『 ライザ姉さんへ

  この手紙が姉さんの目に触れる可能性なんて、万に一つも無いと思う。
  でも今の僕には、もうこんな手紙を残すことしかできない。許して欲しい。

  獣人のみんなには、悪いことをしてしまうね。
  みんなを騙すことになってしまうから。
  でも、もし誰かがこれを探し出してくれるとしたら、それはきっとテホンに眠る
  魔神が目覚めた時しかありそうもないんだ。
  その時はきっと、ライザ姉さんも目覚めてるはずだから。

  ライザ姉さん、ごめんね。
  僕にはもう、姉さんを目覚めさせるのに頑張る時間が無い。
  約束したのにね。僕が絶対、姉さんを封印から解放するって。
  魔神なんか倒しちゃって、姉さんが封印なんかになる必要を無くすんだって。

  でも、間に合わなかった。
  僕、もうすぐ死にます。
  悔しいな。何でこんな時に、こんな病気に。

  なんでだろ? なんで姉さんがこんな目に会わなきゃならないんだろ?
  世界のため? 他の人のため?
  ……神の秩序のため?
  ふざけるなよ! だったらお前らが自分でどうにかすればいいじゃないか!
  自分たちは何にもしないくせに、人間を犠牲にしやがって。
  マーティスもフラドも、神なんてみんな卑怯者だ。消えちまえよ、お前ら!

  本当にごめん。僕、もう姉さんに会えない。
  でもね、最近なんだか思うんだ。
  もしかしたら僕、また姉さんに会えるかもしれないって。

  生まれ変わりとか、そんなこと信じてるわけじゃないけど、でも感じるんだ。
  きっと僕の魂を継ぐ、僕の仲間たちが姉さんを助け出してくれるのをさ。

  そしてその仲間はきっとこう言ってくれるはずだ。
  姉さんたちだけが犠牲になる世界なんて許さない、って。
  もしかしたそれ、僕の生まれ変わりかもしれないよ。

  だから、きっときっと姉さんを目覚めさせて見せるから。
  待ってて。僕を忘れないで。

  僕はいつでも、ここにいるから。

           最愛の姉、ライザ=ウォルサムへ
                           "Eternal Heart"
           あなたの弟、リース=ウォルサムより永遠の思いを込めて 』



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DALK

〜〜 第一章 〜〜

〜 第四話 〜

「縁示の表裏(フタツノココロ)」

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 獣人の森を出て五日目。クーロンの皇都、ラワンの外環にある船着場の一つにセイル
たちが船を着けた時の事である。

「おい、貴様ら!」

 突然、二十人ほどの制服を着た屈強な男たちが、今まさに船を下りたばかりの一同を
取り囲んだ。

「……何事でしょう?」

 セイルが前に進み出、先頭に立つ指揮官らしき男に問いかけた。

「お前がセイルだな?」
「はい」
「よし。貴様ら全員逮捕する! 縛り上げろ!」

 騒然とする一同。だがセイルだけは泰然としていた。

「……従いましょう、皆さん」
「そんな、セイル!」

 少女たちにニッコリと笑いかけるセイル。彼女たちがその柔らかな微笑みに言葉を失
ったのを確認すると、今度は凄みを利かせた笑い顔で男たちを振り返った。

「大人しくしていれば、手荒なことはなさいませんよね?」
「……あ、ああ。もちろんだ」
「それを伺って安心いたしました。それではどうぞ」

 すっと差し出されたセイルの両手と、その顔を交互に見回す男。
 まるで女のように軟弱な容貌。だがその美しい微笑みに気圧(けお)される。

 これは……。この男は、一体何者だ?

 彼はこの役に着任して以来、多くのならず者たちをその手で捕らえてきた。天下無双
と言われた力自慢の男、幾人もの民人を殺してきた殺人鬼や、詐欺やスリなどのありふ
れた犯罪者まで。だがこの男、そんな連中とは明らかに一線を画している。

 強がってもいない、卑屈でもない。だが。

 男は、自分がとんでもない命令を受けたのではないかと、今になってようやく気付い
た。差し出された細い手首と、手にする捕縛用の縄を見比べる。今まで誰も逃れること
のできなかった、強固に編まれたはずのこの縄が、なぜかこの時は、ちり紙をこよった
ものよりも脆く思われた。

 戸惑いが長すぎたのだろう。男の部下たちがざわめき始めた。
 そしてようやく、男は踏ん切りをつける。

 自分は、組織の中に生きる歯車に過ぎない。
 後がどうなろうと知ったことか。

「よ、よし! 全員の手を縛れ!」

 声が上擦ってしまった。クスッという笑い声が少女たちの中から聞こえた気がしたが
懸命に無視する。これ以上、余計なことをしたくなかった。

 後日、男は友人たちに酒の席で漏らす。
 俺はきっと、世界を滅ぼすことのできる爆弾を宮殿に運ばされたのだろう、と。

 それが司直の耳に入らなかったのは、男にとって生涯最高の幸運と言えた。

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「どうやらクーロンの上層部は、あたしたちのことを知っているみたいね」
「ここでも当然何か起きてるでしょうし、なにせ半年以上前から始まってることだから
ね。今まで何も把握できてないようじゃ、執政失格よ」
「きっつい事言うね。仮にもクーロン相手に」
「わかってるってば。多分この会話だって全部聞かれてるんでしょうよ。ねえ!?」

 そう言ってシルヴィアは声を荒げた。
 薄暗い地下牢獄全体に響き渡るほどの大声。

 こらこらと周りの少女たちが苦笑いする。冗談よ、という顔で舌を出すシルヴィアだ
が、クーロンのことを少しでも知っている上で口にするには、冗談で済まされない言葉
だった。彼女たちだからこそ笑っていられるのだ。

 東の大国、クーロン(九龍)。

 史(ふびと:歴史を刻む役人)の口伝では、神魔大戦の以前から続くとも言われる大
陸最古の国家。実際に残された歴史上でも、連邦形態を一国家と認識するのであれば、
最も長く存続している国家であることは間違いない。

 九龍の名から推察できるように、元々は異なる九つの民族国家がこの広大な東の大地
で覇を争っていたという。その果てに現れた最後の覇王こそが最初の皇帝である。伝説
に曰く、彼は九国全て(彼自身の母国を含む)の王族を、それぞれただ一人、自分の子
を身篭った姫だけを残して全員抹殺する。そして産まれた子供を各地の領主として配置
した。以後皇家の継承者はこの九家の中から出ることになる。無論、継承者選択が穏便
な形で片付くことは稀で、その殆どが醜い骨肉の争いとなった。しかし勝ち残った全て
の後継者が初代皇帝の血を引く者であったことは間違い無く、結果「九龍皇帝」の印璽
は、初代皇帝以後一度もその文字を彫り変えることなく使われ続けている。

