戻る 黝簾

黝簾
朱華達が住んでいる街から1時間弱程の山間に、この温泉宿街があった。都市近郊にある為、観光客が多い。
その街の別荘地に黝簾はいた。
黝簾は、そこにある一番閑静な温泉宿にいたのだが、別荘の持ち主で、黝簾のなじみである画商の東条に招待され、移動したのだ。
黝簾は、10年以上日本を放浪している為、日本中に常宿があるのだが、それらすべて、東条の紹介の宿だった。
少し世間からずれたところのある黝簾は、自分が望む、望まないに関わらず、その才能ゆえ守られる事が多かった。
黝簾は東条の別荘の庭の木陰で絵を描いていた。
空を見上げる。
そこには、パステルピンク、イエロー、グリーンのまだらの帯のようなもの、ツヅキがあった。
黝簾が日本中を放浪しているのは、これを追いかけている為だった。
ツヅキはいつどこに出るか、まったく予測のつかないものだ。
しかも、いつ消えてしまうかもわからない。
黝簾はそれを追い続けている。
絵はもう仕上がっていた。
夏の青い空に、くっきりと細いツヅキ。そこに黝簾は自分の名前を書いた後、印を押した。
「出来たのかい、黝簾さん」
その様子を見ていたかのようなタイミングで、ぷっくりとした頬の東条が、庭に続いているリビングから顔を出した。
「はい、東条さん」
黝簾は印を布で拭きながら答えた。
「どれ、見ていいかな?」
「ええ、勿論」
東条は子供のように目をきらきらさせ、絵を見た。黝簾の絵のファンなので、誰よりも早く見れる事が嬉しいのだ。そして満足そうに微笑む。
「………うむ…いい具合だね」
「ありがとうございます」
黝簾はその絵を東条に差し出した。
「邪魔でなければ、受け取って下さい。別荘で世話になったお礼です」
「そういう訳にはいきませんよ。君はこれで食べているんだから」
「いえ……いいんです…わたしは描く事が出来ればそれでいいので…」
「うむ…じゃあこれはありがたく頂いておきますよ。ありがとう、黝簾さん」
「いえ」
「ところで…また人物を描いてみようとは思わないのかい?」
「………………」
黝簾は無言で苦笑った。
「そうですか…」
その表情に、東条は少しだけしょんぼりした。
黝簾は鳥や人物を主に描いていた。
ツヅキばかり描くようになったのは、きっかけがあった。
黝簾はまだそれから抜け出せないでいるらしい。
「そうそう、黝簾さん。そろそろ家に帰るのでしょう?」
「ええ、そうですね。法事があるので」
「では、お土産屋さんが並んでいるところに行ってみませんか?」
「え…?」
「たまには、おうちの方に、おみやげを買っていくのもいい事だと思いますよ」
「そう…ですね…」
そう言われて黝簾は初めて気がついた。日本中を放浪するようになって、黝簾はみやげのひとつも持って、家に戻った事がない。
「ましろクンが好きそうなものもありますよ」
「ましろ…が?」
「ええ。ましろクンは、金魚が好きじゃないですか。おみやげ屋さんで、ちりめんの布で作られた金魚のモビールを見つけました。あれは、喜ぶんじゃないかなと思いますよ」
「ましろは…金魚が好きでしたっけ?」
「何を言ってるんですか。庭の池に、飼ってるじゃないですか。浴衣も金魚のものを何種類も持っているし」
「そう…でしたっけ…?」
黝簾は記憶を反芻してみた。
ましろと目を合わせて話をしたのはいつだったか…娘の部屋に入った事があるか…娘と食事を摂ったのは…
「………………」
「まあ…しかたないですよ。ずっと家にいないのですから」
東条の言葉に責めの色はなかった。真実を真実として、あるがままを口にした。そういう色の言葉だった。
「…………………」
それでも、黝簾は絶句している。
「これからでも遅くないと思いますよ。ましろクンは、素直で優しい。あなたが手を伸ばせば、それに応えてくれる子だと思いますよ」
「……はい……」
黝簾は絵の道具を仕舞うと立ち上がった。
「では…出かけてきます」
「はい、お気をつけて」

黝簾は東条に言われた、温泉街の中心にある坂にみやげ物屋がたくさん並んでいる場所へときた。
東条が言っていたモビールはすぐに見つかった。
涼やかな音が響く方に誘われるようにきた場所で売っていた。
ちりめんで作られた金魚たちが、風に揺られ、ちりんちりんと良い音をたて、その中で泳いでいるかのように揺らめいている。
黝簾はそれをじっと見つめていた。
ただ、見つめるだけしか出来なかった。
自分の娘の好きなものを他人に教えて貰わなくてはいけない。
その真実に、黝簾は動けなくなった。
店のショウウィンドゥに空とツヅキが写り、そこでモビールが揺れていた。


戻る