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日陽子
見知った男の手。
二の腕を痛いほど掴まれ、引っ張られている。逃げられないようにする為だ。
マンションなのに、暗い廊下。
やたらと響く二人の足音。
開けられた扉の向こうの光景を見て、硬直して…
次に動いていたのは、あたしの右手の拳だった。
それはあいつの横っ面を捉えた。あたしの腕を掴んでいるあいつの手が緩んだ。
その後は無我夢中で走った。どこをどう走ったのか、まったく覚えてない。
気がついたらあたしは一人、繁華街の中で立ちすくんでいた…

「んっ…」
日陽子は午睡から覚めつつある頭を、はっきりさせる為、長く伸びをした。
目を開けると、自分の部屋の天井。
(あん時の夢…か…まだ見るかなー…)
日陽子は軽くため息をついた。
起きあがってシャワーを浴び、外に出る準備を済ませると、日陽子はまだ真昼の暑さが残る街に出た。
学校が終わる時間らしく、街には学生達が溢れかえっている。
そんな人通りの中をぬって歩き、日陽子はインド喫茶に入った。
「おう、ぴょこちゃん」
金髪青年の店員が日陽子に声をかける。
日陽子は手を振り、青年がいるカウンターの前に座った。
「ホットチャイ?」
「うん」
「OK。ちょっと待ってて」
青年は鍋と紅茶缶を手に取り、手際よくチャイを作り始めた。
「どっか行くの?」
「うん。それ飲んだら朱華のとこ」
「へ? 69開くのまだ時間あるじゃん」
「うん。部屋の方」
「あ…」
青年は日陽子と朱華の関係を知っているので、少し言葉につまった。
「今日、店の向かいのオープンカフェで、ライヴあるんだって。そこで朱華、ピンチヒッターでアコデ弾くっていうから、特等席で見るの」
「特等席って?」
「だから、朱華の部屋。窓開けたらすごくよく見えるんだ、そこ」
「なるほど…はい」
「あ、ありがと」
日陽子は一口、チャイを飲んで、言葉を続けた。
「あんたもくる? 朱華、あんただったら部屋あげてもいいって言うよ」
「いや。俺今日遅番なんだ。21時まで」
「そっか、残念だね」
「うん。あ、メールでムービー送ってよ。機種買い換えて、いけるようになったんだ」
「残念でした。あたしのが駄目」
「あー…がっくし…」

日陽子が喫茶店を出ると、少しだけ日が暮れ始めていた。
そのまま朱華の店に向かう。その上が朱華が住んでいるマンションだ。
階段を登って、4階まで行く。
朱華から預かっている鍵を使おうとしたら、向こうから扉が開いた。
「助かった〜、ぴょこちゃん」
朱華の部屋から出てきたのは、近くの古着屋の店員の赤毛の女の子だった。
「あれ、きてたんだ」
「うん。で、寝ちゃってたら、朱華なんか出て行ってて…あたし帰りたかったんだけど、鍵持ってないからどうしていいかわかんなくって…だけどぴょこちゃんこっちくるの窓から見えたから。確か朱華から鍵、預かってるでしょ?」
「うん、あるよ」
「ごめん、戸締まり頼んでいいかな?」
「いいよ。っていうかあたし今から、こっから朱華のアコデ弾くの見るから」
「え、朱華、ライヴやるんだ、うあー見たいけど、店、忙しくなったからヘルプこいって言われてたんだよねー…くーっ!」
「あはは、頑張って稼いでおいでよ」
「うー、そうするっきゃないよー、じゃあまたね」
「うん、またー」
「あ…ごめん…部屋散らかってる…」
「あーいいよ、いいよ。掃除しとく」
「ほんと、ごめんね。バーゲン始まる前にこっそりぴょこちゃんが目ぇつけてる服取り置きするから、それで許して!」
「うん、おっけ、お願いね」
日陽子は女の子と交代で朱華の部屋入った。
部屋は一晩中酒を呑んだらしく、食べ物や空の缶ビールで散らかっていた。
「やれやれ」
日陽子は窓を開け、軽い掃除を始めた。
日陽子が買い揃えて置いてある台所雑貨の中から新しい布巾を取り出し、適当に拭き始める。
布巾を洗い終えた時に、外からCanzoneが聞こえ始めた。
「おっと…始まった始まった」
日陽子はあわてて窓から身を乗り出した。
そこからは、朱華達の表情までわかった。
朱華はにやにやしながらアコーディオンを幸せそうに弾いている。
「……ふふっ……」
日陽子もそれを見て、幸せそうに笑った。


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