 九龍の国家としての特徴、それはこの国が「文」の国であるということ。

 広大な国土と温暖な大地に育まれた膨大な人口。当然ながら、保有する軍事力も一国
が持つものとしては大陸最大を誇る。ただ量の面では他を圧倒し得ても、装備や指揮の
面では西方諸国に数歩を譲るというのが一般的な認識である。過去幾度も勃発した回廊
戦争において、「負けずとも勝ち取れず」という戦果しか挙げ得なかった事実がそれを
証明していよう。
 だが独特の風土が育んだ「文」の成果においては、有史以来一度も他国の後塵を拝し
たことが無い。恐らく未来永劫そうであろう、とまで言わしめるほど、この国の文治は
徹底している。100%に近い識字率、王族の特権さえも通用しない完璧な学歴社会、
でありながら同等以上の尊厳を誇る文芸・芸能界、そして今なお排出を止まぬ文の天才
たちと著作・業績の数々。そもそも「歴史」なる「人類社会の主観的記録装置」を生み
出し、未だその正当性を認められるのがこの国、九龍であることを考えれば、歴史に自
らの存在意義を依存する人類社会が、この国を陵駕出来ようはずも無い。

 閉鎖的な文化社会、一向に改善しない封建制、硬直しがちな官僚制、再分配性が低く
貧富の差が著しい経済。多くのアキレス腱を抱えながらも、九龍が未だ大陸の1/4を
支配する巨大国家であり続けるのは、その優秀な外交力にあると言って過言ではない。
鍛え抜かれた優秀な外交官僚を全世界に配置するのみならず、ジャーナリズム界を事実
上独占支配することで巧みな世論操作を可能としているのだ。加えて九龍の代名詞とも
言うべき、巨大諜報組織「TAO(タオ:道)」の暗躍を恐れる諸国が、今更この国に
余計な手出しをするはずも無かった。
 確かに過去には、時代の寵を得て一時(いっとき)九龍の上手に出ることのできた国
もあった(例えば伝説のアドレイアなど)。だが九龍は、それが国家百年の計に続く事
を決して許しはしなかった。アドレイア滅亡の裏にTAOの存在があったなどと噂され
る所以(ゆえん)である。その真偽はともかく、九龍が自らを「実像」以上の「巨像」
に見せかける技術に長けているのは事実だ。……それが「虚像」だとしても。

「ふ〜ん。クーロンって、そんな国だったんだ」
「なによリンス、知らなかったの?」
「エリスンと一緒にしないでよ。でも、そうよね。考えてみるとクーロン出身の歌手っ
て多いよね。すんごく歌の上手い人ばかりだよ」
「リンスの夢壊すかもしれないけど、多分ほとんどTAOよ」
「えーーーっ、うっそぉ!」
「歌手、役者、芸人、商人、神官、そしてどこにでもいる一見普通の移住者たち。本当
かどうか知らないけど、『クーロン人を見たらTAOと思え』ってのが西側の口癖らし
いよ。ね、シグ?」
「……うん、確かに私もそう教えられてきた。でもあまり気にしてなかったわ。だって
彼らも同じ人間だし、私の通ってた学校にもクーロン出身の人、いたしね」
「きっとシグみたいな『いいひと』がTAOの格好の餌食なのよね……って、ゴメン!
言い過ぎた! ホントにゴメン!」
「いいのよそれくらい。ちょっと自覚もあるしね。それに……」

 そう言って、今自分たちが居る場所を見回す。
 どの建物のどの場所だか皆目わからない、薄暗く黴臭い地下牢。

「こんな目にあわされちゃうと、やっぱり虚心ではいられないわ」
「そうよね……」

 一同がハア、とため息を吐く。
 誰かが呟いた。

「セイル、平気かな……」

 毎度お馴染の、考え無しの余計な一言、ではある。
 だが、今回は少女たち全員の心の内を代弁する言葉でもあった。

「今になって思うと、アーハイムは良かったよね」
「良すぎたのよ。ユネル王じゃなかったら、あっちでも同じ目にあってたかも」
「そっか、そういうものか……」
「あたしたちはね、どう口を濁したって、魔神を復活させた張本人なの。もしかしたら
全世界の全ての人があたしたちを憎む可能性だってあるのよ」
「それがわかってるから、セイル、辛い思いしてるんだね」
「……そうよ。だからせめて」

 あたしたちだけでも。

 全ての少女がそう思う。
 何と悲しき柵(しがらみ)ぞ。

 その時、地下の入り口付近でガチャンという音がした。
 続いて階段を降りる足音。複数の人間のものだ。

 誰?

 後ろからのランプに照らされたシルエットが少女たちの目に入る。
 彼女たちの誰一人として見間違えようの無いもの。

「セイル!」

 影の口元に笑みがこぼれたように見えた。

「ごめんなさい、皆さん。お待たせしました」

 少女たちは、青年の姿に異常が無いことを確認して安堵した。丸一日引き離されてい
たのである。もしかして拷問でも、との思いが杞憂だったことが嬉しかった。だが。

「再会を祝うのは、後にしたまえ」

 セイルの後ろにいる四、五人の集団の中から声がした。セイルはその人物に振り返っ
て頷く。そして改めて少女たちを見やった。

「大丈夫、心配しないで。決して皆さんを悪いようにはしません。でも……すいません
が、もうしばらく辛抱してください。まだこれから用事があるのです」
「あたしたちは平気よ」
「セイルは、大丈夫なの?」
「ええ。それより……シグルーン、そしてライザさん?」
「はいっ!?」
「わ、わたし!?」
「一緒に来てください。私たちの、代表として」

 少女たちは言葉を失った。
 それに答えたのは、先ほどセイルを促した人物だった。

「皇帝陛下の御前で審議を受けられる。来たまえ」

 セイルは微笑みを崩さなかった。
 それがどれほど沈痛なものだったとしても。

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 クーロンを襲った異変は、アーハイムのそれと同様だった。

 独自の文化に固執するクーロンでは、西方ほど天上32神への信仰が盛んではない。
だがその中で唯一、高い崇敬対象となった神がいる。運命を司ると言われる神、カイト
である。
 東方思想にある「縁起」という概念。森羅万象、つむぎあう事象の複雑な絡み合い。
その幾千幾万幾億の可能性の「あや」を司り、人々に運命という現実をもたらすもの。
その象徴であるカイト神は、クーロンにおいては至高神とさえ見なされる。皇家の奉神
でもあるカイトの宮は東方の土着信仰とも結び付き、人々の生活習慣から暦(こよみ)
に至る、東方文化それ自体の中心要素となっている。

 皇都ラワン(羅王)には、カイト宮が九つ存在する。

 3×3の等方区画に分かたれた計画都市ラワンは、その各区画が旧九王朝の面影を残
した造りとなっている。初代皇帝が統一事業の最中、征服王朝下の民心を安定させる為
に採った施策だとも言われている。だが彼はただ一つだけ、征服者としての矜持を強要
した。全ての区画の中央に自族の奉神カイト宮を置いたのである。

 そして、それが起こったのが約九ヶ月前。
 勿論、グナガンが目覚めた時の事である。

 北東・南東・南西、そして北西にある四隅の宮が、同時に炎上した。

 火元はいずれも、宮殿中央に安置してあるカイト神像。当局は最初、何らかのテロで
はないかと調査を開始した。だが内外いずれにもそれらしい動きは無く、人々はやがて
単なる失火が重なったものと思い過ごしていった。だが。

 二ヶ月ほど経過して、今度は西の宮が炎上した。多くの参拝者が見つめる中、突然カ
イト神像が火を吹いたというのである。事前に綿密な調査も行われており、何かが仕掛
けられていた可能性は皆無だった。

