
第二章 大会前夜1 長月の目覚め 瑞原長月はずいぶん長いこと暗闇の中にいた。 その間も、にぶい痛みはずっと感じていた。時折、凍った池に突き落とされたように震えたり、煮えたぎるように体が熱くなったりもした。 ようやく目をさました時、初めて目に入ってきたのは、さわやかな朝日と横から心配そうに覗き込んでいる幼馴染の顔だった。 「……アナ?」 体を寝台から起こしてあたりを見回すと、壺やらの品のいい調度品の数々が見えた。それはこの部屋が、それなりの一室であることを物語っていた。 「長月。目を覚ましたのね。」 「ぼく、また、お父さんに負けたの?」 アナが優しく微笑み、力いっぱい長月を抱きしめた。 「大怪我をしたから記憶が混乱しているのね。思い出して、私達は道場から逃げだして、二人で旅をしているんじゃない。」 長月はアナの髪を撫でながら、その目を細めた。 怪我の痛みが長月に少年の頃の記憶を呼び戻していた。 実父のシードにしごかれて、何度も叩きのめされ、そのたびにアナに介抱されていた。信じられないほど強く厳しかったが、困っている人間に手を差し伸べずにはいられない温かさも持った、シードの姿が浮かんだ。 「ああ、そうだった。僕達は親父を敵にまわしたんだっけ。」 長月はアナが渡してくれたお椀から、ゆっくりと水を飲んだ。 大きく息をはいて、自分の体を見回した。全身に包帯を巻かれた痛々しい姿だ。 それとともに、これまでの記憶が津波のように押し寄せてきた。 「アナ、ここはどこだ? 僕はどれくらい寝てた?」 「闘神都市の宿屋だ。寝ていた時間はほぼ二日半といったところだな。」 男の声がした。 見ると、一組の男女がドア近くに立っていたのだ。 一目で闘神大会の出場者たちであろうことを長月は直感した。 そして、強敵であろうことも。 その男は四十歳ほどで、JAPANのサムライであろうか、まげをゆっていた。まげの影からは、肩越しに長刀の柄がちらちらと見え隠れしている。 顔の傷跡や数々の深い皺は、波乱万丈の人生を長月に想起させた。柳のように物静かだが、どことなく油断ならないものを感じさせる男だ。 だが、柳というのもいささか違う。どんより濁り乾いた瞳に加えて、体の中身ががらんどうの様な、どこか空っぽな感じだった。 サムライの横の女も同じように和装姿だったが、とにかくその髪に目を奪われた。その独特の質感を湛えた長い髪が長月の目をとらえて離さなかったのだ。 サムライが出場者なら、彼女は間違いなくパートナーだ。凛々しくも肉感的であり、どことなく挑発的な目をした美女だった。 「アナ、こちらの方たちは?」 「この方たちが、倒れていた私たちを助けてくれたの。男の方が臥路さん、女の人が狐嫁女さんよ。」 「こ、か、じょ?」 長月はふいに狐嫁女と紹介された女に違和感を覚えた。 じろじろと狐嫁女を見る長月に気が付き 「気がついたか。狐嫁女は人間ではない、髪長姫だ。」 臥路が言った。 「女の子モンスターの? 髪長姫なんてはじめて見た。」 長月は表情を曇らせ、若干の不審の色を浮かべた。 「正直、意外です。そういうご趣味を持っている方には見えませんでしたので。」 「ああ、いかん。ちょっと待ってくれ。」 長月と臥路の間に狐嫁女が割り込んできた。 彼女は、臥路は自分がキャラ屋に追われていた所を助けてくれただけで、決して長月が思うようないかがわしい人間ではないと力説し始めたのである。 それを聞きながら、臥路は苦笑した。 「奴隷商人に追われていると泣きつかれ、助けてやったら奴隷商人とやらはキャラ屋だったというわけだ。その挙句がこのざまだ。」 「ふん。あの場所からラグナード迷宮は遠かったからな。かわりに身の回りに無頓着な男の世話をしてやっているんだ、文句を言える立場じゃないだろう。」 (おかしな二人組と出会ったものだ。) そう思いながら、長月は感謝を述べた。 「気にするな。礼は傷が癒えたらしてもらう。……ところで。」 臥路の暗い瞳が、嘗め回すように長月を探った。 「大筋はアナ殿から聞いた。君は闘神のシード・カシマと瑞原葉月の息子で間違いないのだな。」 その視線は何か昔の記憶を掘り起こしているかのようで、そこからにじみでる感情はとても懐かしそうなものだ。そして、あまり穏やかとはいえない不気味なものだった。 「君を傷つけたのは瑞原道場の門弟達だそうだな。」 「ええ。」 「アナ殿との駆け落ちでか。」 「そうです。」 臥路のどこか愉しそうな声に、長月は憮然として応えると頬を膨らませた。 まもなく臥路と狐嫁女は「お大事に。」といって部屋から出て行った。心なしか大きくなった部屋に二人だけが残った。 彼らの足音が遠ざかっていったのを確認すると、長月は枕もとに腰かけていたアナに向きなおった。 「アナはあの二人をどう思う?」 「お二人とも良い方よ。追っ手に追われていたばかりか、怪我していた見ず知らずの私達をここまで運んできてくれたじゃない。長月が寝ている間も親切にしてくれたわ。」 「でも、親しくなるなよ。いずれは敵になるかもしれない相手だ。」 長月はためらいがちにアナの頬にふれた。 「女の子モンスターを売買したことのある人間は全員クズさ。慕われて、連れ回しているのだって同じだと思う。」 そして押し出すように言った。 「そう思っていたほうが戦うことになっても気が楽なんだ。」 頬に触れている長月の指が震えていることにアナは気がついた。 アナはそっと自らの手を、長月の手に重ねた。そして、そのまま長月の震えがおさまるまで手を握り続けていた。 しばらくして、ふいにアナが窓辺に寄ると出窓を開け放った。 「ねえ、見て!」 窓の下には石畳の大通りが広がり、多くの人通りがあった。向かいの建物の奥には遠くコロシアムの外壁が見える。 「ここが闘神都市! 大きくて、きれいで、人がたくさんいて、素敵なところね。」 「気に入った?」 「うん、でも。」 アナは、柔らかい感触を確かめるようにぐいっと長月の布団を押した。 その顔は少しだけバツが悪そうだった。 言われてみれば、長月にしても道場での畳の上で寝る習慣が身についていたので、木組の寝台の上で布団に包まって寝るのは、なんだか妙な心地だった。 「まるで異国ね。母が死んでシードさまの養女になってから、私の故郷は瑞原道場だけだから。」 アナの口からシードの名前を聞いて、長月は寝台の上で腕を組み考え込んだ。 聞けば長月が闘神都市に運び込まれてからもう二日以上たつという。 あのとき逃がした追っ手が瑞原道場に帰り着くのは、どんなに早くてもさらに一週間は先だろうが、それ以前に戦い、逃がしてしまった追っ手になると話が違う。 そして、もしシードがあらかじめ長月たちが闘神都市に逃げ込むことを予測していれば、追跡の手はさらに早くなるだろう。 (既に新たな追っ手は、闘神都市の中に入り込んでいるのではないか?) 長月はぶるっと体を震わせた。 「次は親父が自分でやってくるはずだ。もしかしたら、もう瑞原道場をたっているかも知れない。」 「シードさまが? でも、本当に闘神都市まで来られるかしら。」 「来るさ。僕たちがこうして闘神都市に入った意味を考えれば、嫌でも親父自らが来ざるを得ないはずだ。」 長月は寝台近くの壁に立てかけられていた、愛用する細身の剣をみつめた。 もう何人もの同門の血を吸い、心なしか、どす黒い赤みを増した愛剣を。 (親父は自分を許さないだろう。) 長月はそう思っていた。父と戦う覚悟もある。 だが、なまじ長月も実力者だけに、父との実力差をひしひしと感じていた。