妻みぐい2
『再びの愛』  作・ともを


−海岸
砂浜に笑い声が響いている。透明な色を持った幼い声は、夏空の蒼に溶けていく。
波打ち際まで近付いて、追う波から急いで逃げる。運ばれた貝殻を拾って、不思議な色彩に目を輝かせる。砂についた誰かの足跡を、少し追いかけてみたくなった。

「夕、あんまり遠くに行っちゃ駄目だよ」

ビーチパラソルが一つ。その下で、子供の様子を見ていた津崎悟が声をかけた。元気な返事を聞いて、彼は優しく微笑む。隣では妻の香苗が、娘の美羽を抱いて、同じく微笑んでいた。
夏も終わりを告げようとする今、海岸に人の姿は少ない。波の音だけが、頑なに自己主張を続けている。
水平線を眺める夫の横顔をみつめていた香苗は、ふと視線を落とした。

この夏、香苗は恋をした。もう恋愛云々という歳でもないのかもしれないが、彼女はそれを恋だと思った。ただ純粋で、あるがままの感情の発露なのだと。
そしてその恋を、ついさっき、自らの言葉で終わらせた。決して失いたくない、心から愛する人達がいるのだと気付いたから。
でも、だからこそ彼女は苦しかった。
過ちだとは思わない。あれは本当の恋だったと信じられる。
でも、そのためにたくさんの人達を傷付けてしまった。
嘘をついて、欺いて、深く深く傷付けてしまった。友人も、家族も。隣で微笑んでいる、愛する夫も…。
どんな言い訳も寄せ付けない、圧倒的な罪悪感が彼女を苛んでいた。

「どうかしたのかい、香苗?」

はっと我に返って顔を上げる。悟が少し心配そうに覗き込んでいた。香苗は笑みを返そうとして、できないとわかって、再び視線を落とした。

「・・あなた・・・」
「なんだい?」

波の音だけが聞こえていた。それが少し、遠ざかったような気がした。

「・・私、あなたに謝らなきゃいけない・・・」
「何を謝るの?」
「・・朝霧さん・・との事・・・」

悟が言葉を止める。香苗は、うつむいたまま言葉を続けた。

「・・私はあなたを愛してる。本当に愛してるわ。あなたも、私を愛してくれてる。・・それなのに、それを知っていながら、寂しさに任せて、私は・・彼と・・・」

鼓動の音が聞こえる。

「許されない事だって、謝って済む事じゃないってわかってる。私のせいで、色んな人が傷付いたっていう事も。・・あなたは笑ってるけど、本当はすごくつらいんだっていう事も・・・」

堰を切ったように言葉が溢れる。一つ言葉を発するたびに、熱い雫が頬を伝う。

「・・でも・・だから・・・!・・私、苦しいの・・・!」

一つ、二つ、雫が零れる。視界が滲む。目を閉じる。

「どうして私を責めないの・・・!?いっそ滅茶苦茶に責め立てられた方が・・私は・・楽なのに・・・!」

もう、言葉が出てこない。嗚咽だけが喉を震わせる。感情の濁流が激しくなる。覚悟した自分と、諦めた自分と、愛を失うことを恐れる自分と・・・。

「香苗」

強い口調に驚いて目を開けた。

「香苗、顔を上げなさい」

緩々と顔を上げ、夫の顔を見る。滲んだ視界の中で、夫は・・・優しく微笑んでいた。

「・・僕は、君を愛してる。これからも愛していく。たとえ君が誰かを好きになっても、そんな君を丸ごと愛せる自信がある。・・朝霧くんとの事は、確かにショックではあったけど、だからといって君を責める理由も、責めるつもりもない」

悟は香苗の左手をとり、薬指に光る指輪を一撫でして、強く握り締めた。

「長く一緒にいれば、傷付いたり傷付けたりっていうのは必ずあるんだ。そういう事もひっくるめて夫婦なんじゃないかな?」
「・・あなた・・・」
「もう外さないでくれよ?無くしたら大変だからね」

視界が再びぼやけて、涙が零れた。それはさっきまでのものと違って、不思議なぬくもりがあった。

「ほら、もう泣かないで」

拭う指先が温かくて、少しくすぐったくて、香苗は口元を綻ばせた。

「あなた・・ごめんなさい」
「うん。僕も、寂しくさせてごめん」
「・・ありがとう・・・」
「うん」

香苗は笑った。笑ってもいいんだと教えてもらった。そして、これからも笑っていられるだろうと強く信じることができた。

「あなた・・・」
「ん?」
「キスして」
「・・うん」

唇が、心が近付いていく。

「・・あ!その前に・・・」
「なに?」

悟は眉根を寄せて、香苗の目を覗き込んだ。

「もう僕以外の男とキスしちゃ駄目だよ」

その口調と表情があまりに子供っぽくて、香苗は思わず吹き出した。

「笑うことはないだろ?これでも、さっきの事は結構ショックだったんだぞ」
「あら、キスなんて挨拶みたいなものでしょ?さっきのは“さよなら”の挨拶よ」
「でも指輪を・・・」

ふいに唇が塞がれる。柔らかな感触が伝わってくる。

「・・・反則だぞ」
「ふふ、ごめんなさい。約束するわ、あなたとしかキスしない」
「絶対だよ?」
「うん、絶対」

お互いに笑みが零れた。本当の笑顔はとても美しい。

「あなた、愛してる。大好きよ」
「僕も、香苗を愛してる。今までも、これからも」

唇が重なる。
恋と愛は別のものだと思う。恋は得るもの。愛は在るもの。ここには確かに愛が在る。二人の間にはまぎれもなく、かけがえのない愛が在る。

「ああ〜!ちゅうしてるぅ〜!」
「あぶぅ〜、あう!」

パラソルの前には夕、香苗の腕の中には美羽。もちろんここにも愛は在るよ。夕にも、美羽にも。

黄金色の鬣に煌めく海面。空には一筋の飛行機雲。波の音が聞こえる。
夏が終わろうとしている。

end

※これは、「妻みぐい2」の香苗エンド『夏のおわりに…』の後のお話のつもりで書きました。なんかもやもやが残る終わり方だったんで、自己完結しないとどうにも座りが悪くて・・・。
このあと、『そしてまた夏が始まる』(だったっけ?)の後のお話も書くつもりなのでもう少し続きます。