「bible collector」



(前編)



 喫茶『ななつき』のバイトの帰り、公園で先輩と2人きりになったのに神無 紗奈は、それを素直に喜べないでいた。結城遊馬と風霧零の短い会話で、遊馬 が自分を待っていたのでないかもしれないと感じたのだ。

 「先輩、ごめんなさい」
 「え?あ、うん別にいいよ」
 気さくな笑顔で遊馬が答えてくれる。でも、紗奈はそれに笑顔で返せない。 せっかく先輩が家まで送ってくれるとのに、いつまでもいじいじしている自分 が嫌いだった。雨で濡れた足元のアスファルトが、公園の外灯の光をテラテラ と反射している。

 「行こう」
 「はい」
 並んで歩き出す。どうしてか、遊馬も言葉をかけてこない。
 不意に遊馬の手が紗奈の手にからみ、ぎゅっと握った。

 (・・・あ。・・・)
 おどろいて頬を赤らめる紗奈。けれどすぐに遊馬の手を握り返す。くもった 表情はすぐに消え、嬉しそうに顔を上げる。遊馬も紗奈を見詰めていた。やさ しい瞳に、紗奈が微笑みを浮かべた。

 (違う、先輩は私を待っていてくれたんだ・・・・)
 そう思った紗奈は、遊馬が手ぶらなのに気づいた。

 「先輩?」
 「ん?」
 「傘、忘れてますよ」
 「傘?」
 何のことかなと笑顔で聞き返された。あわてて紗奈は後ろを振り返る。けれ ど遊馬がいた場所に傘は無かった。

 「・・・・?・・・・えっ」
 不思議そうに視線を戻すと、紗奈は息をのんだ。手をつなげていたのが、遊 馬でなかったのだ。紗奈と同じ背丈の少年。感情の欠けた表情で紗奈を見詰め ていた。紗奈の中の淫魔の血が危険を感じ、その手を振り解こうとする。だが 、その動きにあわすように少年が体を寄せる。つなげていたのと逆の手が、無 造作に紗奈のお腹に当てられた。その瞬間、足が地面から浮き上がるほどの衝 撃が体に走った。

   「・・っ!!」
 攻撃の反動で肺の空気が絞り出されて、声を上げることもできない。何の抵 抗もできないまま、紗奈の意識は霧散した。


 少年はその場に崩れ落ちた紗奈を見下ろしていた。ポツポツと雨のしずくが 濡れたアスファルトを打ち音をたてる。それはすぐに連続し、ザーっと本降り になった。
 少年は顔を上げて、暗い雨空を見ていた。空虚な黒い瞳に雨粒が落ちても瞬 き一つしようとしない。雨が激しさをまし、少年と紗奈の姿がかき消された。


   



 家にいた静流は、妹の帰りをぼんやりと待っていた。
『ななつき』でバイトがあることを知っていたので、早めに執行部の仕事を切 り上げて、夕食の支度を済ましていた。ところがいつになっても帰ってこない。  不思議に思い携帯に電話したが、留守電になってしまう。しかたなく奈々月 絢音に電話をした。

 「紗奈ちゃんなら、もう随分前に帰ったけど・・」
 「そうですか、・・・」
  あごに手をあて思案気に目を泳がすが、すぐに質問した。

 「遊馬くんお店に来ましたか?」
 「うふふふ、来るわけないでしょ♪」
 「・・・。その笑いはなんですか?」
 「さあ、なんででしょう?」
 「・・・・」
 プチっと無言で携帯を切る静流。

 (絢音さんや、他のバイトの子もいるんだし『ななつき』で待ち合わせする わけないか・・・)
 遊馬の番号を出し悩んだが、やっぱりやめて携帯を閉じた。もし2人が一緒 なら、電話をかけて邪魔したら可哀想だ。

 (しょうがないな紗奈のやつ。うそでもいいから連絡ぐらいすればいいのに ・・・)
 食卓に並んだ、料理を見てため息をつく。
 紗奈が遊馬に夢中なのは、姉の静流が一番良く分かる。それは静流が望んだ ことでもあった。

 淫魔の発情期は、その時期に膣内に精子を受けても妊娠しないことからも分 かるように生殖とは無縁の現象だった。
 体の中で眠っている淫魔の能力が、目覚め成長を始めた代償として発動する のだ。だからこそ、淫魔の力をコントロールしきれない初期の発情期は難しい 。無理に抑制にすれば淫魔の能力が未熟になり、かといってその衝動に従順す れば理性が損なわれてしまう。
 この時期に愛すべきパートナーを持つ必要が、紗奈にはあった。遊馬に正体 がばれた時、あえて二人とエッチしてくれと頼んだのは、おくての紗奈を安心 させるためだった。それがうまくいき、今紗奈が遊馬の腕の中にいるなら、喜 ぶべきことだった。姉としても見守ってあげたい。

 (・・・・)
 ズキズキ痛む胸を押さえる静流。発情期の衝動よりも堪えきれない感情。そ ういうつもりはなかったのに、気がつけばどうしようもないほどに魅かれてい る。自分には一生パートナーができないと思っていた。もう誰も好きにならな いと誓っていた。

 (・・・・)
 心の奥にしまったはずの人の面影が、頭をよぎる。はじめてパートナーとし て見ることができた人。すべてをゆだねていいと思った人。けれど淫魔の姿を 拒絶され、殺したいと思った人。はじめて淫魔の力を使った人。
 震える自分の体を抱きしめ、食卓に額をつける。乱れそうな息を必死で抑え ている。泣くまいとした。泣いたところで過ぎ去った日々は戻りはしない。
 深く息を吐き、顔をあげる。いつもの落ち着いた表情に無理やり戻る。
 (紗奈だけには、こんなツライ思いしてほしくないな・・)

 「しかたない。食べちゃお」
 わざと陽気な声をだし、箸を取る。並んだ料理の一つを挟んで口に運ぶ。

 「うん。美味しい」
 もぐもぐしながら満足そうに頷く。けれどそんな自慢の料理は最近紗奈に評 判が悪い。並んだ料理は、あんかけ肉団子や肉じゃが、ポテトのサラダと味が 濃くカロリーが高いものばかり。男の子が好きそうな理ばかり作って いる。

 「もう、一人じゃ食べきれないな〜」
 料理一品一品の味を確かめるように箸を動かす。

 「よし!いたまないうちに、タッパに入れておこう」
 そう言うがはやく席を立ち食器棚から取り出したものは、形状は似てるがタ ッパとは違うものが二つ。一つの容器に一品入れるのでなく。違う皿から小分 けにしたものを容器に並べていく。半分ほど入れただけでふたをして、それを 冷凍庫に入れる。

 「明日あら熱を取ったご飯を、もちろん梅干も付けて入れる。おかずは自然 に解凍できるから、お昼ごろにはもうバッチリ!屋上に誘って、あーんしちゃ おうかな?うふふふ。あ・す・ま・く〜ん」
  どこか楽しげに妄想してる瞳。妹の幸せを願う反面、その恋路を邪魔する ことに心の底から喜びを感じてしまう困ったお姉さんだった。


                



