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朱華
夏の夜…といっても、都会の夜は暑い。
アスファルトが吸収した熱が、夜の街をちりちりと灼いている。
その空気の中に、音楽が流れている。
スピーカーから聞こえるデジタル音ではなく、生の音だ。
ヴァイオリンと、バントネオン、ウッドベースとそして…アコーディオンの音。

それは、オープンカフェから流れてきていた。
外に出してあるテラスセットの横で、各々が各々の楽器をつま弾いている。
曲は、聞いているだけで景気が良くなりそうなCanzone。
それぞれが即興で弾いているらしく、時折誰かがふいに変える曲調に、皆がにやにや笑って合わせていく。
その中でも一際目立つのが、アコーディオンを弾いている青年だ。
少し長い髪が顔にかかっているが、その向こうには端正な顔がある。
アコーディオンの鍵盤を操る指は、長く、たくみに動く。蛇腹-バローズ-がくねくねと動く度、さまざまな音が飛び出してくる。
予定の終了時間がきたらしく、各々がそれを意識して盛り上げていく。
音が重なる。早くなる。小刻みにリズムを刻みだした、と思ったら、一際長く伸び、一斉に途切れた。
音楽が途切れたと同時に、そこにいた全員が大きな拍手で、楽器奏者達を褒め称えた。
ビジネスタイムが終わり、街に人が溢れかえる時間帯の為、そこにはそこそこの人だかりが出来ていた。

「いやー、良かった良かった、お疲れさーん」
ちょっと太った人当たりのいい顔をした壮年のカフェの店主が、奏者達の元に満面の笑みを浮かべ、やってきた。
「朱華、ホントすまなかったね。急に代打頼んで」
店主はアコーディオンを弾いていた青年に声をかけた。
「あー、いいっす。俺も楽しませて貰ったし。でも、明日だったらやばかったです。法事なんで…」
「やっぱり朱華か」
そう言って近づいてきたのは丸眼鏡をかけた、朱華より少し年上の男だった。
「お、まいど。仕事終わったの?」
「ああ、今な。アコーディオンの音がしたから、もしかしたらって思って覗いたんだ」
「しかし、幸吉さんから聞いてたけど、本当に巧いなー、うん、良かった」
マスターが、うんうんと何度も頷きながら言った。
「またまたぁ。そんな事言っても、何も出ないよ」
朱華は嬉しそうにくしゃっと破顔した。
「あの…本当にすみませんでした」
ウッドベースを弾いていた長い黒髪の女性が、朱華に向かって深く頭を下げた。
「うちのアコ弾きが急に体調を壊してしまって…本当にどうしようかと思いました」
「いえ、ホントに気にしないで。っていうか、プロの人達に紛れていいのかなーって、こっちの方が緊張しましたよ」
「でも…これだけ弾けるのでしたら、プロとしてやっていけると思うのですが…」
「んー…ちょっとの間、弾いてなかった時期があって。必死になってなきゃいけなかった時間にだらだらしてたんで、趣味で終わらせておこうかなって」
朱華はそう言いながら大事そうにアコーディオンをケースに仕舞い、肩に担いだ。
「そうだったんですか…でも…もったいないです…本当に…」
女の瞳が少し潤んでいる。
それを見て朱華は少し薄く、きゅっと微笑んだ。
「えっ…」
その表情に、女はどきりと頬を染める。
「よかったら、いつでも聞きに来て下さいよ」
「えっ…聞きにって…」
「俺、あそこのバーテンダーです」
朱華が指さした場所には、点灯式の地面設置型看板が出ていた。
そこには、69-six nine-と書かれている。看板はそれだけで、後は店の扉らしきものがあるだけだった。
「つまみは俺がその時の気分で作る一品だけって店なんですけど、美味いモん作りますよ、もちろん、酒も」
そう言いながら、朱華はそっと女の手を取った。
「あっ…!」
ぴくりと身を竦める女の掌に、店の名刺を置く。
「客がいる限り、お店閉めないんで…ね?」
「はっ…はいっ……」
女は顔を赤くして、こくこくと何度も頷いた。
その様子を見ていた丸眼鏡の男と、カフェの店主は顔を寄せて、ぷくぷくと我慢笑いをしていた。
「あれ…営業スマイルだな…あんなきりっと笑うとこ見た事ないぞ…」
「そうですね…めちゃくちゃ営業スマイルですね…しかし、相変わらず、フェロモン出すタイミング、ツボを押さえてるなー、朱華…あれ、あいつの得意技ですよ…本性は…ですが…」
と、二人で、朱華の事を囁きあった。
「それじゃあ開店時間なんで、これで」
だめ押しのように、朱華は女に言った。
「あっ…あのっ…行きますっ…その…また聞かせて下さい…」
女は頬を染め、そう言った。
「ええ、是非。俺も綺麗なおねーちゃんの為に酒作るの好きだし」
女はさらに頬を染め、立ちつくした。

朱華は店に戻るついでに、ぷくぷくと笑っている常連の丸眼鏡の男の膝の裏を攻撃して、帰っていった。
朱華が店に入ると同時に、看板に電気が灯った。
ネオン街の仲間のひとつに入り込む。
街の夜はこれからだ。


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