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    ―― 春風 ――

 正和三十四年六月。
 まだオオサカの空は青く澄み、太陽が輝いていた。
 そして今日も、B29が飛んでくる。
 しかし、空襲警報は鳴らない。いつもよりずっと高い位置にいるからだ。
 警報を鳴らす者も、どうしてそのような位置に敵機がいるのかわからなかった。
 B29の腹から、黒い点が落ちてくる。
 それはすべてを焼き尽くす白光を瞬かせ、そして風はすべてをなぎ倒し、砕き、蒸発させた。
 ウィミィの新型爆弾が投下されたその土地は、本来の名前を人々から忘れさせる程だった。そこは、オオアナと名づけられ、得体の知れない生き物、植物が息づく場所となってしまった。



「う………」

 爆弾が投下されて、何時間かが過ぎた頃。
 一人の少女が躰をピクリと動かす。
 闇。辺りは真っ暗だった。

「うっ……うううっ……」

 それでも少女は躰を動かした。躰を圧迫されている闇をはらう為に。

「うっ……ああっ……」

 少女は闇から解放された。
 太陽の光は周囲を覆う塵に塞がれ、ぼんやりと明るくはあるが、曇り空のようだった。

「っ…うっ…っ……」

 少女は躰を埋められてしまった。家だったものの破片。そしてそれらから少女を守ろうとした母親の亡骸。
 少女は母親の肉体のおかげで、擦り傷などの軽傷で済んでいた。
 しかし、少女は自分に覆い被さっていた肉を、見知らぬ者を見る目で見る。

「あっ……たし……あたし……誰…?
 ここ……どこ?
 ここ……何?」

 爆弾か、瓦礫が倒れてきた為か、目の前で母親が死んでしまった為か。少女は記憶を失い、自分が誰であるかわからなくなってしまっていた。

「………うっ……」

 少女はフラリと立ち上がった。
 そして歩き出す。
 宛もなく、ふらりふらりと…



「以上が、先日、爆弾が投下された地域の現状だ」

 桃山家――オオサカの半分を支配しているピーチマウンテンの執事、支倉ハイネは、オオアナの惨状のレポートを冷静に読み上げた。
 それを聞いているのは、彼の長女のアエン、双子の妹キリカ。そして、アエンに影のように寄り添っている盾だった。

「あの新型爆弾が、人体にどのような悪影響を齎すかわからない為、リンダ様にはキョウに避難して貰っている。その間に出来る限り、あの付近のデータが欲しい」

「私、見てくるけど?」

 と言ったのは、アエンだった。

「でしたら、次期当主の姉様より、わたくしが参った方がよろしいかと」

「駄目よ。あんた、リンダ様と一緒にくっついてったクルス達に着いてってあげた方がいいじゃない」

「ですが…」

「いいでしょ? お父様。いってくるわ」

「待ちなさい、アエン」

「いってきまーす」

 アエンは父が止めるのも聞かず、飛び出してしまった。

 その後を盾が追う為、立ち上がる。

「盾」

 ハイネの声に、盾が動きを止めた。

「頼む」

 父の愛情の籠った声に、盾は無言で会釈すると、そこから姿を消した。



 アエンは、廃墟の中に立っていた。
 彼女の立っているそこにはまだ地面が緑に覆われている。一歩進めば、剥き出しの土が、ぼこぼこと歪に姿を歪めていた。圧倒的な力によって歪められた、自然の色をしているが、自然でない光景。
 あの爆弾が落とされてから、オオサカは晴れていても太陽が見える事がなかった。オオアナから立ちこめる塵によって、太陽の光も、月光も遮られしまうのだ。
 そしてそこは一層、暗かった。

「さーてと…」

 アエンがその不毛の土地に一歩踏み出そうとした、その時だった。大きな手がアエンの両肩を掴み、引き止めた。

「ちょっと、何すんのよ、盾」

 盾はアエンが進もうとしたのを止めた。
 そして無言で不毛の土地の方を指差した。

「なんだってのさ……あら?」

 盾の指差す方で、ふらふらと揺れる影があった。影はゆっくり、こちらに近づいてくるが、へなへなと崩れた。

「盾」

 女主人の言葉に盾はアエンを抱きあげると、そこへと走った。



 そこに座っていたのは少女だった。少女は自分の膝を抱え、ぼんやりとしている。

「あんた、何してんの?」

 その声に反応しない。

「あんた」

 少女は大きな手で肩を掴まれると、強引にそちらに躰を向けさせられた。
 そこに立っていたのは、アエンと盾だった。

「……………」

 少女はぼんやりとした目で二人を見る。

「あんた、口がきけないの? こんなとこで何してんのよ?」

「………何……してるの?」

「そう」

「…………あたし……あたし……誰?」

「え?」

「あたし…誰なの? ここ……どこ?
 どうしてこんな事になってるの?
 あたし…あたし……」

 少女はうめくようにそう言うと、また額を膝頭につけ、うつむいてしまった。
 盾はアエンからの指示を待ち、微動だにしない。

「何も覚えていないの?」

 アエンの問いに、少女はそのまま頷く。

「ウロウロしてたら……同じようにウロウロしている人達が一杯いた…その人達…おばけみたいに手を前にして……皮がそこから垂れて…水の中に入って、動かなくなってった……あたし…怖くて…そこから逃げて……逃げてきたけど……どうなってるのか…わかんないっ…」

「あんた、穴の中央の方からきたの?」

「ううん……あたし、海のそばから……歩いてきた……」

「南から北上してきて、穴を横切って、こっちまできたって事かしら?」

 アエンの言葉に盾は頷く。

「血縁者は?」

「………わかんない……」

「自分の名前も?」

「……わかんない……」

 アエンは少し思案してから、盾の方を向いた。

「持って帰るわ」

 盾は少女を胸に抱きあげた。可愛らしい、リスのような瞳が、アエンを見る。
 アエンはにっこり笑った。

「あんたの名前は、春風。春風よ」

「はるか……ぜ……?」

「そう、なんか空がどんよりしてるからさ。来年にはきちんと春風が吹くようにって事で」

「春風……はるかぜ……」

「気にいった?」

「……うん……」

「私はアエン。これは盾。
 今日からあんたは私のものよ」

「春風は……アエンの…もの…」

「そう、私の。
 だけど自由にしていいわ、犬のようにね。私に可愛がられていなさい」

 アエンはそう言って、少女――春風の頭を撫でた。