今のままでは百回戦っても百回殺されるだけだろう。一回まぐれ勝ちがあるかも怪しいものだ。 「アナ、僕は勝つよ。絶対に勝ってみせる。」 アナを安心させるためというよりも、自分を励ますように長月はつぶやいた。 2 心をえぐるもの 一方、臥路は長月の部屋を出ると、そのまま狐嫁女を連れてコロシアムに向かっていた。闘神大会の受付嬢であるシュリのもとを訪れようとしていたのだ。 臥路は闘神都市の大通りを通り、噴水広場へと足早に歩き続けた。 闘神都市は三角形の形をした半島を城壁で囲んだ町だ。 その三角形の中央に位置するのが噴水広場で、放射状に大小様々な道が、闘神の館やコロシアム、商店街、貧民窟などへと伸びていた。 ちなみに噴水広場を越えて大通りをまっすぐ進むと、もっとも海に突き出た扇の要にあたる部分にたどり着く。 そこには闘神都市の支配者である闘神がすむ闘神の館がある。 今でこそ、洋風の鉄柵と広大な庭に囲まれた壮麗な宮殿のような建物だが、二十年前までは石造りの巨大な城塞であった。 その周囲には、満々と海水をたたえる水掘が縦横に張り巡らされ、見る者すべてにその難攻不落ぶりをアピールしていたものだ。 臥路がコロシアム通りにでると、そこは人、人、人。 人ばかりだった。 コロシアムの周囲には、闘神大会のために集まった観光客や選手を相手する露店が数多く軒を連ねるほど、職業、性別、肌の色、言語、本当に様々な人間でごったがえしていた。 時折、臥路の故郷であるJAPANの言葉も聞こえてくる。 歩く臥路の耳に人々の話し声がさざなみのように聞こえ、すぐに消えていった。 大会開催中とその直前の闘神都市は、多くの人が集まり凄まじい活気を呈する。普段から賑やかだが、この時期だけは別格だった。 都市の住人にとって闘神大会がない闘神都市などありえない。 例えば、前回臥路が出場した大会の翌年には、主催者であった都市長アプロスが突然殺されるという事件があった。その時ばかりは、流石にしばらく中断されると思われていたが、実際には当然のように翌年も行われていた。 闘神都市の住人にとって大会はそれだけ重要だったのだ。 そうして、多少のルール変更はありながらも闘神大会は連綿と続いてき、多くの欲望を飲み込んできたのである。 臥路は喧騒を抜けると、見上げんばかりの大きさと厚さを誇るだ円のコロシアムに入っていった。戸口をくぐると、すぐ平台が置いてあり、その後ろに受付嬢のシュリが立っている。 本来、ここは薄暗いうえ外の喧騒から切り離されているので、室内を歩く靴の音とシュリの声ぐらいしかしない場所だ。 臥路は昔、この独特の空気に嵐の前の静けさを連想したことを思い出した。 だが今日は随分と騒がしかった。 シュリの目の前で、人目をはばからず言い争っている男女がいたからだ。 「このアンポンタン! あんたが出て勝てるもんかい。もう若くないオヤジがなに言ってんのさ。この子をパートナーにするなんて、絶対に反対だからね!」 「うるせぇなぁ。だから、今回は勝つってんだろ。」 年齢は二人とも臥路と同じくらいで、その後ろには女を二十歳ほど若くした印象の、美しい金髪少女がいる。三人で家族なのだろう。 実の娘をパートナーにして参加しようとしているのは、中年とは思えないほど筋骨隆々とした肉体をあらわにした旦那。 怒り狂ってそれを止めようとしている、金髪の優艶な女性が妻。 どうやらそういう構図らしかった。 臥路たちが見ているのも構わず、女は手で男の肩をどんっと押した。 「あんたの、今回は、今回は、は聞き飽きたね。まったく、昔ぼーやとぼーや愛しのお嬢ちゃんは一回で優勝したというのに、色んな女を犠牲にして情けないったりゃありゃしない。