その日はいつも通りの朝だった。
けたたましいわけではないが、一定のリズムで鳴り響く目覚まし時計が目覚めの不安定な機嫌を更に悪くしたり、止まった時計に目をやるともうすぐ九時だったり、そのせいで寝癖のついたままMTBに乗って学校に行くはめになったり――
半ば強制的に一人暮らしを始めてから既に一週間以上経っているが、段々とこんな暮らしも悪くないのではないかと思い始めていた。
(後二週間と少しもすれば、そんな暮らしも元通りになってしまうんだけど……)
固形栄養補給タイプの朝食を囓りながら、いつも通りの赤信号に停止する。学校に着くまでに信号機は四つ。例え全て赤信号だったとしても、ぎりぎり間に合う時間のはず。そういう風に、この一週間を過ごしてきたのだ。
車線上の信号機が青から黄色、そして赤に変わった。つまりもうすぐ歩道用の信号機は青になるはず。自然と自転車のペダルを踏む足に力が入る。
「ごめん結城、急いで!」
突然真後ろから自分の名前を呼ぶ声がして振り返ると、とても女の子とは思えない速度で駆けてくるのぞみの姿があった。
正面を向くと信号機は既に青になっていた。急いで、と言われて急がない道理はない。言われないでもこっちは遅刻寸前なのだ。
(まてよ。俺は遅刻寸前、ということは今後ろで駆けてくるのぞみも……か)
とりあえず言われた通りに自転車のペダルを踏み始めると、不意にペダルが重くなるのを感じた。
振り返らずとも事態は理解している。肩に乗せられた手、この重量感のある自転車、そして先程の「ハッ!」という朝の登校風景に似つかわしくない掛け声。
「飛び乗る事ないだろう? 少しぐらいなら待ってやるのに」
「つべこべ言わないでアンタは急いで学校に向かって。あーもう、寝坊して遅刻寸前だなんて……部長になんていわれるか」
とりあえず乗車拒否権はないらしい。それにのぞみの言うように、つべこべいってると本当に遅刻しかねないのだ。
そこから先の信号は運がよかったのか、全て青で素通りできたのだが、後ろからの怒声と八つ当たりによる暴力により、遅刻寸前だったのは言うまでもない。
そんな、取り分け目立った事のない、いつも通りの朝。
「よぉー。朝から仲がよろしいことで?」
教室に入ると同時にチャイムが鳴り響く。急いで席につくと、自席の後ろから気怠そうな声が聞こえてきた。
恐らく朝の二人乗りの事を言っているのだろうが、何故こいつが知っているのか悩むだけ無駄なのだろう。
「お前に代わってほしかったよ」
一夜が飲んでいた野菜ジュースを奪い、一口飲む。冷たい飲料水が寝ぼけた身体を活性化させる。
「いつもならこの役目は一夜のはずなんだけどな」
教室に着く頃には理不尽な暴力に屈したせいで満身創痍だったのだ。気の毒に思っているのか、一夜も野菜ジュースを奪われた事に関しては何も言ってこなかった。
「偶には代わって貰わんと、俺の身が保たん」
机に顔を突っ伏したまま苦笑する一夜の姿は、傷だらけの自分より具合が悪く見えるからたちが悪い。
……まあ単に怠いだけなんだろうけど。
「……で、のぞみとはどこまでいったんだ?」
思わず野菜ジュース(紙パック)を握る手に力が入り、ストローの隙間からジュースがこぼれ落ちた。
「死ね。どこまでも行ってないって」
あくまでも爽やかに。こいつはESP保持者だからな、保健室での事がバレたら何を集られるかわからない。
登校時はそれ程意識せずに(というか単に寝ぼけてたのでそんなこと忘れてたんですが……)行けたけど、今逢えば絶対意識してしまう。
幸い、のぞみは執行部の用事で授業開始前のホームルームは出席しない。出来れば今日一日会話することなく過ごしたいのだが……
「ニヤニヤしながら死ねと言われてもねぇ、何があったのやら」
反論しようとしたところで、担任がやってくる。全くタイミングが悪い。また後でな、と一声かけようとすると、既に一夜は寝る体勢に入っていた。
「はぁ」
はっきりと深く、溜息を吐く。溜息を一つ吐くと、幸運が逃げていくと言ったのは誰だったか。
そうだとしても、吐かずにはいられなかった。それ程までに、意識している自分がいた。
今朝だってそうだ。まさか遅刻寸前の日に限って朝から結城に逢うなんて、保健室での情事から昨日の今日じゃない。
八つ当たりでもしてなければ、まともに会話なんて出来なかった。そう、いつも通りの私を演じていれば、結城だって気にしないでいてくれるはず。
それでも、少しは意識してほしい――なんてのは、虫のいい話だってことぐらい、わかってるけど。
正直、部長に敵うわけがないもの。美人だし、スタイルは良いし、文武両道だし、それに……端から見ても結城の事が好き、っての分かっちゃうから。……私もあんな風に正直に生きられたら良いのに。
ちなみに今は授業中であるが、テスト中でもある。既に解答用紙に記入し終わっており、暇を持て余しているといった所だ。
何問か空欄があるが、今は解答に必死で悩む余力がない。どちらかというと、人並みに気になる色恋沙汰のほうが大事だ。
右手の指でシャープペンシルを回転させる。昔は出来なかったのだが、結城が教えてくれたのだ。出来ても出来なくてもどうでも良いことだけど、彼が教えてくれたということが、大切な気がした。
その結城はというと、自分より前の席に位置しているので後ろ姿がはっきりと見てとれる。なにやら難しい表情をしているが、単純に解答に悩んでいるのだろう。
(はぁ……)
大体成り行きとはいえ、保健室でいきなり行為にまで及ぶのは軽率過ぎたのだ。
(確かに、その、してるとこ見られたのは想定外だったけど……)
共犯などと言って無理矢理に持ち込んだのは自分。もっと他にいい方法があったはずなのだ。
(とにかく! うじうじ悩んでるのは私の性分じゃない。当たって砕けろの気持ちでいくべきよね!)
