「もう一杯、どう?」
「あ、はい。頂きます」

 甘く芳しい香りを湯気とともに立ち上らせる紅茶。
 さすがリムリアさん、とネーナは心の中でつぶやく。

 程よい熱さのカップに唇を触れさせる。
 舌の上をころがっていく甘さと苦味のハーモニー。

 ふう、と胸の奥から息を吐き出す。
 もやもやした思いの全てが一緒に体から抜け出ていくようだ。

 カップを戻し、顔を上げる。
 そこにあるのは、何の邪気も下心もうかがえないリムリアの笑顔。

「あの、リムリアさん?」
「なあに?」
「どうして、私を招待してくださったんですか?」

 くす、と喉の奥で笑うリムリア。

「リムリアさんには大変ご迷惑をおかけしましたし、今だってまだ……」
「うん。今でもあたし、セイルを許してなんか無いよ」
「でしょう? だったら」
「でもそれはセイルとあたしの問題だし。そうじゃなくて、あたしはただあなたのこと
をもっと知りたいだけ」
「私の、ことですか?」
「うん」

 そう言って空になったティーカップとポットを片付けるリムリア。
 そして立ち上がり、ネーナに背を向けたところで彼女は動きを止めた。

「あたし、ちょっと後悔してる。パッティのみんなとあんまり話できなかったから。こ
のままずっと、皆一緒にいられると思い込んでた。……馬鹿よね。考えてみれば当たり
前なのに。ネーナたちの何倍も一緒にいたシルヴィアやリンスたちとだって、一度別れ
てしまえばまた会えるかどうか分からないのに、あなたたちとはずっと一緒にいられる
つもりでいたんだもの。だから急いで話なんてしなくてもいいと思ってた。この後、幾
らでもそんな時がやってくるんだって思ってた」
「リムリア、さん……」
「ライザが消えちゃった時、気付くべきだったんだ。あの時、あたしたちの一番楽しか
った時は終わっちゃったんだって。ここへ帰ってくる途中、みんなと別れていった時だ
って気付けたはずなんだ。そして、ハンナがあんな風になっちゃった時だって」
「……」
「でもあたしにはそんな余裕が無かった。セイルしか見てなかったから。セイルの隣で
笑ってるシグしか見えなかったから。……ホント、馬鹿。こないだココリコが消えて、
帰ってきたミコの顔見て、やっと気付けたホントの大馬鹿さん。……そうよね、考えて
みれば、一番悲惨な目に遭ってるのはあなたたちなんだから」
「それは……違います」
「いいの、あたしがそう思ってるだけだから。あなたたちがどうしてこんなことしてる
のか、どういうつもりでいるのか、多分あたしには理解できない。理解なんてしたくも
ない。でも、そうじゃなくって、あたしはただ、あなたがどんな娘なのか知りたいだけ
なの」

 きょとんと、ネーナの目が丸くなる。

「私、が?」
「うん。あたし、よく考えてみたらあなたのこと、何も知らない。あなただけじゃなく
パッティのみんなの事、ほとんど知らない。ただ1年ちょっと一緒にいただけ。なのに
みんないなくなって、みんながどれだけあたしの生活の一部になってたかを思い知らさ
れたわ。だから後悔してる。みんなの事知らないまま、もう二度と会えなくなっちゃっ
たから。だからせめて、ネーナの事だけは知っておきたい。全部教えて欲しいなんて言
わない。ただあたしが、ああ、ネーナってこんな娘だったんだって納得したいだけ」
「でも、私はもうすぐ」
「うん。止めないよ。説得する気もない。もう止まらないんだってわかってる。でも、
だからこそ今聞いておきたいの。どんなことでも、どんな些細なことでも、私の中にネ
ーナの居場所を作っておくの。あなたはもうじきこの世から消える。でも、あたしの心
の中にネーナという娘を貼り付けておくの。あなたがどう思うかなんて関係ない。これ
は単に、あたしの自己満足」

 そう振り返ったリムリアの笑顔には、何一つ迷いも陰りもない。
 思わず涙ぐむネーナだった。

「……ありがとう、ございます」
「お礼なんて……礼なんて言わないでよ。これはあたしのわがままなんだから」

 照れて顔を背けるリムリアに、もう一度心の中でネーナはありがとうと言った。

 そう、もうじき私はこの世界を去る。私という存在は、その意味を失う。
 でも、「私がいた」という痕跡は、この世界に残り続けるのだ。

 この人が、そうしてくれるのだ。
 ありがとう、リムリアさん。

 奥のキッチンから新しいポットを携えて戻ってきたリムリアが、微笑みながら新しい
紅茶を煎れてくれる。さっきは芳しい花の香りだったけど、今度は甘い果物の香りがす
る。こみ上げてくる感情を抑え切れないネーナ。この人は本当に、心から私をもてなそ
うとしてくれてるんだと。

 そのまま、しばらく無言のティータイムが過ぎる。
 場が落ち着いたのを確認したように、リムリアが口を開いた。

「ねえ、ネーナ? あなたの家族って、どんな人だったの?」
「……はい。私は、私の父は……」

 リムリアたちがショートラムに戻ってきてもう半年。
 グナガンの復活と、その後の大陸縦断開始から間もなく二年。
 セイルがショートラムを訪れ、リムリアたちと初めて出会ってから四年が過ぎた。

 今、やっと、舞台の幕が降りる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
DALK

〜〜 第二章 〜〜

〜 第四話 〜

卒(ラクビ)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「ねえお兄さん? 魔術師、いらない?」

 数人の客が杯を酌み交わす酒場のカウンターで、ジョッキになみなみと注がれたミル
クを一人でちびちびやっている青年に話しかけてきたのは、長い黒髪を額で二つに分け
て肩まで垂らし、まるで似合わない冒険服と、装飾だけは立派な短刀を身に付けた、見
ようによっては美人と言えなくも無い若い女性だった。

「何でもお兄さん、あの森に入るんだって? だったら一人じゃ無理よ。こう見えても
あたし結構腕のいい魔術師なんだ。どう、雇う気無い?」

 不思議そうな表情で女性を見つめる青年。

「あなたこそどうしてですか? あの森、女性が入れるような所じゃないのはご存知な
んでしょう?」

 初対面の、しかも明らかにすれた風の女性にも丁寧な受け答えをする青年に、うっと
ひるむ姿勢を見せるものの、女性は引き下がらなかった。

「それはあんたも同じでしょ? あの森に入ろうなんて正気の沙汰じゃないわよ。余程
確実なお宝の情報でもあるのか、あるいは余程の大馬鹿じゃなきゃ、ねえ?」
「……人助けを、頼まれまして」
「嘘! じゃあたしと同じじゃん! てことは相当いい金額、前払いされたでしょ?」

 女性はこのこのぉという風ににやけて小突いてきたが、青年は首を横に振る。

「いいえそんな、お金なんて一銭も」
「はあ?」
「これは私の信念に基づく行動ですから。お礼なんて頂けません」
「……あんた、バカあ? 十中八九生きて帰れない無茶な依頼をロハで受けたっての?
信じらんない! 一体どんな人生おくってきたのよ!? あんたの親、大馬鹿なんじゃ
ない?」

 青年はくすっと苦笑いした。

「親は、いません」
「あ……ごめん、変なこと言っちゃって。でもまあ、いいか。だったらやっぱり雇って
よあたし。そんなにくれなくてもいいからさ、お金。タダとは言わないけど」

 人差し指と親指で輪っかを作り、そこから覗きこんで笑う女性。
 その変わらぬ陽気さに、青年の警戒もそこそこ解けたようだった。

「それは構いませんが、それよりあなたこそどうしてですか? どうしてあの森に?」
「だから言ってるじゃない、人助けだって。いくらあたしだって、あの森に一人で入ろ
うなんて思わないわよ。それに今時、あの森に入ろうって人間自体滅多にいないんだも
ん。こんな機会逃せないわよ、でしょ?」
「納得しました。ではもう一つ聞かせてください。貴方は誰を助けに行くんですか?」

 その途端、女性の表情が嘘のように暗くなる。
 少し躊躇した後、彼女はぼそっと言った。

「あたしの、オトコ」

 女性の話はこうだった。あの森の奥に住むという悪の大魔法使い。彼は森に迷い込ん
だ冒険者達を惑わし、自らの僕としてしまうという。先日、森の奥にあるという財宝を
求めて彼女とその男性は二人で森に入ったのだが、大して奥まで入っても行かないうち
に、この地方では出会うはずの無い強力な怪物に襲われ、彼は身を呈して彼女を逃がし
てくれたのだという。ここ、森外れの街道町に命からがら戻ってきた彼女は、有り金を
はたいて救助隊を編成し、怪物に襲われた場所まで行ったのだが、そこには彼の遺体の
痕跡すら残ってはいなかった。しばしばこういう事件に駆り出される地元の人間が言う
には、その男性は恐らく魔法使いに連れ去られたのだろうということだった。

 彼女は改めて救助隊を編成しようとした。しかし森の浅い場所ならともかく、森の最
深部にあるという魔法使いの住む城まで行ってくれるという者は、この近郊には誰一人
存在しなかった。

「あたしたち、もう長いこと一緒だったしね。別に将来どうこうなんて約束してたわけ
じゃないんだけど、でも『相棒』がいなくなるって寂しいじゃない? このままじゃあ
たし、一人でどうしてったらいいのか、わかんなくなっちゃって……」

 思わずこみ上げてくる感情に口を抑え、顔を背ける女性。
 青年は柔らかい笑みを崩さないまま、優しく女性に言った。

「わかりました。一緒に行動しましょう。これからよろしくお願いします」

 ぱっと表情に明るさが戻る。やったー、という喜びの行動を隠しもしない。その素直
さに青年は改めて微笑んだ。

「ではまず自己紹介を。私はアーサー。アーサー=ロレンスと申します。あなたは?」
「あ、ごめーん。先に自己紹介させちゃって。こんな時はあたしの方から言わなきゃい
けないのにね。まあいいか。あたしはエリーゼ、エリーゼ=ローゼンバッハ。名前だけ
は派手だったりして、へへ」

 性格も十分派手みたいですね、という言葉をアーサーが言えなかったのは、単にエリ
ーゼが次の言葉を間髪入れずまくし立てたからに過ぎない。

「ところであんた、アーサー? あんたは誰を助けに行くの?」

 アーサーは全く笑い顔を歪めることなく、あっさり言った。

「『お姫様』を助けに。あの森奥深く、城の牢獄に閉じ込められた『お姫様』を」

 はあ? エリーゼの目が点になった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 眼前に広がる凄惨な光景に、エリーゼは感嘆の声をあげた。

「スゴいねー。この森に入ろうってくらいだから腕に覚えはあるんだろうとは思ってた
けど、ここまでとは思わなかったよ」
「貴方こそ。これまで私が見た中でも間違いなく五本の指に入る冴えでしたよ」

 笑顔で賞賛しあう二人。その明るさと現実の仕事の落差が際立っていた。

 森へ入って一時間ほどで、二人は最初の襲撃に出会う。敵は人獣型のバーバリアンが
十体ほど。単体での強さはさほどでないが、まがりなりにも知性を持つ集団らしく単純
ではあるが理にかなった戦術を駆使して責めてくる。正直、二人組のパーティでは苦戦
必至と思われる危機だった。

 しかしアーサーの動きはエリーゼの想像をはるかに越えていた。

 身にまとう巨大すぎる重甲冑、そして同じく重々しい長剣。傍目には優男のアーサー
の過剰ともいえる重装備に、最初失望を感じていたエリーゼだが、その重さをまるでも
のともしない俊敏で切れのある動きに、最初の補助呪文の詠唱さえ思わず忘れてしまっ
たほどである。アーサーの背後に回ろうとする数匹の足を止めるべく魔法弾を放った時
にはもう、三匹の人獣が真っ二つにされていたのである。

 そしてアーサーもまた、エリーゼの戦闘勘のよさに舌を巻いた。

 魔法の威力そのものは大したこと無いのだが、前衛の動きを的確に読み、効果的な援
護を行うタイミングの良さは絶品と言えた。最初の戦闘の最初の十秒で、二人はまるで
長年の相棒同士のように見事なコンビネーションを発揮していた。

 十体の人獣を屠るのに、一分とかかりはしなかった。
 二人の眼前に横たわる、赤と黒にまみれた死骸の山。
 二人の口から、ため息と共に誇らしげな意気が漏れたのも無理はあるまい。

「しっかしまあ、よくそんなおっきな剣をあんな簡単にぶん回せるもんだね? ねえ、
その剣、ちょっと見せてくれる?」
「はい」

 アーサーからあっさりと鞘に収まったままの長剣を受け取る。
 そのエリーゼの表情に、驚きの色が浮かぶ。

「……軽い、嘘みたいに軽い!」
「でしょ? 私も初めて手にしたときは驚きました。その割に丈夫で切れ味もいいです
しね。私のお気に入りです」

 エリーゼは鞘から20センチほど剣を引き出し、その輝きを見つめる。

「ねえアーサー。この剣、どうやって手に入れたの?」
「以前、といってもかなり前ですが、とある冒険の時にたまたまです」
「……まさか、ねえ。まさかあの伝説の剣がこんなとこにあるはずないしねえ」
「はい? 伝説とは?」
「ううん、いいの。あたしの思い過ごし。……そうね、まあ戦力になることがわかった
んだからそれで十分よね。じゃ、先急ぎましょ。まだまだ先は長いんだし」
「そうですね。では」

 武器の手入れと荷物の整理を終え、二人は改めて森の奥へと入っていく。

 目的の城は、まだ遥か遠く。
 木々の合間から覗く陽の光だけが、二人の道しるべだった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 五回に及ぶ怪物たちの襲撃をことごとく撃退した二人。
 やがて日も傾き、手頃な空き地を見つけて結界を張り、その日の宿所とした。

 たき火を挟んで向かい合わせのアーサーとエリーゼ。
 既に食事を終え、二人とも地面に敷いた毛布の上に横たわっている。

 無言で向かい合わせに炎の揺らめきを見つめ続けるだけの二人。
 弾ける焚き火の音に応えるのは、暗く奥深き森の中を行き交う動物達の鳴き声だけ。

 寝ましょうか、というアーサーの無言の瞳に、二人は夜空を見上げて寝具に包まる。
 そして目を閉じようとしたアーサーの耳に、エリーゼの問い掛けが聞こえてきた。

「ねえアーサー? アンタ、一体誰を助けにいくんだい?」
「……言ったじゃないですか。『お姫様』ですよ。そう頼まれたんです」
「誰に?」
「それは言えません」
「……まあそっちはいっか。でもさ、噂話くらいは聞いてるんだろ? 森の奥の魔法使
いの事について」
「はい、もちろん」
「だったらその依頼、変だって思わないのかい?」
「なぜ?」
「だからぁ! ここの魔法使い、え〜っと、そうそう、『男色家』って奴なんだろ?
だったら女なんかいる筈ないじゃん! そもそもあたしの男が連れ去られたのだって、
どう考えてもそっち系の目的だし」
「ということは、かなりの?」
「……ま、あたしがいうのも何だけど、見栄えはね(苦)。だからそういうことさ。アン
タの受けた依頼って、もしかしてなんかの罠なんじゃないの? それとも……」
「それとも?」
「その依頼以外に、あの城に行く理由でもあるんじゃないかな、って」