  テーブルに置いた携帯の日付が変わった。リビングのソファーに腰掛け、 ティーカップを持つ静流は、冷めた紅茶を口に含んだ。帰った紗奈をからかっ てあげようと待ち続けてこんな時間になってしまった。紅茶を飲み込んで、静 流は笑顔を浮かべた。

 「ふ〜ん。紗奈、今日はお泊りしちゃうんだ。大胆♪」
 しかし笑顔を浮かべた頬がピクピク痙攣している。眉間に怒りの筋ができた。

 「・・・って、冗談じゃないっ!私だって遊馬くんの家お泊りしたことないの に!」
 カップをソーサーに音をたてて置き、を立ち上げる。その瞳が怪しく輝いた。 乱暴に服を脱ぎ捨てた静流の体がフラッシュをたいたように光を放つ。バサっと羽が空気を裂く音が して、リビングの家具のガラス戸が揺れた。その振動がおさまる頃、そのガラ スに映る淫魔になった静流の姿。

 ガラっと内庭に通じるサッシを開く。激しい雨が部屋の中に入り込んでくる 。静流はきっと雨雲を睨んだ。

   「何よ、これくらいの雨。タクシー呼べばいいんだし、帰れない理由になら ないんだから!待ってなさい紗奈!」
 黒い翼を羽ばたかせ、静流は雨空に飛び立つ。まっすぐ遊馬の家に むかって・・・。


               



 ベットが窓に近いことを思い出し、静流は隣の部屋から侵入する。羽を たたみ、遊馬の部屋の扉を静かに開けた。
 ポトポトとフローリングの床にしずくをこぼしながら、ベットに近づく。雨 が窓ガラスを叩く音以外物音はない、2人は眠っているらしい。部屋に満ちる 濃厚な性交の残り香が静流の鼻腔をくすぐる。
 濡れそぼった前髪をかき上げながら

 (さあて、どんなお仕置きをしちゃおうかな・・)
 と、唇をなめた。こちらに背を向け寝ている遊馬に抱かれて寝息をたててい るのが分かる。これから起きることも知らずにどんな寝顔をしているのか、の ぞきこんだ。

 「・・・!?」
 危うくこぼれそうだった声を、かみ殺した。

 (どうしてこいつが、遊馬くんと一緒に・・・)
    遊馬の腕の中で、あどけない寝顔を見せる零がいた。静流の瞳の金色が赤み を帯びた。ギリギリ歯軋りする歯に牙がのびる。
 どんなに陵辱しても、陵辱しきれない女。いくら記憶を消したとはいえ心や 体に傷跡が残るものなのに、汚れることを知らず、あたりまえのように、遊馬 のそばにいる。

    自分がいつの間にか、その細いうなじに標準をあわし、鋭い爪を放とうとし ていることに気付いて、あわてて止める。殺してはいけない、そんなことでは 気が治まらない。
 零の中にまだ暗示は残っているはず。まずこの部屋から出て、それから・・ ・。邪悪な計画に思いをめぐらしていると、闇に携帯の着信音が響いた。

 「・・・・くっ!」
 驚いて振り返る。背後にあったテーブルに着信イルミが点滅していた。今、 2人が起きてしまうのはまずいと、手に取る。電源を落とそうとしたが、それ を止めて電話に出たのは、画面が紗奈からの電話であることを告げていたから だ。
 今さらながらにここに来た理由を思い出して耳にあてる。

 「・・・沈黙を。その部屋は盗聴されている・・」
 紗奈でない男性の声と言葉に、静流の瞳の赤い攻撃色が消えた。
 
 「夜分すみません。結城遊馬君。本当はもう少し早く電話したかったのです が、どうしても彼女が協力をしてくれなくて・・・。ほら、遊馬君だよ・・・」
 すぐに紗奈の声が聞こえた。

 「先輩!来ちゃ駄目っ!絶対ここに来ちゃっ・・、きゃあっ!」
(紗奈!!)
 最後の悲鳴の前に、あきらかにぶたれた乾いた音がした。

 「ということです。ご足労ですが来ていただけませんか?」
 「・・・・」
 「そうだ、黄泉塚一夜君を呼んではいけませんよ。彼は今、私が仕掛けた罠 に向かっている。彼を呼び戻すことがあれば、この交渉は決裂するものと思っ たください」
 「・・・・?」
 「ああ、君は彼の本当の姿を知らなかったね。・・・いや、この言い方は正 しくないか。私もいまだに彼が何であるか理解できない。今回の件は、 できれば裏方に徹してしたかったのですが、彼のせいでここまで引きずり出されて しまった。手駒がことごとくやられてしまってね・・・。
君に愚痴をこぼして もしかたないか。  ・・・駅前のアーケドにある『月霜屋』はご存知ですね。そのわき道を進む と、丘へ続く道になる。その坂道の途中にかって教会だった廃屋がある。そこ でお待ちしています」
 「・・・・」
 「一夜君には後ろ盾がいるようです。多分、彼の仲間がその部屋を見張って いるでしょう。でも、気兼ねせず来て下さい。雨があなたの姿を隠してくれる 。では、なるべく早くお願いします。彼女の元気な姿が見たいなら・・・」
 そう言って通信が切られた。

 携帯をテーブルに戻し、寝息を立てる遊馬の横顔を見詰める静流。
 まだ発達途中であるといえ淫魔のハーフである紗奈が本気を出せば、人間の 腕力で拘束されることはないはず。簡単な暗示なら、人間の心を一時でも操る ことができる。それが通用しない相手・・・・。
 どうしようもない不安が静流の胸を締め付ける。けれど、ただひとつだけは っきりしていることがある。

 (紗奈の言うとおり。そんな危ないところに遊馬くんを行かせるわけにはい かない)
  そっとその横顔に顔を寄せて、頬にキスする。

 「ちょっと行ってくるね、遊馬くん」
 そう囁いて微笑んだ。顔を上げると零に気付いてその笑顔は曇るが、こうい う状況で遊馬が一人きりでないのは都合がいいので我慢する。
 衣替えの季節が近いせいだろうか、クリーニング屋に出したらしい半そでの 制服が壁にかけてある。それを手にして、侵入したリビングに戻る。ガラス戸 を開くと、大粒の雨が頬を打った。ベランダに出て黒い翼を開いた。

 「待ってて紗奈。すぐ行くから」
 雨音に負けない羽音をたて、静流は飛び立った。


               



 廃屋となり久しいはずの教会は、間借り人の性格を現してか塵一つなく清 掃され清浄な空間になっていた。
 闇が悪であるがごとく、内部は電灯と蝋燭で照らしだされている。日本特有 の湿気のために朽ち果てる寸前だった礼拝用のベンチは取り外されていた。祭 壇と扉からまっすぐそれに伸びる通路に赤いじゅうたんが敷き詰められていた。
 その通路を挟んで、大きな新しいソファーが二つ置かれている。一つは祭壇 に向け置かれて、そこに座る男の後姿が見えた。もう一つのソファーは扉に向 け置かれ、淫魔の姿になった紗奈が横たわっている。
 手足を拘束するようなものは見えない。体中に痛々しい殴打された痕が浮き 上がっている。その痛みが走るのか、時折体がピクピクッと痙攣する。弱々し く開いた目元には涙の痕が残っていた。瞳がもう一つのソファーに座る細身の 男をにらみつけている。