 この時いきなり、神・官・軍の高官たちに緘口令が発せられた。ラワンの人々はこれ
以後、中央本宮に頻繁に出入りする軍隊や神官の群れを目にする事になるが、公に一切
の情報は流れてこなかった。そして。

 半年後、次は北の宮。
 そして二週間ほど前に、南の宮のカイト神像が炎上した。

 未だ健在なのは東の宮、そして中央本宮のみ。

 クーロン上層部は、事態の深刻さに頭を悩ませていた。実は最初の四宮炎上の時点で
既に彼らは、TAOを駆使した諜報活動により事のあらましを把握していたのである。
原因が中央本宮最深部に安置してあるカイト神像本尊にあるのは明らかだった。

 だが、これに手を出すには多大な困難が存在した。元々これは、皇帝即位の時にのみ
表に出す事を許される、というより皇帝即位の証となる神器なのだ。そのため、これを
表に出すためには「皇帝の血を引く九家全ての承認が必要」となる。
 具体的に言うと、本尊のある「皇の間」には九つの鍵と一つの扉がある。各家が秘蔵
する九つの鍵が全て用いられた時に初めて、この扉が開くようになっているのだ。これ
こそが各家に「キングメーカー」の権力を持たせるべく初代皇帝が施した仕掛けという
わけである。

 帝國存亡の危機に九家は結束し、各々が封を解くべく地下に入ろうとしたが、ここで
更なる問題が生じた。通路はいつの間にか恐ろしい力を持つモンスターであふれ返り、
これに対処するのに多大な犠牲を必要としたのである。

 それにも関わらず、未だ全ての解錠は達せられていない。増してや、次々と炎上する
カイト宮が醸成する民衆の不安と諸外国の懸念に、情報封鎖も限界に近付いていた。

 焦るクーロン上層部に、今回の事態の中心にいる謎の集団の同行が知らされたのは、
南の宮崩壊の十日後だった。ラワンへと連なる大河を下る一同の姿が確認されると同時
に、行政府はすぐさま、彼らを逮捕すべしとの令を発する。

 官僚社会において、「令」はしばしば執行の限界を超える。
 階級の人垣に視界を阻まれた発令者には、執行人の顔も足元も見えはしない。
 増してや自分たちが相手にする対象に自由意思があることさえ、しばしば失念する。

 彼らは言う。「これも全てカイトの恩寵なり」と。
 思わぬ者は思えぬ。魂無き人形(ヒトガタ)の哀れ。

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「九龍帝國第七王朝、第十四代皇帝、張王蘭陛下、御出座!」

 腹の底に響き渡る巨大な鐘の音と共に、セイルたちの数十メートル先にあるカーテン
が左右に開かれた。しかし現れたのは、薄幕を張った巨大な衝立(ついたて)と、そこ
に映る、顔の三倍もの大きさを持つ冠を頂いた人物のシルエットだった。

 赤い絨毯が敷かれているとはいえ、じっと正座したまま一時間以上も待たされ続けた
挙句、皇帝は彼らに御姿を見せようともしない。ライザはともかく、シグルーンがこの
一点だけで九龍皇帝に反感を抱いたのも仕方なかろう。セイルはというと、内心どんな
葛藤を演じているのか全く表に見せないまま、改めて深々と頭を下げてみせた。

 セイルたちを御前に引き連れてきた、そして同様に一時間以上立ったまま待たされて
いた小柄な男が、声を張り上げて叫ぶ。

「陛下! 御意に従い、彼の者共を参内させて御座います」
「役目大儀、宰相閣下」

 衝立の脇に立つ侍従らしき男、見るからに貧相で、全然似合わないちょび髭を蓄えた
痩せこけた男が大仰にそう答えた時、シグルーンは巨大な衝撃に襲われた。

(じゃ、この人があの!?)

 思わず、閣下と呼ばれた人物の顔を見上げてしまう。
 立った時のセイルよりもまだ頭一つ低い、どこにでもいそうな普通の中年男。
 洗練された身だしなみではあるが、服飾に高価なものなど一つも見当たらない。

 とても信じられない。
 しかし皇帝の脇に立つ男が続けた言葉で納得せざるを得なかった。

「ところで、先の報告より三日も遅れておりますな。『陳』宰相?」

 間違いない。この人こそがクーロンにその人ありと謳(うた)われた名宰相、陳瑞錬
(ちん=ずいれん)だったのだ。だがこの人物の所作からはとてもそう見えない。

「は。我が身の不徳の致す所」
「宰相閣下ともあろう御方がその様な事では困りますな。皇帝陛下はご多忙であらせら
れますぞ。まさか陛下に含む所など、ございますまいな?」
「勿論。全て我が非才ゆえ」
「まさか宰相閣下に限って、『老いては駄馬にも』などということもありますまいに。
皇帝陛下の御寛恕に甘えられることなく、御公務に励まれなされよ」
「……御意」

 なるほど。シグルーンはようやく九龍宮廷内の事情を見取った。

 皇帝の脇で、まるで自分が皇帝の代弁者でもあるかのように語る嫌味ったらしい男。
 彼のような人物を語るものとして彼女が学んだのは、「奸臣」という言葉。
 クーロンもまた、この種の政治的悪癖から逃れられぬと見える。

「善哉(よきかな)。……では内務次官、この者共の罪状を」

 二人の少女が、思わずビクッと体を震わせる。
 だがセイルはうつむいたまま微動だにしない。

 玉座と彼らのほぼ中間地点に居並んでいた役人たちの中から一人が進み出、皇帝に対
して書状を開き、読み上げた。

「この者、セイル=W=フェルナンデス。
 自らを神の代理人と騙り、西の地ショートラムなる寒村にて幾多の少女共を惑わした
 挙句、自らの手駒となす。
 更に彼女らの犠牲をもって彼の地に封じられし古代の妖怪を目覚めさしめ、その力を
 用いて世界に混乱をもたらさんとす。
 その余波、我が神聖なる帝都羅王に及び、聖補殿八宮の内、七宮までが破壊されん。
 同時に、その暴挙を防がんとした帝國の優秀なる忠臣兵士、計156人が自らの命を
 もって皇帝と帝都、そして臣民の安全を守るという悲劇を生ず。
 帝國と皇帝の永遠の繁栄を守らんがため、九龍帝國内務省次官たる我が職上をもって
 皇帝陛下に言上(ごんじょう)仕る。
 この忌まわしき大罪人に、九龍皇帝の御名をもって相応しき処罰の与えられん事を」

 愕然とするシグルーン。思わず声を挙げようとした、が。

(抑えよ)

 目の前に差し出された杖の先と、彼女の耳にかろうじて聞こえる程度の小声。
 見上げた視線の先には、じっと正面を見据えたままの陳宰相の姿があった。

「……そこのセイルなる者、以上、相違無いか?」

 例の奸物が発した問いに対するセイルの答えに、シグルーンは心を凍らせた。

「はい」

 どうして! 何でなにも反論しないの!?