 エリーゼの耳に、くすっと笑ったアーサーの吐息が聞こえた気がした。
 しかしアーサーはそのままエリーゼに背を向け、寝具を深く身に巻きつけた。

 エリーゼの顔に浮かぶ小さな怒り。
 炎に映るその瞳が、妖しく濡れていた。

「……ねえ、アーサー? まだ起きてるんだろ?」
「……ええ」
「男と女が一つ場所に寝てて、何もしないってのはないんじゃない?」
「……あなたにはお相手がいるんでしょう? その彼を助けにいく途中なのに?」
「だから、さ。一人寝は寂しいんだ。もう一月以上、相手してもらってないし」
「だったら尚更、その人を助けるために今は休んでおかないと」
「でもぉ……わかるだろ? ね? アタシ、もう……」

 その甘い口調と共に、はらりという衣擦れの音が焚き火の音に混ざる。

「ねえ、アーサー? こっち見てよ」

 仕方なさそうに、横になったまま体を回転させるアーサー。
 その瞳に映ったものに眉一つ動かそうとはしない。
 まるで、最初からそこに何があるかわかっていたかのように。

「ね、アーサー。……抱いて」

 一糸まとわぬ姿で立ち尽くすエリーゼ。
 柔らかく揺れる胸、贅肉の全く無い引き締まったウエストと美しい腰の曲線。
 そのいずれも隠そうとはせず、彼女はアーサーに自分の全てをさらけ出していた。

 焚き火の薄紅を化粧に、幻想的なまでの美しさを見せる女体。
 女性自身から太ももを伝って流れ落ちる液が、妖しい光を発している。

「もう我慢できないの……お願い……」

 ところが。
 アーサーはそのまま、何も言わず再びエリーゼに背を向けた。

「アーサー!?」

 それに対するアーサーの答えに、エリーゼは言葉を失った。

「私は『騎士』です。愛する人のいる女性を抱くことなど出来ません。それに」

 続く言葉を、エリーゼは息を飲んで待ち構えた。

「私がその生涯をかけて守ると誓った人以外、私は女性を抱くことはありません」

 固い言葉だった。
 陳腐な科白が、アーサーの口を通すと神の宣託にさえ聞こえた。

 呆然として、がくっと膝から崩れ落ちるエリーゼ。

 しばらくして、小さな嗚咽が漏れ聞こえてくる。
 自分の寝具に包まり、必死で声を漏らさぬよう泣いているエリーゼ。

 しかしアーサーは、その思いに心一つ乱さぬまま、意識を闇に眠らせた。

 翌朝。同時に目覚めた二人は、無言で朝食を終える。
 同じく、無言のまま後片付けを終え、探索の準備を整え終わった時だった。

「よし! じゃ、今日も頑張ろうか!」

 エリーゼがあっけらかんとした元気な声で叫んだ。
 そして何の曇りも無い表情でアーサーに笑いかけた。

「はい」

 そしてアーサーもまた、何のわだかまりも見せない笑顔で応える。

「さ、さっさとアイツ助けてこんな森からはおさらばだ!」
「そうですね」
「そしてアンタから同行代もらって……あ、そうだ」
「はい?」
「料金、5割増ね」
「……はい?」
「あたしのヌード代追加。いいでしょ、それくらい?」
「……はい」

 そして二人は、楽しそうに笑いながら更なる森の奥へ入っていった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「畜生! 幾つ部屋があるってのよ、この城!?」
「エリーゼさん、後ろ!」
「チイッ!」

 瞬時に詠唱を終え、手のひらに湧き上がった火球を振り向きざま背後に迫った怪物に
叩きつける。

「グアアーッ!」

 顔面にまともに魔法を浴び、思わず両手で顔を覆う怪物に、遅れて突進してきたアー
サーの剣が突き刺さる。一筋の狂いも無く、長剣は怪物の眉間を穿っていた。声も無く
崩れ落ちる怪物。そしてようやく、室内は静寂を取り戻した。

「……これで、終わりだよね」
「はい、この部屋は」

 ふううう、と深く息を吐き、腰に手を当てていらただしげに薄暗い部屋を改めて見直
すエリーゼ。まるで生活の匂いが無い、そのくせ嫌味なほど高価そうな家具が埃一つか
ぶらず整然と配置された室内。実際に使いもしないのに、まるで見せ付けるためだけに
掃除を決して欠かさないであろう、この城の主の薄笑いが目に見えるようだった。

 森の最深部。
 何故こんな所に、そもそも何の目的で築かれたのかさえ不明な巨大な城。
 迷宮のような密林と、数多くの怪物たちに護られた、人の力の及ばぬ地。
 それこそが、かの有名な悪の大魔法使いの棲む場所。

 アーサーとエリーゼの二人がこの城に到達して既に半日が経過していた。

 話に聞いていたほど、ここまでたどり着くのに苦労したわけではない。しかし明らか
にそこには作為が含まれていた。数こそ多いものの遭遇した怪物たちは「ある程度の」
力を持つ冒険者なら十分対処できるレベルの強さでしかなかった。噂に聞くような、一
国の精鋭舞台百人を一瞬で焼き殺したという巨竜や、百戦錬磨の豪傑と呼ぶに相応しい
冒険者を一夜で白髪の老人に変貌させてしまうほどの恐怖を与える悪魔といった輩は最
後まで出現しなかったのである。まるで城の主が、この二人を招待しているかのようで
もあった。

 それを証明するかのように、二人が城の表門の前に立った時。
 巨大な城門は、音一つ発せず、ゆっくりと自ら内側へと開いていったのである。

 その先に広がる、まるで底無しの洞窟のようにも思える、漆黒の闇に満ちた城内。
 しかしアーサーは何一つ躊躇することなく、その中へと一歩を踏み出した。
 その呆気なさに一瞬戸惑ったエリーゼも、ぎゅっと拳を握り締めて後に続いた。

 薄暗く、長い回廊を進む二人。
 次第に闇に目が慣れてくると、周囲の壮麗さにため息をつくばかりだった。

 一体どれほどの資金と技術を投入したか想像もつかない、芸術性と実用性を兼ね備え
た、美しく、それでいて違和感の無い装飾と意匠。踏みしめる絨毯の信じられない程の
柔らかさは足に優しく、壁から天井に続く壁画は、誰もが知っている神話を題材にして
その顛末を色鮮やかに表現している。そして城の中央と思われる巨大な吹き抜けのホー
ルは、まるで天地創造を具現しているかのような力強さと迫力を中央に立ち尽くす二人
に見せ付けていた。

 しばしの間、場違いな芸術鑑賞に浸った二人だったが、ふとアーサーがホールの先に
ある一つの扉に気付いた。と言っても、ここへ続く廊下以外にホールから出る道は存在
せず、先に進むにはその扉をくぐる以外手段が無いであろう事は明らかだった。

 アーサーはエリーゼに視線を向ける。
 彼女は、うんと無言で頷いた。

 二人はまっすぐに扉の前に進み、その取っ手に手を掛けた。

 それから二人は、既に十を超える扉を通り過ぎている。
 その度に二人は怪物との戦闘を強いられていた。

 巨大な城とはいえ、所詮は室内という閉鎖空間。戦い辛さは相当なものだ。
 怪物もほぼ二〜三体という少数なのだが、森で遭遇した輩とは段違いの強さである。
 磨り減らされる体力と精神力。既にエリーゼの残り詠唱数は一桁に落ち込み、さすが
のアーサーも肩で息をし始めている。

「……ねえ、アーサー?」
「はい?」
「あと、どれくらい戦えばいいのかな?」

 エリーゼは答えを期待していたわけではなかった。疲れ果て、そんな愚痴でもこぼさ
なければやってられない心地だったのである。だからアーサーの即答には仰天した。

「多分、あと一回」
「……ええっ!? なんで!?」
「気付きませんでしたか? 各部屋の意匠が四季の移り変わりに応じたものになってい
たことに? 最初は冬の雪景色、三つ目辺りから春の明るさ、七つ目辺りは真夏の暑さ
を、そしてこの部屋は、晩秋の色鮮やかさ。……つまり、一年十二ヵ月を表現したもの
になってます。ここは十一部屋目、つまり十一月です。次は十二月でしょうから、それ
で終わりのはずです」

 ぽか〜んと口を大きく開けて、その明瞭明快な解答に唖然とするエリーゼ。言われて
みれば確かにそうだった。しかしあの死闘の連続の中で、冷静に周囲を観察すると共に
論理的な思考がこなせるとは。今更ながら彼女はアーサーの冒険者としての能力に驚か
された。

「もっとも、その後に真打ちが控えているはずですけど……もちますか?」
「それ聞いてもたせる気になったよ。ありがと、アーサー」

 エリーゼの背筋がしゃんと伸びる。ゴールが見えて意気が増したのだろう。

「よし、じゃあ残り一部屋、頑張るぞーっ!」
「ですから、その後が……」
「大丈夫大丈夫、あたし本番には強いんだから!」

 クスっと笑うアーサー。

「その本番前で、あっさりこけないように気を付けてくださいね」
「おっけ〜。よし、じゃ次いこー!」

 スキップするように次の扉に手を掛けるエリーゼ。
 流石にその瞬間には、おちゃらけた顔が真面目なものに変わる。

「準備は?」
「はい、いつでもどうぞ」
「うん、じゃ」

 がちゃり。扉のノブを押す。
 暗く、冷たい空気が二人を包む。

 なるほど、十二月っぽいわ。エリーゼはそう思いながら、眼前に迫る影に向かって目
くらましの魔法弾を放った。

 三十分後。

 十二回目の戦闘による傷の手当てを終え、呼吸も落ち着いた二人は、お互い何も話さ
ないまま、最後の扉を開いた。

 そこは、これまでとは違い、まっすぐ一本道の廊下。
 特にこれといった装飾も無い、ただ廊下と言う以外表現の仕様の無い廊下。
 二人は迷わず、奥へと進む。

 終点は、すぐにやってきた。
 それは取っ手もノブも無い、これまでのものとは明らかに異なる、巨大な扉。

 どうしようかと戸惑うエリーゼを尻目に、一歩を踏み出すアーサー。
 そして、こともあろうに彼は。

(コン、コン)

 その扉を、ノックした。

『どうぞ』

 室内から聞こえる、男性の声。

「失礼します」

 アーサーが扉に手のひらを当てた瞬間、二人は扉の前から姿を消した。

 突然真っ白になった視界に思わず目を覆うエリーゼ。
 しばらくそのままでいたが、恐る恐る薄目を開け、もうまぶしくないことを確認して
改めて周りを見回した。

 それは、書斎のような部屋だった。

 二十メートル四方はあろうかという広い室内。
 赤茶色の絨毯と壁が、重々しく部屋の空気を染める。
 四方の壁の一つは一面まるまるガラスをはめ込んだ窓になっていて。
 その前に巨大な黒い執務机が、この部屋の唯一の家具として鎮座している。

 そして。

 この部屋の、いやこの城の主が、肘掛付きの巨大な椅子に深く腰を下ろして、二人の
訪問者を見据えていた。

 意外、と言えば意外な光景である。

 未だその心境を整理できないエリーゼを無視するように、彼女の一歩前に立つアーサ
ーは、目の前に座る青年に、深く頭を下げた。

「突然の訪問、失礼致します。私、アーサー=ロレンスと申します。そして彼女はエリ
ーゼ=ローゼンバッハ。この城を聖マッハ閣下、エルンスト=マッハ卿の居城と伺って
お訪ねしました。失礼ながら、閣下であらせられますか?」

 青年はふっと小さく笑い、窓明かりを背に、静かに立ち上がる。
 陰になってはっきりと容貌を確認できないが、相当の美青年であることが伺える。
 彼は机の脇に進み、やはり窓を背にしたまま答えた。

「然り。我こそエル=マッハ。『THE DARKNESS』その者である」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「貴公、アーサー=ロレンスと申したか? ここまでの勇姿、仔細鑑賞させて貰った。
なかなかの逸材である。ここでその命、奪い去るには惜しい。どうかな? 我と共に永
劫の宴を楽しまぬか? 悪いようにはせぬぞ?」

 アーサーは眉一つ動かさず、しっかりと首を横に振った。

「お断りします。私はとある人物から依頼を受け、この城に閉じ込められた人物を救い
にやってきました」
「ほう、誰かな?」
「……ご存知のはずです。漆黒の、底無し沼の如き暗き闇に囚われた麗しの『姫』君を
救いに、です」

 エルは、はて、と首をかしげ、苦笑しながらアーサーに答えた。

「これは異な事を言う者だ。我の名を知っていながらそのような事を口にするとは」

 それに対し何も答えないアーサーに代わって、エリーゼが前に踏み出した。

「わかってるわよ、このホモ野郎! あたしのベールを返せ! 返してよ!」
「……おやおや、なんて躾のなっていない端女(はしため)だ。貴人同士の会話に割り
込むなど、これだから女子供は度し難いと言うのだ」
「貴人だと!? はっ、言ってくれる! 人を人とも思わない悪の権化が! いいさ、
力づくでもベール返してもらうからね!」

 エルは目を閉じてうつむき、首を左右に振ってやれやれと言った。

「地を這う虫けら共に、大空を舞う鳳凰の大志を理解することなどできまいな。善や悪
など、『大いなる意思』の一断面に過ぎぬ。十の国が滅しようと、十万の民が死に果て
ようと、結果百万の民が天命をまっとうし得る世界と比ぶれば些事にもならぬ」
「言ってろ! そんな御託なんてどうだっていい! あたしはただ、あんたがあたしの
オトコを奪ったってだけであんたの全てが許せないんだ!」

 ハハハと嘲笑の声をあげるエル。そのまま再びアーサーに問いかけた。

「どうかね? 聞いたとおりだよアーサー。女という存在のなんと浅はかで愚かなこと
か。こんな輩と組していても君に何の益もありはせぬ。もう一度言おう、我の元にくる
がよい。我と共に、英知と栄光と快楽に満ちた世界を享受するのだ!」

 尚も、アーサーは顔色一つ変えずに即答した。

「お断りします。私の目的はただ一つ、姫君を救いだすことだけです。それに、彼女と
は目的の過程が同じであるという理由で行動を共にしているだけですから」

 流石にエルの表情が凍りついた。勿論それ以上に、エリーゼの情けない顔の方が見も
のではあったが。

「……ひっど〜い、なにそれ! 仮にもパーティなんだから、もうちょっと言い様があ
るんじゃないの、アーサー!?」
「だって事実ですから。私と貴方の間には契約関係以上の何も存在しないでしょう?」
「うー、この野郎! やっぱあの時力づくでも襲っとくんだわ」
「それは無理ですよ、だって……」