  靴からズボン背広シャツまでを黒で統一した男の足元には、宅配で送られ てきたらしい小さな段ボール箱がある。丁寧な包装の中にあった古めかしい洋 書を、興味深そうに見詰めている。

 「やはり贋物か。まあ、あの値段で競売に出された時点で予想はできていた が・・・・」
 本の開け閉めを繰り返し、その材質を確かめている。

 「しかし、この紙や印刷のインクは限りなく本物に近い、同年代の紙を輸入 し、当時使われていた原材料を調合して刷られている。これほど精巧に再 現する技術が日本にあったのか。私の競り落とした値段の倍以上の費用がかか っているはずだ。あの出品者の信用がネットでは絶対なのはこのためか。
・・ ・・おそらく本物が手元にある。だが、この贋物の価値が分かる者としか本 当の交渉はしないということか、・・・・面白い」

 手にする本とは別に深く座る腰のそばに、使い込んだ古い聖書が置かれてい た。内部は風がないのに、蝋燭の炎がゆれるようにそのページがパラパラとめ くれた。男がそれに気付くと、背後の大きな扉が音をたてて開いた。外に降る 雨音が教会内部にこだました。

 「扉を閉めてください。冷たい外気はこのお嬢さんの傷口にさわる」
 「・・・・」
 無言で扉を閉じる者を、紗奈は凝視していた。そこに立つのは、遊馬の制服 を着た人間姿の静流だった。その瞳が金色に輝いている。何故だか、その顔を 見詰めようにも焦点が合わない。
 保健室にはる結界を応用した幻術の一種だった。静流を認識させるポイン トに障壁を張り、視線を遊馬を連想するものに向けさせる。その物から見た者 が遊馬をイメージすれば、視界の届かない部分は勝手に相手の脳がイメージを 補完するのである。

 ただし、金色の瞳を見なければこの術ははじまらない。それまでは静流の印 象を与えるもの、声などを発してはいけない。
 男が振り返る瞬間を待ちながら、ゆっくりと歩き始める。ギリギリと爪をの ばしながら・・・。

 しかし男は、背を向けたままソファーを立つ気配がない。

 「・・・間違った動機で願ったゆえか、・・しかたない」
 「・・・・」
 「何故私が、この仕事で裏方に徹していたか分かりますか?」
 彼の脇で動いていた聖書のページが止まった。びっしりと紙面を埋める文 字の中で、いくつかの文字が光り輝く。

 「ああ、あなたらしい名前だ」
 男がその光の点滅にあわせて、文字を読み上げた。

 「−golden eye−
 「・・・・!?」
  静流の瞳が輝きをなくした。それとは逆に制服に包まれていた体が光りだ す。赤と黒のプロテクターが服を裂き、黒い翼と尻尾が発光する体に照ら し出されて教会の内壁に大きな影を映した。自分の意思に関わりなく体が淫魔 に変化していった。
 体中の力が抜けて、赤いじゅうたんの上に崩れるように腰を落とした。かろ うじて残った力を振り絞り顔を上げる。
 その男が立ち上がりこちらに振り向いた。その顔を見た静流に動揺の 色はなかった。携帯でその声を聞き、待ち合わせの場所がここであると知らさ れた時、もしかしたらと思っていた。震える声でその名をつぶやく。

 「・・・真人さん?」
 「会えば君を殺さなくてはいけないからね。静流さん」
 静流がはじめて愛した男性、朱門真人はにっこり微笑んでそう言った。


             



  《中学二年になり発情期を迎えた静流は、母親に自分が淫魔と人間のハーフで あることを知らされた。
 小さい頃から自分が人と違うことを意識していた静流は、驚いたもののその 現実を受け入れることができた。けれど発情期の衝動の対処法には、我慢でき なかった。
 まだ恋に恋するぐらい幼い静流にとって、衝動を抑えるためにセックスをす る相手を見つけるなんて、とうていできない話だった。

   家や学校にいづらくなり、町の繁華街にうろついたが、その頃から人の視線 を集める容姿だったため、トラブルに巻き込まれそうになった。
 人ごみを避けて居場所を求め、ある時駅近くの丘の上に小さな公園があ ることに気付いた。町を一望できる公園は、いつも近所のおじいちゃんやおば あちゃんがひなたぼっこに集まる場所だった。静流は彼等に孫のように可愛が られて、時間を過ごしていた。

 ある日曜の朝、その公園に向かっていた静流は、坂道の途中に小さな教会 があることに気付いた。あきらかに調律ができていないオルガンの音に誘われて、 静流は教会の門をくぐっていた。

 ハーフであることを教えられた時、母親に教会は避けるべき所と言われてい た。けれど鬱蒼と茂る木々に囲まれた古い小さな教会を見てこれといって恐怖 を感じなかった。

 さすがに教会の中に入る勇気はなった。どこからか中をのぞくことはできな いかと探したが、くもりガラスの窓はすべて閉まっていた。開いている窓と言 えば、側面の高いところにある換気と光を入れるための小さな突き出し窓ぐら いだった。
 何かないかと辺りを見回していると、2メートルは軽く越えそうな高い脚立 が壁に立てかけてあるのに気付いた。アルミ製の三脚は軽く、簡単に運ぶこと ができた。突き出し窓のそばに三脚を立てて上っていく。

 窓枠に肘をつき中をのぞく。ずっと聞こえていた賛美歌が終わり、祭壇に神 父が立っている。

 (へえ〜、若いんだ・・)
 寝癖の残る髪に愛嬌がある細身の青年は、まだミサの進行に不慣れらしくと ころどこで間違えて礼拝者に注意されていた。突っ込みどころ満載だなと唇を ゆるませる静流。ミサに参加している人たちも同じ気持ちのようで、厳粛なは ずの儀式にクスクス笑い声が交じっていた。

 何度かの賛美歌の後、青年は聖書の一文を読みあげ、その意味を説明しはじ めた。

 あくまで丁寧で落ち着いた口調は彼が信じる神の栄誉と愛を語る時、高揚し 楽しげになる。まるでその存在が今そばあり、その恩恵を感じているかのよう に。

 「・・・・」
 静流の口元から微笑が消えた。礼拝に訪れた者達も、真剣に耳を傾け咳一つ こぼすことがない。
 たどたどしかった声に自信がみなぎり、ひとつひとつの言葉が短く連動性を 持つ。綺麗なライムで、耳に心地よいラップを聴いているような感覚。

 青年が話し終えた後の静寂はとてもみずみずしいものだった。静流は心の中 で拍手していた。ちょっと凄かった。ちょっと感動した。そして青年のことを ちょっと見直した。

 礼拝者が席を立ったので、そろそろ終わるかもしれないと思い三脚を降りた 。教会の門を出る静流を、賛美歌が送った。》


              



 《それから日曜日になると静流は教会に出かけた。もちろん中に入る勇気は なく、三脚を上り窓越しに見るだけだった。
 発情期の衝動は続いて、静流を傷付けていたが、ミサを見る時その憂鬱さか ら解放された。