どうせ今回も準優勝か四強どまりなんだ、もう、いい加減、あきらめちまいな!」 「ちょっとまて! 嬢ちゃんの時はだな、嬢ちゃんをぼうずに引き合わせてやるために、俺が気を利かせてわざと決勝で手を抜いてだな。」 「嘘おっしゃい。いつだって本気のくせに。」 男の声に抗議のようなものが混じりはじめ、ますます空気が過熱していく。 呆れたようにシュリが間にはいった。 「ボーダーさんもレイチェルさんも落ち着いて。」 受付の目の前がこの調子では流石に仕事にならないようだ。 「こうやって水際防衛でもしなきゃ、このボケナスは諦めないんだよ。」 豊かな金髪を揺らして、レイチェルはシュリを睨んだ。 「それにね。あんたも出たいと人が言えば、必ず受け付けちまうから信頼できないんだよ!」 「はぁ、それが規則ですから。私がすすんで受け付けているわけでは……。」 シュリは苦笑いを浮かべて言った。 考えればシュリという受付娘も奇妙な娘であった。 臥路がこうして見る限り、二十年前と同じように若く美しいままで、外見に変化が見られなかったのだ。 どのようなカラクリがあるのか臥路は知らないが、まるで、あの時の記憶を刃物で弄くり返すように、健康的な肌の艶も、緑に光る少年のように短い髪も、薄手の白い貫頭衣も、寸分違わず同じだったのだ。 臥路はそんなシュリの笑みに深沈たるものを見た気がした。 勝者とそれを遥かに上回る敗者。 栄光を求め、誇りを求め、平安の地を求め、力を求め、愛を求め、出場する戦士達。闘神大会はそのような人間たちの希望と野望を飲み込み喰らってきた。 そのすべての業が集約されたかのような笑みだった。 そして、そのなかには、自分と雫姫が含まれていると思うと、臥路はシュリの美しい顔を直視することができなかった。 「臥路さん! 資格迷宮でイソロク様のハンコはもらえましたか?」 臥路に気がついたシュリが、こちらにやってきた。 いつも元気なシュリさんではあったが、その表情には隠しようのない疲労の色がある。さしものシュリも、目の前で繰り広げられていた夫婦喧嘩にはげんなりとしていたようであった。 さがりたい思いをこらえて臥路がハンコをみせると、シュリはにっこり微笑んだ。 「はい、間違いありません。これで臥路さんは闘神大会の出場権を得ました。ルールはご存知だと思いますが、あれから色々変わった点もありますので、お話させていただきますね。」 シュリが語るルールは、参加資格や選手の死亡か降参で決着する勝敗ほか、パートナーだけが罰則をうけるという、筋が通っているようでその実あまり通っていない様々なペナルティ。 ――勝者に一晩自由にされてしまう。三万ゴールド払えないと、一年間ものあいだ闘神都市での無料奉仕が義務付けられる。 それらはかわりがなかったが、一つだけ変わった点があった。 それは優勝者の称号が将軍にかわり、将軍達の上に彼らを統べる闘神という存在がいるという点であった。そして将軍は闘神に挑む権利を有し、古い闘神を倒してはじめて自分が新しい闘神になることができるのだ。 唐突なアプロスの死後に大会が再開してから、紆余曲折のすえ、今後そのような混乱がないように、闘神都市における最強の存在が都市長と主催者を兼ねるようになっていった結果であった。 臥路は口を真一文字に結んでシュリの話を聞いていた。少なくとも参加する事自体が一つの目的であるような臥路にはあまり興味がある話ではなかった。 話の適当な所で、臥路は影のように佇んでいた狐嫁女の腕を取った。 「シュリ殿、彼女が今回のパートナーだ。」 「名前は狐嫁女さん、っと。えーと、人間ではなく女の子モンスターの方ですね。」 「問題でも?」 「いえ、過去にはライピラキさんとアミガさんというワードラゴンと獣人のカップルも出場した事がありますし、安曇拓也さんと草野耀子さんみたいに異世界から飛ばされてきたなんて言っていた子たちもいましたよ。