 そんな痴話喧嘩にもならない言い争いに痺れを切らし、エルが割り込んだ。

「黙れ下郎どもが! わかった、もういい! 貴様等に見るべきものがありそうだと踏
んだ我が浅はかであったわ! 二人とも、我が偉大なる魔法の前に消え去るが良い!」

 アーサーとエリーゼは表情を引き締め、エルに向かって身構えた。

「聞いた、アーサー? こいつ、自分が馬鹿だって認めたわよ」
「そのようですね。意外と底の浅い魔法使いかもしれません」

 エルの顔が怒りで真っ赤に染まった。即座に両手を組み、印を刻み始めた。

「じゃ」
「OK」

 エルに向かって一直線に突進するアーサー。
 単純な、しかし早さだけならエルにも引けを取らない魔法詠唱を果たすエリーゼ。

 エルの眼前に立ち上った火炎の渦を、アーサーの剣が薙ぎ払った。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「ベール、ベールはどこ、どこにいるの!?」

 幾つもの戦闘傷や火傷の痛みも気にすることなく、エリーゼは城の奥にあったエルの
寝室に飛び込んでいった。少し遅れて、剣を杖代わりにして右足を引きずるように部屋
の中に入ってきたアーサーは、やはり特に表情を変えもせず室内を見渡した。

 そこは、男色家として有名なエル=マッハに相応しい光景だった。

 数人の美しい青年少年達が、半ば透ける柔らかな生地で出来たガウンだけを素肌の上
に羽織り、その淫らな四肢のラインを際立たせたまま、豪奢な絨毯とソファ、そしてこ
れでもかというほど精緻で多彩な装飾の施された天蓋付きの大きなベッドに、思い思い
のポーズで横たわっている。四方に配置された淡くピンクの光を発する燭台。更には芳
しい、恐らく媚薬の効果もあるであろう匂いを立ち上げる置物が各所に置かれている。

 あまりに似合いすぎていて、まるで嘘のような光景にも思える。

 部屋の中央で、幾度も右往左往していたエリーゼが、ふと一人の青年に目を留めた。
思わず両手で口を抑える。その瞳がたちまち潤んでいった。

「ベール、ベール! 生きててくれたんだ、ベール!!」

 一人の、なるほど美青年と称して差し支えない青年に彼女は抱き付いていく。しかし
未だ青年はうつろな眼差しのまま、自分が女性に抱き付かれている事すら気付いていな
いかのように、のろのろと答えた。

「おたわむれは、おやめください、エル様……まだ日は高うございます……」
「ベール、あんた……」
「我は偉大なるエル様の忠実なるしもべでございます……ですから……」

 呆とした瞳でうわごとのように決まり文句を繰り返す青年。その両肩を抑えて必死に
前後へと青年の体躯を揺さぶるエリーゼの後ろから、アーサーが声をかけた。

「まだ魔法使いの魅了の魔法が消えていないようですね。恐らくここにいる全員、そう
やってこの城の主に囚われたままなのでしょう。とりあえず皆を眠らせるなりして部屋
の外に出しましょう。この香の匂いは彼らを蝕むだけですし、どうやら簡単な結界も張
ってあるようです。ここにいたままでは正気を取り戻させることも難しいでしょうね」

 悲しそうな目でアーサーと青年を交互に見やるエリーゼ。
 でも、小さくコクンと頷き、立ち上がってアーサーに前を譲った。
 アーサーは青年の前で膝を付き、鎧の内側から小袋を取り出した。

「麻酔用の薬がありますから、これを飲ませましょう。エリーゼさん、水を……」

 そう言うアーサーに、ベールと呼ばれた青年が抱き付いてきた。

「エル様……御戯れはお止め下さい……まだ日は高うございます……」

 苦笑いしながらその手を振り払おうとするアーサー。

「大丈夫です。もうあの魔法使いはいませんから。さ、これを……」

 しかし、アーサーは青年の手を振り払えなかった。
 振り払うのを止めたのではなく、いくら力を入れても振り払えなかったのである。

「あ、あの……ベールさん? やめて、くだ、さ……」
「エルさま……私は、貴方の……」

 それどころか、青年の腕はしがみつく力をどんどん増していったのである。アーサー
の首に両手を回し、その呼吸を止めかねないほどの圧倒的な力で体の自由を奪う青年。
その細身の体のどこにこれほどの力があるのか? 先の戦闘で受けた傷もまだ癒えてお
らず、さすがのアーサーもこの異常に対して一人ではどうしようもなかった。

「え、エリーゼさん! 彼を……ベール、さんを……」

 ところが。

「ベールがどうしたの? アーサー?」

 息も絶え絶えのアーサーの耳元で、やけに嬉しそうに答えるエリーゼ。
 クックック。その小さな笑いが、次第に高らかな哄笑に変わる。

「エリ……ゼ?」
「どう、ベールの力? 悪の大魔法使いを討ち果たせる剣士でも、この力には敵わない
でしょ? 多分怪我して無くても無理でしょうけどね」

 そう言ってエリーゼは、アーサーの腰に掛けられた例の剣を抜き、高くかざす。

「それにしても、さっきの戦闘は凄かったわ。この剣、『奴』の最強魔法でさえ振り払
え、いいえ『貪(むさぼ)れる』んですものね。さすがは『エクスカリバー』の名を持
つ秘宝だわ」
「えく、す……かりばー?」
「ホント、そんなことも知らずにこれを使ってたなんてね。宝の持ち腐れとは良く言っ
たものだわ。フフ、折角だから最期に教えてあげる。この剣は世界に存在するという四
つの伝説の聖剣の一つよ。古代文明が神と魔神を生み出したのと同じ技術で作られたと
いう、使う者次第では神々とも対抗できる世界最高の神秘よ」

 歌うようにエリーゼはその剣と共に舞う。
 もっとも、体の自由を奪われたままのアーサーには見えなかったのだが。

「ありがとアーサー。私のところにこんなステキなものを持ってきてくれて。勿論貴方
も素敵よ。強いし優しいし、それに『美しい』しね。普通だったら貴方みたいな素敵な
殿方、私のコレクションに加える所なんだけど……」

 くるくると回転していたエリーゼが、ズッと剣をアーサーの背中に突き立てた。音も
無く剣は厚い鎧をあっさりと穿ち、その剣先はアーサーの心臓の位置を貫いて鎧の前へ
と突き抜けた。

「残念。だってあなた、『私を拒んだ』でしょ? 私、私に恥をかかせた人間って絶対
に許せないの。もしあの時私を受け入れてくれてれば、あのままずっと幸せな夢の中に
閉じ込めてあげられたのにね、フフフ……」

 エリーゼの目の前で、アーサーの後頭部ががくっと前へ倒れた。
 手ごたえも十分。間違いなく即死である。

「ホント、惜しいわ。貴方ほどの使い手、世界中探してもそうはいないでしょうし。私
すごく残念に思ってるのよ。でも悪いのはあ・な・た。そうでしょ? その代わりにこ
の剣は大事にしてあげるわ。あなたたちみたいな虫けらにしては上出来の献上物よね。
ふふ、この切れ味! 気持ちいいわあ……」

 鍛え上げられた装甲をもあっさり貫く聖剣の威力に魅了されるエリーゼ。
 そして彼女は、突き刺した時と同じようにまっすぐ剣を抜いた。

「それにこの輝き……さすが聖剣エクスカリ……え?」

 そう、引き抜いた剣は、『曇り一つ無い輝き』を放っていたのである。

 普通、アーサーのような重装甲を纏う時は鎧下や下着などを着用する為、このように
剣を引き抜いた時、それに血糊がふき取られてある程度綺麗になることはある。しかし
これほど完璧にふき取られることはありえない。必ず曇りが出るはずである。それはこ
の剣が伝説の聖剣であったとしても、である。

 エリーゼは再び、光に幾度も照らし直しながら剣を凝視した。
 しかしどれほど良く見ても、曇りを見出すことは出来なかった。

 そして。

「やれやれ、酷い人ですね貴方は。いきなり心臓を一突きだなんて」

 エリーゼは即座に剣を中段に身構えた。
 視線の先に、仰向けになって倒れているベールの姿と。

「もしも死んだらどうしてくれるんです? まだ目的も果たしてないのに」

 いつの間にか自由になっていた四肢をう〜んと伸ばし、先の戦闘で受けたはずの足の
負傷などまるで無かったかのように、すくっと後ろ向きのまま立ち上がるアーサーの姿
があった。

「あ、アーサー? あんた一体……」

 そう呟くのが精一杯のエリーゼの瞳に、さらに信じがたい光景が映る。さっき貫き、
穿ったはずの背中の鎧の穴が、まるで溶けるように埋もれ、修復されていったのだ。

「その鎧……もしかしてその鎧も、なんかの魔法物だったの!?」
「さあ? 実は私にもよくわからないんです。だって……」

 そう言って振り返るアーサーの胸元。
 後ろの穴と同じように穿たれたはずの穴の位置に、ついさっきまで影も形もなかった
『緑色の玉』が煌々と輝いていたのだ。

「その色……その鎧……もしかしてアーサー、あんたは……」
「さてエリーゼ? 貴方の目的はもう終わりましたね。でしたら今度は私の目的を果た
させて頂きます」

 アーサーの表情のベースにあった笑顔の要素がすっと消えた。
 それはまるで人の感情を感じさせない、まるで絵に描いただけのような無の表情。

「エリーゼ? いいえ『エルンスト=マッハ』? 私は貴方を、貴方自身が作り上げた
この心の闇の具現である城の牢獄から救い出す為にやってきました。さあ、私と共に今
一度外の世界へ旅立ちましょう」

 カツン、と音を立てて、エリーゼの握る聖剣の剣先が床に落ちる。
 無言でうつむくエリーゼ。そのまま時が止まったかのように微動だにしない。

 ……くっくっく。

 しかしその小さくくぐもった笑い声が、静寂と入れ替わるように大きくなっていた。

「なるほど。なぜ我の『真の名』を知っていたか不可解だったが、そういうことか」

 うつむいたままの、女性の姿をした存在にアーサーはやはり無表情のまま答えた。

「そういうこと、です。既に貴方は私からのメッセージを受け取っているはず。なのに
なぜこうまでして『逃げる』のですか? 貴方であれば自らその運命(さだめ)と対峙
できるはずなのに?」

 それに対し「彼」は、キッと顔を上げてにらみ返す。容姿は相変わらず女性のものな
のだが、眼光と声は紛れも無く強固な意志を持つ男性のそれに入れ替わっていた。

「貴様等のような存在に何がわかる! そもそも我に何の用だ? なぜ我を選ぶ!?」
「理由はただ一つ。貴方が『人』として至高の存在だからです」
「ほう、わざわざ我を人の頂点と認めにやってきたか。それがどうした? 我がそれを
喜ぶとでも思ったか? 感謝のあまり跪いて貴様等に頭を垂れ、忠誠を誓うとでも思う
たか!?」

 アーサーの表情が曇る。悲しげな、寂しげなものに。

「……何をそんなに恐れるんです? 私はただ、貴方の力を貸して欲しいだけなのに」
「力を貸せだと? ハッ、とんだお笑い種だ。たとえ我が人として至高の存在であろう
と、貴様等にとっては虫けら同然。所詮は貴様等の走狗として使い捨てられるのが落ち
であろうに!」

 幾度も横に首を振るアーサー。

「貴方は一つ勘違いをしている。私は、貴方の言う『貴様等』に列する存在ではありま
せん。『アーサー=ロレンスを名乗るこの人格』は、紛れも無く人そのものです。人の
『総意』そのものなのです。貴方ならその意味、理解できるでしょう?」

 確かにこの返答はエルにとっても意外なものだった。
 その表情がごく僅かながら変化する。怒りから疑惑へ。
 そして変わらぬ女性の唇から、よく通る男の声が発せられた。

「なるほど。では『それ』が事実であると仮定しよう。ならば問う。『貴様』は一体何
を望む? 我に何を求める?」

 アーサーはにこっと笑った。
 それは、この後幾度も繰り返し見る事となる、一切の邪気の無い笑顔。

「『人』の世界の安寧を。『奴ら』を駆逐する為の手段を」

 エルの心に、かつて出会った老人の言葉が蘇る。

(汝は僕(しもべ)なり。鎧を纏いし龍の軍師なり)

 祖父の言葉。自分の代わりにエルを遣わしたという自分勝手な言葉。

(龍に見留められし血の末裔なり)

 認めん。断じて認めん。
 我はエル=マッハ。「THE DARKNESS」とまで呼ばれし存在。
 それが運命だの宿命だの、愚民どもの身勝手な思い込みに流されて堪るものか。

 我の行く道は我が定めん。
 それが我の「死」であろうと、我の全ては我が御さん。

 エルは、エクスカリバーを高く、まっすく上へと掲げた。
 両目を閉じる。そして。

『喝ッ!』

 瞬間、「彼女」の全身が灼熱の炎に包まれた。
 白く輝く炎は勢いよく渦を巻き、その体躯を焼き尽くすかに見える。

 しかしアーサーは怯まない。笑顔を崩さず、炎を凝視する。

 次第に渦は勢いを失い、人間の形のシルエットが輪郭を浮かび上がらせる。
 白い炎が赤みを帯び、その温度を下げていく。そして最後には陽炎(かげろう)のよ
うに淡くぼやけたものとなって空気中に溶けていった。

 そこにいるのは、黒き毛皮のマントを纏った、一人の長身の青年。
 凄まじく美しい顔。もしこの世に完璧な美貌があるとすれば、まさにこれであろう。

 完璧な造形と妖艶さ。
 そして凍てつくほどの冷酷さを湛えた双眸が産み出す「闇」の魅力。

 これぞ「THE DARKNESS」と呼ばれし存在。
 エル=マッハの真の姿。

 先刻の傀儡などとは比較にもならぬ気で圧してくる。
 高々と掲げられた剣が、ゆっくりとアーサーの鼻先へ突き付けられた。

「我が欲しくば、我の屍を抱えてこの城を出るが良い」

 自分は貴様の物になどならぬ、との強固な意志。

「それは困ります。何度も言うように、私は『貴方を救いに来た』のですから」

 フッ、というエルの小さな笑い。

「同じ事だ。我を倒さぬ限り、我に救いはもたらされぬ」

 苦笑いのアーサー。

「そうかもしれませんね。『THE DARKNESS』という貴方の矜持を打ち倒さ
ぬ限り、貴方は解放されないのでしょう」

 それはアーサーの覚悟でもある。
 無論エルも承知。瞳が眼光を増す。二人の足元で淀んでいた気が干渉を始める。

 そして。

『破ッ!』

 それは声ではない。常人には感知不能な速度で振り下ろされた剣の刃音だった。

 エル=マッハという存在。それは史上最強の魔法使いとして認知されているが、厳密
に言えば正しくない。アーサーも評したように、彼は「人として至高の存在」である。
彼は「人に可能な全ての技」を極めることができる。知力・魔力・体力・精神力などの
基礎能力と、それらを駆使した全てを技能を「最高最強の形で」発現できるのである。
彼は史上最強の魔法使いであると共に史上最高の賢者であり、史上最強の戦士でもある
のだ。