「よろしい。それでは処罰を……は、失礼致しました。皇帝陛下のお許しが得られた。
何か申し開きはあるか、セイル=W=フェルナンデス?」

 懐の書状を取り出そうとした時、奸物は皇帝の囁きに手を止めてこう発した。
 そしてようやく、セイルは顔を上げた。そして片膝を立て、朗々と語り上げた。

「偉大なる九龍皇帝陛下のお言葉に感謝致します。
 私ことセイル=フェルナンデス、次官殿の申し上げた我が罪一切、それが事実である
ことを認めます。先刻ご承知の通り、貴国のみならず全世界の平穏と秩序を乱した責任
は全てこの身の不見識に依るもの。如何様に処罰されようと拒みは致しません。
 ただ、これだけはご了解願いたく申し上げます。
 我が後ろに控えますシグルーン=フレグランス以下13名、ライザ=ウォルサム以下
4名の者たちに関しましては、ただ私の騙りに乗ぜられし犠牲者に過ぎません。どうか
事の次第をご吟味下さり、彼女たちに一切のお咎め無きよう、お願い申し上げます。
 それさえご確約頂ければ、私、今この場にてこの首落とされようと構いません。
 何卒、皇帝陛下の御意を賜りたく、言上申し上げます」

 シグルーンは自分を抑えきれなかった。

「やめて、やめてよセイル!」

 バチン! シグルーンの肩に叩きつけられた杖の音が、彼女の叫びを途切れさせた。

「控えよ! 皇帝陛下の御前である!」

 無表情のままシグルーンを咎める陳。それに続いたのは意外にも奸物の言葉だった。

「まあまあ宰相閣下。是非無き女子のしでかす事、貴殿ほどの御方が手を上げてはなり
ませぬぞ」
「御意。しかしこの者共、見た目とは裏腹に凄まじき力を持つ輩である事も確か。今は
こうしておりますが、いつ狼藉を働くか知れたものではありませぬ」
「ほっほっほ。宰相閣下は心配性でいらっしゃる。その為の者どもでございましょう、
閣下の後ろに控えているのは?」

 その瞬間、シグルーンのうなじに冷たい殺気が走った。

(この連中!?)

 地下牢からずっと陳とセイルの後ろに控えていた四人組。地味な陳宰相よりも更に目
立たなかった、この単なる従者としか思えなかった連中が、突然凄まじい気を発したの
である。

「我が九龍の誇るカイトマスター達ですぞ。何一つ心配する必要の無いこと、お分かり
でありましょうに」

 また一つ、シグルーンを驚かせる言葉が奸物から放たれた。
 同時に、再度なるほどと心の中で頷く。それならばこの殺気も納得がいく。

 カイト神は「運命の神」であると共に「拳法の神」でもあるのだ。現存する神像の殆
どが、鍛え上げられた筋肉に覆われた偉丈夫の姿である事からもそれは明らかだ。神話
上では、自らを極限まで鍛え上げたが故に、自らの運命を制御する事を可能にした神と
いう位置付けをなされている。
 そのためであろう、九龍に存在するカイト宮は単なる神殿であるのみならず、優秀な
拳法家を生み出す道場ともなっている。ここの拳を極めた者は「カイトマスター」の号
を名乗ることを許され、世界各地で尊敬と畏怖を受ける存在となるのだ。

(シグルーン達はかつて、ショートラムの迷宮で「カイトクローン」なる敵と遭遇して
いる。彼らは拳を極めながらその暗黒面に堕ちていった輩のなれの果てである)

 叩かれた肩の痛みを忘れさせるほどの殺気。そこに陳の声が続いた。

「無論。ですが今回の件で、人材も払底し始めております。ここでまた万一の事があっ
ては国防上問題でありましょう」
「ほう? まさか陳宰相は、我が優秀なるマスター達がそこの女子に遅れをとるとでも
おっしゃるつもりか? ははは、これは愉快。ははははは」
「そうではありませぬ。ですがその優秀な人材を、これまでのようにむざと死地に追い
やる必要もありますまい。今はこの様に当事者たちの身柄を抑えておるのですから、彼
ら自身に責任を取ってもらうのが筋であり、またその罪に相応しい罰でもあると、本職
は進言申し上げる次第です」

 すると奸物は一歩を踏み出し、声を張り上げて叫んだ。

「黙らっしゃい! 帝國の聖域たるカイト宮に余所者(よそもの)を入れるなど、仮に
も皇帝陛下の代理人として国家を預かる宰相の言うべきことではありませぬぞ! どう
やら本当に、宰相閣下にはご自身の進退を考えて頂く時期が訪れているのではございま
せぬかな?」

 だが陳も負けじと声を張り上げた。

「ですが申し上げます。今回の一件は単なる軍事的な脅威のみならず、妖魔の類の霊的
な脅威が内在することも、情報部の調査により判明しております。そちらの防衛のため
には、残念ながら我が九龍のみの人材では対抗できぬと祭祀官の意見も一致しており、
この者たちを協力させぬ限り根本的な解決は得られませぬ!」

 奸物は顔をしかめ、居並ぶ役人たちの中に問いかけた。

「それは事実であるか、祭祀省次官?」
「……お許しを得て申し上げます。只今宰相閣下が言われた事に相違ありませぬ。我が
省の全力を挙げて事態の解決策を模索致しましたが、どうしても足りぬ『力』がござい
ます」
「それを、この者たちが持っていると?」
「……御意」

 チッと聞こえるように舌打ちし、奸物は再度陳に問いかけた。

「確認は?」
「は……ライザ=ウォルサム、立ちませい!」

 陳の指名に、は、はいと慌てて立ち上がるライザ。
 その時、ぎゅっと唇を噛み締めてうつむくセイルをシグルーンは見逃さなかった。

「お許しが得られた。そちの『印』を陛下にお見せせよ」
「え……ど、どういうこと……」

 戸惑うライザに、陳は小さくささやいた。

「服を脱いで見せよ。今ここで」

 セイルの両手が握り締められる。シグルーンもまた愕然とした。
 思わず抗議しようとする彼女を、今度はなんとセイルが制した。

 何で? 何でそこまで!?

 思わず涙が浮かぶほどの悔しさ。
 事情はわからなくもない、でも。

 赤面し、震えるライザ。思わず床に身を伏せる二人に視線を向ける。
 そこには同じように苦悩する仲間たち、いや、セイルの姿があった。

 天を仰ぐ。目をつぶる。
 そしてキッと前を見据えた。

「わかりました」

 ライザまでどうして? シグルーンの全身から力が抜けた。
 そして彼女は、決して見たくはないものを見せ付けられる。

 衆人環視の中、身にまとう衣服を躊躇することなく床に落とし続けるライザ。程なく
彼女は生まれたままの姿になった。さすがに最初は胸と股間を隠していたが、ライザは
やがてそれさえも止め、本当の直立姿勢をとった。

 ニヤニヤと卑下た視線を向ける奸物。そのままじっくりと少女の裸体を検分していた
が、太股の不思議な紋様に気付き、ゴホンと咳払いして言った。

「次官、確認を」

 先の祭祀省次官が、後列に控えていた神官を連れてライザの前に歩み寄る。
 神官はライザの前に膝を付き、重ねた両手を紋様の前にかざした。

 瞬間。

 バチィッ!!