規則を満たせるなら誰でも大丈夫、それが闘神大会です。」 シュリは書類に色々と書き込みながら答えた。 「ご関係は?」 「妻でいい。」 「わかりました。」 シュリは上目遣いで 「それにしても臥路さんって、見た目によらず凄い趣味しているんですね。以前はJAPANのお姫さま相手でしたし、今回は女の子モンスターだなんて。もしかして禁断の愛とか、そういうのじゃないとダメな人なんですか?」 「どうにでも言ってくれ。」 ゆだったタコのように真っ赤になっている狐嫁女を尻目に、臥路は眉間に皺を寄せながら答えた。そして、ふいに昔を思い出して小さいため息をついた。似たようなやり取りを、前回もした覚えがあるからだ。 あの時は雫姫をどのように紹介したのだろうか……。 そもそも同じ問いかけがあったのかすらも記憶が明瞭ではない。 はっきりと覚えているのは、鈴夜と相打ちになった瞬間、闘神大会で自分が敗れ去った瞬間、そしてとっくに冷たくなっていた雫姫の遺骸を引き取った瞬間。 それくらいのものだった。 3 大会開幕 闘神大会が開幕したのはそれから三日後である。 大会の開会式には現在の主催者であり、無敵の闘神と称される闘神アレキサンダーが現れた。 アレキサンダーはこの座についてから、挑んできた将軍を全て返り討ちにしていた。まさに闘神都市最強の存在であったのである。 彼が、ほぼ一ヶ月にも渡る大会の開幕を宣言し、闘神大会が始まった。 開会式と同日同刻。 臥路は闘神都市郊外にあるラグナード迷宮にむかっていた。 ラグナード迷宮は闘神都市のすぐ近くにある迷宮群の一つだ。それらの中でも最高の深度と難度を誇り、闘神大会の出場者の多くが大会期間中に最後の調整を図る迷宮である。 臥路は町外れの大きな水車のそばに、真っ黒な口を開けているうっそうとした洞窟のような場所へとやってきた。 そこがラグナード迷宮の入り口であった。 (姫が拙者を心配して入口で待っていた事もあった。……ラグナード迷宮。ここも二十年ぶりか。) 臥路は迷宮の入り口前で、ためらうように立ちすくんでいたが、覚悟を決めて暗闇のなかへ足を踏みいれた。 迷宮一階は様々な冒険者が足を踏み入れるだけあって、相変わらず整備が行き届いていた。 魔法の壁灯に照らされたレンガの通路を、つきあたりまで進むとラグナード迷宮の泉の精霊が居る小部屋にたどり着く。 ラグナード迷宮に限らず、巨大な迷宮には大概このような精霊が居て、冒険者をそれまで踏破した地点まで送ってくれるのだ。 「あなたがこれまで進んだ階数まで案内させていただきます。」 レンガで囲われた泉の上に現れた精霊は、シュリと同じようにまったく変わっていなかった。透明の羽が背中にはえた可愛らしい少女ままだ。 ここでも、二十年前の面影を見た臥路は、息がつまるような緊張感を味わい、一瞬固まったのち、ようやく言葉を搾り出した。 「六階へ頼む。」 臥路の姿が光に包まれ、ふっと体が軽くなった。 光が弱くなり目をあけると、臥路はラグナード迷宮地下六階に立っていた。 ラグナード迷宮地下六階。湧水による水路とその上をはしる桟橋が張り巡らされた、水の音が絶えない階層。 そして、この階こそ、臥路が二十年前に鈴夜と相打ちになり、シードへの敗北が決定的になるという痛恨の思い出が残る階であった。 臥路はしばし呆然としていたが、我に返ると、おもむろにあたりを見回し小さな石碑を探しはじめた。なにぶん昔の記憶なのであまり自信はなかったが、幸いにして、小さな島の上に佇む石碑はすぐ見つかった。 臥路は浅瀬を選んで小島へと渡ると、ありあわせの花を石碑に供えて静かに手を合わせた。 