 この一太刀。世界最強の武器で放たれた史上最強の一撃、それは。

 神速の体術でもかわせず、
 究極の結界さえ切り裂き、
 最高の剣技すら薙ぎ払うであろう。

 なのに。

(キイーン)

 その音は、悲しいほど高く、そして明瞭に響いた。
 エルは、生まれて始めて、心の底から茫然自失した。

 エクスカリバーが、真ん中で真っ二つに折れていた。

(ストン)

 自分の後ろで、弾き飛ばされた剣先が床に突き刺さる音がする。
 そして改めて、折れた剣の先にあるものを見直した。

 アーサーが右手を高く掲げ、ひじでエクスカリバーを受けていたのである。

 その反応速度もさることながら。
 彼のひじには、一切の防具がなかった。

 つまり彼は、素肌でエルの一撃を受け、エクスカリバーをへし折ったのだ。

 エルはアーサーの顔を見つめた。
 そこに輝く黄金色の瞳。

 「龍」の瞳。

 恐怖。生まれて初めて知る、究極の感情。
 幻覚ではない。エルの瞳には、紛れも無く一匹の龍が写っていた。

 認めん。

 それでもなお、エル=マッハはその恐怖に立ち向かった。
 折れた剣を投げ捨てる。距離を取る。

 結界を張る。可能な限り幾重にも。
 地・水・風・火。全てのマナを結集する。
 全ての使い魔と精霊を召喚する。制御しきれずとも制する。
 あらゆる禁呪の封印を解く。次元干渉を行って全ての環境を整える。
 人には不可能なはずの多重詠唱で、全ての呪文の詠唱を神速で同時に終える。

 世界すら滅ぼしかねぬ一撃を。
 自らの存在をかけて。

 眼前の青年にぶつける。

『滅ッ!!』

 その日、大陸中の全ての人間は、遥か彼方に立ち上る一筋の光柱を見た。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

        人にして至高の存在が仕うる存在。

        そは即ち人にあらざる存在なりや。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「お、おい。あれ!」
「そんな……嘘だろ!?」

 酒場に入ってきたアーサーの姿を見て、一同は目を疑う。

 数日前あの森に入っていったこの無謀な冒険者の後姿を見ながら、ああまたかという
ため息と共に送り出していた一同は、決してありえないはずの「愚か者の帰還」に言葉
を失った。

 アーサーがカウンターの席に座り、やはり呆然としているマスターに軽食を頼む。
 そしてもう一人、流れるような動作で彼の横に座る青年がいた。

 一同は最初、アーサーに連れがいることさえ気付かなかった。
 だが彼らの一人が無意識のまま呟いた言葉に、全員が立ち上がった。

「THE DARKNESS……」

 黒一色、紛れも無く魔術師のものである高価そうなマント。
 そして目を見張るほどの美しい顔をした長身の青年。

 だが二人は周囲のざわめきなど一切感知せず、なんでもない会話を交わしながら食事
を進めていく。次第に周囲は、それが「ホンモノ」かどうかというひそひそ話で満たさ
れていった。なにしろこの二人の様子があまりに自然で、そんな大事件が起きているよ
うにはとても見えなかったからである。

 やがて食事が終わり、アーサーがマスターに礼を言って席を立つ。
 彼は酒場にいた全員ににこりと笑って頭を下げ、そのまま外へと出て行った。

 続いて連れの青年が、やれやれと苦笑いしながら一同を無視して去っていく。

 無言、無音の店内。
 その直後、店内が大騒ぎになったことは言うまでも無い。

 後ろに聞こえる喧騒に軽く目をやり、改めてエルはアーサーに問いかけた。

「それで、これからどうなさいますか、マイロード?」
「だからエル、その『マイロード』ってのは止めてくれないか?」
「いいえ、駄目です。貴方は私の仕えるべきご主人様であらせられますから」
「……そんなつもりじゃなかったんだけどなあ」

 はああ、とため息を吐くアーサーだが、気を取り直して先の問いに答えた。

「まず、仲間を探そうよ」
「仲間ですか?」
「うん。僕たちと一緒に戦ってくれる仲間を」

 その時、目の前に分かれ道が現れた。
 どちらへ行こうか迷うアーサーを差し置いて、エルが右へと歩を進めた。

「あ、エル! まだどこへ行くか決めてないよ?」
「仲間でしたら、まず北へ参りましょう。一人心当たりがあります」
「え、誰? どんな人?」

 エルは振り返り、にっこり笑って答えた。

「『死神』です」

 はあ、と口を開けてぽかんとするアーサーだったが、すぐに笑い返した。

「そうだね。それくらいじゃないと『奴ら』には対抗できないかな」
「当然です。私には及びませんが、マイロードのお役には立てるはずです」
「だからその……まあいいか。じゃあ行こうか、エル?」
「御意のままに。マイロード」

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 私の父は、そう、どこにでもいる普通の人でした。

 優しい母と大人しい私という娘を愛しみ、その三人だけのささやかな、けれどとても
温かな家庭を守ろうと懸命に働く、普通の父でした。そうですね、アリーヌさんのお父
様になんとなく似ています。ううん、顔は全然違いますけど、雰囲気というか、物腰が
私の父とそっくりなんです。

 きっと、アリーヌさんって幸せでしょうね。
 私にはわかります。私もそうでしたから。

 小さな町の小さなお店。人の良い父は、騙されたり便利に使われたりして損をするこ
とも多かったんですけど、それ以上に町中の人から慕われてました。父が苦境に立った
時には必ず誰かが助けてくれる、そんな人でした。父はいつも、自分は運がいい、自分
はこんないい人たちに囲まれて幸せだと言っていましたが、それって実は父を助けてく
れる人たちの想いでもあったんです。

 え? ええ、そうです。
 みんないい人ばかり。今のショートラムみたいですね。

 今でも覚えています。確か私が九つの時でした。その日は、私の誕生日だったんです
けど、たまたまその数日前から、父が病気で寝込んでいたんです。でも父はベッドの上
から笑って約束してくれました。私の誕生日には一緒にハイキングに行こうって。私、
まだ小さかったから周りのことがよくわからなくて、ただ無邪気にその約束を楽しみに
してました。じゃあそれまでに病気を治してね、って指切りして。でも誕生日の当日、
父は部屋から出てこれませんでした。慌しくお医者様が出入りするのを横目に、私は母
にどうして、なんでって怒ってしがみついたんです。母は悲しそうな目をして、今日は
ハイキングは中止よって言いました。私は何度も何度も母をなじりました。そして父の
ことも。約束破るなんて嘘つきって。その時、私はじめて母に頬をぶたれました。決し
て強い力じゃなかったんですけど、でも涙を浮かべで、本当に悲しそうな瞳で。私は何
にも言えず、部屋に閉じこもって泣き続けました。

 翌日、泣き疲れて眠ってしまってた私を、父が起こしにきました。父は青白くやつれ
た顔をしてましたけど、でも楽しそうに笑って言うんです。ごめんねネーナ。一日遅れ
だけど、これからハイキングに行こうって。私、やっとわかったんです。父が本当に大
変なんだってこと。こうして笑いかけるのも無理してるくらい。私、父に抱きついてま
た大泣きしちゃいました。ごめんなさい、わがままいってごめんなさいって。それなの
に父は私の頭を優しく撫でて、お父さんこそごめん、約束守れなくてって謝ってくるん
ですよ。私いつまでも涙が止まらなくて。お父さん、そんな私をいつまでも抱いてくれ
てて。何年か後に母から聞かされたんですけど、その時父は危篤寸前まで行ってたそう
です。奇跡的に回復できたんですけど、母は覚悟を決めてたって言ってました。それを
聞いてまた私泣いちゃって。その日は、仕事が終わって一緒に食事する父の顔が見れま
せんでした。心の中で、ありがとうお父さんって言うのが精一杯で。

 私は、そんな普通の家庭で育ちました。
 他のみんなと比べると、なんで自分がって思うくらい普通の子です。

 だから十六の時、マーティス様から突然召喚を受けた時も、最初は全然信じられなか
ったんです。マーティス様の言うことも、見せられた世界の危機も、どこかずっと遠く
の世界の出来事で、私には一生何の関わりもないことなんだって思い込もうとしてまし
た。でも、不思議なものですね。ある日突然、私はパッティの義務に目覚めたんです。
それはなんでもない光景でした。学校から帰ってきた私は、店先で笑いながらお客さん
と話す父と母の姿を見てたんです。楽しそうだな、なんか素敵だなって。

 そして気付きました。かつてこの光景が当たり前じゃない時代があったんだって。
 この光景が当たり前であるように命をかけた人たちがいたんだって。

 そして今私が決断しなかったら。
 将来、こんな普通の光景が当たり前じゃなくなる時がくるんだって。

 優しい父と母、そしてどこにでもいるような当たり前の娘。
 それを語ることすら出来なくなるかもしれないんだって。

 私の心は、決まりました。

 私はそのことを、マーティス様のこともパッティのことも包み隠さず、全てを両親に
話しました。両親はその嘘のような、夢物語のような話を、最初から最後まで決して笑
ったり怒ったりせず、真面目に聞いてくれました。そして私の話が終わると、父は一言
こう言ったんです。

『わかった』

って。ただそれだけ。にっこり笑って、ただその一言だけを。

 私が神に召される日。母は最後まで私の髪を綺麗にすくってくれました。
 そして私は、家の前で二人並んで見送る両親に、

『私、行きます』

 と言って頭を下げました。二人はただ笑って、コクンと頷いただけでした。

 私は、後ろを振り返りませんでした。
 だって、ぽろぽろこぼれる涙を見せたくありませんでしたし。

「お父さんとお母さんの泣き顔を見たくなかったんでしょ?」

 ……やだ。アリーヌさんって超能力者ですか? 
 何で私の言おうとしたこと、わかっちゃったんです?

 当たり前って、そうですか?
 もしかしたら両親が泣いてたかもしれないって私の思い込みかもしれませんよ?

 そんなこと、絶対ないって?
 ええ。私もそうだったらいいなって思います。

 本当に、心の底からそう思います。

「私、なんであなたがパッティに選ばれたか、わかった気がする」

 はい?

「それは、あなたがこの世で一番『幸せの意味』を知っているからだわ」

 ありがとうございます、アリーヌさん。
 私が幸せだったって信じてくれて。

 本当に、ありがとうございました。
 さようなら、アリーヌさん。

 私、幸せです。

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「さて、それでは講義を始めよう。今日は『魂』についてだ」

 教壇に立つのは、明らかに高齢を感じさせる容貌にも関わらず、黒く厚いマントをま
とった肉付きの良い長身をびしりと伸ばし、黒眼鏡でも隠し切れない鋭い眼光でセイル
たちを見据えつつ、豊かに蓄えられた鼻下と顎を覆う白ひげの合間からよく通るバリト
ンで言葉を紡ぐ男性の老人だった。

 席についた一同を代表するように、セイルが手を上げた。

「エル=マッハ先生、質問があります」
「なにかね、セイル君?」
「これは、なんの冗談でしょうか?」

 探索の主力であるセイルたち四人とパッティ最後の一人であるネーナ、そしてなぜか
今回に限り同行を申し出ていた、現在ショートラムにいるリムリアたちを含めた九名が
ネーナの開いた最後の封印の扉をくぐるや否や、全員がこの講義室に着席していたので
ある。そして壇上に立つ老人が四人目の「永遠の勇者たち」、火の魔神「ラ・モンド」
と化したエル=マッハその人であることも全員が即座に理解し得た。セイルの質問は当
然である、しかし。

「冗談だと、思うのかね?」

 エルの口調には茶化す様子も誤魔化す様子もない。
 セイルたち全員を圧倒するその眼光が、生徒達全員の口を閉ざした。

「よろしい、では本題に移ろう。まずはここで論じる『魂』について定義する。これは
一般に我々が『意識』と呼ぶ行為そのものであると考えられる。あるいは『自我』とも
取れるが、どちらにせよこれらは状態であって実態ではないことを理解せよ」
「はい、先生!」
「なにかね、エリスン君?」
「実態ではないと言われましたが、魂という存在が生命体という実態と不可分でない以
上、魂にもそれを定義し得る実態が存在するのではないでしょうか?」
「ふむ。それでは尋ねよう。私は『今の君』が魂を持つと『認識』できる。それは君が
生きて私と会話しているからだ。ではもし君が死体となってそこに横たわっていた場合
私は君に魂があると認識できるかな? 両者に『実態』としての差異は存在しない。違
いはただ一つ、生という『状態』を示しているか否かだけだ」
「本当にそうでしょうか? 例えばエクトプラズムや幽霊といった、肉体という実態を
所持しない魂の状態も存在し得ます。肉体とは単にそうした物理的構造を持たない実態
の憑依体に過ぎないのではないですか?」
「今君が挙げた例の二つとも、既に物理的実態を持っていることを忘れてはならない。
他者に物理的干渉をもたらす存在は、それが例え純粋なるエネルギー体であったとして
も、それは物理的質量を持つ実態と同一とみなせる。それこそが人類がその科学史の帰
結として得た絶対法則の一つである。当然、君なら知っていような?」
「E=mc^2、ですか?」
「然り。幽霊は『幽霊として活動してこそ』幽霊と認識される。それは即ち状態であり
状態であるからこそ我々はそこに魂らしきものを認識できる。もっと言えば、それが真
に魂を持つかどうかすら問題ではなくなる。暗い夜道、道端に幽霊のいざなう姿を見た
男がいた。恐怖と好奇心の元、幽霊に近づいた男は、それが風に揺れるススキの穂であ
った事を見出し、安堵した。だが男がそれに気付くまでの数刻、そこに魂を持った幽霊
が『存在していた』ことは事実である。即ち、魂とは状態であって実態ではない」

#幽霊の/正体見たり/枯れ尾花

「次に、その魂という状態を生み出す我々生命について考えてみよう。この世に存在す
る全ての生命体は、固有の遺伝子情報が連なる染色体の交換・増殖によってその肉体を
形作ることは周知の通りである。ただしここで留意せねばならないのは、遺伝子の持つ
情報とはあくまで設計図であり、それに過ぎないということだ」