 一ヶ月が過ぎたある日曜日の朝。いつものように三脚を立てて上っていく。 窓枠に肘を突くと、オルガンの音がやみ青年が簡単な挨拶を信者と交わしてい るところだった。いつもの穏やかな笑顔を浮かべていた彼が、ふと視線を信者 から逸らし、目線をあげた。

 「・・・・」
 「・・・・」
 目があった。すると青年は祭壇をおり一気に駆け出した。ミサの途中だし まさかと思っていると三脚の下に彼が走ってきた。

 「何をしているんですか!危ないから降りてきなさい!」
 「・・・・!」
 驚いて固まった静流。青年もそのことに気付いたようで口調を変えた。

 「・・・とにかく、降りてください。・・・べつに怒っているわけではないから ・・・」
 木に登って降りられなくなった子猫を落ち着かすように、やさしい言い方 をしていた彼の言葉が止まる。なにかに動揺して固まってしまったようだっ た。その視線が、短いスカートの中にむいていることに気付いて静流はすそ を押さえてきっとにらんだ。

 「す、すみません!!」
 青年が、あわてて背を向けた。おずおずと降りてきた静流。背中を指でつ ついて、降りてきたことを知らせる。振り返った青年にペコリと頭を下げた。

 「ごめんなさい」
 もじもじして青年の顔を見上げた。青年は赤い頬を指で掻きながら意外な ことを口にした。

 「あの、ミサに興味がおありなんですか?」
 「え?」
 てっきり叱られると思っていた静流はきょとんとする。満面の笑顔を浮か べて青年が誘った。

 「よかったら中に入りませんか?」
 「あ、いいです!いいです!今日はなんとなくのぞいちゃっただけで、すみ ません。興味とかないです。・・・私の家も代々無神論者で、名字だって神 がいないって書いて神無(かみな)って言うぐらいですから」
 「へえ、神無さんですか」
 「あっ!」
 念を押すつもりで、つい自分の名前を教えていたことに気付いた。

 「面白い名字ですね。・・・・・。うん。十月の神無月からきたのかな? しかしそれならカンナと読むか・・・。確か神無月は、十月が収穫された新 米でを醸造するという、醸成(かみなし)からきたという説があったな、お 酒に関わる家なのかな・・・・?」
 しかし静流の動揺など気付かないで考え込んでいる青年。後ろから声がか かった。

 「朱門さん。あの・・ミサを・・・」
 「あっ!すみません!今すぐ行きます!」
 朱門と呼ばれた青年は思索にふけるのをあわててやめて後ろに返事をした 。そして静流のほうをむき直すと、その手を取った。

 「さあ、行きましょう」
 「え?あの・・」
 手を握ったまま青年が歩き出す。
 「神の門は狭き門です。しかし望む者には、その門戸はいつも開かれる。 不思議だったんです。日曜のミサの後いつも三脚が壁に立てかけてあるから ・・・」
 「・・・あ、・・・」
 ミサに来ている人に見つからないようしていた静流は、三脚を持ってきた 場所に返さず壁に立てかけて、教会を後にしていたのだ。

 「見学だけでも構いません。それで神無さんの心が落ち着けばいい」
 「・・・・」
  どうしてだろう、この青年は一目見ただけで静流がなやんでいることを見抜い ていた。扉をくぐると青年を待つ信者たちがこちらを見た。そのまま最前列 まで連れて行かれそうで、足を止める。

 「ん?」
 「あ、あのここで・・」
 「・・・・?」
 「ここで見学しますから」
 「はい、分かりました」
 うなずいて青年は手を離し、祭壇に向かっていく。ベンチに腰掛けた人々 が不思議そうに静流を見ていたが、青年がオルガンを弾きはじめると、席を 立ち讃美歌を歌い始めた。一番後ろに座った静流は立ちそびれて、教会の内 部を見回していた。窓のガラスがほとんどが、曇りガラスのせいもあってか、 蝋燭を灯さなければいけないほど暗い。静流がいつも覗いていた窓は午後に ならなければ日が差し込まない位置にあった。

 西洋のゴシック建築を模倣したらしい内部の壁は円筒の柱が並び、天井は その柱から枝のように伸びたリブが張りめぐらられている。その幾何学模様 に蝋燭の炎が影を落とし、炎のゆらめきにあわせて揺れているているように 見える。

 (森の中にいるみたい・・・)
 ふと足を動かしただけで、敷きつもる枯葉を踏みしめて音をたててしまい そうな感覚がある。

 (ここは、この建物が立つ以前から神聖な場所だったんじゃないのかな?)
 教会独特の香りを感じながらそんなことを思う。違和感はあるが、けっし て不快でもない。

 ふと視線を感じた静流は、祭壇に立つ青年が目線をむけていることに気付 いた。遠目からでも分かるぐらい心配そうにこちらを見ている。誘った自分 が逃げてしまわないか不安なのだろう。別にそんなつもりはなかったが、そ れを教える手立てがない。

 それが恥ずかしくて逃げ出したくなるほどに、青年はこちらに視線を送り 続けた。

 ミサの最後までをはじめて見終え、静流は席に座っていた。すぐに来るか なと思ったが、祭壇の前で青年は信者達に囲まれていた。

 (人気者なんだ・・・)
 青年は信者一人一人の言葉に耳を傾け、考え、返事をしている。当分こち らに来る感じではない。静流は席を立ち扉に向かった。

 信者との会話を終えて青年は、静流がいないことに気付いた。あわてて教 会を飛び出し門の外の道路を見たが、姿が見えるはずもない。ため息をつい て教会の中に入ろうとしたが、三脚のことを思い出し建物の脇に足を伸ばし た。

 「・・・あっ!」
 「これ、どこに戻せばいいの?」
 壁に背を預けた静流が、隣の三脚を指差した。なんだか待ち伏せしている 感じが恥ずかしく、そっけない口調。

 「そのままで構いませんよ。こちらの木の枝を切ろうとと思っていました から」
 「なんだ、そうか」
 「・・・・。どうでしたか?」
 青年が喜びそうな答えが、何故か頭にすぐに浮かんだ。けど、素直になれず 反対のことを口にした。

 「う〜ん。よく分からないでした」
 「そうですか。では来週もおいでください。何か得ることがあるかもしれま せんよ」
 静流の答えにちっともへこたれない青年。

 「・・・・」
 「お待ちしてますよ」
 めちゃくちゃ強引だが、嫌な気がしない。ちょっと唇がゆるんでしまう。

 「なんだかな〜」
 「・・・・?」
 「なんか、ナンパされてるみたい」
「ち、違います!私はそんな不遜なこと!!!」
 顔を真っ赤にして否定する青年に、静流はお腹を抱えた。

 「あはははははっ。分かってます。そんなつもりがないことぐらい」
 「は、はあ・・」
 「んふふふ。・・・・。・・・その、気が向いたらでいいですか?」
 「はい」
 「うん!じゃあね朱門さん!」
 背筋だけで壁から離れると、その勢いのまま駆け出した。