この石碑は、鈴夜や彼女に従い臥路と戦った追っ手たちの墓であった。 臥路はそれを詣でに来たのである。 この小さな墓を作ったのは臥路自身だった。 最後は敵であったが、死んでしまえば敵も味方もない。 そして、雫姫を殺され傷心極まっていた臥路は、知らぬ顔ではない鈴夜たちが死の九相をみせていくのを放置しておく事が忍びなかったのだ。 石碑の前で手を合わせていると、否応なしにあの頃を思いだす。 鈴夜たちを殺したのもシード・カシマだ。 それは死体を埋葬した時に見た刀傷から、臥路にも一目瞭然だった。 実際、鈴夜は「雫姫を犯せば必ず自害する。犯すことができなければお前を殺す。」と、シードに脅しをかけていたために、臥路と相打ちになった直後を狙われ殺された。 臥路にもそのあたりの事情は充分に察せられたが、腑に落ちない点もあった。 最初から雫姫を抱くつもりなら、シードは鈴夜たちと敢えて敵対する必要はなかったはずだ。 それならば、はじめは雫姫を犯すことを嫌がったにもかかわらず、臥路を破った段になっては、犯せば死を選ぶだろうと知りつつ雫姫を陵辱したことになる。 脅された事そのものが気にくわないような狂暴な男なのか、それとも怯えて嫌がる女を組み伏せ犯す事に大きな悦びを見出すような男なのか、あるいは思考がその場限りの八方破れなめちゃくちゃな男なのか、答えがいずれにしても、臥路から見るシードという男は好意を抱く要素があまりない人間だった。 多くの追っ手を斬殺した臥路だが、それは単に雫姫のため。姫が死んでしまった今となっては全てが無意味な殺戮に等しくなっていた。 残っているのは姫の自刃という事実と、臥路の深い無常観だけだった。 そして雫姫が死んでからの臥路は、ルールの中で行われたことだったとシードを憎みきれもせず、自分を責めながら命を断つ事もできず、ただ無為に放浪するだけの人生だった。 「臥路さん!」 どれくらい時間がたっただろう。 とつぜん大声で呼ばれ臥路が振り向くと、幾つかの水路を隔てた向こう側に、無骨な胸当てをつけた瑞原長月の姿があった。 その声は父親と同じようによく通る声だった。 長月の姿は血まみれで、体中がその赤毛の髪よりも真っ赤に染まっていた。思わず臥路は眉をひそめたが、どうやら返り血であるようだった。 合流した二人は桟橋のへりに腰をおろした。 「いや、実は、お恥ずかしいことに帰り木を使い切ってしまって。ちょうど臥路さんがいてくれて助かりました。」 再び臥路は眉をくもらせた。それに気がついた長月は肩をすくめた。 「モンスターを狩るのと階層を潜るのに夢中になってしまって、つい。」 「それにしても、もうここまで来るとは。」 臥路は心底驚いていた。 ここまでやって来れるのはラグナード迷宮を探索する冒険者の中でも、かなりの腕利きだけだ。臥路が知る限り、彼の父親であるシードもこの階層にたどり着いたのは臥路との試合直前――つまり準々決勝の前である。それとくらべれば、息子の進み方は異常なほど早かった。 「いろいろと必死ですよ。そもそもこのままじゃ臥路さんと狐嫁女さんへのお礼はおろか、自分たちの滞在費用もまかなえませんから。」 長月はニヤリと笑い、臥路も苦笑した。 「無事に登録できてなによりだ。」 「おかげさまで。ぎりぎりでした。」 「だが迷宮で遭難したりすれば元も子もあるまい。気をつけることだ。」 「はい! 気をつけます。」 長月は気持ちよく頷いた。 それから無言で休憩をしていた二人だったが、ややあって長月が口を開いた。 「少し、愚痴を聞いてもらっていいですか?」 これまでは大会の潜在的なライバルとして警戒をあらわにしていただけに、臥路には少し意外だった。 だが、なんといっても、長月は子供と言っていいほどまだ若い。 