「……何やっとるか百景」
「え」
教師の声にふと我に返ると、席から立ちあがり、意気込んでいる自分をクラス中が注目していた。
「それで、何を意気込んでたんだ?」
テストが終わった授業後の休憩時間、思わずクラス全員に八つ当たりしたくなる衝動を何とか堪えていると、一夜が机に突っ伏したまま話しかけてくる。
「一夜ぁ、アンタいい加減その怠けた格好やめたら?」
相変わらずの幼馴染みの態度に苛立ちが募る。これは昔から注意はしているものの、全く改善される気配がない。
「……ぁー。悪いが、俺の性分なんでね」
一夜はそう言い放つと、のぞみから発する怒りを感じたのか、そそくさと寝る体勢に入った。
口を開いては100系のぞみだの新幹線だの憎まれ口を叩いて暴力を喰らう、学習のしない哀れな馬鹿。だが、この幼馴染みは悪い奴ではない。
(と思うけど……何せ一夜だからなぁ。いつ掌返すかわかったものじゃない。こうみえてテストの点だけは何故かいいし……)
などと、幼馴染みの事を思い出していけばキリがなかった。
(そういえばあの時も、一夜がいたんだっけ)
中学に上がって二年目の春、私は三年の先輩に恋をした。まだ恋と呼べるかどうか怪しいほどに、憧れ程度の存在だったけれど。
やがてその憧れは、同じ部活、同じ生徒会委員になった事で、恋と呼べるものだと自覚した。
幼くも健気に、好きな食べ物を訊ねてそれを家で作ってみたり、好きな音楽を訊ねて翌日その音楽を借りにいって聴いてみたり……。
そんなごく普通の、好きな男の子がいる普通の女の子だったのだ。
夏休み前の終業式前日、委員の仕事で二人で仕事をしている時があった。二人きりになるのはそれが初めてで、柄にもなく緊張をしたものだ。
しばらくの間、沈黙が続いた。相手はどうだったのか分からないけれど、不思議と息苦しくはなかった。一緒にいられる事で、少しだけ幸せを感じられたのだ。
しかし、話の口火を切ったのは先輩のほうからだった。
「しっかし疲れたな、俺今年受験だっていうのに何でまだ手伝ったりしてるんだろ」
ほとんどの三年の委員は既に二年に権限を渡し、受験勉強に励んでいた。その中で彼だけは偶にフラッときては手伝ってくれるのだ。
「そのおかげで、凄く、助かってます」
「そう言って貰えると嬉しいな、邪魔なだけとか言われたらどうしようかと思ったよ」
その笑顔に、胸が高鳴った。
「邪魔だなんて、そんなこと、全然ないです!」
思わず大声をあげ、しまったと思ったときは既に遅く、再び部屋に沈黙が流れた。
窓の外からやけに大きく聞こえたヒグラシの鳴き声は、やけに印象深く覚えている。
「そ、そっか」
少し間をあけて返事をした後、話すネタが尽きたのか、二人とも自然と作業に戻る。
しばらくして、意を決したかのように、私は告げた。
「あのですね、先輩」
「ん?」
「好きな人、とかって……いたりしますか?」
「いや、いないよ。どうかした?」
その言葉を聞いて安心したと同時に、チャンスはまだある、と自分を奮い立たせる。ここからが正念場だった。
「あ、あの!」
一呼吸置き、相手の顔をはっきりと見て、言葉を紡ぐ。
「――好きになっても、いいですか?」
“好き”という言葉を口にしただけで、全身が燃えるように熱く、先輩の顔を見ていられなかった。
恐らく顔は真っ赤になってる。だけど、ここで顔を逸らすのは自分の流儀に反しているような気がした。
面食らった表情から一転し、いつもの表情で先輩は、言ってくれた。
「――ごめん」
そこからの記憶は、正直あまり覚えていない。
断られる事は想定していたけれど、頭の中で考えるのと、実際に見たり聴いたりするのとは、違う。
ただ覚えているのは、部室から出た廊下に、一夜がいたこと。
何か言っていたのは覚えているけど、内容は記憶にない。立ち聞きしていたことを、咎めるほどの気力はなかった。
それからの学校生活は、先輩が卒業するまでなるべく避けて過ごした。
(実際立ち聞きしたかどうかは聞いたことがないし、別に根に持っているわけじゃないけど……)
根に持っているわけではない、けど。けど、なんだろう。一夜に対する感情は敵意のみ、それでいいはずだ。
そうこうしているうちに、休憩時間終了のチャイムが鳴り響く。少女の考えをよそに、相変わらず目の前の幼馴染みは寝たままだった。
◇
昼休み、午後の授業も終わった放課後。遊馬は保健室の扉の前で悩んでいた。
開けるか否か、という問題ではなく、自分が何故この場所に呼ばれたのかという事。勿論、神無姉妹に、だ。
考えられる事は発情期の問題だとか、雑談だとか、そういう類なのだが、昼休みに屋上で一緒に食事をした時のこと。
「ちょっと、話があるから放課後保健室にきてくれる?」
普段考えられない真面目な表情、どこか寂しげな顔で神無姉妹の姉、神無静流はぼそりと呟いた。
その時は深く考えずに二つ返事でOKをしたのだが、その後もどこか元気がないように感じた。
問い質していいものかどうか悩んでるうちに、無情にも昼休み終了のチャイムは鳴り響いた。この時ばかりは自分の優柔不断な性格を呪った。
(中に静流さんがいるのは間違いない……もしかして、嫌われたりとかしたかな……)
思い当たる節は――ある。先日の保健室での事だ。
何故かいつも家主のいない保健室は、ほとんど神無姉妹の住処のようなものなのだ。不自然に洗われたシーツ、いつもと配置の違う椅子などなど。考えずとも他の生徒が利用したのだろう、と普通は思う。
しかし、保健室に生徒が近づかないようにかなりの頻度で結界を張り巡らせているわけで。
(怪我した生徒はどうするんだろうな……当直医もいつもいないし)
本当にこの学校に保険医はいるのだろうか、と偶に考える。
(そんな事よりも!)
とりあえず、悩んでいても自分のことだ。結論はでないだろうと考え、いさぎよく保健室のドアを開けることにした。
「……失礼しまーす」
保健室に入ると、正面に机がある。
その机に向かって座り、扉に背を向けて椅子に座っている女性がいた。後ろ姿でもわかる、静流さんだ。……しかし、反応はない。
(こ、これは……どうみても怒りモード、だよなあぁ)
姑のいびりに耐えきれず、今にも離婚させてください、とか言い出しそうな嫁の姿が脳裏に浮かんだ。
(ドラマの見過ぎだな……)
今にも振り返って怒られるかもしれないのに、緊張感もなくそんな事を考えてしまう。
「……静流さん? あの……」
そっと近づくと、微かに寝息が音を立てて聞こえてきた。
静流さんの横に周り、近くの椅子に腰を掛ける。連日の執行部の仕事で疲れているのだろうか、一夜とは違い、机に突っ伏すこともなく椅子にもたれかかって静かに寝息を立てていた。
(こうしてみると、ほんと年上には見えないよなぁ……)
その寝顔は、あまりにも可愛く、あまりにも神々しく、とても魔を冠する名を持つ人とは思えない。
(言うなれば……堕天使、かな)
自分をどこまでも堕とさせてしまう、自分だけになびいてくれる、天使。そんな恥ずかしい事さえ平気で思わせてしまう年上の女性。
(うわー……今絶対顔赤い。起こしたらまずい)
変な邪推をした自分が恥ずかしかった。単にこの人は、どこまでも純粋で、努力家で、一生懸命で、ちょっとエッチだけれど、自分を好きと言ってくれる人なのだ。
(ここまで想われているのなら、自分もそれに応えるべきなんだけど)
今の関係はとても心地よい。静流さんがいて、紗奈ちゃんがいて。それは端から見れば二股にみえるだろうし、実際そうなのだけれど。
(ほんと都合がいい考えだけど、もう少しだけ、悩ませてください)
苦笑いを浮かべながら、ベッドから毛布を拝借し、そっと彼女の前に掛ける。
「ん……」
毛布を掛けると、少し身体をよじって反応を示した。
その無防備で愛くるしい寝顔に、これからも惑わされていくのだろうと、思った。
「あ、起きちゃった」
ぼんやりと目を開けると、寝ていたはずの静流さんは紅茶を飲んでいて、掛けた毛布は自分にかかっていた。
情けない事に静流さんの寝顔を見ていて、自分も眠っていたようだ。それも机に突っ伏して。
「遊馬くんの寝顔、可愛かったな…♪」
僅かに笑みを浮かべながら、いつもと変わらない笑顔をみせてくれる。
(ああ、いつもの静流さんだ……)
半ば寝ぼけまなこで元気な彼女を見る。
「おはようございます……帰らなくてよかったんですか?」
「もう、遊馬くんが起きるの待ってたんじゃない」
(ああ、そういえば用事に保健室に呼ばれたんだったっけな……)
数時間前の事を反芻する。既に窓の外は日が沈み、夜のとばりが降りていた。
「すいません、寝ちゃって。それで、どういった用件だったんです?」
「ああ、いいのいいの。また今度頼むことにするから」
「気になりますよ。教えてくださいってば」
「んー。じゃあ遊馬くんの家で、ね……?」