 「お待ちしてますよ。神無さん!」
 青年の声に手を振って応える。スキップをしたくなるような軽い足取りで、 静流は門を出て行った。》


              
 *



 《それから毎週日曜日、静流は教会に出かけた。午前中はミサに出て、午後に青年と おしゃべりをする。そんな一日を過ごしていた。

 青年の名前は朱門真人。神学校を出たばかりで修行中だったのだが、この教会の神父 が病気で倒れて入院し、遠い血筋だった青年が呼ばれたらしい。教会の二階にある宿舎 に寝泊りをして、ミサの時得る献金と敷地にある菜園で自給自足に近い生活をしている。

  一番後ろの席に座っていた静流は少しづつ前の席に移り、今は他の信者と並んでミ サを受けていた。本当は最前列で真人とむきあいたいのだが、それができないのはまだ 洗礼を受けていない後ろめたさがあったからだ。
 仲良くなった信者から洗礼を勧められ、静流自身も受けてもいいと考えるようになっ たが、なぜか一番熱心に勧めそうな真人がそれを口にしなかった。

 ある日曜日の午後、菜園の脇にある梅の実の収穫を手伝っていた静流はそのことをた ずねた。
 三脚に乗り梅の実をもいだ真人は、それを静流が持つ籠にほうりながら口を開く。

 「そのことですか?う〜ん」
 日焼けをしてはいけないとかぶらされた麦藁帽子の下の静流の瞳は真剣に真人を見上 げている。

 「私も静流さんにはして欲しいと思っています。けれどこれはあくまで願望なので すが・・・」
 ゴルフボールほどの青い実をもぎ、それを籠にほうる。

 「あなたの背負う重荷を降ろした後にしたいのです」
 「え?」
 不思議そうな顔をする静流を見て、真人はさびしそうに笑った。

 「あなたの背負う悩みを、わたしはまだ聞かされていません」
   「・・・・」
 視線を梅の枝に戻し、梅の実を探す真人。

 「できればあなたの力になりたい。・・・でも、私はまだまだ未熟でそれにふさわ しくないと思われてもしかたないのですが・・・」
  真人はもいだ実をほうろうとしたが、静流がうつむいていることに気付いた。三脚 を降りて悲しそうな顔をする静流を見た。

 真人は手にした梅の実を首にまいたタオルで拭いて、それを静流の目の前にかざし た。

 「・・・・?」
 「食べてみませんか?病み付きになるほどおいしいですよ青梅は、ね?」
 「え?」
 「さあ、あ〜ん」
 口元に近づけられた青い実を見る静流。真人がじっと見詰めている。恥ずか しそうに口をあけてかじろうとすると、ひょいっと真人がそれをかわす。

 「・・・・?」
 「嘘です。確かに美味しいらしんですが、毒性が強くて顔がぼこぼこに腫れるこ ともあるそうです」
 「あっ!」
 「あははははは」
 してやったりと笑い出す真人。静流は頬をふくらます。

 「ひどい!朱門さん」
 「あははははは。うん。ごめんごめん」
 「もう!」
 「うん、怒った顔も可愛いですね」
 「え?」
 「悲しい顔は静流さんには似合わない。して欲しくない。・・・なぜかな?そう思 ってしまうんです」
 「・・・・」
 真人は麦藁帽子をかぶる静流の頭をなでた。恥ずかしそうにうつむく静流。けれど 嬉しさがこみあげてまた真人を見上げた。真人も目を細めて見下ろしている。

 「・・・・」
 「・・・・」
 真人は手を離し視線を逸らした。

 「さ、さて、今日中に梅を収穫してしまわないと、取った梅を一日水につけてあく を抜き、明日はへたを取って、焼酎で洗い塩をつけてと、やることはいっぱいありま す」
 三脚に上りまた枝の中に入っていく。

 「梅干が美味しくできたら、静流さんにも分けてあげますね」
 実をもいで振り返る真人。籠を持つ静流が微笑んでうなずいた。》


                  
 *



 《蒸し暑い夜、真人は濡れたタオルを片手に本を読んでいた。全開にしていた開き 戸を叩く音に気付き、驚き振り返る。窓を見ると三脚に乗ったのだろう静流が手を振 っている。席を立ち窓に歩いていく。危ないからと注意しようとしてた真人は、静流 の姿を見て言葉を飲み込んだ。

 「近所でお祭りがあるんです。真人さんも一緒に行きませんか?」
 浴衣姿の静流がニコニコして言葉を続ける。
 「新田さんや高野さんも来るっていってましたよ、ね?ね?」
 仲良しの信者の名前をあげて誘う静流。真人は困ったような笑顔を浮かべて答 えた。

 「そうですか、いってらっしゃい静流さん」
 「え?」
 「そのお祭りは、この丘にある神社の祭りと聞いています。他の神の行事に私が出 るわけにはいかない。信者の人達に示しがつかない」
 「・・・・」
 「新田さんや高野さんは近所づきあいもあるし、お子さんにせかされてのことで しょう。静流さんも構いませんよ。楽しんでらっしゃい」
 「ご、ごめんなさい。気付かなくて・・・」
 楽しげな表情が一瞬にして曇った。真人は手を伸ばし、シャンプーの香りが残る髪 を撫でて慰めた。

 「誘ってくれたことは嬉しかったですよ静流さん。ありがとう」
 「・・・・」
 けれど静流の表情はすぐれない。真人も困ってかける言葉がなかった。ふっと静流 が顔を上げる。なにか思いついたようで真人にたずねた。

 「あの、祭でなければいいんですよね?」
 「うん、まあ」
 「じゃあ、ここの近くで行きたい所があるんです。一緒に行きませんか?」
 「い、今からですか?」
 「はい」
 「う〜ん、しかし・・・」
 迷っている真人に、静流が頬をふくらませた。

 「もう!女の子の誘いを2回も断るつもりですか!」
 その剣幕に真人はたじたじになるどころか、逆に笑い出した。梅の収穫以来、静流 の怒った顔がツボになってしまったらしい。

 「あはははは、分かりました。でも少しだけですよ。ご両親が心配する時間までに は帰りますよ。いいですね?」
 「はい。じゃあ、下で待っていますね」
 嬉しそうに三脚を降りていく静流。真人は腕時計と財布を持って部屋を出た。
 真人は扉の鍵を閉め門にいた静流のほうに歩いていく。そばにきた真人に、静流は 手にしていた巾着袋から小さなスプレー缶を2つ取り出し見せた。

 「・・・・?」
 「目を閉じて」
 「?」
 言われるままに目を閉じると、スプレーをかけられた。妙に念入りに全身にまかれ る。「いいよ」の声に目を開けると、静流が今度は自分の体にかけ始めた。

 「虫除けのスプレーです。無香料の」
 「虫除け?」
 てっきりアーケドのお店だろうと思った真人がきょとんとする。静流はスプレー缶 を茶巾袋にしまいながら、嬉しそうに笑った。

 「えへへへ。本当はお祭の帰りに行こうと思ってたんです」
 真人の腕に腕を絡めて、静流は歩き出す。行き先は内緒らしい。引かれるままに真 人もついていった。祭のにぎわいを遠目にしながら、坂道を登っていく。ひっそりと した住宅街の裏道を抜けると、丘の林に入る小道につながる。そのまま丘を登るのか と思った舗装されていない道は、下へと降りていく。