さらに一度は傷つき倒れた状況では、やはり胸をわしづかむような不安と無縁ではいられないのだろうと、自らの経験を鑑みた。 臥路が頷くと、長月は視線を目の前の水路に落として、ゆっくり語り始めた。 それはアナが小さい子供の頃に母親の手紙をもって瑞原の道場に来てからずっと一緒だったことなど、そんな他愛もない思い出話だった。 「親父が僕達を認めないわけも、本当はわかっているんです。でも、理屈では理解できても、どうしても感情が追いつけない。」 だから逃げているのですと、長月は哀しそうにうち笑い、腰から己の剣を抜いて眼前に掲げた。その細身の日本刀に、シードによく似た長月の容貌が写る。 長月はゆっくり言葉を選んで喋り続けた。 「臥路さん、本当は闘神大会なんて出たくなかったんです。だって僕が負けたら、ペナルティでアナは……。」 長月は恐怖するように大きく目を見開き、両腕で自らの体を強く抱きしめた。 「アナが、犯された上、この都市で一年も奴隷として働かされるなんて絶対に許せない。ありえちゃいけない。だから僕はもっと強くなりたいのです。」 「潔癖だな。」 青年らしい清潔さに深く嘆息すると、思わず「シードとは違うようだな。」と臥路は言いかけた。 「僕はアナを愛しています。でもアナから見た僕はきっと無様です。僕はどうあがいても親父に勝てないのだから。」 そう呟くと、それっきり長月は口を閉じてしまった。 水の音しか聞こえない中で、臥路は長月の横顔をマジマジと眺めた。 本当に父親によく似ていた。 はじめて見た時も驚いたが、こうやって見直してもよく似ている。おそらく大会に参戦した歳もほとんど同じなのだろう、臥路にはまるであの時のシードがここにいるかのような気すらした。 もちろん、細かいところでは母である瑞原葉月のものと思われる要素も色濃く残っている。例えば、首から鎖骨のあたりなどはアナや狐嫁女と同じように白く、細かった。それこそ臥路が長月の不意を打てば、ポキンと折れそうなほどに。 臥路は、思わずそんなことを考えた自分を嫌悪した。 だが嫌悪すれば嫌悪するほどに、臥路の目は白い首に吸い寄せられた。 「長月殿、貴殿はお父上をどう思っている?」 臥路は喘ぐように言った。 「親父ですか?」 長月は一瞬怪訝そうな顔をした。 「剣術は人間を超えています、魔法も素晴らしい。戦闘者として、僕は父ほど強さの高みを極めた存在を見たことがありません。闘神。闘いの神という言葉があれほど似合う人もいないでしょう。僕が腕を上げれば上げるほど、あの人が遠くなっていくような気すらします。そして自らも孤児であったせいか、その様な支援にも熱心です。死んだ恩人の、発狂した細君を引き取って面倒をみる義理堅さもあります。ただ……。」 臥路が無言で先を促した。 正確には長月は臥路が先を促したように感じた。 「ただ、僕は親父を恨んでいます。」 臥路はその言葉を聞いていなかった。 言いたいことを言って冷静になった長月に、どうかしたのかと聞かれた時、ようやく臥路は目を逸らすことができた。 白い首ばかりを見ていたなどとは、とても言えるはずがなかった。 闘神大会は進み、あっというまに一回戦の中盤に行われる予定だった臥路の試合がやってきた。結果は臥路の不戦勝。 時間切れになる最後の瞬間まで、対戦相手が姿を現すことはなかった。 試合に勝った臥路は対戦相手のパートナーをそのまま解放してしまった。 もともと無理強いは好かない性質であったが、今となっては冷たくなった雫姫の姿がちらつき、それどころではない。 臥路は勝者の権利を意識させられるたびに内臓をやすりで削られるような、耐え難い苦痛を受けた。だが、その過去をほじくられる痛みは、自分にとっての闘神大会がついに始まったのだと、臥路に実感させるのだった。 |