妖艶な笑みを浮かべる。この人に夜の闇はよく似合う。隙をみせれば、襲われてしまうのではないだろうかと思ってしまう程に。
(それはそれで嬉しいんだけど……)
「あー、またエッチな事考えてるでしょ」
「ち、違いますって」
慌てて否定するが、考えている事は筒抜けのようだ。
最近気付いた事だが、静流さんがESP保持者なのではなく、自分は単に思っている事が顔に出やすいのだろう。
……もっと早く気付くべき事なのだが。
(それでも一夜だけは本当にエスパーなんじゃないか、って思うんだけどな)
「残念だけど今回はエッチじゃないのよね、膝枕してもらおうと思って」
――膝枕。
予想外の答えだったのだが、なるほど、と思わざるを得ない。
「最近執行部の仕事が多くて、疲れ気味なのよね……だ・か・ら遊馬くん、癒して♪」
「は、はぁ……それくらいでしたら喜んで」
(多少は労らないと、罰が当たりそうだし)
「じゃあ一端家に帰って、お泊まりセットもって遊馬くんの家に行くね」
「え、泊まるんですか」
念のため言っておくが、今日は平日であって、明日も学校がある。家の距離はさほど違わないので、どちらから登校しようが変わりはないのだが……
「とーぜんでしょ。それとも私が泊まるの、嫌?」
(うっ……)
例えば小動物の泣き顔だとか、例えば獲物を狙う猫の目だとか、そんなものに近い表情。
そして、いつもの事ながら自分はこの顔に勝てないでいる。
「まさか、大歓迎ですよ。ははは……ははは」
「それじゃ帰りましょうか、ナイトよろしくね」
夜の学校は思ったよりも不気味で、静まりかえっていた。
一直線に伸びる廊下、どこまでも続く闇に、所々にみえる非常階段の明かり。
静流さんは保健室に鍵を掛けると、いつも通り腕に抱きついてくる。まだ校内だが、こんな時間まで残っている生徒はいないのでとやかく言わない事にした。
「……なんだかドキドキするね」
ぴったりと遊馬の腕にくっついた胸を更に押し当てる。
確かに心臓は高鳴っているが、恐怖感よりも、腕にくっついて歩くことに未だ慣れない緊張感のほうが大きかった。
夜の学校とはいえ、当直の先生や警備員などがいるはずなのだ。
(見つかったからといってどうなる、ってわけでもないんだけど……)
「とりあえずさっさと出ようか」
その時、後ろからはっきりと足音が聞こえた。
カツン、カツン――
「誰か、いるのかな」
ごくりと唾を飲む音が聞こえる。ナイトの役目を担っているわけだが、夜の学校とは斯くも不気味なものなのだろうか。
「幽霊だったりして」
そんな事を言いながらも、静流さんはどこまでも楽しそうだった。
当の本人はそう思っていないのだが、脅かしているつもりなのだろう。
「幽霊が足音鳴らすわけないでしょ」
(あくまでも冷静に……きっと先生か何かに違いない。何か、何かって何だ。幽霊? なわけないない。……でも懐中電灯とか明かりがみえないし……)
冷静に努めているつもりでも、暗闇の中、疑心暗鬼になるのは人間として当然な事で。
玄関に向かう足を僅かに早めるが、それでも足音ははっきりと聞こえてくる。
むしろ足音は更に近づいているようにも聞こえ、こっちが早足で歩けば相手も早足で近づく、といった感じだった。
「仕方ない、走ろうか」
「え、ちょ、ちょっと……キャッ!」
抱かれた腕を腰にまわし、反対の腕で膝の下を持ち上げる。お姫様抱っこの完成である。
全速力で玄関に向かって走り出すと、何故か相手も走りだす始末。意志のある人間、ということだが。
「もう……遊馬くんってばほんと時々大胆よね」
「茶化さないでくださいよ」
暢気な事を言っているが、遊馬の脳裏には予感めいたものがあった。
神無姉妹は校内でも随一の人気で、当然ファンも多い。とすればストーカーに走る輩もいないとは言い切れない。
(当然狙われているのは静流さん――もしくは殺害される予定の俺。ああ、人生短かったなあ……)
そんな不安をしていると、出口がみえてくる。学園の生徒数を考慮して校内に下駄箱は配備されておらず、つまり運動靴のまま出入り自由というわけだ。
(小学生の頃は校内に土足で入ることがいけない事だったもんなあ……過去の俺がみたら何ていうだろう)
暢気な事を考えつつ、静流さんを抱きかかえたままグラウンドに飛び出す。空から半月、下弦の月がグラウンドを照らしていた。
当たり前だがグラウンドに人影はなく、あるのは家々の暖かい光と、道を照らす街灯のみ。
「ここまでくればもう大丈夫ですね」
……とりあえず広いグラウンドに出れば、何がきても慌てる事無く対処できるはず。
心の中でそう付け加え、警戒を怠らないよう周囲に目を配る。
安全を確認したとして、このまま家にむかうのは流石に人目にはばかられる。遊馬はそっと抱きかかえた膝を地面に下ろした。
「……」
何かしら抗議の声をあげると思ったのだが、顔を伏せ、押し黙ったまま再び腕に抱きついてくる。
「ど、どうかしたんですか?」
「……なんかね、なんか幸せだったの」
ゆっくりと顔をあげると、その月光を浴びた頬は赤く染まっていて、瞳からは涙がこぼれていた。
「前、お姫様抱っこされるのが夢だった、っていったでしょ。それをあっさりとしてくれちゃって……それで抱えて走ってる遊馬くんをみて、幸せだな、って……そう思ったら涙が止まらなくて」
一つ一つの言葉をかみしめるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「嬉しくて泣いちゃったのは、初めてかな」
片手で涙を拭い、嬉しそうにはにかむ姿が愛おしくて、大好きで、離したくなくて。これからもずっと、ずっと一緒にいたいから――そっと身体を抱きしめた。
「俺でよければ、いくらでも夢を叶えさせてあげますよ」
彼女は普通の人からみれば受け入れられない存在。それは淫魔のハーフという人であって人でないもの。
過去にどんな事があったのか自分には分からないけれど、これから二人で過去の痛みを消せるよう努力していきたいと、強く願った。
もう迷うことはない――。
「好きです、静流さん」
精いっぱい、優しい声で、愛を告げる。
その言葉に少し、いやかなり驚いたようだけど、彼女はいつも通りの微笑みを返してくれた。
「遊馬くんってずるいよ。私の初めてばかり、もっていっちゃう」
そう言って抱きしめ返してくれたのが嬉しくて、瞳を閉じた彼女の柔らかな唇に、そっと口づけを交わした。
◇
――見るつもりはなかった、見たくもなかったのに。
執行部部室で仕事をしている途中寝てしまい、気付けば真っ暗闇だった。
慌てて書類をまとめあげ、部室を出るも当然廊下も闇に包まれていた。明かりを点ければいいのだが、どうせ玄関口まで少しの距離だし、と壁づたいに歩いていく。何よりバレたときに小言を言われるのが面倒だったのだが。
一階に降りた時、気配を感じた。人の気配だが、一人ではなく複数――それに聞き覚えのある声。
暗闇に目が慣れたのか、徐々に輪郭はっきりしてくるとそれが誰なのかは一目瞭然だった。
(部長と……結城、か)
今一番遇いたくない組み合わせ。
以前聞いた話では、二人は彼氏彼女の関係ではないと言っていた。それなのに、こんな遅くまで保健室前、いや保健室で何をしていたんだろうか。
脳裏に一瞬よぎったのは結城と自分の事だった。部長と結城がそういう関係にあっても、ありえない話ではない。
(私……やっぱり結城の事、好きなのかな……)
気がつけば、二人の後をこっそりと追っていた。追ったところで何になるというのだろう。最悪尾行がばれた場合どう言い訳するというのだ。しかし、しばらく歩いて、二人とも玄関口に向かっていると気付く。
(そりゃそっか……帰る以外ないもんね)
それなら、もういっそのこと邪魔してやるってのはどう?
――そんな邪な考えが、浮かんでは消えて、やがて弾けた。
(そう、そうよ。一緒に付いて帰ってやればいいんだわ。例え相手が部長だとしても、こっちだって意地ってもんがあるわよ)
つまるところ宣戦布告。二人がいる今がチャンスだと考えればいいのだ。両方に対して宣言できるのだから。
そうと決まれば追いつくことが先決だった。しかしのぞみが徐々に足を速めると、それに伴い何故か二人も足を速めた。
当然といえば当然のことではある。誰だって夜中の学校で、得体の知れない足跡が近づいてきたら逃げるに決まっている。
(……確かに不気味だけどさ、こうもあからさまに逃げられると…追いかけたくなるのが心理ってもんよね……)
段々と闘争心がわき出てくる。こんな熱血漢溢れる性格になったのも、一夜姉の影響が少なからずあったに違いないのだ。
そんな感じで身内に責任を押しつけている合間に、いつのまにか遠くから聞こえる廊下に響き渡る反響が大きくなっていた。目を凝らすと、あろうことか結城は部長を抱えて走り出していた。
(――ッ!! 絶対追いついて、蹴る!)
