妻みぐい2
『想い出人』  作・ともを


−公園
陽光が目に沁みる。風が揺らす木々の葉が、来た夏の日に歓喜している。
一年ぶりのそこは何も変わらず、朝霧直人は安堵の溜息をついた。
公園の中に入ると、見覚えのある女性が立っていた。

津崎香苗。一年前に、直人が本気で想った女性。
たくさんの人達を傷付けるとわかっていながら、それでも止められず、互いに求め、肌を重ねた。
後悔はしていない。元々そんな性格ではないし、純粋に一人の女性として想った結果だから。ただ罪悪感はある。香苗に、そして、彼女の家族に・・・。
香苗は人妻だった。立派な夫と、可愛らしい子供達がいた。家族は香苗を愛していたし、彼女も家族を愛していた。でも、あの夏の、あの時の気持ちは本物だった。
そして最後の夜、直人は香苗に想いを伝えた。
しかし最後の日、香苗は直人の想いに応えなかった。
それでよかった。少し残念な気持ちもあるが、香苗が、直人ではなく家族を愛している事はわかっていたし、家族と一緒に笑っている彼女が好きだった。
あの夏は、思い出になった。

「香苗さん!」

直人が呼びかけると、香苗は彼に視線を向け、優しく微笑んだ。

「朝霧さん、お久しぶりね」
「ええ、本当に。お元気そうでなによりです」
「あなたも、元気そうね」

そこで、直人は辺りを見回し、不思議そうな顔をする。

「香苗さん、ご家族は?」
「悟は人に会う約束があるって言って出掛けたわ、夕くんと一緒に。美羽は九ノ美ちゃんにお願いしてきちゃった」
「そうなんですか」

少し肩を落とす直人に、今度は香苗が不思議な顔をする。

「どうしたの?」
「いえ、悟さんともお話したい事があったから・・・」
「あら、やっぱり朝霧さん、そっちの気も・・・」
「ありませんよ!・・ただ・・・」

言わなければならないことがあった。おそらく、この世界で、香苗を最も深く愛し、彼女に最も深く愛されている、あの人に。

「悟さんに、謝らなきゃって・・・」
「・・立ち話もなんだから、どこか座りましょう?」
「はい」

手近なベンチに腰を下ろす。木陰のそれは、思いのほか涼やかだった。

「朝霧さんの事、時々思い出してたのよ?今頃どうしてるんだろうって」
「本当ですか?」
「ええ。フロリダでの生活はどう?」
「大変ですよ、なにしろ文化が根本から違いますから。でもまあ、そこが面白くもあるんですけど・・・」

一年の出来事を互いに語る。刺激的な事件はなにもない、取止めのない会話だったが、とても大切なように思えた。

「・・こっちにはゆっくりしていけるの?」
「いえ、午後の便で戻らなきゃならないんです。だから、こんな時間に呼び出しちゃって」
「・・そう・・・」

口を閉ざす。ひとときの沈黙。風が一つ強く吹いて、木々をざわめかせる。

「・・あの夏・・・」
「え?」

香苗が優しく微笑む。

「あの夏、あなたの前では、妻でも母親でもなく、ただの女になれた。・・とっても、楽しかったわ・・後ろめたかったけど・・・」
「香苗さん・・・」
「・・ありがとう・・ごめんなさい」

言葉にも、表情にも、瞳の奥にも、あの夏の色はない。ただ、懐かしさと、少しの後悔があった。

「・・時間です。もう行かなくちゃ」
「・・そう」
「香苗さん」

直人は香苗と向き合う。ちょうど一年前と同じように。

「もう一度言います。僕と一緒に来てください」

幸せなことはわかってる。愛が揺るがないことはわかってる。でも、こうしなければならない。そして答えを聞かなければならない。そうしなければ…。

「ごめんなさい、それはできないわ」

香苗の微笑みは、心は、愛は揺るがない。

「・・幸せなんですか?」
「ええ、とても」
「・・ご家族を、愛してますか?」
「ええ、愛してるわ」
「・・悟さんに、愛されてますか?」
「ええ、あの人も上手になったのよ」

駄目だこりゃ。処置なし。

「・・よかった。悟さんが約束を守ってくれて、香苗さんが幸せでいられるなら、僕は安心です。・・安心して、あなたを忘れられる」

すっきりした。そのはずなのに、香苗の微笑みが、少しだけ心に沁みる。

「もう会うこともないと思います」
「そうね」
「・・さよなら、お元気で」

右手を差し出す。

「あなたも、頑張ってね」

その手が強く握られる。小さな手、細い指、柔らかな感触。そして離れる。

「今回はキスはなしですか?」
「悟と約束したの。もうあの人以外とはキスしないって」
「それは残念」
「ふふ」

香苗が左手の指輪を撫でる。その表情は、とても、きれいだった。

「この指輪も、もう二度と外すことはないわ。私は、悟の妻だから」
「ちぇ、妬けるなあ」

どこからか香苗を呼ぶ声がする。

「じゃあ、これで」
「ええ、さよなら」

公園を出口へ向かって歩き出す。
一度振り返る。
手を振っている。直人が出会った、愛の形が。

「・・悟さん!・・すみませんでした!!」

堪らなかった。言葉にしなければ、叫ばなければ…。

「僕は!・・あなたと、あなたの大切な人を傷付けた!」

中から壊れてしまいそうで…。

「許されないことだ!・・でも・・・」

堪らなかった…。

「本当に・・・!・・ごめんなさい・・・!!」

でも、その人は笑って、愛する人の肩を抱いて、唇を重ねた。そして、また優しく微笑んで、ひらひらと手を振る。

「・・ちぇ・・・」

心が軽くなった。
許されたわけじゃない。でも、覚悟はできた。人を愛するというのはそういうことなんだと、気付いた。
ありがとう、さよなら…。

−駅
太陽は高く、白く。空気は澄んで、熱く。
駅のホームに見覚えのある女性が立っていた。

「千穂さん」

直人が声をかけると、水森千穂は少し驚いて、そして柔らかな笑みを浮かべる。

「朝霧さん」

二人は並んで立って、ただ青いばかりの空を見ていた。

「・・朝霧さん」
「なんです?」
「・・どうでしたか?」
「なにがですか?」

千穂は少し躊躇しながら、おずおずと尋ねる。

「・・会いに、行ったんでしょ?・・好きな人に・・・」
「ああ、はい、まあ」
「・・それで・・・」
「振られましたよ。見事に、きっぱりと」

直人が微笑む。

「言ったでしょ?一度振られた人に、もう一度振られに行くんだって」
「・・あの・・・」
「振られてよかったです。本当に、よかった」

曇りのない笑顔が、夏空に映える。

「千穂さんはどうでした?」
「・・私も、振られちゃいました。でも、私も振られてよかったです。すっきりしました」

千穂の顔にも笑みが浮かぶ。

「じゃあ、また振られた同士で、お話しましょうか?」
「はい」

夏は繰り返す。これからもずっと。
ありがとうと、さよならを、これからずっと繰り返す。

弱い風が頬を撫でる。
電車はまだ来ない。

end

※これは「妻みぐい2」香苗エンドの後日談のつもり。俺なりにこうなんじゃないかな、こうだったらいいなっていう展開で妄想全開で書きました。香苗はやっぱり悟と幸せになったほうがいいな。