 凄まじい閃光が広間を照らした。思わず身をかばう仕種をする一同。
 奸物などはヒイッという悲鳴まで上げたが、全員がそれを意図的に無視した。

 弾き飛ばされ、腰を抜かした様子の神官を、次官が手を引いて立たせた。
 二、三の会話を交わし、列に戻って行く神官。それを見届け、次官が宣した。

「間違いありませぬ。これこそ我らの求める『力』でございます、皇帝陛下」

 苦々しげに、御簾の裏側へ回って皇帝と何やら相談を始める奸物。
 それを見計らったように、陳がライザにささやいた。

「もうよい。服を着よ」

 彼は決してライザの裸を見ようとしなかった。不愉快な表情を浮かべる彼の姿を見な
がら、シグルーンは陳が、その素っ気無い素振りほどには無粋でも無いし、配慮を欠く
わけでもないのだと、ようやく落ちついて観察する事が出来るようになっていた。

 しばらくして、表に出てきた奸物が御意を伝え始めた。

「セイル=W=フェルナンデス以下19名。
 その所業不届き千万により直ちに極刑に処すべき所であるが、皇帝陛下の恩寵賜り、
事態収拾までその身柄、宰相預かりとす。
 その方等の処分、後に改めて万事考慮の上決することとす。
 それまで慎んで待機の事、これ遵守すべし。さもなくば直ちに死を賜らん。
 以上、何か申すべき事ありや?」

 頭を垂れたまま、セイルは叫んだ。

「ありませぬ。皇帝陛下の御寛恕、痛み入りましてございます」
「よろしい。……では宰相閣下。以後の始末、お任せしますぞ」
「御意」

 そしてシグルーンは、皇帝一行が仰々しく退席する様を長々と見せ付けられた。
 三十分後。場にはセイルと陳たちだけが残された。

「これで、よいのだな?」
「はい。本当に、ありがとうございました」

 深々と陳に頭を下げるセイル。
 無表情にそれを見つめる陳が、すっと後ろを向いた。
 そしてセイルは、やっとシグルーンとライザに向き直った。

「ごめんなさい、シグ。不愉快な思いをさせました」
「う……ううん、いいのよそんな。でも……」
「はい?」
「わかってる、わかってるのよ。でも……お願いだから、あんなこと言わないで。私た
ちを守るために自分が犠牲になるなんて、そんなこと、もう二度と言わないで!」

 思わず語尾が高くなってしまう。また涙がこぼれそうになった。

「……ごめんなさい。私には、こういう風にしか出来ないのです」

 わかってるわよ、あなたがそういう人だってこと。
 でもお願い。お願いだから、『私たちを捨てるなんて言わないで』。

 必死でその言葉を飲み込むシグルーン。
 それを知ってか知らでか、次にセイルはライザに語りかけた。

「ライザさん、私は……」
「ううん、全然平気。あの程度で納得してもらえるならお安いご用よ」
「そんなこと! あんな恥ずかしい真似を……」
「……ねえ、セイルさん? わたし、今とっても嬉しいんです。だってやっと貴方たち
の役に立てたんだもの」

 反論しようとするセイルの口を、指で抑えるライザ。

「あの時セイルさん、『貴方たちだけが犠牲になる世界なんて許さない』って言ってく
れたでしょ? わたし、結局それに甘えちゃったんですよね。そしてあの後貴方たちが
どれだけ頑張ってくれたか。わたし嬉しくて、でも凄く悪いことしちゃったって」
「違う! 本当に苦しんでいるのは貴方たちじゃないですか!?」
「いいえ。私たちはただそういう存在であっただけ。でも貴方たちは歩まなくてもいい
茨の道を、わたしたちのせいで選んでしまった。もちろん、貴方の選択を間違いだとは
思わないし、とても感謝してる。だからこそわたし、封印としての役目以外で貴方たち
の助けになれたのが嬉しいの」
「ライザ、さん……」
「お願い、謝ったりしないでね。……さ、まだまだこれからよ。頑張りましょ」

 ライザは、ね、とシグルーンにも微笑みかける。

 どう答えて言いかわからないシグルーン。
 それを救うかのように、陳の声が玉座の間の出口から聞こえてきた。

「早く出なさい、もう時間だ!」

 慌てて走り出す一同。その時シグルーンには、先を行くライザと、その後を着いて走
るセイルの背中が、やけに遠く見えた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「あの……ここが、そうなんですか?」
「ああ」

 相変わらず、素っ気無い口調で短く答える陳。
 ほえ〜という声が少女たちから上がる。シグルーンも全く同じ心境だった。

 審判後、牢からやっと出る事の許された残りの少女たちと共に訪れたのは、九龍宰相
陳瑞錬その人の邸宅である。勅命で自分たちが宰相預かりとなったことを意外とは思わ
なかったが、だとすれば当然、それなりの施設に隔離されるものだと考えていたのだ。

「真に失礼な申し上げ様ながら、もう一度確認させて頂いてよろしいでしょうか?」

 シグルーンの問いに、陳は無言で頷く。

「陳閣下は、現役の九龍帝國宰相主席でいらっしゃるのですよ、ね?」

 先と全く同じ動作で、それを肯定する陳。九龍にきて以来シグルーンは幾度も驚かさ
れてきたが、今回の驚きはその中でも一番のものだったかもしれない。

 陳の邸宅、それは「あばら屋」としか表現できない古びた屋敷だった。

 なるほど、敷地は相当に広い。奥の方には幾つもの離れらしき館が見える。少なく見
積もっても、軽く一町四方(およそ1ヘクタール)はありそうだ。特に奥の方は雑木林
になっていて、そこも敷地と考えれば、確かに一庶民が持てる広さではなかった。また
各棟の造りには、かつてこの屋敷が敷地相応の豊かさを誇示していたであろう、幾つか
の装飾跡も伺える。
 だが今やその全てが、崩壊寸前の、かろうじて人の生活を支えるに足る雑居長屋に成
り果てていた。大陸最大の帝國の宰相が住む場所には、とても思えなかった。

(この人は一体、どういう人なんだろう?)

 シグルーンの疑問も当然である。しかしそれを問うたとして答えてくれる人なのか?

 その時である。同様に戸惑っている彼女たちの前に、一人の書生らしき青年が駆け寄
ってきた。彼は一同に興味深げな視線を投げかけた後、陳の前に立って頭を下げた。

「お帰りなさいませ、閣下」
「ああ。連絡は届いているか?」
「はい。ちょうど今準備を終えたところです。……いやあ、焦りましたよ。こんな所に
いきなり二十人も、それも女性を迎えるだなんて」
「ふん、こんな所は無いだろう」
「はは、失礼致しました。でも私たちとて初めての体験ですから、どうしたらいいのか
皆右往左往する始末。出入りのおばさんたちの助けが無かったら全然間に合いませんで
したよ」
「……まあよい。ではもう入れるのだな?」
「はい。いつでも」

 陳はセイルに振り返って言った。

「そういうことだ。彼女たちを奥の離れへ。この者に案内させる」
「ようこそ『陳塾』へ、お嬢様方。さあ、こちらへ」

 書生はそう言って、彼女たちに微笑みかけた。

(あたしたち、罪人扱いされてるんじゃなかったの?)

 皆が同じことを考えたが、セイルの言葉は彼女たちの心配を和らげた。

「大丈夫ですよ。でも、大人しくしていてくださいね」

 幾人かがクスッと笑みを漏らす。そして一同が歩き始めた時。

「じゃあシルヴィアさん、皆を頼みます。……シグ、ライザ?」
『はいっ?』
「あなたたちはまた私と一緒にこちらへ。まず御母堂にご挨拶を」

 一旦戸惑いはしたものの、雰囲気からセイルの言葉に従う彼女たち。
 一同は二手に分かれ、あちこちに雑草の生える敷地の奥へと進んで行った。

 陳とセイルの背中を見ながら、シグルーンはふと不安に駆られた。

(セイル、なんとなく……変わった、のかしら?)

