戻る 黝簾

黝簾
その日は小雪が舞っていた。
ずっと、口に出す事の出来なかった…許されなかった言葉を、少年は口に出した。
その言葉を聞いた女教師は口に手を当て、涙をぽろぽろと落とした。
女教師もまた、少年の事を想っていた。
二人は同じ想いという細い糸で繋がっていた。
それがわかった時。
少年は女教師の手を取っていた。
汽笛が鋭く、夜空を割く。
まだあどけなさの残る少年は、女教師の手を取り、二人で船着き場にいた。
遠く遠く、ここではないどこかに向かうフェリーの出発時間まで後10分。
「柳条君…本当にこれに乗るの?」
「はい…いやですか?」
「……………」
「これに乗らないと…僕達は離ればなれになってしまう…」
「………………」
「先生は…いやじゃないんですか?」
「っ………」
「僕はいやです…」
少年…黝簾は、女教師の…ちひろの手を掴んでいる手にぎゅっと力をこめた。
黝簾の手は華奢だ。
絵筆を握る為のその手は、ありとあらゆる力仕事とは無縁なよう、そういう環境の元で、過ごしてきた手だ。
「ずっと…好きでした…」
黝簾は一人の男の声でそう言う。
「僕はずっと、あなたの事が好きでした…あなたも僕の事を好きだと言ってくれた…僕はその事が凄く…凄くうれしかったんだ…」
黝簾の額が曇る。
「それなのに…父は…あなたを冒涜した」
「当たり前よ…私はあなたの先生だったんだもの…許される事じゃないわ」
「でも僕は、卒業した。僕は誰にも咎められる事なく、あなたと一緒にいていいはずだ」
「あなたと私じゃあ、育った世界が…生きる世界が違うのよっ…」
「だから、捨てたじゃないですか」
「っ……」
「好きです」
黝簾はさらにちひろの手を強く握り…そして、自分の胸に抱き入れた。
「好きなんですっ…」
「っ………」
「先生は…いやなんですか? 僕と一緒にここから離れるのが…」
「っ……っ…」
ちひろは声はあげずに、黝簾の胸で泣いていた。
「だったら…僕を突き放して、走っていって下さい…」
「っ…!」
「そうしたら…僕…あきらめますからっ…先生の事…そこから忘れる努力ますからっ…」
汽笛がまた、大きく鳴る。出発時刻が近づいているからだ。
「っ……よっ……」
黝簾の胸の中から泣きじゃくる声がする。
「出来ないっ…出来ないよっ…出来るんだったら…出来るんだったら、とっくに…私っ…私っ…!」
汽笛がまた鳴る。
黝簾は唇を噛みしめ、ちひろを強く抱いた。
「すみませんっ…先生は…悪くないっ…僕が…悪いんです…」
「違う…違うわ…」
ちひろがそう言い、黝簾から少し躰を離し、少し上にある少年の顔を見た。
お互いの目に涙が光っている。
「悪いのは…私達…二人ともよ…この船に乗ってしまったら…」
「…先生…」
「私達もう、先生と生徒じゃないわよ…」
「そう…ですね…」
二人は揃って、船の入り口を見た。
そしてゆっくり、お互いの手をしっかりと掴み、同時にそちらに向かう。
また汽笛が大きく鳴り響いた。


戻る