 林の暗さに怯えたのか、組んだ腕に力がこもる。腕に未熟な弾力を感じて真人は頬 を赤らめた。虫たちの鳴き声にまぎれて小さな水音がした。やがて小さな沢に出た。 小さな砂利交じりの川辺に下りると、淡く小さい緑の光が、2人の周囲に漂う。

 「・・・蛍か・・・」
 「・・・わあ、綺麗・・・」
 命の炎そのままのようにゆらめき点滅する光。その光を吹き消さないように静流 が小さな声で話す。

 「最近になって蛍が戻ってきたんですって。この上にあるお茶畑を持っていた人が 、手入れをしなくなって荒れ放題になったせいで」
 「?」
 「お茶畑って、すごい農薬を使うんです。以前はこの沢も汚れていたみたいです」
 「ふうん」
 小さいながらもとうとうと流れる沢の水量は、丘に降った雨水だけでまかないきれ ないはずだ。この町を流れる地下水が、丘の固い地質にぶつかり支流となって湧き上 がっているのかもしれない。

 組んだ腕を解き静流が、そばにある水際まで歩いていく。淡い光に照らし出された その後姿は、そのまま闇に解けていってしまいそうなほどはかなげで、真人の胸の内 に淡い焦燥感がこみあげる。

 緑色の光が静流のそばに近づいてきた。止まってもらおうと体の動きを止めたが、 頬を掠めて通り過ぎていった。

 「あっ」
 その光を追い振り返る静流。真人のほうに漂っていく。ついていこうと足を伸ばそ うとした時、砂利の中にまぎれていた大きな石が下駄に当たりバランスを崩した。と っさに真人が腕を伸ばして、倒れそうになった静流を抱き止めた。

 「大丈夫ですか?」
 「・・・・」
 真人の問いに答えない静流。不思議そうにする真人の背に腕を回し、ぎゅっと抱き ついた。

 「静流さん?」
 深く胸に顔を埋めて、震える小さな唇がつぶやいた。

 「す、好きです」
 「・・・・」
 「大好き」
 突然の告白に真人は驚くが、すぐにその表情はくもった。

 「・・・。・・・静流さん、私は・・・」
 真人がなにを言おうとしているのか感じた静流は、顔を上げて訴えた。

 「分かってる!分かってるの!恋しちゃ駄目だって、いけないことだって・・・」
 「・・・・」
 「朱門さんを、真人さんを困らせたくない。でも、無理だよ。どうしても止まらな いの、我慢できないの・・」
 目に涙をためて静流が見上げる。その言葉を聞いていた真人は黙っていたが、やが てつらそうに口を開いた。

 「嘘だ」
 「え?」
 「一時でも長く君のそばにいたいと思った。一言でも多く君と話をしたいと思った 。・・・この感情を私は欲望だと思っていた。恥ずべきことと考えていた」
 静流の頬に真人が手をあてる。

 「・・・真人さん」
 「でも、それは嘘だ。この感情が偽りなはずがない。過ちであるはずがない」
 頬にあてた手をうなじに伸ばし、指に髪を絡ませながら抱き寄せる。

 「・・・あっ、・・・」
 「これが罪で罰を受けなければいけないというのなら、喜んで私はそれを受け入れ る」
 体を真人に預けて、静流は涙のこぼれる頬を摺り寄せる。真人の高鳴る鼓動と、匂 いに包まれて幸福の絶頂にいた。2人を祝福するように、淡い緑色の点滅が周囲を漂 った。

 静流の体の奥を、渦巻く炎が這い上がる感覚が襲った。肌が熱と湿気を帯びる。

   (・・・・)
 発情期の予兆を静流は感じた。今まで真人のそばにいる時一度だってなかったこと だったが、不思議と焦りはない。

 (・・・真人さんなら、受け入れてくれる・・・)
 そんな確信がある。自分の体の熱から逃れるように顔を上げる。やさしく真人が見下 ろしていた。

 (・・この人が、私のパートナー・・・)
 瞳を閉じて唇をむける。小さく息をのむ音が聞こえたが、すぐに熱い弾力がふさがっ た。遠慮がちな感触がもどかしく、背伸びしてあわさる唇を吸った。

 心臓が痛いほどドキドキしている。細胞のひとつひとつが活性化し、精神と体が光 に包まれるような陶酔感。暗いはずの林の中で、閉じた瞼の裏で光を感じた。

 「はあ、はあ。・・・」
 長いキスの後、小さな唇から熱い息をこぼしながら、静流は瞼を開けた。その瞳に 映ったのは、目を見開き凝視する真人の顔だった。

 「・・・真人さん?」
 「・・・だ、誰だ、君は?」
 「え?きゃっ!」
 静流を突き飛ばし、真人が体を離した。発情期の衝動のせいなのか力の入らない体 が、反動で倒れ砂利に腰を打ちつけた。
 真人は、周囲を落ち着なく見回している。

 「し、静流さんは?静流さん!静流!」
 目の前にいるのに、あたりに叫び続けている。

 「真人さん!」
 静流の呼びかけに、真人は虚ろな瞳を向けた。

 「・・・・」
 「どうしたの?」
 「・・・・?・・・化け物?・・・」
 「え?」
 「・・・・うううっ」
 両手で頭を抱えて、髪をかきむしる。信じられないように頭を振って、そして絶 叫した。

 「うああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
 背を向けて真人は駆け出した。黒い林の中から絶叫がいつまでも響いていた。

 体に力が入らない静流は、追うこともできず呆然としていた。打ちつけた腰に痛み はないが、体中に違和感がある。喉が異常に渇いていた。

 (・・・・?発情期の衝動じゃないの、これ?)
 再び静かになった沢。川のせせらぎが耳をくすぐる。喉の渇きが堪えきれなくなり、 這うように水際にきて、口を寄せた。火照り続ける体に、清水がしみわたる。息をつく のも忘れて喉を鳴らした。

 「・・・・!」
 水面に光る瞳が映り、驚いて静流は顔を上げた。獣の瞳に見えたのだ。だが、水面 が落ち着くと、それが獣でないことを知った。

 白亜色の髪に、水牛に似た角が生えていた。金色の瞳がじっと水面を見詰めていた。 浴衣を裂いて伸びた蝙蝠に似た黒い羽に、蛍が止まった。

 「・・・・」
 発情期のことを教えてくれた母親が、やがてその時が来ると話していたことを思い 出した。
 金色の瞳からこぼれる涙が水面を乱し、言葉にならないうめきが、牙の生えた口か らこぼれた。

 はじめて自分が淫魔に変身したことを、静流は知った。》


               
 *



 《翌日学校をサボり、教会に向かう静流。あの後淫魔の姿は、30分ほどして元に戻 った。破れた浴衣姿だったが、闇にまぎれて無事に家に戻ることができた。はじめての 変身の名残か、体中のあちこちが痛い。