 何なのだろう? この人の言葉も行動も、何一つ以前と変わりはしない。
 でも確かに何かが違う。この人、このひとは……。

 どんっ!

「あれっ……、あ、ごめんなさい!」
「着きましたよ、ここです」

 苦笑しながら、自分の背中にぶつかってきたシグルーンの肩を支えて微笑むセイル。
 やっぱり違う、との違和感を拭し切れないまま、彼女は視線を前に向けた。

 驚きには、際限が無いのだと思い知らされるシグルーン。
 彼女の前にあったのは、敷地内で一番小さく、また一番みすぼらしい家屋だった。

「ここが母屋だ。……母上、母上?」

 大きく声を張り上げる必要も無かった。
 ガタガタっという立て付けの悪そうな音と共に、木戸がゆっくりと開かれた。

「お帰り、瑞錬。……こんな場所に、ようこそいらっしゃいました、お客人方」

 老婦人の身なりは、息子と同じく質素で、けれど上品なものだった。
 それ以上にシグルーンは、婦人の柔らかいようで威厳のある視線に気圧された。

 ぶるっと、思わず身が震える。
 それはシグルーンにとって懐かしさを伴う体験。
 ユネル王や父、そして母が時折発した、「真の威厳」が持つ圧力。

 ようやく彼女は、この人たちがその名声に相応しい人物であることを理解した。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 程なく日が落ち、セイルたち三人は陳母子と夕食を共にする。
 出された料理は、地味な素材だったが十分に美味と言えるものだった。

 夕食の準備と後片付けを手伝おうと申し出たシグルーンとライザを、陳母は丁重に、
しかし強く拒絶した。立場がどうあれ客人として迎えた以上、それを通すのが迎える側
の礼であり、またそれを受け入れるのが客人としての義務であると、二人は諭された。

 食後の茶を軽くすすり、改めてセイルは、陳に頭を下げた。

「今日は、本当にありがとうございました。陳閣下」
「別に、礼を言われるようなことはしていない。ただ本職の責務に基づき、一番正しい
と思われる選択をしたに過ぎん」
「承知しております。ですが、僭越ながら申し上げれば、いささか閣下のお立場を悪く
してしまったように見受けられます。ご迷惑をおかけいたしました事、慙愧の念に耐え
ません」
「いつものことだ。今更つくろってもどうにもならん」
「ですが……」
「くどい。もう一度言っておくが、私は別にお前たちの為を思って事を構えるつもりな
どない。ただ『九龍にとって』最善と思われる選択を進言したに過ぎない。それが私の
『職務』なのだ」

 セイルはようやく口を噤む。そしてただ深々と頭を下げた。
 無表情にそれを見ていた陳だったが、やがて視線を二人の女性に向ける。

 最初に語りかけたのは、ライザに対して。

「私は、間違った事をさせたとは思わない。だが、失礼な事をさせたのは事実だ。貴方
には、我が職責を離れた上で、謝らせて頂く。申し訳ない、ライザ=ウォルサム」
「……いいえ。閣下の進言がなければ、私はこの人たちを喪う所でした。とても感謝し
ています。ありがとうございました」
「そう言ってもらえると助かる。……以後君たちには改めて事態の収拾を依頼すること
になるだろう。ご協力をお願いしたい。『パッティの封印』よ」
「もちろんです。私たち五人、その存在全てを懸けて」
「ありがとう、承った」

 次に陳はシグルーンの顔を見つめる。だがしばらく無言のままだった。
 沈黙が不自然なほど長く続く。耐えきれずにシグルーンが声を上げかけた時。

 陳は、懐から一通の手紙を取り出した。

「君の母上からだ。シグルーン=フレグランス」

 驚きには際限がない。先刻そう悟ったはずだったが、これで今日幾度目なのか。
 そして今度こそ本当に、この日最大の驚愕がシグルーンを襲う事になる。
 手紙に目を通したシグルーンは、呆然として呟いた。

「ユネル王が……崩御!?」
「その手紙に関係無く、我々も独自に情報を得ていたから間違いは無い。更に言わせて
もらえば、君たちの扱いに慎重を期さねばならぬ理由の一つがそれでもある」
「……はい、わかります。私たちはアーハイムに近づき過ぎましたから」
「そうだ。見方を変えれば、君たちはアーハイムの間者とも取られ兼ねん。特にこんな
国際上の重大問題が発生した時にはな」
「タイミングが良過ぎますね」
「全くだ。正直、こちらへの対応の方が難しい。君たちが魔神対策『だけ』の存在なら
幾らでもやり様があったのだが」
「そのつもりですが……」
「その言葉を頭から信じるわけにはいかん。『九龍宰相』としては」

 手紙を握り締め、うつむくシグルーン。
 仮にも国家騎士候補生だった彼女である。陳の言葉は痛いほど身にしみた。

「皇帝にああは申し上げたが、残念ながら今の段階で君たちを対魔神戦力として用いる
ことはできん。もし受け入れられぬとあらば、本当に君たちを『処分』せねばならん」
「……どんな犠牲を払っても、ですか」
「ああ。例えそれが『不可能』とわかっていてもだ」

 シグルーンはセイルの顔を見た。
 彼自身、苦渋に満ちた笑みを浮かべている。そしてゆっくりと頷いた。

「わかりました。残念ですが、今はみんなを抑えます」
「『九龍宰相』としてもそう願う。双方にとってそれが現時最善の選択だ」

 一呼吸置いて、陳は続けた。

「……将来は、判らんが」

 場を沈黙が支配する。如何様にも取れる陳の言葉は、聞き流すには重すぎた。
 ところが、それを破ったのは他ならぬ陳自身の苦笑だった。

「……ふふ。随分と母上に似てこられた、シグルーン=フレグランス」
「は、はいっ!?」
「さすがに覚えてはおらんか。私は、生まれたばかりの貴方を抱かせてもらったことも
あるのだよ?」
「え? ……えええ!?」
「もう二十年になる。私はかつてアーハイム駐留の外交官だった。若き日のユネル王と
も面識があったが、どちらかといえば七傑の方、特に君の母上にはお世話になった」

 なんとも意外な人の繋がりである。
 シグルーンはそう思ったが、考えてみるとありがちな関係とも言えた。

「ふふ、今でも覚えている。本当にあの頃の彼女は美しかった。今の君も美しいのだろ
うが、見目形ではない、人生の辛酸を知り尽くした上での輝きをあの頃の彼女は備えて
いた。彼女は、当時アーハイムの宮廷に接していた男共全てにとって羨望の的だった。
だから彼女が君を身篭ったと知れた時、私を含めた『全て』の男が絶望を味わったもの
だ。おわかりか? 君はそんな存在だったのだ」

 父母がかつて七傑と呼ばれた存在だと知って、そんな可能性を考えもしたが、実際に
当事者から面と向かって言われると恥ずかしくて仕方ない。

「駐留期間が終わって国に帰る時、君の家に寄らせてもらったのだ。そこで彼女に、生
まれて間もない君を抱かせてもらった。君の父親が私だったらどれほど幸せか、と思い
ながらな。……ふふ、あの頃は私も若かった」

