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    ―― 陽子 ――

 全部、棄てていた。
 もう諦めていた。
 ──あの子に逢うまでは。

「……驚いたわね、正直言って」

 東南アジアからの長い旅を経て、ようやくナンコウの港に辿り着いた私の隣で、親友の月瀬寧々がぽつりと呟いた。
 私たちの目の前には、毒々しい緑色に染まったオオサカ湾が広がっている。
 何でも、ウィミィの化学兵器の影響らしい。波打ち際で水遊びしただけで天に召されるほどの猛毒が、海を汚染し尽くしているのだそうだ。
 そして、私たちの背後の街は、爆撃の炎で赤く燃えていた。
 帰国して初めて知った、この惨状。

「ニホン軍連戦連勝の軍放送を、全部信じていた訳ではないけれど……正直、ここまで酷いとは思わなかったわ」

 また寧々が言った。溜息混じりに。
 でも、彼女は言葉ほど悲観している風はなかった。顔が笑っている。

「あら、恨みつらみの募った街と人が、私たちの居ない間に綺麗さっぱり片付いているのよ。そう思うと少しは救われた気になるでしょう?」

 言われてみれば、確かにそうだった。 私たちが、この街の惨状を憐れむ義理はない。
 寧々は捨て子で、私は事故で親を失った。頼る人もなく拷問に等しい子供時代を終え、やっと社会に出ても、立場の弱い女に世間は冷たい。私たちを受け入れなかった街。私たちを都合良く利用した人々。私たちは必死になって足掻いたけれど、ドブ臭い街の片隅で更なる弱者を踏みつけて生き延びるのが精一杯だった。やがて耐えきれなくなって、私たちは南に逃げた。
 その結果、こうして生き伸びている。汚れきって、ぼろぼろになって。
 私たちは悪くない。悪いのはこの街。そこに住む人。
 灰になって万々歳だ。

「ニホン本国がこの有様だと、南のニホン人街はもっと酷いかもしれないわね。今頃、ウィミィに侵攻されて瓦礫の山と化しているかも。脱出して正解だったわ」

 寧々がまた、溜息混じりに──嬉しそうに言う。
 南も結局、ニホンと変わらなかった。そっちも灰になってくれたなら万々歳だ。

「陽子は寂しい? 故郷の街がこんな風になってしまって」

 急に、寧々が訊いてきた。
 そんな事、思うはずがない。

「別に強がる事はないのよ?」

 強がってなんかいない。

「くすっ、そういう事にしておきましょうか。とにかくどこか、寝起きできそうな場所を探しましょう」

 数日後。
 その日、たまたま早起きした私は、仮の住処とした家屋の付近を何の気なしに散歩していた。
 ここは、スミヨシ区の住宅街。
 すぐ側に海が見える場所。
 ──だから、元々の住民は皆、この地を捨てたのだろう。
 スミヨシは今、ゴーストタウンも同然の状態だった。海は見ての通り汚染されているし、海岸沿いにあったらしい小さな軍需工場も真っ黒な焼け跡を残すだけで何も残っていない。
 さすがにもうウィミィの攻撃目標からは外れたらしく、毎朝八時にやってくる爆撃機も素通りしていくけれど、一月ほど前は地獄のような状況だったに違いなかった。

「そのお陰で、こうして廃屋に潜り込めたのですけれどね。私たち、お金は充分持っているけれど、この状況じゃただの紙切れだし。……大丈夫よ、スミヨシへの爆撃はもう終わっているし、海の汚染も薬臭い風に我慢しさえすれば躰に害はないわ、多分ね」

 ここに住もうと決めた時の寧々の言葉を思い出して、私は苦笑した。
 多分、害はない──か。
 別に害があっても構わない。
 それで死んだらその時の事。
 ──それだけの事。

「やれやれ、可哀相にねえ……」

「ああ、哀れやねぇ……」

 不意に海岸の方から、いくつかの年老いた声が聞こえてきた。きっと、地元の老人たちだ。
 行くあてのない老人ばかりが何人か、この街にはまだ残っていた。そして彼らは毎朝、汚染した海から波に乗って浜に打ち上がる、大量の魚の死骸を処分して時を過ごす。
 浜に漂う腐敗臭が耐えられないとか、スミヨシの浜(老人たちは昔のならわしに従って那古の海と呼んでいる)の美観を損ねるとか言っているけれど、戦時中の今、腐敗臭や美観などは些細な問題だ。人が居なくなった寂しさを海岸の掃除で紛らわせているだけ。だから、死んだ魚を指して「可哀相に」などと言うのだ。
 そんな老人たちの暇潰しは無視して、私はその場を通り過ぎようとした。

「まだ若いのにねえ、ナンマンダブ……」

 また、老人が言った。
 魚に経を唱えるのも変な話だ。私は訝って、海岸沿いに目を凝らしてみた。
 そこに居たのは、人だった。どうみても人間だった。
 どこか海岸際で足でも滑らせたのだろうか、私よりずっと若い女の子が波の際に横たわっている。彼女は魚より重いせいで浜まで上がらず、引き潮の今ですら頭と肩の一部以外は潮に隠れていた。首に触れる辺りで切りそろえられた髪が波間で揺れている。
 彼女は、裸──なのだろうか。
 少なくとも今見えている限り、肩口は肌が露出している。

「さ、行こうか。早うせんと、朝のうちに終わらんで……」

 自分が毒に犯される事を嫌ってか、老人たちは彼女の亡骸を放置し、魚の始末だけを続けながらその場を去っていった。
 何故か、老人たちに対して無性に腹が立った。
 老い先短い命がそんなに大事なのかと。魚より人間が先じゃないのかと。
 私は浜に近付いていった。その女の子を葬るつもりで。
 けれど、彼女に手を伸ばそうとして爪先を波に沈めた時、私は老人たちが聡明だったのだと思い知った。毒が皮膚を犯して躰に入り込んでくるのが解った。激痛が走る。これでは近付こうにも近付けない。大きい波が彼女の遺体を完全に浜へ上げてくれるまで、放置するより他にない。
 仕方なく、私はその場を去ろうとした。

「……ぅ……」

 ──誰かの微かな呻き声が聞こえた。
 驚いて振り返る。女の子の唇が動いていた。

「この子……まだ生きてる!」

 思わず声を上げたその瞬間、私は毒の事を忘れていた。膝が波に洗われた時には、もう、彼女を浜に引っ張り上げるしかなくなっていた。
 躰に毒が回る。強烈な吐き気が襲う。でも、致死量には至らなかった。

「だ……大丈夫? しっかりして!」

 私は彼女の肩を掴んで呼びかけ続けた。
 彼女の瞼が、震えた。微かに開く。

「良かった……! しっかりして、今家に連れて──」

 ──ふと、私は気付いた。
 ほとんど裸に等しい彼女──その躰にある、普通でない証に。

「……あ、なた……何なの、一体……」



 全部、棄てていた。
 もう諦めていた。
 けれど、彼女に──由女に逢ったこの時から、私の生き方は変わっていく。
 観世那古真燈教の教祖・由女と、その側に仕える聖女として。