「例えば、ここに楽器の設計図がある。誰かがこの設計図を元に楽器を組み上げたとし
よう。しかしもしこの者が楽器の演奏の仕方を知らなかったらどうなるか? この者は
楽器を武器として使うかもしれない。杖として使うかもしれないし、食器として使うか
もしれない。運良く音の出し方を見つけ出すかもしれないが、それを音楽として奏でる
ことまでは気付かないかもしれない。楽器が楽器としての『状態』を発揮するには必ず
『前任者による教育』が必要になるのだ」

「もう気付いたと思うが、即ちここでいう楽器が我々の肉体であり、それが奏でる音楽
こそが『魂』なのだ。正確には脳が楽器本体であり、脳を維持するための肉体が周囲に
存在する。そして『他者が耳にする曲』が状態としての魂というわけだ。もっと言って
しまうと、魂とは後天的なもので先天的なものではない。そんなものではありえないと
いうことになる」

「魂とは、遺伝子が作り出した肉体(特に脳)を土台として築かれた『オブジェ』であ
る。例えばそれが人間という種である場合、土台部分の設計図に大差はない。故に、そ
の上に築かれる(築き得る)オブジェの形態にも必然的に制約ないし類型が存在する。
それこそが人間同士のコミュニケ、即ち『魂の相互認識』を可能とするが、どうあって
もそれは同一のものとはなりえない。例え土台が完全なる一致、すなわち世にクローン
と呼ばれる存在であってもである。なぜならオブジェとして積み重ねられる『経験』は
(異なる物質は決して同一時空間を占めることは出来ないという物理法則に基づき)各
個において唯一無二の区別可能なものであり、増してや肉体の成長に伴う構成物質の取
得(即ち食事)一点に限ったとしても、それは断じて全く同じ内容とはなりえないから
である」

「ここに、赤子の頃から狼に育てられた人間がいた。彼は人間の言葉を解せず、四つ足
で行動し、手を使わずただ口と歯だけで捕食し、生肉を苦もなく消化して腹をこわすこ
ともない。これらは全て、人間という生命種の持つ適合能力の結果後天的に得た特性で
ある(ちなみに、こういう存在は実在した)。そして最も重要な事実、それは彼が成人
後、捕獲という形で人間界に復帰したにも関わらず、『最後まで』人間としてのコミュ
ニケーションを取れなかったということである。幼少時から狼の元で育てられた彼は、
人間の脳という土台の上に『狼としての生活において必要な魂』というオブジェを築き
上げてしまった。そこに新たなるオブジェを築こうにも、『人間の魂』を形作れるだけ
の土台がもはや存在しなかったのである。彼がもう少し年若くして人間社会と接せられ
れば可能だったかもしれない。しかし不幸なことに(勿論この『不幸』という概念は人
間側の勝手な思い込みで、彼自身にとっては狼である自身が唯一無二であり、それを否
定されることこそ不幸であったろう)、彼が狼として成人に達してしまった時点で、人
間社会への回帰、人間としての魂の取得は不可能であったのだ」

「次に、魂が構築される『脳』の構造について論じよう。人間で言えば、二十億に及ぶ
神経細胞の一個一個がニューロンという『記憶単位』を構成し、これらがシナプスと呼
ばれる論理回路で結合される。人間は成長に伴いシナプスを増加させ、更に『学習』に
よって特定の論理回路を構成していく。即ちこの論理回路による演算結果が魂と呼ばれ
る表象である。数学的に表現すると、誕生時無作為に構築されたニューロンの行列空間
を『A』とする。ここに特定の外界刺激ベクトル『a』が加わった時の反応ベクトルが
『b』だとすれば、

    〔aA=b〕

という式が成立する。さてここで我々はこの個人に対し、『aの刺激に対してはcとい
う反応を返すように』という『教育』を行うとする。その為にはaという外界刺激と共
にb’という教育刺激を加える必要が生じる。即ち、

    〔aAb’=bb’=c〕

という内部演算が行われる(つまりb’=^bc:『^b』を『bの逆行列』と定義す
る)。この時のAb’を新たにA’という行列空間と定義すれば

    〔aA’=c〕

において学習の結果が正しく判定されることになる。実はこの『Ab’→A』という置
き換えこそが『脳の学習行為』に他ならない。具体的にそれはシナプスの増加及び該当
するシナプスの強化という形で行われ、A’→A’’→A’’’→……と同様の教育が
繰り返されるたび、より完全な形の学習結果を導き出せるようになる。ここで重要なの
は出来上がったA∞という行列空間が自ずと補完機能を持つということである。例えば
刺激ベクトルaが(1,2,3,4,5)という要素を持ち、学習の結果として予想さ
れる反応ベクトルcが(6,7,8,9,0)という要素を持っていたとする。この時
もしも刺激としてa’=(1,2,3,4,6)という、『aの近似値ではあってもa
では無い値』が入力されたとしても、〔a’A∞〕は結果としてcに『極めて近い値』
(あるいはcそのもの)を返すようになるということである。これこそが即ち『学習』
である。我々は様々な人間が書く特徴的な文字をほぼ正確に認識し、様々に入り組んだ
状況の中で、自分の経験と判断に基づいた行動を起こすことができる。これは二十億の
脳細胞が築き上げた演算回路に、数万、いや数百万のパラメータを投入した結果、瞬時
(事実、人間の脳細胞はこれを数クロックで行うという)に得られた『状態』なのであ
る。こんなものを定型的に表現できるはずがない。それゆえ我々は魂を不確定な、定義
しがたい曖昧なものと感じてしまうのである」

#補足:
#上述の行列演算は単純化された基本モデルであり、現実の脳の内部では幾つもの演算
#行列が相互演算とフィードバックを行っていると考えられる。五感情報の取得、認識
#と判断、記憶と再認、反応の決定など各工程における演算回路が独立に存在し、相互
#に情報ベクトルを交換しながら『個』としての最終状態、すなわち魂としての表象を
#現すものと考えられるのだ。しかしながら本文においては、この演算行列集合全体を
#一個の演算行列『A』とみなし、以下に話を続けることとする。

「更に、現実に入力される外界刺激ベクトルの要素数と行列空間Aの要素数を比較した
場合、前者に比べ後者の方が圧倒的に大きいことが容易に予測できる。これが意味する
ことは何か? 即ち特定刺激aに対し特定反応cを返す行列Aが無数に存在するという
ことである。行列と数学的等価な多元連立方程式で例示すると、

    〔1a+2b=5〕
    〔3a+4b=6〕

という連立方程式を満たす(a,b)は一意に決する(a=−4,b=9/2)。
しかし、

    〔1a+2b+3c=7〕
    〔4a+5b+6c=8〕

を満たす(a,b,c)は無数に存在する(例えばabc空間内平面2a+b=−6上
の全ての点)。短絡的に言えば,脳は(a,b,c……)の『元』要素が二十億個存在
する超連立方程式に等しい。これを解くには最低でも二十億個の独立した式(入力)が
必要となる。それが一個でも足りなければ、同じ答えを導き出す脳細胞の構造は無限に
存在することになるのだ。はっきり言ってしまえば、全く同じ構成の脳味噌など決して
ありえないということだ。それゆえ人(に限らず生命)は他と明確に区別できる自我、
すなわち『魂』という状態の表象を示し得るのである」

「ここに、神や悪魔が『魂』を欲する理由が存在する。演算行列のバリュエーションが
無数に存在するということは、そのバリュエーションをより豊富に所持するほど、より
『可能な』表象が増える、ということである。より多くの魂を所持するほど全知全能に
近づくわけだから当然であろう。余談だが、希に天才とか超能力者とか呼ばれる存在が
いるが、これらは先天的な行列の配列や、学習の結果たまたま得た演算能力が『それ』
を可能にしていた、ということだ。これらが特に幼少時に発現しやすい理由は、学習に
よって『矯正されていない』素のままの自然な配列の方が人知の及ばない結果を導き出
しやすいからだと言える。それとは逆に、神や悪魔が欲しがる修行者の魂というのは、
ひたすら『特定の答えを出す為だけに特化された魂』ということになる。融通は利かな
いものの効果の程は絶大だ。数学的に言えば、『より単位行列に近い』魂ということに
なる。何が導き出されるか曖昧な魂より、この手の単位行列をより多く備えられれば、
結果的に『より恣意的な』演算結果を容易に導き出すことができる。先の例に準じて言
えば、優れた修行者は(a,b,c……)と連なる係数の特定の一つだけを肥大化させ
た結果、相対的に他の係数を0に等しいものとした魂を持つということだ。つまり係数
(a,b,c……)のaだけが他に比べて極端に大きい方程式、例えば、

    〔10000x+2y+3z……=N〕

において(x,y,z……)という入力の偏差が適当なものであれば例式は、

    〔x=N’:N’∝N〕

という式に単純化できるのである。この様にして特定の元のみに特化した行列(魂)を
並べれば、

    〔1a+0b+0c+……=1〕
    〔0a+1b+0c+……=1〕
    〔0a+0b+1c+……=1〕

つまり、〔a=1,b=1,c=1,……〕という全ての単位となる魂を所持できる。
これらさえあれば,後は要素の単純な拡大縮小により、あらゆる行列を表記できるよう
になる。即ち『何でもできる』ようになる、というわけだ」

「精神力により自在に制御できるマナを自らの構成要素とする神々において、こうした
行列空間構造の保存、即ち魂の所持は容易なことである。また幽霊や精霊といった存在
は、マナ以外の自然物が何らかの原因によりこうした演算行列のコピーやサブシステム
を実現したものと考えられる。更に発展させれば、卜占や縁起といった(真の意味で)
形而上学的な概念の元には、世界の構造がそもそもこうした超越的演算回路を構成し得
る多様性と法則性、そして偶然性を内包しているという現実が存在する。かくして世界
は『大いなる意思』を構成し、その構成数単位層ごとにアクセスできる『魂』の範囲が
決定されることとなる。人間同士が互いに認識できる『人間としての魂』を決定付ける
のは、遺伝子レベルで決定された『二十億個の脳細胞』という行列空間の『サイズ』で
あり、我々はこれより下位(少数)の行列空間であればその演算結果に『魂』を認め、
アクセスすることができる。しかし我々より上位(多数)の要素数によって構成される
行列空間(全人類の総意・生命の総意・世界の総意)に対しては、そこに魂らしきもの
があると概念的に直感し得ても、それにアクセスすることは適わない。いや、アクセス
できたとしてもそれを理解・解読できないのだ」

#世に存在する占い師・宗教家の殆ど全てが、解読できたと勘違いした輩ということで
#ある。……いや「殆ど全て」ではなく「全て」かもしれないが、私にはわからない。

「これらをふまえた上で、次のことを理解せよ」

「かつて『永遠の勇者たち』と呼ばれし我々は、『奴ら』の『力』を制する方法を探し
求め、多くの困難の果てにそれを見出した。『奴ら』の誕生の秘密を解き明かし、その
行動を制御するカラクリ(device)が世界各地に隠されているのを知ったのだ。我々が
見出したそれこそ、今君たちが手にする四色の宝玉である。シグルーン君の所持する青
の宝玉が風の魔神シルフを、リムリア君の白が水の魔神アカシャを、弥呼君の赤は地の
魔神カバルをだが、その宝玉が埋め込まれている群雲の方は、太古神々が産み出された
のと同じ技術で作られた、むしろアカシャのオプションに近い存在だな。最後がセイル
君の持つ黒、我即ちラ・モンドを制御するための装置というわけだ。だがそれらはあく
まで『スイッチ』に過ぎない。それらで魔神の力を封じることはできるが、意のままに
操れるわけではない。群雲を操る弥呼君なら理解できようが、魔神の本体である『力』
そのものは独自の意思、即ち『魂』を持つ存在であり、それにアクセスするには『力』
の側からの承認と『制御者とのコネクションの確立』が必要になる」

「そこで我々が取った手段は次のようなものだった。第一に四魔神を同時に停止させ、
グナガンを介した再起動を不可能にする。次に、それぞれの宝玉に記されていた初期化
コードを用いて『力』の制御者を強制的に我々に書き換える。最後に、四魔神の『力』
を暴走させ、グナガンを中心にして対消滅させるという計画だった。君たちがクーロン
で見たあの結界は、実はそのためのものだったのだよ」

「しかし我々はその最終段階で失敗、いや『邪魔』された。魔神は消滅するのではなく
ただ異次元に弾き飛ばされただけだった。確かにそれだけでもこの世界の危機は去った
かに見えたが、百年前、たまたまこの世界に残っていたグナガンのサブシステム、即ち
トラム山の地下一千階に封じられていた『殻』がなんらかの拍子で起動してしまったの
だ。『殻』はバックアップされていたプログラムの一部に基づき、魔神たちが残してい
った『力』のかけらにアクセスを始めた。慌てた神々がそれを抑制すべく動いたが、」

「即ち、それが『パッティの封印』である」

「神々は単に現世に残された魔神のかけらの後始末をするだけでなく、やがて訪れるで
あろう我々真の魔神、『永遠の勇者たち』の再来に対する備えも同時に行った。即ち、
我々の魂を『消去』できる魂の召喚である。我々の魂は魔神の『力』と直結しているた
めに、それを無に帰すことで『力』の制御そのものを不可能にできる。これは制御者を
書き換えるプログラムまでも消去してしまう為に、以後いかなる存在も魔神の『力』を
扱うことが出来なくなるのだ。そこで魂の消去を具体的にどうするかだが、我々の魂A
に対し、その逆行列となる^Aを掛け合わせれば済む。つまり、

    〔^AA=I:Iは単位行列〕

となり、Aの持つ全ての特性が初期化され、消去される。パッティに選ばれた者たちは
それぞれ、我々『永遠の勇者たち』の持つ魂の逆行列に当たる魂を持つ者たちだったわ
けだ。即ちネーナ君、君は私の魂と全く『逆の魂』(厳密にはこの表現は正しくない)
を持つ存在ゆえにパッティに選ばれたのだ。君たちの肉体に刻まれた紋章、それは君た
ちの魂の『相』を図式化したものであり、我々の転送ゲートに記された紋章の『反転模
様』となっているのはそのためだ。この両者を重ね合わせれば紋章は消失し、あらゆる
意味を失う。即ち君と私双方の魂が消滅することを意味する」

「最後に、なぜパッティの封印に選ばれたのが『女性』であったかを述べる。勿論それ
は、女性が『子宮』という魂の回帰点を所持するからに他ならない。子宮は新たな魂が
生まれ出ずる場であると共に、魂の初期化される場でもある。君たちは既に我々の三名
がパッティの巫女の胎内に『回帰』したのを目撃している。本来出産とは、この世に新
たな魂を出現させる行為に他ならないが、それは最大の肉体的苦痛と共に最高の精神的
快楽を伴うものである。しかしこの逆の行為とは何か? 君たちが目撃した光景とは、
文字通りパッティの巫女たちの『魂をすり減らす』最大の精神的拷問に等しい。彼女達
の献身的行為を尊ぶべきかな。残された者は等しく、彼女達の真の苦痛を理解すること
なく安穏と生をおくる愚か者であることを理解せよ」

「おわかりかな、セイル=ウォルサム=フェルナンデス君?」

 そう言ってエル=マッハは目だけ笑いながらセイルをじっと睨みつける。

(貴様はどれほど罪深きことをしているかわかっているのか?)