 そう言いながら口元に笑みをこぼす姿は、どこにでもいる普通の男にしか見えない。
 シグルーンたちは初めて、この人物の人間味を味わった。が。

「さて、思い出話はここまでだ」

 陳はすっと背筋を伸ばし、表情を引き締めた。
 つられて一同も身構える。実に見事な「場」のコントロールだった。

「これからの事を言っておく。君たちは自由だ。好きにしてくれて良い」

 絶句する三人。陳は構わず続ける。

「但し、この屋敷の敷地内及び周囲一町四方に限ってのことだ。中央王宮およびラワン
に存在する全てのカイト宮殿については、『九龍帝國宰相主席の名をもって一切の立ち
入りを禁ずる』。日々の生活に関してだが、現在この屋敷には十数名の書生が同じよう
に自活している故、彼らに倣うこと。……そして!」

 ことさら口調を強める陳に、三人は一瞬不安を感じた。ところが。

「見てお分かりのように、我が家には君たちを長く養う蓄えは無い。生活費は自分たち
でどうにかしてくれたまえ。……尤も、身銭は十分持ってきているはず、だな?」

 はあっ!? セイルですら唖然としてしまう。
 再び相貌を崩す陳。今度は堪え切れぬらしく、ずっと笑い続けていた。

 私たち、つくづく人の出会いには恵まれているのね。

 未だ厳しい状況だが、シグルーンは心を落ちつけることが出来た。
 そしてこれまでと同じように、そっと愛する人を見やる。

 笑っていた。それもこれまでと同じだった。同じはずだった。
 なのにシグルーンには、その笑いがまるで別の人物のものに見えた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 数刻後、書生の一人がセイルたちを迎えにくる。
 だがセイルは、ちょっと散歩を、と言って一人で奥の林へと向かって行った。

 ライザと共にしばらく書生に随っていたシグルーンだったが、ふと湧き上がった胸騒
ぎに、ライザを書生に頼んで、一人、セイルの向かった方へと走り出した。

 月の明るい夜だった。
 探しものを見つけるのに、それほど苦労はしなかった。

 林の中、目立たぬように存在する小さな池。

 彼は池のほとりの木に身を預け、空に浮かぶ実体ではなく、池に映った虚像の月光を
じっと見つめていた。

 邪魔をする気は無かった。でも何か話をしたい気持ちもあった。
 音を立てないように近付こうとしたが、心の戸惑いに、それも徹底しなかった。

 彼が、自分の接近に気付いているのがわかる。
 それに甘えて、彼女は声をかけてしまった。

「……セイル?」
「どうしました? 今日は疲れたでしょう? もう休んで下さい」

 いたわりの言葉。いつものセイルが発して全然不思議じゃない言葉。
 でもわかる。今の言葉には、この人が持っているはずの「優しさ」が欠けていた。

「セイル、変よ? 一体どうしたの?」
「何が? 変だなんて、おかしいことを言うのですね、シグ」
「誤魔化さないで! 本当にどうしたの? 何かあったの!?」
「何もありませんよ。いつも一緒に居るのですから、わかってるでしょう?」
「そうだけど……でもやっぱり変よ! 一体何で……何でそんなに……」

 シグルーンは巧く言葉に出来ない。

「そんなに、何ですか?」

 ニコッと微笑むセイル。月影に溶け込んでしまいそうな冷たい笑みが、無意識の内に
彼女の唇を動かした。

「何でそんなに『やけ』になってるの!?」

 セイルは微笑んだまま、再度池に映る月を見つめた。

「どうしちゃったの? 何でそんなに自暴自棄なの? あなたらしくないよ? 全然、
セイルらしくないよ!?」
「私らしくない、ですか。じゃあ『私らしい』って、何ですか?」

 言葉に詰まるシグルーン。そしてセイルが続けた言葉に心が凍る。

「……少し、疲れたんですよ。意地を張るのに、ね」

 駄目! 今貴方がそんなことを言ったら、私たちは……。

「この前魔神を倒した時、また仲間を不幸にしちゃいましたから」
「仲間って……もしかして、ライザのこと?」
「私がグナガンを倒すなんて言わなければ、ライザはあんな悲しい思いをせずに済んだ
のにね。……本当に、私はどうしようもない人間ですよ。今日あそこで首を切られてい
たとしても全然おかしくない。彼らが言った私の罪、あれは何一つ間違っていないので
すから」
「違う、そんなことない! ……ライザだって、ライザだって! そりゃ確かに泣いて
たけど、でも知ってる人が誰一人いなくなったこの世界で、自分のことを本気で考えて
た人の思いに触れることが出来たのよ!? きっと嬉しかったはずよ、そうでしょ!」
「……そうでしょうか?」
「そうよ。聞けばわかる、絶対ライザ、そう言うわ!」
「そうでしょうね。でも……」

 未だ微笑みを崩さぬまま、セイルはシグルーンを見返した。

「私は、悲しいままです」

 セイルは笑ったまま、涙を流していた。

 シグルーンは、自分の膝がガクガクと震えて倒れそうになるのを必死でこらえた。
 そしてそれを隠すように、彼女はセイルに抱きついた。
 セイルの手が、シグルーンの髪を優しく撫でてくる。

「優しいですね。貴方たちは、いつも、ずっと」
「そうよ。みんなそうよ。みんな、あなたのことが大好きだから」
「こんな情けない、どうしようもない男でもですか?」
「そうよ! 何度も言わせないで! 私たちは、あなたが好きなの!」

 フッという笑い声。そして。

「なら、慰めてくれますか?」

 シグルーンは、自分の口が突然塞がれたのに驚いた。
 セイルの舌が、彼女の口腔を幾度も幾度も蹂躙していく。
 苦しい、息が出来ない。送り込まれる唾液、吸い取られる呼吸。
 指先がセイルの肩を、首を、あごを引っ掻く。でも彼は止めてくれない。

 思わず意識が遠のく。甘いはずのキスが拷問にも思えた。

 その時、まるで見計らったかのようにセイルの舌が遠のいた。
 必死で肺に空気を送り込む。思わず咳き込む。
 涙と唾液がまざりあい、首筋をべっとりと濡らしていた。

「嫌ですか? こういうの?」
「嫌、じゃないけど……なにも突然、こんな風にしなくても……」
「ふふ……」

 セイルはクックと笑いながら、今度はシグルーンの胸に顔をうずめてきた。
 甘えるように顔を摩り付けてくる仕種に、ほっとしてセイルの頭を優しく抱える。

「ああ……いい気持ちですよ……」
「セイル……」
「暖かい……いいえ、熱いくらいだ……」

 セイルの手が、ゆっくりとシグルーンの乳房を揉みしだく。さっきのキスとは違い、
優しくいとおしむような愛撫。シグルーンの体の中に熱がこもり始める。

「ふふ、もうこんなになってますよ?」
「……んっ!」

 セイルの指先が、いつの間にかすっかり固くしこっていた乳首を執拗に攻める。思わ
ず、頭を抱えるシグルーンの両腕に力が入った。それにつられるように、セイルの手が
服の間に滑り込む。直接コリコリと指先で摘まれる刺激に、シグルーンはずっと忘れて
いた、男女の愛の営みの悦びに我を忘れかけた。