一気に頭に血が昇り、全身が熱くなるのを感じる。とりあえず一発蹴る。蹴るのに理由なんていらない、私が蹴りたいときに、蹴ればいい。
数日前、一夜にお淑やかさをもてと言われたばかりなのだが、そんな事は無かったかのように、のぞみはなりふり構わず走り出していた。
しかし、人一人を抱えているはずなのにその差は一向に縮まらなかった。
普段鍛えている身体とはいえ、運動で男に勝てる自信はないに等しい。一夜に対して振るっている暴力も、反撃されたら為す術もなく逆転されるだろう。その辺を知ってか知らずか、一夜は本気で反抗をしたことはなかった。
(何より、寝起きで暗闇ってのが、辛い、わね)
漸くのぞみは玄関口に辿りつき、足を止める。少し走っただけなのだが息切れが酷かった。
(最近鈍ってんのかなあ……)
壁に少しもたれかかり、呼吸を整える。二人は追いついた時には足を止めていたし、急いで帰る気配はなさそうだった。
――よし。
気合いを入れ直し、グラウンドに目をやる。
最初に夜空に浮かぶ綺麗な半月が目に入り、視線を落とすと、二人のシルエットが確認できた。しかし――
――こんな光景を見るつもりはなかった、見たくもなかったのに。
(……宣戦布告をすると、決意したのに)
その決意は一瞬で脆くも崩れ去り、身体を支える足の力が崩れ落ち、地面にへたりこむ。
(頭の中で考えるのと、実際に見たり聴いたりするのとは、違う――かぁ……)
部長からの一方的な愛だと思っていた、そう思っていたかった。二人のキスを見るまでは。
願望は現実の前に斯くも無力で、儚い。そしてそれを実現する勇気はもう、無い。
(もういい、もういいや……こんなに辛いなら、恋なんてもうしなくたっていい……)
いつのまにか泣いていた。膝を抱え、制服が涙で濡れていた。
自分がこんなにも脆くなったのは、いつからだったのだろう。中学のとき、あの時から既に脆くなっていたのだろうか。
空元気を振りかざしているいつもの自分は虚像にすぎず、本当の私はこんなにも臆病で、弱虫だ。
(明日からもまたいつも通りの日々が続く……見せかけだけの私を続けていれば、きっと友達でいられる)
それでいい、それで幸せなのだ。無理してまで物語のヒロインになることはない、私は小さな幸せで、いい。
「なーにやってんだ、似合わねえ」
涙でくしゃくしゃの顔をあげると、そこには私服姿の一夜が立っていた。
「え、なんで……」
「何でって……お前の親が帰ってこねーっつーからよ、探しにきたんじゃねえか」
探しにきた? あの面倒くさがりの一夜が?
泣き顔を拭くのも忘れ、考えにふけっていると、いつのまにか一夜は隣に座り込んでいた。
「ほれ、ハンカチ」
ポケットから似合わない花柄のハンカチが取り出される。
「ありがと……」
「で、遊馬には告白できたのか?」
思わずハンカチで顔を拭く手が止まる。
「な、な、なんで――」
「何でって、それしかねえだろ。まさかバレてないとでも思ったのか?」
偶に一夜の勘の鋭さが憎くなる。当の本人はへらへら笑っているけど、殴らないと分からないのだろうか。
「……してないわよ」
「はあ?」
「告白してないんだってば!」
真っ暗闇の校内に、響き渡る声。もしかしたら、結城たちに聞こえてしまったかもしれない。
「……はぁーらしくねぇー。だりぃ」
「らしくないって……それよりあんたどこから入ってきたの? まさかグラウンド?」
「そこ以外どこから入ってくるってんだよ」
慌ててグラウンドを確認すると、既に人影は見あたらなかった。最悪の事態だけは、免れた。
(二人のキスをみて愕然として泣いてた、なんて知れたら絶対ばかにされるし……)
「ま、帰ろうや」
先に立ち上がった一夜は、何故か手を差し伸べていた。
「……そんなことしてもらわなくたって、立てるわよ」
手を払いのけ、膝を手で支えながら立ち上がる。正直少しでも揺れればすぐにでも倒れそうだった。
「お前ねぇ、もう少し素直に生きたらどうよ」
払いのけられた手を見つめながら、ブツブツと呟く。……一夜は一夜なりに心配してくれているのだろうか。
「はぁ、もう分かったわよ、ほら、手だしなさいよ」
憮然とした顔の一夜の手を無理矢理引っ張り、自分の手と繋ぎあわせる。とても、暖かい手をしていた。
「うあ。冷てえ」
驚きはしたものの、特に嫌がる事もなく握り返してくる。
ずっと廊下にいたからだろうか。五月とはいえ夜の外気はまだそれ程暖かくはない。長時間座っていれば、尚のこと冷えてしまうだろう。
学園からでて、道中一言も喋らずに家路に就く。言葉を交わさずとも、一夜は握った手を無理に解こうとはしなかった。
一夜の家の隣にのぞみの家はある。家が見えてきた辺りから、自然と二人を繋いだ手は離れていった。
「送ってくれてありがと。それじゃ」
「ああ――のぞみ」
「ん?」
玄関に入ろうとすると、一夜は真剣な目でのぞみを見つめていた。
「明日も、学校来いよ」
「わかってる、ちゃんといくわよ。一夜じゃあるまいし」
「違いない」
最後に笑い合って、そして別れた。
◇
翌日、寝起きは最悪だった。身体に異常はないが、心が酷く沈んでいるように感じる。いつもと調子が違うということは、それだけで異常なのだが。
学校を休むか――そう考えてるときに、昨日の一夜の言葉が思い浮かぶ。
(わかってる、わかってるんだけど……なぁ)
溜息一つ。何を考えるわけでもなく、特に飾り気のない自室を見上げて、更に溜息を吐く。
「よし」
両手で頬を叩き、気合いを入れ直す。いつもの私は、こんな顔じゃない。結城に余計な心配をされるのは御免だから。
「今日も私は、元気だよね」
誰が分かるわけでもない問いを自分に言い聞かせ、のぞみはベッドから降りて自室を後にした。
今日は遅刻をしないようにといつもの時間より少し早めに家をでると、玄関先の門に一夜が眠そうにもたれかかっていた。
「よ、おは」
「何であんたがいるのよ」
「仕方ねーだろ。お前んちのおばさんに頼まれたんだから」
不満たらたらにのぞみの後ろを見てぼやく一夜。振り返ると母親が不敵な笑みを浮かべて突っ立っていた。
何故かのぞみの両親に限って一夜の評判は良く、頻繁に頼み事をしたりするのだ。
「一夜くん、のぞみの事お願いね。昨日帰ってから元気がないみたいなの、お母さん心配で」
母親の微笑は部長の笑みに良く似ており、そして部長に負けず劣らず妙な魅力を持っていた。かといって魅了されてしまう人はさすがに見たことはない。
「任せてくださいよ、引っ張ってでも連れていきますんで――ほらいくぞ」
「ちょ、ちょっと!襟引っ張らないでってば!」
「じゃあ歩け。とっとと歩け。さあ歩け」
漸く襟を掴んだ手を離す。離した瞬間バランスを崩しそうになるが、一夜はのぞみの腰を手で支え、体勢を整えさせる。
「あ、ありがと……って違う! アンタが引っ張るのが悪いんじゃない!」
「しっかり朝食とらねーからふらつくんだよ。野菜ジュース飲め野菜ジュース」
「ふふっ、仲良くね」
そう言って笑いながら小さく手を振り見送る。さすがに両者とも親族の前で言い争うのは風が悪く、無言のまま歩き始めた。
愛娘と従弟の事になると、どこまでも朗らかな母親だった。
「あー……怠い…あー…」
「何度も主張しなくても、怠いのはわかってるって」
二人で登校した後、のぞみはそそくさと執行部へと向かった。
やけに早く着きすぎたものだから、一夜はそのまま教室の机にへばりついて寝るに至ったのだが、教室の喧噪が邪魔をしていた。
普段なら特に気にすることもなく寝るのだが、眠気のない健康的な身体はそれを許さなかった。
「遊馬、ちょっと肩叩いてくれ」
「こうか?」
遊馬は言われた通り素直に一夜の後ろに回って肩を叩き始める。机にへばりついているので当然振動はかなりのものだった。
「あっ、あっ、あっ、あぁー……」
「変な声だすなよ」
更に力を込めて肩を叩く。もはや端から見れば殴っているようにしか見えない。
「あ゛ぁ、あ゛っ、ずどっ、ぶ」
「一体なんなんだお前は」
「いやね、肩でも叩かれたら少しは疲れてるようにみえるかなーって」
遊馬は一夜の肩を目指してトドメの一撃を躊躇なくたたき込んだ。
「がはっ!」
思い切り打ち込んだおかげで、狙いは外れて背中に命中する。一夜は息が出来ないらしく、喉から空気の音が洩れていた。
「お、お前ね……少しは優しく」
「してほしかったら態度で示せ」
遊馬が言っているのは金品をよこせだとか、課題を写させろとかそういったものではなく、その怠そうな姿勢の事である。
一夜も何となく察したのか、諦めたように再び机と頬を密着させる。