 まるでそう言っているかのようだ。しかし。

「承知の上です、エル=マッハ卿」

 セイルの瞳には、一筋の曇りも無い。
 それを確かめて、エルは改めてにこりと満面の笑みを浮かべた。
 そして今度は逆にセイルがエルに問いかけた。

「ところでマッハ卿? 貴方はそうやって我々を惑わすことで、御自身の身の安泰を計
ろうとなさっているのではありませんか?」

 流石に、エルの眼光が鋭さを増した。

「見くびってもらっては困るな。よいか? 確かに我々は過去魔神の消去に失敗したが
それとで予測済みの事だった。故に次善策として我々は自らを異次元に封印し続けたの
だ。将来、我々を打倒しうる何者かが訪れるのを期待してだ!」

「そう、そもそも貴公らがここに至るべく舞台を築いたのは、我に他ならぬ!」

「我の築いた舞台の上で、様々な部外者どもが色々画策したようだが、それでも貴公ら
が出現し、ここまでのシナリオを消化し得たのは、我の用意せしドラマツルギーの巧み
さ故であることを知っておくべきであろうな。その我が、わざわざ貴様等に倒されるべ
く舞台を用意した我が、今更身の安泰を計ろうなどと戯言を抜かすな、この俗物が!」

 口調こそ抑制の効いた、しかし辛辣で激烈な罵倒。
 しかしそれでもセイルは、今一度反論を試みる。

「では何故わざわざ我等の罪悪感を掘り起こすような真似をなさる? そこまで高尚な
意図の元に我等を導きたもう程の御方なら、このようなラストステージを設ける必要は
ありますまいに?」
「『以後の為』、貴様等に最低限の知識を教授しておく必要があったからだ。そして」

 エルの表情に、初めて人間味のある子供っぽい笑みが浮かんだ。

「我は女性を好かぬ。我の人生哲学において、その最期が女性と共になど認められん」

 セイル以下、彼女達全員の頭の中が真っ白になる。
 それを現実に引き戻したのは、腹を抱えて大笑いするジャンの声。

「あははは。なるほどそれは確かに! 所詮人間は、世界の運命どうこうより自分の好
みの方が優先される生き物というわけだ!」
「その通りだな。それが人間の愚かさであり、豊かさでもある。そしてそれこそが我を
して『マイロード』の御意に従うべく決しさせた唯一の根拠だ」

 白髪の上に乗せられていたベレー帽で顔を隠す動作をするエル。

「それに、な?」

 そのまま肩に手を置き、バッとマントを一気にひるがえした。
 そこにいたのは。

「貴様等に、我が期待せし『力』が本当に存在するかどうか、確かめねばならん」

 さっきまでの老人ではない。
 凄まじく美しい、完璧といえるほどの整った容貌を持つ美青年魔術師。

 美しすぎるが故に「闇」に転落した、至高の人間のカタチをした存在。

 エル=マッハの体躯から、どす黒いオーラが立ち上る。セイルたち全員は慌てて戦闘
態勢をとった。既にそこはさっきまでの講義室などではなく、無骨な岩肌に囲まれた、
いつもの玄室に戻っていた。

「来るが良い。我が奥義の全てを尽くして、貴様等を迎え撃とう」

 たちまち、辺りが巨大な炎の壁に覆われる。
 セイルたち全員、逃げることもかなわずそれに焼き尽くされたかに見えた。

 ふん、と顎で笑うエル。
 しかし眼前に浮かび上がる四つの光球に眉をひそめた。

 それは四色の光。

 リムリアの手元から発せられる白い光が、アリーヌやネーナたちを護っている。
 剣を構えるシグルーンの胸元で揺れる、青く輝く小さな宝石。
 ミコは、赤き宝玉の埋め込まれた群雲の中子から魔法の光剣を伸ばし。
 セイルが、宙に浮かぶ黒の珠を杖の先で自在に操っている。

 そしてただ一人、何物の加護も受けることなく、
 純白のDALKの衣装に身を包み、そのオーラのみで灼熱の炎を弾き返したジャン。

「……よかろう。いささかハンデが過ぎる気もするが、相手になってやる」

 空が割れた。
 時が哭いた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 セイルたち全員、トラム山地下一階の五枚のパネルの前にいる。
 しかしその姿は悲惨なものだった。

 誰一人無傷の者はいない。セイルも、ジャンさえも。
 仰向けに倒れたままのシグルーン。右腕はボロボロに炭化し、息もか細い。
 リムリアの髪は焼け焦げ、その全身は凄まじい数の切り傷に苛まれている。
 直接戦闘に参加しなかったアリーヌやジーマでさえ、全身の火傷と極限までの体力の
消耗で立ち上がることも出来ない。
 ただ一人ミコだけが最後の力を振り絞って皆の介抱に当たっているが、そのミコ自身
もうほとんど動かない左足を引きずっての痛々しい姿だった。

 そんな一同を座り込んで見つめるジャン。その顔にへばりつく相変わらずの薄笑い。
 そして彼と背を合わせて座り込むセイルは、ただ眼前に並ぶ五つのパネルだけを無言
で見上げている。

 中央を除く四つのパネルに封ぜられた、大きく膨らんだお腹を抱えて眠る四人。
 ハンナ、シーラ、ココリコ、そしてネーナ。
 もう二度と目覚めることの無い彼女達。その表情に一切の感情は見出せない。
 自らの胎内に収めた「永遠の勇者たち」の魂と共に消失した、彼女達の「存在」。
 そこにいるのは、正しく赤子に等しい、何者でもないただの人のカタチ。

 しかしセイルは、その四人すら見つめてはいない。
 彼の瞳に移るのはただ一つ。
 かつてライザが封じられていた中央のパネル。

 今、四人の犠牲の下に道が拓かれた、淡く輝く一枚のパネルのみ。
 ただそれだけを見つめていたセイルが、すっくと立ち上がり、言った。

「じゃ、行きましょうか」

 ミコが、リムリアが、信じられないという表情を浮かべる。

「無茶言わないでセイル! 皆を見てよ! いったん上に戻って、皆の手当てを……」
「シグルーン、起きなさい」

 リムリアの叫びを完全に無視して、瀕死状態のシグルーンに声をかけるセイル。
 そして更に信じ難いことに、その状態でもシグルーンはセイルの命に従ってよろよろ
と立ち上がったのだ。そして恐るべき精神力と忍耐力で全身の激痛に耐え、彼女はセイ
ルの横まで進み出た。

「シグ、あれを」
「……はい、承知致しました」

 彼女は懐の奥から小さな箱を取り出す。
 蓋を開けるとそこには一本の注射器があった。

「セイルさん! 駄目です、それは!!」

 ミコの叫び。ミコは注射器の内溶液が赤く染まっているのを確認し、必死でそれをシ
グルーンから取り上げようとした。しかしシグルーンは眼光だけでミコを圧する。

「セイルの命令です。わかっているわね、ミコ?」
「でもシグルーンさん! その色は『あれ』を使ってるんでしょう!? 元の薬だけで
も今のセイルさんじゃ危ないのに、そんなことまでしたら本当に……」
「ミコ! 黙りなさい!!」
「シグルーン、さん……」

 ミコは、シグルーンを止められなかった。

 なぜならその時。
 シグルーンとセイルの二人ともが、とても幸せそうな顔をしていたから。

 もう、駄目だ。
 これで全てが終わる。

 シグルーンは震える手を必死にこらえ、セイルの腕に針を突き刺した。

 セイルの全身が淡い光を発する。
 とても暖かいオーラが一同を優しく包み込んだ。

 たちまち、リムリアたちの火傷や怪我が癒され、消えてゆく。
 それどころか、体力さえも完全に戻っていた。

(凄い……)

 愛の大神官、セイル=ウォルサム=フェルナンデス。
 その力は今や、真の神々に匹敵するほど強大なものに膨れ上がっていた。

 同じように癒されたシグルーンとジャンのDALK二人を従え、セイルはゆっくりと
中央のパネルの前に進んだ。

「四つの宝玉を」

 セイル自らは黒の玉をその扉にかざす。
 同じようにシグルーンは胸から青の玉を外し、かざした。

 悲しそうな表情のまま、意を決して二人に従うミコ。

 リムリアはいったん躊躇した、でも。
 わかってる。もう手遅れだってこと。もうどうにもならないことを。
 だからせめて、最後くらいこの目で見届けたいと思ってきたんだから。

 リムリアの『奇蹟の徴』が、パネルにかざされる。
 最後の扉が、開いた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 それは紛れも無く、かつてセイルたちがトラム山地下迷宮一千階にて戦った魔神の姿
そのものだった。

 ただ一つ、その大きさのみが異なっていた。
 そこにいたのは、人間の等身大に過ぎない大きさのグナガンだった。

 そして、殺風景な玄室の中央にある座椅子に構える魔神にしがみつく女性。
 そう、そこにはライザもいた。

 しかし彼女の瞳に理性の色は無い。

 彼女は部屋に入ってきたセイルたちに気付くそぶりも見せず、ただ魔神と腰を交えて
ひたすらそれをうごめかせるだけだった。途切れ途切れに彼女の唇から漏れる、嬌声と
も悲鳴とも判別できぬ意味の無い声だけが、未だ彼女が生きているという証拠のようで
もあった。

 彼女の異常はそれだけでない。入室してきたリムリアたちが思わず目を背けたくなっ
たのは、そんな彼女の痴態ではなく、信じられないほど巨大に膨れ上がり、不気味に脈
動し続ける彼女のお腹だったのだ。パッティの他の巫女たちと同じようにも見える。だ
がその大きさは一回り以上大きく、しかも落ち着いたものではなかった。

 ギリッ。

 奥歯を噛み締める音が、リムリアたちの耳に届く。
 誰が発したものかは言わずもがなだった。
 それを裏付けるように、セイルの杖を握る手が固く強張る。

 それに応えるように、グナガンがゆっくりと立ち上がる
 だがそれは信じがたい光景だった。

 ライザと交わったままのグナガンから、まるで幽霊のようにもう一体のグナガンが浮
かび上がったのである。それは腰を振り続けるライザをすり抜け、ゆっくりと先頭のセ
イルの前まで歩み寄ってきた。どう見ても幽霊や映像には見えない。その証拠に歩く時
きちんとした質感のある足音が響いていた。玄室に備えられた幾つかの灯りに照らされ
影もきちんと伸びている。

 それは、座ったままのグナガンとセイルのちょうど中間で足を止める。
 そして当然のように、あの骸骨のような頭部を両手で上へと外す。

 とても愛嬌のある、美青年と呼んで差し支えない、少し幼い感じの笑顔。
 まるでグナガンの体躯が、青年を覆う全身鎧のように見えた。

 彼はにっこりと笑い、頭を下げる。

「初めまして。私、アーサー=ロレンスと申します」

 その時だった。
 ジャンの身体がまばゆい光を発し、眼前の青年に突進した。

 声を挙げる間もない。
 アーサーと名乗った青年、いや魔神は、ジャンの一太刀で真っ二つに両断された。

 血飛沫一つ上がるでもなく、魔神の体躯は霧のように消失する。

 剣を引き、一歩退くジャン。
 その眼前で、再びさっきと同じ人物が、同じ姿で浮かび上がってくる。

 淡い輪郭が形を留め、またしても一体の魔神、いや青年となって復活した。

「……困った人ですね。まだ挨拶も終わっていないというのに」

 アーサーと名乗る青年は、苦笑いしながらジャンに語りかけた。
 それに対しジャンは、苦々しさと口惜しさの混じった声で答える。

「変わってない。貴方は、一千年前と何一つ変わってない! あの時もそうやって、何
が起こってもただ笑ってるだけで、そしてライエスを、あの人を道連れにしていった!
ライエスは貴方を信じ、貴方に憧れ、貴方だけを見て貴方に尽くしたというのに、貴方
は彼に何も応えることなく、彼の命を犠牲にした! ……私は、私は貴方を許せない!
貴方さえいなければ、貴方があんなことを仕組まなければ、『ワタシ』は……!」

 そしてジャンが再び剣を振るう。今度は横なぎに、彼の首を刎ねるように。
 しかしアーサーは左腕を一本上げただけでその剣を止めた。

「お待ちなさいと言っているのに。まだお連れの方々への挨拶が」
「黙れ! この化け物!!」

 その時ようやくセイルが声を挟んだ。

「ジャン、待ちなさい!」
「引っ込んでろ、人間! お前の出る幕じゃない!」
「契約です! 貴方は私の配下である筈!」
「うるさい! 神々の戦いに口を出すな!!」

 リムリアたちの顔に浮かぶ疑問が、驚愕へと変わる。

「ちょっと、それって!?」

 その驚きを無視したまま、セイルが説得を続ける。

「貴方が過去に彼と何があったか知りませんが、私とて引けません。やっとライザの所
までこれたんだ! 彼に仔細問い質し、彼女を救い出すのを邪魔する気なら、貴方とて
容赦しませんよ!?」
「ハッ、救い出すだって? 見るがいいあのザマを! この化け物を『吸い切れず』に
ただの肉塊と化そうとしている女を今更救うだって? 言ってあげようか? もうあの
女は元には戻れない。もっとも、この化け物を『殺し尽くせば』、死なずには済むかも
しれないけどね」
「……どういう、ことですか?」
「見ての通りだよ! こいつは、アーサー=ロレンスと名乗るこいつこそが、真のグナ
ガンだってことだ!」
「そんなことはわかってます、かつて『永遠の勇者たち』と呼ばれた五人組を束ねたリ
ーダーである人物がグナガンと同化して……」
「違う! まだ気付かないのか?! ならばこいつの制御デバイスはどれだ? どこに
ある? いつそれをお前たちが手に入れた!?」
「……え?」
「四魔神とは『力』だ。純粋なる『力』だ。ジェネレイターと言ってもいい、四つの力
の源だ。でもそれは単に産み出し、発するだけしかできない。太古の災厄とは奴らを制
御する手綱を失ったことによる、力の暴走に過ぎないんだ。でもグナガンは違う。こい
つは『鎧』だ! 力を呼び込み、自在に操る為に太古『神々の創造主たち』が造った殻
だ! これを纏えるのは真の主(あるじ)ただ一人。過去の災厄の全て、神と魔と人の
争い、『LASTING WAR』の全ての原因は、その真の主が喪われた事による秩
序の破壊に他ならない!」

