとつせず、白い紙に向かっていた。
絵の具にふれるどころか、筆を持つ事も出来ない。
ただじっと、紙を見つめる。
もう何日もそうして、自分の中から浮かび上がってこようとするものを待っていた。
ここにくる前までは、ただ描ければよかった。
ここにきて…黝簾の絵を見てしまってからは、自分の中の何かが変化してしまっていた。
ただ、描けばいい。
そういう感覚がなくなった。
自分より上を見た。
それも、あまり年の変わらない者の手で描かれたもの。
その絵を描いた本人は今ここにはおらず、絵も描いていないとの事。
どのような人物かもわからぬ者が描いたものに、心奪われた。
その時から、雪花は技術について、貪欲に思考するようになった。
どうすれば美しく見えるのか。
明度と彩度、補色の配置はどうすればいいのか。
影の照り返しは、時間、季節、場所、光源によってどう変化するのが正しいのか。
そのような事ばかりを考え、自分が描きたいものは何か、という事はおろそかになっていった。
そういった事がおろそかになったと感じた時、また黝簾の絵を見た。
技術は伸びた。
同期の中では、頭ひとつ、ぬきんでた状態である、とも感じていた。
だけど、黝簾のその絵の位置に到達するには何かが足りない。
雪花の心の中はあせりでいっぱいになった。
そばで彼女のあせりを心配する者がいたというのに、それに気づかない程、余裕はなくなっていた。
絵も荒れていく。
惑いと、そして…挫折が目の前に立ちはだかっているような気がした。
心配する者の声も聞こえなくっていた。
そして、心配していた者のそれが爆発した。
雪花は自分の意志とは関係なく、純潔を奪われた。
無理矢理引き裂かれた躰の痛みはまだ芯に残っている。
動くとそこがちりり、と小さな電気が走るような痛みに似たものが走った。
しかし、雪花はその痛みに、純潔を奪われた事に、涙する事が出来なかった。
自分を心配してくれていた男が。
自分を傷つけた男が。
雪花の痛みより、さらに大きな目に見えない痛みを背負ってしまったような気がしたからだ。
どうしてかはわからない。
ただ、あのような暴行を犯したというのに、あの男からは、悲しみが伝わってきたような気がしたからだ。
だから、この件に関して一生、自分が泣くのではなく、相手が泣き続ける、そんな気がしていた。
だから自分は泣いてはいけない。
泣く暇があるのだったら…
雪花は絵筆を取ってみた。
目を閉じる。
己の心の中に尋ねてみる。
描きたいものは何?
人物? 風景? それとも…
真っ白――
浮かばない。
浮かんでこない。
雪花は黙って筆を紙の上に転がした。
ころころころ…と、筆は転がって紙の中央に届いた。
その時。
そっと襖が開いた。
雪花の師匠だった。
「雪花…ちょっと話がある…いいか?」
師のその言葉に雪花は不安と…同時に安堵を覚えた。
安堵が浮かんだ事を不思議に感じたが、どうして安堵したかも、なんとはなく把握出来てしまう自分もいた。
ゆっくりと師の唇が動くのを、雪花はぼんやりと見つめていた。


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