「無茶な」
「無茶なのか」
遊馬も言ったところで改めるとは思っていなかったようで、諦めたように自席へと戻る。
「あー遊馬」
「ん」
ふいに後ろから名前を呼ばれて振り返るが、その声もとは頬を机と融合させたまま似合わない眼差しをしていた。
一夜とは中学の頃から常に一緒だったのだが、未だかつてこんな顔をした一夜を遊馬はみたことがなかった。
そしてそのままいつもの恰好で、一夜は告げた。
「お前、のぞみの事どう思ってる?」
流石に体勢がきつかったのか、机から頬を剥がし椅子に座り直す。
心の奥底まで見透かすようなその眼差しは、どこか冷たく、居心地を悪くさせた。
「どうって……」
あまりにも唐突な質問に思わず返答に窮していると、一夜はわかりやすく簡潔にもう一度告げた。
「異性として好きか、嫌いか」
(好きか、嫌いか、like or hate、好き、嫌い、好き、嫌い)
朝っぱらからハードな質問だった。遊馬の脳に、先日の保健室での事が思い出される。一夜の事だ、もしかしたらバレているのかもしれない。
そういう考えが頭によぎっていると、煮え切らない遊馬に一夜は更に問いつめる。
「好きといえば神無姉妹に誤解されるし、嫌いといえば俺に対して不快な思いをさせるかもしれない……ってとこか?」
「えっと……」
こいつがここまで俺の事がわかるのは、何もESP保持者だからというわけではないのだろう。長年の付き合いもあれば、お互いが親友と呼び合う者の考えぐらい、読めて当然なのかもしれない。
それほどまでに的確に俺の心を代弁してくれていた。
「分かってるってぇ、お前が神無姉妹に入れ込んでるのは。でもな、のぞみの事も考えてやれよ」
教室に始業開始のチャイムが鳴り響く。この時ばかりはチャイムに救われたと言っていい。それ程までに、混乱していた。
「ま、放課後まで考えてみてくれよ」
結局一夜の問いの意図を把握できないまま、放課後を待つ運びとなった。
(何が言いたいんだよ……)
ホームルーム中に、執行部の仕事をこなしてきたのぞみが教室に入ってくる。
既に日常化していることなので、誰も気に止めたりはしないのだが、ただひとり遊馬だけは気になっていた。
(異性として、好きか、嫌いか……ってそんなの好きに決まってる。好きだけど、恋愛感情とかそういうんじゃなく、友達として……ってのも都合良すぎるよなあ……)
フラッシュバックで甦る記憶。のぞみの初めてを奪った事に関しては、既に友達という枠を越えているだろう。友達以上恋人未満、まさにこの言葉が相応しいのだが、あれ以来のぞみから話しかけてきたことはなかった。
気にしてないはずがない、気にしてるからこそ、お互いが避けているのだろう。
着席し、授業の準備を整えるのぞみの姿をみて物思いにふける。クラスの女子が着る制服とは違う、執行部だけの制服。それは静流さんと同じデザインの、白と黒を基調とした威厳が感じられる制服。
(昨日、静流さんに告白したばかりなんだよな……)
昨日の光景を思い浮かべながら唇に触れる。月の下で憧れの人とキスを交わした果報者な唇は、昨日の熱が冷めやらないかのように熱く、柔らかい唇だった。
今はっきりとしている事、静流さんを愛してる、それだけは確かだと感じた。
(それを、一夜に伝えよう)
気持ちが固まる。
この気持ちを見失わないようにすること。それが今は大切に思えた。
(そうと決まれば、寝よう)
起きていれば色々と考えてしまうだろう。考えすぎると、人間は臆病になる生き物なのだ。当然、授業に集中するという選択肢はない。
うつらうつらとまどろむ遊馬に、教師の単調なリズムの授業は眠気を促すだけだった。
昼休み。一限から深く眠りについていた遊馬に、一人の影が忍び寄っていた。
ルビーのように紅い瞳を持ち、猫のように愛敬のある顔で、且つ凛とした立ち振る舞い。
見る者全てを魅了していくような独特の空気を振る舞う、執行部部長――神無静流その人だった。
眠っている遊馬を発見し、以前からやってみたかった事を実行するため教室に侵入したのはいいものの、騒ぎ立てる生徒の多さに静流はうんざりしていた。
(遊馬くんを昼ご飯に誘いに来ただけなんだけどなぁ……)
「静流さん! 昼ご飯一緒にしませんか!?」
「お、俺も! よかったら奢りますよ!」
「ちょ、てめーら抜け駆けはよせ! みんなでだろ!」
一瞬でクラスの男子は静流を包囲するように円陣を組む。『一緒にしないと逃がさない』という雰囲気が取って感じられた。
(はぁ……)
深く溜息を吐く。呼吸を整え、周囲を威嚇するように鋭い目つきで強く睨む。
「あのね、私遊馬くんに用事があるの。通して貰えるかな?」
鋭い眼光が円陣を崩すのにそう時間はかからず、名も無き生徒たちは瞬時に道を空けた。
「ありがと」
「ちくしょう、何で遊馬ばかり……」
「泣くな同志。学食で飯食って元気だそうゼッ!」
後ろのほうで熱い友情がまた一つ生まれた事に気分を良くする。
「あ・す・ま・くん」
名前を呼んだ後、トドメとして耳元に息を吹きかける。だが、少し身動ぎしただけで起きる気配はなかった。
(せっかくのとっておきだったのに……)
興を削がれた静流は仕方なく、正攻法で起こしにかかる。
「ねー起きて、起きてよー」
強引に遊馬の身体を揺さぶり起こすと、遊馬は目を虚ろにしながら両手を静流の腰に回す。
「きゃっ!?」
「好きですよー、静流さん……」
クラス中が、静まり返った。
思わぬ反応にどう対処していいかわからず、しばらく呆然と抱かれたまま静流は硬直していた。
数秒時が止まったかのようにクラス中は動きを止めていたが、数名の女子は手で顔を覆いながらも指の隙間から見ていたりする。
「あ、あれ……夢じゃない」
確かな感触、心地よい匂い、突き刺すような視線。
その視線を感じ、遊馬が我に返るとクラス中の男子は血の涙を流していた。
自分のしている行為に疑問を抱き、慌てて手を離すが、既に遊馬の腰にも静流の手がまわっていた。
「遊馬くん……」
濡れた瞳と唇。寝起きにその誘惑はあまりにも辛く、いっそ吸い込まれてしまいたい。
思考が誘惑を受け入れ始め、徐々に顔が近づいていく二人を遠巻きに、あまりの静けさに目を覚ました一夜は思わず口にした。
「んー。……いかん、布団を敷かねば」
「一足飛びにそうは行くか!」
遊馬はあらん限りの力を振り絞って誘惑を振り切り、静流から距離を取る。
「あーもう、何よ……誘ってきたのは遊馬くんなのになぁ」
「す、すいませんすいませんすいません。寝ぼけてたとはいえほんとごめんなさい」
必死に平謝りをし許しを請う。今この場にのぞみがいたら、と思うとゾッとする。幸いにも既に学食かどこかへ行ったようだ。静流の拗ねた顔も、やがて柔和に戻ると持ってきたお弁当を遊馬の前に差し出す。
「いいわよそんなに謝らなくても。それより屋上でお昼にしない? 今日は作ってきたんだぁ」
「え、ほんとですか。いいですね、いきましょういきましょう」
何事もなかったかのように二人は教室を出ていき、残された者に与えられたのは満腹感と虚しさだった。
「俺もう学校やめたい……」
「泣くな同志。あんなのは例外なんだよ、俺等は真っ当に生きていこうゼッ!」
名も無き男子同士の友情が再び芽生えた頃、教室はいつもの賑やかさに戻っていた。
その中でただ一人、一夜だけは沈黙を保ったままだった。
午後の授業も一通り終わり、帰りのホームルームで一夜がこっそりと呟いた。
「この後、みんながいなくなるまで教室で待っててくれ」
「あ、うん」
つまり朝問われていた質問の答えをここで聞く、というわけだ。
一夜に対して後ろめたい気持ちなどはないのだが、もし保健室での事が知れているのなら弁明のしようがない。
(責任とれ、っていわれたらどうしよう……)
一夜とのぞみは従姉弟同士だ。一夜が心配になる気持ちも分かる、怒りの余り殴られるかもしれない。
(それでも、甘んじて受け入れるしかないよな……)
等と考えているうちにホームルームは終わり、クラスメイトは散り散りに教室を出ていく。
「あれ、遊馬くん帰らないの?」
一人の女子が教室を出ようとしたところで、思い出したように遊馬に訊ねる。
「ああ、うん。ちょっと用事があってね」
「ふーん……じゃ、戸締まりよろしくね」
特に興味もなさそうに、そのまま小さく手を振って教室を出ていく。
「で、答えは出たのか?」
教室に二人きりになったところで一夜は席を立ち、遊馬の隣の空いている席に座る。
(いつもなら自分の机から声かけてくるんだけどな……いよいよシリアスモードなのか?)