   教会の扉は鍵がかかっていた。真人の部屋の窓がある壁を見ると三脚はそのままだっ た。三脚を上ると、窓は閉められ厚いカーテンがおおている。中を見ることはできない が、人のいる気配を感じた。痛む胸を押さえて、ガラス戸をノックした。

 「真人さん、静流です」
 中から返事はない。でも自分の声は届いていると信じて言葉を続けた。

 「真人さんは、私が重荷を背負っていると言いましたね。それは当たっています。 でも、ずっと相談できなかったのは、あなたを信用できなったからじゃない。嫌わ れるのが怖かったからです。・・・。・・・わ、私は人間と淫魔のハーフなんです」
 それから静流は、自分のこと、自分に起きたことをすべて話した。梅雨の合間の 晴れ晴れした日だった。痛みが放つ熱と、背中に浴びる陽光に体が火照り、汗ばむ 額をガラスに押し付ける。

   「自分を偽ってあなたに近づいたのは謝ります。でも、あなたを好きといったのは 本当なの。・・・お願い、信じて、許して・・・」
 やっとの思いでそう言い、口を閉じた。静寂がいつまでも続く。絶望にあらがいな がら待ち続けた。どれほど時間がたったのだろう、容赦ない日差しが背中を焦がし はじめた時、カーテンの開く音がした。

 窓から額をはなすと、焦燥しきった真人がこちらを見ていた。昨日の格好のまま 肩にシーツをかぶっている。静流に当たらないように開き窓を真人が開いた。部屋 は無数の本が散乱していた。
 静流がじっと見上げている。やつれた顔に困ったような笑顔が浮かんだ。
 「・・・だから、三脚は危ないと言っているでしょ?静流さん」
 「あ、ああっ」
 静流が顔をクシャクシャにする。窓枠をよじ登り、真人に抱きついた。

 「真人さん!真人さん!」
 昨日泣き続けて枯れたと思っていた涙が、まだ溢れ出た。信じていた、信じて いた。真人は、きっと許してくれると、きっと受け入れてくれると・・・。喜び で乱れた息が止まらない。その呼吸に泣き声が混ざろうとした時、真人がつぶや いた。

 「−おお、わが敵よ、我につきて喜ぶなかれ、我ほふれば興あがる−」
 「・・・?・・・あっ」
 ミサで聞いたことのない言葉が、静流の耳に届いた。そして熱い感覚が背中に走っ た。感覚はすぐに鋭利な痛みに変わる。
 真人がシーツの中に隠し持っていたナイフが、静流の背中に深く刺さっていた。血 があふれ、背中をつたい足元の床に流れ落ちた。血の量が多く、痛さに冷たさが交じ る。

 冷たく見下ろす真人を、静流は見詰めていた。悲しそうな瞳をしたが、非難の色は ない。こみ上げる血を口をつぐみ止めていた。痛さでにじみ出る涙を、こぼすまいと 堪えていた。どこか頭のすみで、これは予想できたことだった。覚悟していたことだ った。真人の腕の中で死ねるなら幸せだった。
 だが、真人の言葉が静流の淡い希望を打ち砕いた。

 「ふざけるな化け物。静流さんが淫魔とのハーフだと?誰がそんなたわごとを信じるか!  ・・・何故彼女の顔を真似る?彼女の声を真似る?・・・ああ、私が愚かなばかりに、 邪な事を願ったばかりに、彼女をまきこんでしまった。・・・いったいいつから?彼女を どうした?・・・私の大切な人をどうした?」
 ナイフを握る手に力がこもり、その柄まで押し込もうとしていた。気管にまで溢れた血 にむせた。血を吐きながら静流は泣いた。

 「い、痛いよ・・、・・真人さん、痛いの・・」
 「黙れ彼女の声で泣くなっ!」
 「くうっ、・・・痛い、・・・痛いよお・・」
 真人になら殺されても構わないと思った。けれど、それはあくまで静流としてだった。 あなたに刺されあなたの腕の中で死んだのは自分だと憶えていて欲しかった。あなたが 愛してくれた自分だと・・・。

 「黙れ!よくも彼女を!」
 「・・・・」
 真人の声が、どこか遠くのように聞きづらい。視界が、暗くなった。

 血をあふれ出す口からの息が途絶えかけた瞬間、静流の瞳が金色に輝いた。血まみれの 黒い翼が制服を裂き、ナイフを握る真人の手を弾き飛ばす。鋭い爪が伸びた手が、真人の首 を掴み締め吊るす。生命の危機を感じた淫魔の血が、静流を変身させた。

 「き、貴様あああ!!」
 真人が絶叫してもがいた。だが、淫魔の手は容赦なく締め上げる。
 静流の意思は、微弱ながら意識を失わないでいた。ただ、あまりの痛みから来る激情に のまれて、淫魔の血に従うことしかできないでいた。
 首を千切らんばかりに締められて、真人の動きが弱まる。絶え絶えに息をし、天井を 見詰める瞳が、意志の輝きを失っていた。

 静流の中で眠っていた能力が目を覚ました。触れる肌から真人の意思が静流の中に流れ 込んでくる。

 「・・・!」
 静流は掴んでいた真人を壁に投げ捨てた。意識をなくして床に倒れる真人を呆然と見下 ろす。真人の意思が、体の中で反響している。
 静流をまきこんでしまった罪の意識。復讐を果たせなかった悔い。そして最後に伝わっ たのは彼が意識が途切れる寸前に思い浮かべた映像。梅の収穫の時の静流の満面の 笑顔。

 今すぐ駆け寄りたい静流の意思を、淫魔となった体が拒んでいた。
どうしていいか分からず立ち尽くしていると、部屋に差し込む陽光が途切れた。窓の外に 黒く大きな翼を羽ばたかせる女性がいた。白亜色の長髪をなびかせ、水牛に似た鋭い角が頭 部から伸びている。静流と同じ赤と黒のプロテクトが、豊満な体を包み込んでいた。

 金色の瞳が血のような赤に染まっているのを見て、静流は跳んだ。

 音もなく女性が部屋の中に飛び込んでくる。鋭く伸びた爪がまっすぐに真人に伸びてい た。静流は体をぶつけて、その女性を弾き飛ばした。

 「ぐううっ!!」
 ナイフが刺さったままの背中から血が飛び散る。血の味しかしない唇をかみ締めて、翼 を羽ばたかせる。真人をかばうように、女性の前に着地した。

 「どきなさい」
 「・・・いや」
 瞳の攻撃色に不釣合いな、冷たい口調。

 「どきなさい、静流。私の言うことが聞けないの?」
  静流の母芹亜(せりあ)は、血を分けた肉親にも距離を置いた喋り方をする女性だっ た。

 「どうしてここに?」
 「紗奈があなたの様子がおかしいと朝言っていたの。最近ちゃんと行っていた学校から、 来てないと連絡を受けて嫌な予感がして探したわ。でも、よりによって教会にいるなんて ・・。・・・・。どきなさい。その男は殺さなくてはならない」
 「いやっ!この人は、・・この人はいい人なの!」
 「そんな目にあわされて何故その男をかばうの?仮にその男が善良だとしても、『教会』 に属している限り危険であることに代わりがない」
 「いやよっ!!」
 静流は芹亜を威嚇するように、黒い翼を広げた。金色の瞳を赤くして叫んだ。