 それに続くように、アーサーと名乗る青年が口を開く。

「そう、今アーサーと名乗っている『私』は、グナガンの殻が幾百もの『人間』の魂を
吸い尽くした上に形成された一個の人格に過ぎません。ですがそれゆえに、私は『人』
の総意を理解する術を得たのです。私が感知した人の総意、それはただ一つの願い、」

「『安らぎを』、でした」

「それを実現すること、それが私の生まれた理由となり、私自身の存在意義となりまし
た。ではそのために私は何をすべきか? 答えは単純でした」

「『私自身の消去』です」

「だが私は自らを消去する術を知りません。なぜなら私は『私の生まれた術』すらも知
らないからです。故に私は人に助けを求めました。『我々の創造者の末裔』たる『人』
であれば、それを見出すことも可能であろうと」

 そして嘲笑するようなジャンの言葉。

「その結果がこれだ。こいつは一千年前、自分を慕い、信じた四人の英雄に無限の苦し
みを与えた。こいつらの存在を畏れた神々によって、更にパッティの五人が犠牲になっ
た。そして今、そのとばっちりを受けたこいつらがここにいる!」
「それだけではないでしょう?」
「そうだ! 貴方が最後の一年に従えた『私たち四人』こそが最大の犠牲者だ!」
「……それほど、私が憎かったのですか? だからあの時、あの最後の瞬間、私たちの
邪魔をしたというわけですか?」
「ああ、憎いさ、憎いとも! 貴方は私からライエスを奪った! 私に神々に付け込ま
れる隙を作った! そして私に、一千年の地獄を見せた! そして今また、ライエスの
魂を継ぐ者までも地獄に落そうとする! 許せる筈が無い!」

 するとアーサーは、心底悲しそうにジャンに告げた。

「でもそれは、貴方自身の罪でしょう? 『ジャンヌ=D=オルレアン』?」

 そう、既にリムリアたちも気付いていた。
 何故ジャンが男性なのにDALKだったのか。

「だから女性に興味が無かったんですね……」

 ミコの間が抜けた言葉も、この状況では冗談にもならない。

 アーサーと剣を合わせる、純白のマントと羽飾り兜を身に付けた軍神。
 彼、いや「彼女」は、真のDALK神だったのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

    凛々しい乙女の姿をした軍神。

    一説に、神に与えられた試練をまっとうした功績を持って、
    神々の末席に連なることを許されたという人格神。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 「オルレアンの少女」、それが私の呼び名だった。

 あの悲惨な時代。人心は荒廃し、人が安らぎを得られる場所などどこにも無い。
 きっと、だからだったんだろう。私が「神の使徒」になってしまったのは。

 始まりは偶然だった。あの日、突然私の住む町に攻め込んできた隣国の軍勢。
 皆が逃げ惑う。老人も子供も、皆容赦無く殺されていく。
 私も恐怖に駆られ、必死で逃げた。皆と一緒に逃げ続けた。
 でも逃げ切れない。臭い息を吐きながら兵士たちが私を押し倒す。

 恐怖、そして悔しさ。

 一瞬の隙をついてもう一度逃げ出す。それでもあいつらは追ってきた。
 逃げた。逃げながら考えた。
 悔しい。なんでこんな目に。

 嫌だ。「許せない」。

 道端に落ちていた剣を拾い上げた。
 握り締める。振り返る。追ってくる兵士たちに剣を構えて立ち向かう。

 笑っていた。馬鹿にした笑いだった。
 怒りが、私を人間で無くした。

 気付いた時、三つの何かが私の周りに転がっていた。
 人間? いいえ、違う。こんなものが「人」の筈が無いもの。

 遠くから、たくさんの騎馬のひづめの音が聞こえてくる。
 ああ、あんなにたくさん。さすがに今度は駄目かな?

 そう思った時、迫りくる軍勢が光に包まれた。

 偶然だった。
 偶然その場にやってきた『奴ら』の雷(いかずち)が軍勢を焼き払っていた。

 私はそれを呆然と見ていた。
 いつしか、生き延びた町の人たちが私の周りに集まってくる。

 彼らは、私を救世主と称えていた。
 私を「神の使徒」と呼んでいた。

 「オルレアンの少女」、その名は近隣に知れ渡り、私は何か得体の知れないものに祭
り上げられていた。名前も知らない町の偉い(らしい)人が頭を下げて近づいてくる。
多くの人が私に媚びへつらう。そしてそれに数倍する人たちが、私に救いを求めて手を
伸ばしてくる。

 怖かった。あの兵士たちの恐怖など比較にもならない、本当の「畏れ」。
 人とはこれほど恐ろしいものなのか?
 本当に畏ろしいのは「奴ら」なんかじゃなく、「人」なんじゃないのか?

 その恐怖から救ってくれたのが、ライエスだった。
 私の幼馴染、ただ一人の友達。

 私の一番大事な人。

 彼は私を理解してくれてた。こんな状況になっても、身を呈して私を庇ってくれた、
守ってくれた。オルレアンの少女として戦場を巡る身になっても、常に私のそばにいて
私を護り、私と共に考え、私と共に戦ってくれた。

 彼がいたからこそ、私は自らを「神の使徒」と演じさせることができた。
 本当はそんなものじゃないことは嫌というほどわかってる。
 でも彼のおかげで、私はほんの少しだけ、人から敬われ、感謝される快感を知った。

 後に私達と行動を共にするようになる二人との間も、ライエスが取り持ってくれた。
表向き私達四人は「オルレアンの少女たち」と呼ばれたが、要(かなめ)がライエスな
のは言わずもがなだった。

 それが日常であることに慣れ切ったある日、「彼」が現れた。

 「彼」は私達に助力を求めた。
 あの無邪気な笑顔で。その柔らかい物腰で。

 そしてライエスは、アーサー=ロレンスの虜となった。

 全てが狂い始めた。
 私達四人は、いつのまにか「彼」の意のままに動く人形と化していた。

 そう、ライエスがそうしてしまったのだ。私達にとってはライエスの意思こそが全て
だったのである。他の二人もライエスにならう。そして私も。どれほど心の中でそれを
拒んでも、ライエスが求めることを私は拒否できなかった。

 ライエスの全てが「彼」へと向かう。

 その瞳も。
 その声も。
 その想いも、憧れも。

 今まで私に向けられていた全てが、「彼」に奪われた。

 嫉妬。なんて強い、恐ろしい感情。
 自分にこんなものがあるなんて。
 きっと今の私を見た人は、私に畏れを抱くに違いない。

 だからだろう。
 「約束の日」の前日、真に畏るべき存在の誘いに乗ってしまったのは。

 彼はフラドと名乗った。
 彼は言った。お前を本当の「神の使徒」にしてやる、と。

 私はそんなものになりたかったわけじゃない。
 ただ私は、今の醜い自分をライエスに見せたくなかっただけ。

 それくらいなら「彼」もろともライエスを殺してしまいたかっただけ。

 私はフラドの命を実行した。
 世界の「相」が変わる。

 そして私は神々に列せられ、「DALK」となった。
 それが永遠の地獄へ続く道であることを知らぬまま。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 口惜しげに歯軋りするジャンヌが、口ごもるようにアーサーに答えた。

「わかってる、本当は私の犯した罪のせいだって。……でも!」
「『もし私が現れなければ』ですか。確かにその通りです。少なくとも貴方とライエス
がこの件で不幸になることは無かったでしょう」

 全てを理解した風に優しい笑顔で応えるアーサー。
 なるほど、これでは確かにジャンヌの癇にさわること甚だしかろう。

「……そう、またそれだ。貴方は決して揺るがない。ライエスはそんな貴方を『大人』
(たいじん)と勘違いして崇拝してしまった。でも貴方は結局『人』ではなかった。貴
方のその落ち着きも笑顔も、そして我々への信頼も全て、貴方が『人ではない』からこ
そ為し得た『状態』に過ぎなかった」

 ジャンヌの悔しげな顔が、わずかに悲しげな色に染まった。
 なのにアーサーは、やはり変わらぬ笑顔で。

「でも、それが私の『魂』なのです。それが私という存在なのです」

 ふう、と息を吐き、うつむいて目を閉じるジャンヌ。
 そして改めて顔を上げる。断固とした決意を示す引き締まった表情で。

「だから、だから私は貴方を倒さなければならない。これ以上の悲劇が起こらないよう
に! これ以上、貴方のせいで惑わされる『人』が現れないように!!」

 そしてジャンヌが一歩退き、再度剣をアーサーに向けて構えた時。

「お待ちなさい、ジャンヌ。私の用件が済んでいません」

 ここまで場を譲っていたセイルが、ジャンヌの脇に出てアーサーと対峙した。ジャン
ヌも一応言いたいことを言ったという心の区切りが出来ていたのだろう。ここは素直に
セイルに主導権を譲る。

「初めまして。……いや、お久しぶりです、と言うべきでしょうか、アーサー殿?」

 アーサーは懐かしそうにセイルを見つめ、笑いかけた。

「いいえ、初めましてですよセイル君。貴方の『血』がライエス君より連なるものでは
あっても、貴方の魂は紛れもなく貴方自身、セイル=ウォルサム=フェルナンデスのも
のなのですから」

 そう。セイルはこれまで幾度も夢の中で彼に出会っていた。

 あの日、トラム山地下一千階で初めてグナガンを倒した直後見せられたあの映像。
 あれ以来、繰り返し夢で見直すことになるあの映像。

 神話の光景。
 一人の英雄が、四人の使途を従えて魔神と対峙する光景。

 その四人の中に、自分の姿があったのだから。
 そして彼、いや「彼女」の姿もあったのだから。

 セイルはそれを承知の上で、ジャンの助力を受け入れていた。
 それが神々の姦計であろうと察しがついていても、彼はそれを黙認したのである。

「そうですね。私にはライエスという人の記憶も魂も残ってはいません。かろうじて前
世のリースの記憶を辿れるくらいですから。もしかしたら私の魂がそんな特殊な力を持
つがゆえに、この場にこうして立たされたのかもしれませんね」
「その通りです。この世に偶然などありはしません。全ては必然であり自然(じねん)
の展開なのですよ、皆さん。シグルーン君もミコ君も。そしてリムリア君、あなたもそ
う。もうわかっているのでしょう?」

 宝玉を継承することとなった三人に向け、アーサーの言葉が振られる。

 一見無表情ながら、どこか楽しげな風のシグルーン。
 沈痛な表情で、それでも自らの宿命に耐えようとするミコ。

 そしてリムリアの心の中にはファルの、いや「リル」の言葉が蘇ってきた。
 今にして思えば、あれはミルが戯れに見せた夢物語なのかもしれない。
 でもあの時の言葉はリムリアにとって真理だった。だから。

「わかんないわよ!」

 ただ一人彼女だけが、アーサーの悟りきったような言葉に反駁した。
 おや、と首をかしげるアーサーにリムリアが言葉を継ぐ。

「あたしは、あたしの行動も選択も全て『あたしが決めた』って知ってる! あたしの
過去も未来も、あたしのものだからこそあたしは胸を張って生きてける! 誰かの、何
かの『意思』にあたしの全てが導かれてるなんて、あたしは絶対信じない!!」

 それに対するアーサーの答えがまたうがっていた。

「それで正しいんですよ、リムリアさん。あなたが自由意思を持つということ、そして
世界が全て自然であることは『全くの同値』なのですから。一切は完全です。過去も未
来も、そして現在も、全ては自由で完全なのです」

 リムリアにもジャンヌの気持ちが理解できていた。
 アーサーは全てに正しく応えているが、実は全く何も答えていない。
 それは結局、己を流れの外に置いたままの傍観者であることに過ぎない。

 うたかたの流れに身を委ねざるを得ない「人」にとっての憧れ、嫉妬。
 それは永遠。不変という名の、至高の無価値。

 リムリアは奇蹟の徴を握り締め、心の中で叫ぶ。
 お願いファル。あと一度だけ力を貸して、と。

 対話を放棄したリムリアに代わって、再度セイルがアーサーに問い掛ける。

「アーサー殿? 私にとっては世界の命運や人の世界の安寧など、もうどうでもいい事
です。私がお聞きしたいのはただ一つ。彼女、私の姉、ライザ=ウォルサムを救うには
どうしたらいいのか、ということだけです」

 アーサーは未だ背後でライザと交わったままの自分を振り返りもせず、言い放つ。

「残念ですが、彼女はもうもちません。約一年前、そう、あなたたちがクーロンで火の
魔神を封印し終えた後ここにやってきた彼女は、その時からずっと私と交わり続けてい
ます。彼女は既に七人の『私』を胎内に吸収しました。でもそれがどういうことか、も
う貴方たちにもおわかりですよね。他のパッティの皆さんを見ればわかるように、本来
人一人が引き換えに出来る『魂』の大きさは当然一人分だけです。でも彼女は特殊な魂
を持っていました。私、アーサー=ロレンスという『人の魂の集合体』を相殺するには
『零行列』を以ってするより他に手段が無いのは理解できるでしょう? 勿論真の零行
列である魂など存在しませんが、彼女は己の魂のサブシステムとして零行列を内包する
魂を所持しているのです」

「即ち、だからこそ彼女がパッティのリーダーに選ばれたのです」

「彼女は命さえ続けば、最終的には私を消去できます。しかしそれは机上の空論に過ぎ
ません。私を一人消去するたび、彼女は己一人を完全にすり減らす苦しみを受けるので
す。……最初の一人を消去した時点で、彼女の自我はもう崩壊しています。今こうして
使命を果たし続けようとしているのは、『奴ら』が彼女の肉体に仕掛けたプログラムに
過ぎません」

「そして彼女の肉体も、もう限界です。あと一人もつかどうか、という所です」

「正確に言いましょう。『私』を構成する魂は残り988個存在します。あなたたちが
彼女の命の尽きる前に最低987人の『私』を倒さない限り、彼女が助かる可能性は万
に一つもないでしょう」

 その答えはセイルも予想していたのだろう。無表情のまま、再度確認する。

「987人、ですね?」
「はい。念のため言っておきますが、私を構成する魂の一つ一つは、永遠の勇者たちと
同レベルの能力を持つ実力者たちのものでした。彼らの魂は長い年月をかけてこの殻に
蓄積されていきました。もし彼らが同じ時代に生まれ、一致団結していれば『奴ら』と
真に対抗できていたでしょうに。実に残念なことです」

 つまり、神族全てを敵にするのと同じくらいの脅威、というわけか。

 リムリアは知らず、身震いしていた。これまでの四人を倒すのに自分たちがどれほど
苦労したことか。その約一千倍だと彼は言い放つ。こっちには真の神、それも軍神であ
るDALKと、神々の代理人である大神官のセイルがいるが、結局はその二人だけ。

 一体どうするの? そう口にしようかと思ったその時。
 セイルの身体から紅の、まるで炎のようなオーラが立ち上った。

「セイルさん、駄目です! その力を使っては……!?」

 ミコの叫び。でも誰一人、セイルを止めようとはしない。
 灼熱にも感じられるその光を身に受けた瞬間、リムリアたちの体にとてつもない力が
みなぎり始めた。

「うそ、これって……!?」

 後ろのアリーヌたちを振り返ってみても、皆同じ反応を示していた。
 わかる、今の自分たちなら、一人でも永遠の勇者たちくらい相手に出来そうだと。
 それを自覚したリムリアたちに、セイルの声が届く。

「聞きましたね皆さん。あと987人だそうです。さあ、その力をもって、最後の戦い
を完遂しましょう」

 セイルが自分たちに神々の力を分け与えているのだろう。それはわかる。
 でもそんなことをして、セイル自身は平気なのか?
 そもそもそんなことが「人」に可能なのか?