様子の違う一夜をみて一つ深呼吸し、はっきりと告げる。
「俺はやっぱり、静流さんの事が好きだ」
二人だけだと教室はやけに広く感じる。その室内では、響き渡る程自分の声がよく通った。
「そーか……」
はっきりと分かるほどに、深い溜息を吐く。しばらく項垂れて、やがて顔をあげこっちを真っ直ぐ見据えた。
「まあ、昼間のアレみてたら相思相愛なのはわかるけどよ」
「あ、あれは……事故みたいなもんだって」
「照れんな照れんな」
伊達キセルを上下させながら器用に持っていた野菜ジュースをすする。やがて空気を吸い込む音が聞こえ、その中身が無くなるのがわかった。
中身が無くなったのを確認し、半分に握りつぶして近くのゴミ箱に放り込む。
「じゃあ…ま、お幸せにってことで」
俺は帰るわ、と鞄を持ち、片手をあげる。
「おいまてよ。俺の質問がまだ終わってない」
「あん?」
遊馬のほうを振り返る。
「お前は、どうなんだ?」
「どうって?」
一夜はとぼけたように聞き返す。
「だから、のぞみが好きなのか嫌いなのか」
前から気になっていた事ではあった。従姉弟同士とはいえ、そういう感情があっても何ら不思議ではない。
遊馬の言葉は予想の範疇だったのか特に慌てる節もなく、鞄を机の上に置き、近場にあった椅子に腰を掛ける。しばらくして、呟くように語り出した。
「あー……そうね。話しておくべきかもね」
「簡潔に言うと中学の頃な、俺一度のぞみに告った事あんのよ」
「嘘ッ!?」
「ほんと」
同じ中学を三年間過ごしてきたが、一夜がそんな素振りを見せた事は一度もなかった。
「そんでフラれた、というよりは無視されたっていったほうがいいな」
「そこまで嫌われてたっけなお前」
記憶を遡っても、今と変わらない一夜とのぞみの暴力漫才しか思い出せない。暴力といっても、一見二人を知らない人が見ればただの暴力にしか見えないが、知っている者のほとんどは二人が従姉弟だということも知っていて、ただじゃれ合っているだけのように見えたはずだ。
「いんや」
一夜は睫毛をふせた。
「……嫌われてはいるだろうけど、まぁタイミングも悪かったし」
「タイミング?」
「そ。のぞみが好きだった先輩にフラれた直後に」
思い出した。確か中学二年の夏に盛大に玉砕して、数日間塞ぎっぱなしだった。玉砕した翌々日から夏休みだったので一部の人しか知らないのだが。
「あーあーあー、あのときね。あの時ののぞみは死人かと思うような顔してたよな」
「だからかな、放っておけなくてな」
一夜にそんな一面があったのかと、今更になって気付く。『地獄の沙汰も金次第』を背負って生きているようなヤツだと思っていたのだが。
「そんで、今のぞみは中学の頃と同じ状況にあるわけよ」
「なぬ。誰かにフラれたのか?」
聞き捨てならない言葉を聞いた。
(今ののぞみが? 今日はいつもと変わらない気がしたのだけど……)
しかし、何故か一夜は首を横に振った。
「お前だよお前」
「あー俺ね……俺? 俺なの?」
「そ、お前」
「確かに、お前に静流さんが好きって言ったばかりだけどさ」
「うんにゃ。ちょっと言いにくいことなんだが――」
少し呼吸を置いて、一夜は苦しげに言った。
「昨日な、夜になってものぞみが帰ってこないから校舎に行ってみたわけ。そしたらなんと廊下で泣き崩れてるじゃありませんか」
「げ。夜? 校舎で?」
これは遊馬にとって予想外の事実だった。昨晩から悩んでいた疑問が、まるで足りなかったパズルのピースが見つかったかのように、氷解していく。
「あれ? あれ? 何か心当たりでもあるんですか遊馬さん」
「いや、ちょっと、ね」
――足音の正体が、のぞみかもしれないという事。
抱きかかえた姿や、口づけを見られたかもしれないという事。
「つまり、遊馬も何故か夜の校舎にいた。それも静流さんと。それでナニかをしてるとこを見て、のぞみは泣いてた。こういうことだな?」
(何で静流さんと一緒だったことまでバレてんだろ……)
静流さんの事を除くと、一夜の意見は的を得ていた。
「ってやっぱり原因は俺なの?」
「お前以外の理由であいつが泣くの見たことねーんだよ」
「む……それでお前は俺にのぞみの事どう思ってるか聞いたわけか」
一夜は満足げにうなずいた。
「そゆこと」
「つーかそこまでのぞみの事心配なら、一夜が付き合って支えればいいじゃん?」
遊馬は笑顔で言った。まさにそれは遊馬が求める簡単かつ明快な答えだった。
「あの暴走特急をかぁ?」
一夜が薄目で新幹線の音を真似る。
「今でも――好きなんだろ?」
戯けてる一夜に、遊馬は凛とした視線を向ける。
「んー……そうね。そうかも」
「お前も物好きだな」
あくまで本気ではなく、冗談めかしに。一夜もそれを分かっていると言うかわりに、笑った。
「ははは、かもな」
教室に沈黙が流れる。だがそれは居心地の悪い沈黙ではなく、安心のできる静寂。
窓からは部活動に励む運動部の姿が見て取れた。空は徐々に夕陽に染まっている。
「もう一度告白してみる気は?」
思い切って遊馬は言ってみた。成功すれば、これ以上に喜ばしいことはないのだから。
「あー……二回も告るのはかなりキツくね?」
「まあ、失敗したら蒸発するしかないよな」
同じ相手に二回敗れるということは、完全なる敗北である――とは誰が言った言葉だったか。最も、一回目は相手の不戦敗だったのわけだが。
「はぁ。結局俺がやるしかねーのか」
「草葉の陰から応援してるぜ、親友」
励ますように、背中を軽く叩く。既にのぞみの事を想う一夜の姿は無く、いつもの一夜に戻っていた。
「はぁ、怠い」
とりあえず帰ろうか、ということになり、二人とも帰路に就く。その日は一夜の意外な一面を垣間見られた気がして、また一つ友情が深まった気がした。
翌日、空は快晴だった。
「天は俺等に味方してるよな」
「あー……ん、そうね」
生徒たちの憩いの時間、昼休み。クラスの各々は昼食をとったり、雑談に花を咲かせたり、中には提出し忘れの課題をやっているやつもいる。
そんな中で、遊馬と一夜は隅っこの席で放課後の作戦を練っていた。
「なんだよ、もっと元気だせって」
「も、帰る」
一夜はいきなり鞄を持って席を立とうとする。作戦の当事者は端からやる気が感じられなかった。遊馬はそれを裾を引っ張り阻止する。
「まだ何もやってないだろ。それよりどこに呼び出す?」
強制的に椅子に座らせ、話を始める。一夜はというと、座った瞬間に机と同化していた。
「任せる」
「相変わらずやる気あるのかねーのかわかんないな」
もっとも、やる気があるのならこんなに苦労はしないのだが、と遊馬。
「ある、それなりに、かも」
「やけに今日は壊れてんな」
一夜の言語の異常っぷりは既に慣れているのだが、今日は正常でいてもらわなくては困る。何せのぞみに愛を告げるのだ。それがこんな調子ではムードのへったくれもなかった。
「これでも緊張してんのよ」
「お前も人の子だったんだな」
と、遊馬。それに一夜が聞こえないように呟く。
「姉だけは人外だけどな」
自分でそういっておきながら、一夜は実の姉の姿を思い出していた。ストレートの黒髪に、胸をはだけた男物のワイシャツ。そして極上の引きこもり。例えるならそう、華を咲かせない一年中萎んだ月下美人。ちなみに触れると毒素がまわる。
「人のこない場所か――屋上とかどう?」
普段開放されていない場所なだけに、そこに入れる権利を有するのは静流さんだけだった。
元々のぞみを呼び出す際に静流さんの助力に頼る手筈だったので、屋上を予め開放してもらうのに難はない。
「そこでおけー」
「じゃあ決まり」
一夜から特に主張もなく、呆気なく場所は決定した。その場所と呼び出す手段を静流さん宛にメールで伝える。その時ふと思いついたように一夜は机から顔をあげた。
「それよりどうやってのぞみ呼ぶのよ。まさか放課後屋上に来てください、って俺がいうのか?」
「それはそれで面白そうだけどな。静流さんに頼んだ」
恐らくそれを実行すれば、のぞみに下手に警戒心を持たれるだろうし、何より『流行最先端の冗句』と罵られるのがオチだろう。
「へ?」
「執行部の用事で、放課後屋上にくるようにとかなんとかそんな感じで伝えてくれ、って。今メール送ったとこ」