 「たとえママでも、この人に手を出したら許さないっ!」

   だが、そこまでだった。膝ががっくと床に落ちた。床にたまる血に足を滑らしたのかと 思ったが、ついた膝も体を支えきれない。あまりにも多くの血を、静流は流しすぎていた。 床一面をおおう自分の血の中に、静流は倒れこんだ。

 「静流!静流!」
 意識が遠のく中で、悲鳴に近い芹亜の声が聞こえた。母親のそんなにあわてた声を聞く のはいつ以来だろうと考えたが、答えの出ないまま意識が闇にのまれた。》


             
 *



 《深い闇の底でまどろむ静流の意識に、誰かが呼びかけている。

 −・・・目覚めろ・・・−
 荘厳な教会の鐘の音のように、低く重く響いてくる声。その波動のままに重い瞼が開い た。

 「起きた?静流」
 人間の姿になった芹亜がのぞきこんでいる。背中にズキっと痛みがはしり、静流は顔を しかめる。いたわるように芹亜がその頬をなでた。

 「ごめんね、完全に治すにはもう少し『古き眠り』を続けるべきなんだけど、隣の人が もうすぐ目覚めるから、その前にあなたに確かめておきたいことがあったの」
 「・・・・?」
 眠りから完全に抜け切れない静流は辺りを見回す。自分が真人の部屋にいることが分か った。どんな術を施したのか、自分の血で染まっていた部屋は血痕一つ残っていない。床 に散らばっていた本も書棚に整理されて置かれている。
 自分の姿が人間に戻っている。自分の足元を見ていた静流は並んで横たわる足に気付い た。目線をあげると隣に真人が眠っていた。穏やかな寝息をたてている。ほっと安堵の息 をこぼす静流に芹亜が言った。

 「静流、選択をして」
 「・・・・?」
 「私はこれから淫魔の力を使い、この人からあなたの記憶を消そうと思っている」
 「記憶を消す?」
 「そう、この人の中にあるあなたの記憶のすべてを。そのためにはあなたの協力 が要るの。単純な事件の記憶なら私一人でも消すことができる。でもあなた達は深く 心でつながってしまったみたいね。暗示で一人の記憶を消しても、もう一人が、強く 思い続けていれば、心が共鳴して効力が落ちてしまう」
 「・・・・」
 「別に、あなたも記憶を消せとは言っていない。ただ胸の奥にしまいこんで欲しい の。そして二度と会っては駄目」
 「あっ、・・・・」
 静流のつらさが分かっていたが、芹亜は言葉を続けた。

 「もしそれが嫌だと言うなら、私は今ここであなた達を殺す」
 「・・・・!」
 「あなたがその人を守りたいように、私は夫や紗奈を守るためだったら、なんだ ってする。たとえあなたを犠牲にしても」
 「・・・ママ、・・・」
 普段愛情というものを表にだすことのない芹亜の言葉に驚く静流。ずっと母は発 情期の衝動を抑えるためだけに父を選び、そして自分達が生まれたのだと思ってい た。
 けど本当は違っていた。母は父を愛していた。そして自分達が生まれたのだ。

 「あなたがつらいのは分かる。でも記憶を残して、あなたのことを理解できた としても、この人はあなたを決して受け入れない。あなたへの思いが強すぎるから ・・・。そして人を殺そうとしたという記憶に、この人は耐え切れない」
 「・・・・」
 無言で静流はうなずいた。真人は自分の罪を許せない人だ。

 「一度、淫魔に変身できたら、人間のままでもその力を行使できる。こんな風に 」
 そう言うと芹亜は、瞳を金色に輝かした。そして頬なぜる手から直接言葉が響い てきた。

 −彼にお別れを。私は目を閉じているから、すんだら手を握って・・−

 芹亜は目を閉じて、頬から手を離した。静流は痛む上半身を起こした。穏やか に眠る真人の顔をじっと見詰める。手を伸ばしその頬をなぜた。そばにいるだけ で心の安らぐ人だった。笑顔が可愛い人だった。とても繊細で、やさしすぎる人 だった。
 そっと顔を寄せて、口付けした。背の傷よりも胸の痛みが耐え切れない。涙ぐ みそうになるのを堪えた。すべてはこの人のためなのだから・・・。

 真人から体を離し、静流は芹亜の手を握った。瞼を開ける芹亜、その瞳は金色 のままだった。共鳴するように静流の瞳も金色に輝く。芹亜は手を握ったまま真 人を挟むように、ベットに座りなおした。

 −・・・目覚めろ・・・−
 心に響く声がすると、真人の瞼が開いた。意思のない虚ろな瞳が天井を見ている。 握った手から伝わる芹亜の意思に従い、儀式を始める。

   真人の記憶を消しながら、静流も胸の奥に真人との思い出をしまっていった。 人を愛する感情と一緒に・・・・。


 人づての噂で、もとの神父が退院し、真人は修行していた他県の教会に戻っ たと聞いた。退院した神父は翌年病気を再発し、手術をしたが助からなかったと いう。残された信者は、隣の区域の教会に行くようになった。


 信者のいなくなった教会は、駅に近い立地条件とその広い土地に目を付けられ て何度となく開発プランがあがった。しかしその度に、黒い翼を持った化け物が 出るという噂が立ち、中止に追いやられた。》


               
 *



 赤いじゅうたんの上、崩れ落ちそうな体を手で支えた静流は、食い入るように 真人を見上げている。

 「どうして記憶が?」
 ソファーの背に腰掛け、真人は得意そうに答えた。

 「うん。あの暗示はすぐに解けたんだよ、でもかかっているふりをしていたんだ」
 「どうして?」
 「そうしなければ、君や、君の母親は私を生かしておいたかい?」
 「・・・・」
 「妹さんに聞いたよ、君達はこういうのを特異体質と言うんだね。でもちょっと 違うんじゃないかな?属性だと私は思うんだ。君の闇の属性に対して、私の光の属 性が反発し術の効力を失わせた。・・・そう言えば遊馬君も、君の暗示が効かなか ったらしいね。うん、いいね。私が探していた条件に符合する」
 「どうして遊馬くんを狙っているの?」
 「・・・・・・。・・・ふふふふふ」
 「・・・?」
 「あ、ごめんごめん。懐かしいなあと思ってね。君はよく聖書のことで熱心に質 問して私を困らせていたね」
 「え?」
 「ああ、あの頃は楽しかったな・・・」
 唇にへばりついたような笑みが消え、遠い目をした。静流の視線を感じたのか、 真人は視線を戻し口を開いた。

 「うん、いいですよ。私の友人は、結果ばかり求めてね。彼を探し出すまでの 苦労なんて、ちっとも興味をしめさないんだ。ひどい話だ。ここまでたどり着け たのは百年以上かけた先人たちの努力があったればこそなのに・・・」
 「百年以上?」
 戸惑い繰り返してしまった言葉に、真人は深くうなずいた。

 「静流さん、君は洪秀全という男の名前を知っているだろう?」
 朱門真人は、意外な人物の名前を口にした。




つづく

 

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