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幸吉
折りたたみの合板テーブルの上に並んでいる湯飲み茶碗の中には、日本酒が注がれていた。数は10個ほど。
それらすべて、そこにいる者達が昼からいい案配になる為に呑んでいた。中には水の代わりのようにぐびぐびと呑んでいる者達もいる。
その中の一人が幸吉だった。
「で、どうかね、今年の祭りは」
と、幸吉が切り出した。さっきから何度もその話をしようとしているのだが、マイペースな老人ばかりが集まって話しているので、肝心の内容がちっともまとまらないまま、酒だけが進んでいる。
「そうさなぁ…あ、そうそう、この前、温泉に行ってだなー…」
と、また別の話になろうとした時。
「ひゃわわん!」
と、幸吉の膝の上にいるヨークシャテリアのこしあんが、たしなめるように吠えた。
「おっとっと、お姫様に叱られたわい、じゃあまとめるとするかの」
頬をいい案配に紅潮させた、魚屋のショーちゃんが皆の注目を集めるようにパンパンと手を叩いた。
「えー…じゃあ現役引退モンの集いの事じゃの。んー…場所はいつもの通り、インド屋の屋上…でいいんじゃな?」
と、ショーちゃんが見たのは、インド人の老人だった。老人はうんうんと頷く。この集いも彼が声をかけ、商店街の集会所で開かれているものだった。
「みんな、腕はにぶっとらんよな? という訳で、全員、得物を持って集合。各々の特技を生かして、花火を存分に楽しむぞー!」
ショーちゃんが大きな声でそう言い、拳を振り上げると、皆が揃って楽しそうに声をあげる。
人をからかうのは好きだが、あまりテンションの高くない幸吉は、はいはいといった感じでその光景を見ていた。
それがこの、引退モンの会のいつもの光景だった。
ここに集まっている者は、商店街にある自分の店を息子や人に任せ、悠々自適な生活を送っている老人達ばかりで構成されていた。
「カシムさんや、いつものように、酒はそっちで用意して貰ってかまわんのかの?」
「ハイ、幸吉サン。大丈夫ネ。ウチノ若イモンニ、用意サセル。幸吉サン心配シナクテイイヨ。シャカシャカダケヨロシクー」
カシムは黒い肌から白い歯をニカッと出して、笑った。
「カシムさんとこは、息子さんが継いだんじゃったかの」
「ハイ。イイ息子ネ。タクサン働ク、孫モ用意シテクレタ。幸吉サン、朱華ノ孫ハ?」
「朱華の孫じゃなく、朱華の子供じゃの。まあ…あいつとは血が繋がっとらんから、孫ではないがのぅ…面倒はみせさせられそうじゃが」
「デモ、一緒ニ暮ラシテルンダッタラ、孫ミタイナモン。可愛イヨ、孫」
「はは、そうじゃの」
と言いながら、幸吉はこしあんを抱いたまま立ち上がった。
「じゃあそろそろ行くとするかの」
「ドウシタ幸吉サン。コレカラしょーチャン、メザシ焼イテクレルヨ」
「んー、朱華がアコーディオンを弾くかもしれんのよ。向かいのオープンカフェのマスターにアコーディオン弾きがいないかどうか聞かれて、朱華を推薦したから…多分、あいつ弾くじゃろうから」
「オー、ソレ聞イテアゲナクチャ駄目ネ、早ク帰ル、帰ル」
「ふむ、そうさせて貰うよ。みんな、呑み過ぎんようにの」
幸吉はこしあんとともにそこから出た。

幸吉の腕から降り、こしあんはてくてくとご機嫌で商店街を歩いていた。
こしあんはこの商店街一の長生き犬なので、ここでは彼女を知らない人がいない状態だった。
「こしあんちゃん、今日も元気ね。暑いねー」
「あら、幸吉さん、こしあんちゃん、お散歩?」
と、店の中から店主達が声をかけてくる中、二人はマンションへと帰ってきた。

「ふー…やれやれ、よっこいしょ」
額から流れる汗を拭きながら、幸吉は自分のマンションの部屋へと帰ってきた。
密閉状態だった部屋は暑く、こしあんは外にいる時以上に舌を出している。
「ほいほい、ちょっと待ちなさい」
幸吉はそう言うと、窓を開けた。すると、下から陽気なCanzoneが流れてきた。
「お…もう始まっとるの…」
「ひゃわんっ」
幸吉はこしあんを抱いて、二人で窓から外を眺めた。
すると、向かいのオープンカフェでの演奏が始まってすぐのようだった。
「おー、やっちょる、やっちょる」
音楽に合わせ、こしあんもしっぽをぷるぷる振っている。
「ははは、見ろ、こしあん。朱華の奴、ご機嫌で弾いておるのぅ」
「ひゃわん」
「ん…?」
ふと横を見ると、朱華の部屋の窓から日陽子が顔を覗かせていた。日陽子も朱華を見ている。
「ふむ…」
幸吉がふと何かに気づく。
日陽子が幸吉の視線に気づき、少しはにかみながら、ぺこりと頭を下げた。
「ほいほい、こんにちは」
幸吉はそう言って、長年の客商売がなせる技の笑みを浮かべ、日陽子に手を振った。
Canzoneはどんどん陽気さを増していった。


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