「おまー行動はやいのな」
「そりゃもう。一夜のこんな姿二度と見られないだろうからな」
「楽しんでるな」
「楽しんでるさ」
一瞬変な沈黙が流れる。先に動いたのは一夜だった。
「じゃそういうことで」
「いきなり帰ろうとするなよ」
席を立ち、片手を控えめに掲げる。
「だってお腹痛い」
「子どもかっつーの。いつものように寝てれば治るだろ」
一夜の座っていた椅子を引き、座るよう促す。
「虫垂炎かもしれん」
恐らく帰る気はない(多分)、帰る素振りをみせて緊張感を紛らわせたいのだろう。
「今は軽度の炎症なら注射で治るぞ」
弱気な親友を見るのは、非道く新鮮だった。一夜は何かに気付いたように、教室のドアを見つめる。
「あ……きちゃった」
ドア向こうから現れたのは、百景のぞみだった。
「げっ」
思わず驚きと畏怖の混じった声をあげた遊馬をみて、のぞみは一直線にこっちへ向かってきて、遊馬の机を片手で叩き、威嚇する。
「なにが“げっ”なのよ。きたら何かまずい事でもしてたの?」
(ええ、実は一夜があなたに愛の告白をしたいと言い出しまして……)
そういえたらどんなに楽だろう。遊馬は今にも噴き出しそうな言葉を飲み込み、無難に話しかけた。
「い、いや別に。どうしたんだ?」
その言葉にまた頭にきたのか、のぞみは眉間に皺を寄せる。
「アンタ図書委員長から頼まれた仕事、またやってないでしょ。部長キレかけてるわよ」
「あ、ああああああ。ちょ、一夜すまん、いってくる」
脱兎の如く走り去る遊馬に、一夜はただ祈るしかなかった。
「good luck」
言った後に気付く。幸運が欲しいのは自分なのだと。
取り残されたのぞみと一夜は、特に目を合わせることもなく押し黙ったままだった。
やがてのぞみが口を開いた。
「……なによ」
「別に」
目線をあわせようとしないのぞみを見て、これから告白イベントをこなすのかと思うと、不安しか思い浮かばないのだった。
放課後、帰りのホームルームが終わり、先日と同じく教室には二人だけが残っていた。理由は静流からの報せを待つため。報せといっても直接教室に来るわけではなく、遊馬の携帯にメールを送るという単純な合図なのだが。
いつ携帯が鳴るか分からない。そんな緊張感が、一夜の胸の鼓動を更に早まらせていた。
そして、机の上に置いていた遊馬の携帯から、聴き慣れた電子音が聞こえてくる。
「さて、時間だな」
一応メールを確認し、折りたたみ式の携帯を閉じる。ただ四文字、「準備OK」とだけ書かれていた。
「そうですねー…」
「お前大丈夫か?」
一夜からは昼休み終了間際に教室に帰ったときよりも更に悲愴感が増していた。
「ソウですねー…」
「大丈夫そうだな。何か気の効いた台詞とか、考えてたり?」
「ケ・セラ・セラ」
「なるようになる、だっけ?」
過去や現在に憂慮せず、見る目を変えていけば自ずと世界は姿を変える。その変化こそが、今の一夜には重要だった。
「そゆこと。いってくるわ」
覚悟を決め、席を立つ。教室を出ればもう後戻りは出来ないだろう。遊馬は親友の成功を祈るように言った。
「good luck」
「こんな事で幸運を使いたくないな」
戯けた様子は既に感じられなかった。少し笑いながら、遊馬は続けた。
「使っとけよ、二連敗よりはましだろ?」
「それもそうだ」
そういって、一夜は教室を後にした。
屋上へと続く階段。段数は少ないが、一段一段の先に死刑執行が待っている、そんな錯覚を覚えた。
――扉が僅かに開いている。
屋上に出て、もしのぞみがいなかったら自分は落胆するのだろうか、それとも喜ぶのだろうか。そんなことを考えていた。
一段、また一段と踏みしめて上がる。そしてその扉の先には、のぞみがフェンスにもたれて立っていた。
扉が開いた時に発する軋む音に、のぞみは顔をあげながら言った。
「部長、用事って――」
しかしそこにいたのは、背丈からして違う、よく見知った顔だった。
「よ、おは」
「ってなんで一夜がここにくるのよ!」
声を張り上げたのぞみに対し、一夜は冷ややかに返す。
「何でだと思う?」
「そっかそっか、最近殴られてないから血の味が恋しくなったのかな?」
その態度が頭にきたのか、フェンスを離れ、一夜に近づきながら握り拳を作り始めた。
「まあまて落ち着け。その握り拳を納めろ」
「問答無用――と言いたいところだけど、用件を聞いてからでも遅くはないわね」
握っていた拳を伸ばし、片手を腰の横に添える。
「そう、それがいい」
「で、なに?」
「あー、うん。えっとだな」
「早くいいなさいよ」
部長のくる気配が全くなく、のぞみは騙された自分に段々と苛立ちが募っていた。矛先は、目の前にいる人物に向こうとしている。
「落ち着けって。……中学の時の事、覚えてるか?」
「そりゃ、多少はね」
のぞみは思い出す記憶全てに、一夜がいたことに気付く。大抵は殴る蹴るの暴力を加えている思い出だが。
「一つ上の先輩に告白した事も?」
一夜の言葉に少し呼吸を整え、低い声で言った。
「……何が言いたいの?」
「あの時、廊下で立ち聞きしてすまなかった」
一夜は少しだけ頭を下げる。場合によっては制裁を加えるつもりだったが、突然謝りだした一夜に不意を突かれたように目を見開く。
「別に、いいわよ。今更そんなこと……それだけ?」
「その時俺が言った言葉、覚えてるか?」
頭を上げ、改めてのぞみの瞳を見つめて言った。一夜のいつもとは違う雰囲気に、少し気後れしながらも返答する。
「……実はその部分だけ記憶が抜け落ちてるんだけど――あんた何かしたの?」
恐る恐るのぞみは訊ねる。あの時、何も考えられなかった。考える事が、無駄だとさえ感じた。他人を気にする余裕など、のぞみには皆無に等しかったのだ。
一夜は目を閉じ、当時の光景を思い出しながら言った。
「俺は今でも覚えてる。……泣くな、お前は俺が守るから、だから泣かないで――ってな」
「――ッ」
徐々に記憶が溢れてくるように甦る。暑い夕暮れ。ヒグラシの鳴き声。泣きじゃくる一夜の姿――。
「今でも、そう思ってる。お前が哀しんだり、強がったりしてるのをみると、俺が苦しいんだよ。守れてねえな、って」
顔が熱くなっているのを悟られたくない一心で一夜の前に進みでて、声を荒げた。
「べ、別に一夜に守って貰わなくたって――」
その言葉を遮るように、一夜はのぞみを抱きしめていた。
想像していたよりずっと小さく、ずっと細い肢体。十数年生きて、初めて触れた従姉の身体だった。
「俺が守りたいって言ってるんだよ。惚れた女ぐらい、守らせろよ」
少しだけ抱く手に力を込める。のぞみの髪が顔が触れていた。
時間の間隔が曖昧で、それは何秒だったのか何十秒だったのか分からないが、しばらくしてのぞみは口を開いた。
「……そっか」
小さく呟く。暴力ばかり振るっていたその華奢な身体は、今では弱々しく見えた。
「心配かけてばっかりで、ごめんね。……ほんとは気付いてたよ、一夜の優しさに。でも、やっぱり私は――」
伝えたいはずの言葉が見つからなくて、そこで言葉を止める。
「……遊馬の事、諦められないか?」
一夜の言葉に、思わず反射的に叫んでいた。
「そうじゃない! ……そうじゃなくて」
いつもと違った、消え去りそうな程の声。いつかそのままのぞみ自身が消えてしまいそうで、離すのを躊躇った。
しかしのぞみは一夜の胸を押し、お互いの身体を引き離し、俯きながら呟く。
「少しだけ、考えさせてくれる?」
「ああ、待ってる」
一夜が小さく頷く。
「うん、わかった。 ……それじゃ」
一夜の横を通り抜け、扉の向こうへと消えていく。
ただ一人屋上に残された一夜は、その場に座り込んだ。
(慣れない事、するもんじゃないよなぁ……)
僅かに手に残ったのぞみの感触を握りしめ、そのまま目を閉じた。
翌朝、寝覚めは最悪だった。
学校から帰った後、食事もろくに取らずに部屋に篭もり、朝方まで眠れないでいた。
だから目覚ましの鳴らす電子音が酷く憎かったし、放り投げて二度寝したい気分だったのだ。
しかし悩んだ末、決めた事を実行するためには学校へと行かなければならなかった。そんな憂鬱な気分の中、土曜日は午前授業のみ、ということが唯一の救いに感じた。