 この部屋に来る前にあった一幕が思い出される。
 先刻ミコが挙げた悲鳴と繋がる場面。
 セイルが投与された、紅い色をした注射液。

 リムリアもまた、一つの絶望を予感した。でも。

「わかった。……やろうよ、ミコ?」
「リムリアさん……」

 悲しげに振り返るミコに対し、リムリアは首を大きく縦に振った。

「あたしたちがセイルにしてあげられる、最後のことなんだから。ね?」

 ミコの瞳に映る、リムリアの心からの微笑み。
 優しすぎて涙が出るほどのいたわりの心。

 ミコが身構える。それにつられるように、リムリア以下の四人も態勢を整えた。

 見ようによっては楽しげに、いややはり無邪気な笑顔でそれを眺めるアーサー。
 そして改めてセイルを見つめる。彼の最後の問いだった。

「セイルさん? もし貴方が私を消去できたとして、その後に何が来るか、わかってい
ますか? これは『奴ら』の求める展開そのものなんですよ? 今この世界で『奴ら』
に対抗できるのは唯一『私』だけであり、私は『人の世界の安寧』のために、『生きた
まま』この身を封じるという次善策を採るしかありませんでした。その私を消去すると
いう意味、その本当の意味を、貴方はわかっているのですか?」

 セイルは簡単に答えた。

「わかりません」
「ほう?」
「わかろうとも思いません。アーサー殿、貴方は自分を『人の総意』と言いましたね?
でもそれは貴方の思い込みです。人の世界がどうなるかなんて『人』が決めればいいこ
とです。貴方がいなくなった世界がどうなろうと、それは全て、いやそれこそが全て、
『人が自ら求めたこと』です。貴方の意思など関係ありませんよ」

 アーサーはゆっくり肩の力を抜き、コクンと頷いた。

「いいでしょう。私を消去できた後の世界のことは、全て貴方たちに委ねます」

 そして、アーサーの体が幾つにも分裂していく。
 その一体一体が、セイルたちに向かって歩き出した。

「でもそれは、私を完全に消去できたらの話です」

 ジャンを包囲する五人のアーサー。
 セイル、シグルーン、ミコに対峙するのはそれぞれ一人ずつ。
 そしてリムリアたち四人に対しては一人のアーサーが立ち向かった。

「もう一度言います。時間はそれほどありません。もしライザを助けたいと思うなら、
可能な限り早く私を倒しなさい」

 セイルがショートラムを訪れてちょうど四年。
 彼らの最後の戦いが始まり、今終わろうとしていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 その戦いは、三昼夜続いた。

 一日目。五百の魂が昇天し、エリスンとジーマが戦闘不能になった。

 二日目。三百の魂が昇天し、アリーヌと集中攻撃を受けていたジャンヌが脱落した。

 三日目。残り後二つとなった時、立っていたのはセイルただ一人だけだった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 セイルの剣が、987人目のアーサーの心臓を貫いた。

「お見事、です……よくやりました……『人』よ……後の世界を、頼み……ます……」

 アーサーの輪郭がぼやけ、霧のように消えていく。
 それと同時に、支えを失ったセイルの体が床へと崩れ落ちた。

 わかる。本当に、後一滴ほどの力も残っていないこと。
 自らの命をつなぐ力も尽きかけていること。

 でもセイルは、残された全ての力を振り絞って、首を上げた。

 この三昼夜、自分たちの死闘に目もくれずひたすらアーサーと交わり続けていたライ
ザの姿。それは今も変わらない。きっと彼女はこの一年、ずっと同じことを続けていた
のだろう。

 ごめん、ライザ。ごめん、姉さん。

 そう呟きたくても、乾ききった唇が動いてくれない。
 ところがその時、ライザの動きが変化を見せた。

 アーサーの表情に余裕が無くなる。
 感情を失い、白目をむく。
 その全身が、淡く輝き始める。

 「その時」、が来る。

 ライザの動きが慌しさを増した。
 迫り来る一瞬に向け、残された全ての力を費やすように。

 セイルは立ち上がっていた。
 自分でも自覚しないまま、どこにそんな力が残っていたか知らぬまま。

 よろよろと、ライザへと近付いていく。
 交わり続ける二人は一個の光球と化し、凄まじいエネルギーを振りまいている。

 セイルはそれが危険であることも理解できない。
 ただライザを求め、苦しみ続けるライザを求めて手を伸ばした。

 そして指先が光球に触れる瞬間。
 セイルの体が大きく弾き飛ばされた。

「キャアアアーーー!」

 女性の絶叫が響く。それはジャンヌだった。
 驚いてそれを見つめるセイル。生き残った仲間たちもそれで意識を取り戻し、うつろ
な頭を振って状況を理解しようと試みる。

 光球に捕われたジャンヌの全身が、凄まじい電撃と炎で焼かれていく。
 神の身を持つ彼女でさえ、もう助からないであろうことは明白だった。

「ジャン、ヌ……」

 やっと、セイルは喉の奥から言葉を発することができた。
 その呟きが届いたのだろう、ジャンヌの顔に、僅かに笑顔が浮かび上がった。

「よかった、セイル……」
「なぜ、どう、して……?」
「だって、これ以上……ライエスの……魂が、苦しむのを……見たくなかった、から」
「……バカですよ、貴方は、本当に……」
「うん、わかってる……」

 そしてジャンヌは最期に、意識を取り戻していたシグルーンに向かって言った。

「ごめんね、シグ……辛い思い、させて……」
「ジャンヌ……」
「でも、覚えてて……貴方は、私に似てる……愛しすぎて、愛する人を苦しめる……」
「……」
「相手を解放してあげるのも、愛の一つ……無理しないで……もっと自由に……」

 そして、ジャンヌの体躯が光に包まる。
 それはもう、人でも神でもない。
 次第に失われていく輪郭。
 それが急速に速度を増し、呆気なく、ジャンヌの痕跡はこの世から消滅した。

 無言の静寂。

 それと入れ替わるように、光球がだんだんと小さくなっていく。
 光は次第に人の形を成していく。見慣れた、懐かしい形へと。

 光はライザへと変じた。
 もうどこにもアーサーの姿は無い。

 不思議なことに、彼女はすっきりとしたボディラインを成していた。
 胎内に幾つもの魂を納めたとは思えないほどの自然体型。

 昔のままのライザが、昔のままの笑顔を浮かべてセイルを見つめていた。

 至福の表情を浮かべるセイルの元へ歩み寄るライザ。
 そして彼女は、セイルの頭をその胸に抱きかかえた。

 ありがとう。

 ライザの唇が、そう動く。
 二人は幸せそうに見つめあった。

 そして、ライザは消滅した。
 今そこにいたのが嘘のようにあっさり、忽然と消えた。

 恐らく、地下一階のパネルに封じられたのだろう。
 他のパッティの仲間たちと同じように、同じく大きなお腹を抱えて。

 そして一切の魂を失い、永遠の眠りについたのだろう。

 その場に残された全ての者が、等しくそれを察した。
 今度こそ本当に、全てが終わったのである。

 そう。セイル=ウォルサム=フェルナンデスの戦いは、全て終わった。

 そして舞台は崩れ去る。
 遠くから地響きが聞こえてきた。

 地面が揺れる。
 いや、空間が揺れていた。

 この混濁した地下迷宮時空を支えていた全ての力と封印が消えた今、この迷宮自体も
終わりを迎えようとしていたのである。

 まず動き出したのは、ミコとリムリアだった。
 共に仲間たちを起こし、玄室の出口へと皆を導いて行く。

 無論、全員瀕死状態で、歩くことはおろか立ち上がることすら至難の状態である。
 それでも二人は、うめき声一つ上げず仲間を救い出そうとしていた。

 そしてセイルも再び立ち上がる。
 意識はあっても立ち上がれないシグルーンを抱きかかえ、既に玄室の外へと向かうリ
ムリアたちの後を追った。

 崩壊を始めた玄室から、リムリアたち四人が脱出した。
 彼女たちは後に続く二人を待った。

 セイルとシグルーンが、玄室の出口までやってくる。
 セイルは、リムリアたちに笑顔を向け、シグルーンの体を託した。

 その笑顔は、かつて皆に見せていた、当たり前のような笑顔。
 皆を心から愛する、対等な仲間としての笑顔だった。

 そしてセイルは一歩を退く。
 その瞬間、玄室の扉が閉じられた。
 セイルの姿は見えるのだが、入り口が強固な封印で閉じられたのは明白だった。

 その時、ようやく状況を理解したシグルーンが、自分を支えるリムリアの手を跳ねの
けて玄室の入り口にしがみついた。

「なぜ? どうして、セイル!?」

 セイルは寂しげに笑っていた。

「一緒に連れてってくれるって、一緒に死なせてくれるって約束したじゃない!? だ
から私は全てを捨てて……なんで、なんでよセイル!?」

 セイルの小さな呟きが、シグルーンを打ちのめす。

「ごめんなさい、シグ。……私は、もう疲れました」

 ああ、と口を大きく開けて崩れ落ちるシグルーン。
 その耳に、更なる追い討ちがとどく。

「後は、お願いします……」
「そんな!? あなた無しで、私に何が……」

 セイルの体がぼやけていく。
 閉じられた先の時空が崩壊していく様が、残された彼女たちにもはっきりと見えた。

「さようなら皆さん。ごめんなさい……」

 かろうじて聞き取れた最期の言葉。
 そして、あの笑顔。

「あ、あ、ああ、あああーーーっ、わあああーーー!」

 もう何も映っていない扉にしがみつき、狂人のように泣き叫ぶシグルーン。
 その後ろ、やはり扉を見つめ、無言で涙を流し続けるミコとリムリア。

 やがて、唯一残された地下迷宮一階部分も鳴動を始める。

 異次元との接触点であったこの場も、先の世界の崩壊に引きずられていた。
 ミコとリムリアは涙を拭い、皆に脱出を指示する。

 しかし、シグルーンだけは扉から離れようとしない。
 リムリアが彼女を立ち上げようと手を差し伸べるが、それを怒りの顔で振り払う。

「ほっといて! 私はここで死ぬの! あの人と一緒に死ぬの!!」

 リムリアもまた怒りの表情を浮かべ、シグルーンの胸倉を掴んで引き上げた。
 そして何か言おうとしたが、突然シグルーンの頭ががくんと前へ落ちた。

 背後でミコが、シグルーンの後頭部を殴って意識を失わせたのである。

「今は喧嘩している時ではありません。早く外へ……」

 リムリアは驚き、そして苦笑いしながらミコに礼を言う。
 そして二人でシグルーンの体を抱え、地上へと脱出した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 その日、トラム山が消滅した。

 一年前の二次災害と思われる。
 半分残っていた山の地上部分全てが地の底に消えた。

 唯一残っていた地下迷宮の一階部分も消滅した。
 後の探索でも、地下一階に残されていたという箇所の一切は発見できなかった。

 そしてこの時、たまたま地下の調査に出ていた大神官が犠牲になった。

 セイル=ウォルサム=フェルナンデス。
 「愛」の大神官。享年22歳。

 その早すぎる死に、人々は涙した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

(以上、報告を終わります)
(ご苦労、マーティス。これでやっと「始まり」が訪れるな)
(……フラド様?)
(なんじゃ?)
(DALK神、ジャンヌの事はいかが致しますか?)
(ふん、あんなモノ。所詮はいかがわしき人間のなれの果て。役に立ってくれたことは
ありがたいが、人間でありながら神々の栄誉を行使できたのだ。これくらいしてもらわ
ねば割に合わぬわ)
(……)
(なんじゃ、その顔は?)
(その割に、随分お楽しみであったように見受けられますが。特に最初の百年間など、
一時も離さずに彼女を……)
(マーティス?)
(はっ、申し訳ありません。口が過ぎました)
(まあ良い。これでかねてからの懸案であった永遠の勇者どもとグナガンを消去できた
のだ。これで我らの邪魔をしうる全ての力は消えた)
(ここまで育て上げたシグルーンたちにつきましては、いかが致しますか?)
(ふむ。まあ人間にしては役立ったこともある。ジャンヌの代わりに神々に引き上げて
も良かろうな。その方が彼女らにとっても幸せであろう)
((貴方にとっても、ですか))
(何か? マーティス?)
(いえ、何も。……でももし彼女たちが拒みましたら?)
(その時はお前が処分せよ。彼女たちだけでは永遠の勇者の足元にも及ばぬ。そもそも
その為に核となりうるセイルを処分しておいたのだ)
(重々承知。フラド様の深謀遠慮、ただただ感嘆するのみです)
(善哉。では早速始めるとしよう)
(『THE LAST OF LASTING WAR』ですね)
(そうだ。ついに我ら神族の『Billennium (百万年王国)』実現の時がや
ってくるのだ。神族全てを招集せよ。我自ら、この栄誉ある開戦の儀を発する)
(御意……)

(ついに始まりましたよ、ミラ)
(始まってしまったのね。でもあなたはどうするの、マーティス?)
(全てはシグルーンたち次第です。私にはどうすることもできません)
(……そうよね、あたしたちは神だもの。人の世界がどうなるかなんて、「人」自ら決
めてくれなきゃどうしようもないよね)
(……それにしても、我ながら)
(ん、なに?)
(度し難いとは思います。私は本当に愛の神なんでしょうか?)
(マーティス……)
(愛によって人を操り、愛によって人を苦しめる。これが愛の神ですって?)
(マーティス、わかってる、わかってるわ! だからあたしはあなたを……)
(ありがとう、ミラ。「その時」には、お願いします)
(うん。でもまず、彼女たちがどう動くかよね)
(ええ……お願いしますよ、リムリア、そしてミコ。シグルーンを動かせるかどうかは
全て貴方たちにかかっているのですから)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 トラム山消失の翌日。
 大陸全土の大神官たちに、神々からの布告が届く。

 「最終戦争(The Last of Lasting War)」

 セイルのいなくなった世界で、残された仲間たちの戦いが始まる。


                   《第二章》了

                    2001.1.14

                    The Second Chapter, 4th Story :
                    "Graduation"
                    written by Sayah=Otokami