(出来るなら、今は一夜に逢いたくない……)
一昨日は母親の命令ということで迎えに来ていたが、昨日はこなかった。
身支度を調え、家を出る。周囲を見渡すが、一夜の姿は無かった。
「誰かお探し?」
突然の声に身体を震わせる。声は後ろから聞こえた。のぞみが振り返ると、そこには母親がエプロン姿のまま立っていた。
「ううん、別に誰も。いってきます」
「はい、いってらっしゃい」
のぞみの姿が見えなくなるまで、母親は玄関に立っていた。しばらくして、姿が見えなくなったのを確認してから、下駄箱の上に置いてある電話機の子機を取り、頼まれていた一夜の家へと電話をかけた。
「あ、一夜くん? のぞみ、もういったわよ」
「あ、はい。わかりました。わざわざどうもです」
その一言を交わし、受話器を置く。
親の勘からして、一夜とのぞみが両方とも遭いたくないと思っている事は感じ取れた。
「若いっていいわねぇ」
とうの昔に過ぎ去った青春時代を振り返っていると、母親はパンをトースターに置いたままだったという事態に気付き、慌てて家の中へと戻っていった。
学校につくと、直に執行部部室へ向かう。いつも朝はここで仕事を済ませてから、教室に向かっていた。
部室に辿り着くと、鍵は既に開錠されていて、中へ入ると、予想通り執行部部長、神無静流が中央の椅子に座していた。
「おはよう」
いつみても微笑みを絶やさないその笑顔は、見る者の気持ちを癒してくれる。
「おはようございます」
のぞみも挨拶を済ませ、自分の席に座り、溜まっていた書類に目を通し始める。
数分経った頃だろうか、のぞみは口を開いた。
「あのですね、部長。実は聞きたいことがあるんですけど……」
「改まってどうしたの急に」
一端書類を置き、のぞみのほうに顔を向ける。
「出来れば今じゃなく、午前授業の終わった後の放課後に、聞きたいんです」
少し、長くなりますから、と付け加える。
「そうね、わかったわ。じゃあ場所はここでいい?」
「はい」
約束を取り付けたことで、ひとまず安心し、再び書類整理に取りかかった。
「それで、話って何かな?」
朝と変わらない位置で、静流は待っていた。
約束の放課後、のぞみは再び執行部部室に来ていた。もちろん、静流に聞くためである。
「とりあえず、昨日はわざわざ屋上に呼び出してくれてありがとうございました」
「あら、お礼なんていいのよ」
静流は何の悪びれもなく堂々と答える。
「……それでですね……」
溜飲を下げるつもりだったのだが、逆にしてやられるはめとなった。
そして昨日屋上であったことを、かいつまんで説明する。
「よかったじゃない、おめでと」
本当に喜んでくれているのが少し恥ずかしかった。しかし、項垂れながらのぞみは答えた。
「いえ、まだOKしたわけじゃ」
「え、なんで? 嫌いなの?」
「嫌いっていうか……確かに嫌いでしたけど、実は嫌いじゃなかったっていうか……」
言いたいことはそんなことじゃなく、自分でも何を言っているのか分からないけれど、その気持ちを静流が代弁してくれた。
「つまり、黄泉塚一夜くんが好きなんでしょ?」
「……はい」
「ふぅん……突然の告白にびっくりしちゃって、どうしたらいいかわからないんだ」
「かもしれません……」
静流は両肘を机の上に置き、組んだ両手に顎を乗せる。そして溜息をついた。
「いいなぁ、私もそんな甘い体験してみたい」
「……結城がいるじゃないですか」
睫毛を下げて言うのぞみに対して、静流は言った。
「そうじゃなくて、告白に戸惑ったりしてみたいのよ」
「部長、私のことばかにしてませんか?」
それは誰が聞いても、私は戸惑ったことなどない、と聞こえた。つまり、選ぶ側にいるということだ。
「し、してないってば」
必死に否定する静流をみて、少し溜飲が下がる。
一つ咳払いをして、静流は威勢良く話す。
「私が思うにね、一緒に年をとっていく姿をイメージできる人が運命の人なの」
「結城がそうだと?」
「もちろん。一緒に年をとって、一緒に縁側で紅茶を飲んで、一緒に死んでいくの」
「先の長い話ですけど、そういうのもいいかもしれませんね」
「でしょ? でもその前に子どもは欲しいな。当然二人かな、一人だと可哀想でしょ? 上が女の子で下が男の子――」
まず縁側で紅茶の時点でおかしいと思っていたのだが、段々と捲し立てていく静流を止める術はなく、段々と家族計画発表になってきていた。我慢の限界がきたところで、のぞみは強制的に制止させた。
「あーはいはい。わかりました、部長。妄想を加速させるのはいいですけど話聞いてくれてます?」
「ちゃ、ちゃんと聞いてるわよ。だからこうやってアドバイスしてるんじゃない」
さすがに子どもの人数云々のアドバイスまでは聞きたくなかった。
「はあ」
相談する相手を間違えたのではないだろうか、と思い始めたとき、静流は見透かしたように述べ始める。
「……私には何を悩んでるのかわからないなぁ。好きって気持ちだけじゃ、だめなのかな? それとももっと立派な理由がほしいの?」
「……」
「私には本気で好きになることを恐れてるだけにしか見えないな」
「――ッ」
確かにその通りだった。のぞみは中学の時から、相手を本気で好きになることを諦めていた。
「確かに好きになると色々あるかもしれないわ。些細な事で傷つけあって、他人に嫉妬して、そして不安を抱えて――それでも、好きって気持ちだけは変わらないものよ」
好きになって、失恋した時傷つくのが怖かった。嫉妬している自分が嫌いだった。それでも、好きという気持ちは止められなかった。
「現在や過去に憂慮せず、自分が見る目を変えていけば、自ずと世界は変わっていくものなの。だから――」
一夜がよく言っていた言葉、ケ・セラ・セラ。
何も悩む事はなかった。最初から答えは一つだけだった。単に、誰かに言って欲しかっただけなのだ。
「――だから、一夜くんを信じて、本気で好きになってあげて?」
一夜の事が、好きだっていうことを。
「――はい」
「きっと一夜くんも、それを望んでるから」
頭を深く下げて一礼し、執行部部室を飛び出る。
行き先は、教室だった。
「若いって、いいわね」
椅子にもたれかかり、自分と一つしか違わないはずの下級生を見て、静流は深く溜息をついた。
かといって自分も恋をしていないわけではなかった。何よりも大切な人は、保健室で私の帰りを待っているはずなのだから。
楔が抜けたように、走り出したら止まれなかった。身体だけではなく、気持ちも一緒に。
もし、まだ教室に残っているならこの気持ちを打ち明けよう。残っていなくても、一夜の家まで押しかけよう。
そんな事を考えていると、一階の階段をのぼるところで、人とぶつかった。
「す、すいませ――」
謝る前に、目の前の人を見て、涙が溢れた。
「いてえ……ってのぞみか」
「一夜ぁ!」
「うあ」
倒れた一夜の身体に抱きつく。
「何でここに……」
「一夜に逢いたかったから、教室にいるかなとおもって、走ってた」
のぞみの言葉に、一夜は抱き返す事で応えた。
「俺も、のぞみに逢いたかったよ。遊馬が今いけば逢えるだろ、って」
(結局、二人とも結城と部長にやられた、ってわけか)
だが、それも二人を思っての行動なので、嬉しくないはずがない。
結城と静流に感謝しながら、今はただ、一夜の胸の広さを感じていた。
「この場所、のぞみが夜泣いてた場所だよな」
「え。そ、そうだったっけ」
とぼけた風に返答したが、実際は覚えていた。忘れられるわけがない。
この場所で終わり、この場所からまた始まるのだ。新しい恋が。
「それで、俺まだ返事聞いてないんだけど……」
「あぅ」
急に熱っぽくなってくるのを感じた。まだ、“好き”という言葉を言うには、時間がかかるような気さえしてくる。
それを察したかのように、腕の中にいるのぞみを見つめながら、一夜は言った。
「俺はのぞみが好きだよ。愛してる」
「あ……」
じゃあ今度はのぞみの番、と微笑みながら目線で伝えた。
「私も、一夜が好き。もう、離さないからね」
「おう」
二人、放課後の校舎内で、ようやく訪れた幸せをかみしめていた。