「相変わらず、ここが弱いんですね?」
「セイル……あんっ、こ、こんな所で……」
「でも、いいんでしょう? ふふふ。こんなに、してしまって!」

 その叫びと共に、セイルはいきなり、バッとシグルーンの肩から上着を剥ぎ下ろす。
突然冷たい外気に晒される両の乳房。自らの存在を誇示するかのように突き出た乳首の
月影が、白く柔らかそうな乳房にはっきりと映っていた。

「せ、セイル!?」
「可愛い人だ。実は感じてたんでしょう、キスの時から?」
「違うわ……違う! やっぱり変よセイル、どうして!?」
「違いませんよ、何も。そう、この胸の甘さも、ね……」
「はあんっ!」

 強く吸い出される乳首から走る、背筋から脳へと突き抜ける電流。
 唇が、舌が、歯が、入れ替わり立ち代り新たな快感を呼び起こす。
 痛いくらいの刺激なのに、シグルーンの体は不思議なほど熱く燃えはじめた。

「やっ……だめ、だ、ああっ、いやっ! うん、ひいっ!?」
「いいんでしょう? うれしいんですよね、私にこうされて?」
「え、あ……」
「私のことが好きなんでしょう? 好きな人にされて、嬉しいですよ、ね?」

 涙ぐむシグルーンの瞳を、やけに青白く輝くセイルの双眸が覗き込んでいた。
 シグルーンは、思わずコクッと頷く。

「ありがとう。私も、愛していますよ、シグ」

 するとセイルは荒々しくシグルーンの体を裏返す。えっと思う間も無く、次は大きく
服の裾を巻き上げられた。そして一気に下着も引き摺り下ろされる。木にしがみつき、
あらわにされた腰をセイルに突き出す格好になったシグルーンは、慌てて振り返ると、
そこに信じられないモノを見つけた。

「う、嘘! セイル、それって!?」

 彼の隆々と勃起したモノが既に彼女の股間にあてがわれている。だがその熱い塊は、
かつて彼に愛された時のものとまるで違っていた。記憶の中にある姿より一回りも巨大
に膨れ上がったそれからは、猛(たけ)りというより禍々しさが感じられる。

「どうして!? やめて、やめてぇ!」
「大丈夫。いつものように、愛してあげますよ。ね?」

 先刻の愛撫で、シグルーンは十分に濡れてしまっていた。
 それでも、今のセイルを受け入れるには凄まじい痛みが伴った。

「あ、ああーっ! いや、いやあっ!」

 ズン、と、セイルはシグルーンの悲鳴を無視して一気に最奥まで自身を突き入れた。

「いたっ、いやあ、やめて、痛い、痛いの、セイル……」
「大丈夫、すぐ慣れますよ……」

 なぜかセイルはシグルーンの中で動こうとはしない。ただ乳房と、結合部の上にある
小さな突起を、両手で優しく刺激しはじめた。同時に、夜風に晒された背中にも彼の舌
が優しく這い回る。

「あ……はあ、はあ……あ……」

 これ以上の痛みが生じないとわかった為か、シグルーンは次第にセイルの優しい愛撫
に意識を支配されて行く。それと共に、一年近く遠ざかっていた愛する人との行為が、
まるで裏返すかのように彼女の肉体を「女」のそれに変貌させた。

「あ、あ、あ……セイル、せいるぅ!」
「ふふ、もう馴染んだのですか? 本当に可愛いですね、シグ……」

 セイルの律動が始まる。痛みも確かに残っていたが、それ以上に、体の奥底から湧き
上がる快感のリズムで、シグルーンの理性も感情もなぎ払われていった。

「あん、あん、あはっ、凄い、すごいの、いいっ、せいる、ああーっ!」

 巨大なそれが、シグルーンの気持ちいいと思う全ての所を刺激する。以前とは全然違
っていた。それはまるで、シグルーンを喜ばすためだけに形作られたかのようだ。
 たちまち、小さな絶頂がシグルーンの脳髄に襲いかかる。それは絶えることなく、繰
り返し繰り返し打ち付ける波の様に、彼女の頭の中を煮えたぎる快感のスープに仕立て
上げていった。

「……そんなに、いいんですか、シグ? 凄い、締め付け、ですよ?」

 セイルの言葉も理解できない。彼女はただ、目の前の木にしがみついて快感に耐える
だけだった。するとセイルは更に彼女を強く突き上げる。シグルーンは木に押し付けら
れ、無意識の内に自らの乳首と舌を木の幹になぞらせて更なる快感を求めた。

「はは、ははは、はははははーっ!」

 セイルの哄笑が高く響き渡る。でもシグルーンにはわからない。

 いつまでそれが続いたのか。
 シグルーンは自分の中に収まるそれが、最後の脈動を始める気配を感じた。

「シグ? シグルーン?」

 セイルは激しい突き上げを続けながらシグルーンの顎をつかみ、顔を自分に向けた。
そして強く舌をからめた後、耳元にそっと囁く。彼女はとっくに言葉を認識する力を失
っていたが、なぜかその囁きだけはよく聞こえた。

「……な、なに?」
「シグ……わたしの、こどもを、うんで、くれますか?」

 その瞬間、凄まじい快感と渇望感がシグルーンを襲った。
 これまでの快感など吹き飛ぶほどの巨大な欲望に、シグルーンは思わず叫んだ。

「はい、はいっ! せいる、おねがいっ!!」

 叫びと同時に、体が浮き上がってしまうほどの強烈な律動がシグルーンを襲う。

 達した。

 自分の体の中の何かが、何かを吸い取るように痛いほど縮み上がるのを感じた。
 そこに、彼女が心から望んだものが、強く、突き抜けるほど強く押し付けられる。

「しぐ、るーん……、あいして、ます、よ」

 胎内の最奥で、火傷するほどに熱い何かが弾けた。
 満たされる。心が、体が、欲望が満たされていく。
 シグルーンは幸せだった。そしてそれに浸ったまま意識を失った。

 再び、池のほとりは静寂を取り戻す。
 半裸の男女が、上半身を木に預けたまま地に腰を下ろして抱き合っている。

 女は目を閉じ、男は目を見開いている。

 何の反応も返さない女体を気ままに弄ぶ男の指先。
 その男の瞳には、青白い月の光だけが映っていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 ガラガラ、ドシャン!

「ちょっとぉ、なんなのこれーっ!」

 シグルーンは、何か金物が落ちて散乱する音と、それに続くリムリアの叫び声で目を
覚ました。

(あ、あれ……わたし……?)

 そうか。あの後、みんなの所へ戻ったんだっけ。

 唇に指を当てる。その指を自分の顎へ、首へ、胸の谷間へと滑らす。
 自分の体にうっすらと何かかこびり付いている。それは感触というより感覚。
 ぶるっ。心臓の下のあたりが小さく震えた。
 どうしてだろう? 何でわたしは、こんなに「不安」なんだろう?

 気を紛らわそうと周りを見まわす。そして改めてため息を吐いた。

 思わず、凄いと声に出さず唇だけ動かして呟く。
 そこは「ぢつにすンばらしい」光景だった。

 あちこち壊れて穴の空いた床板。
 隙間風の通り抜ける壁。
 天井に目立った穴はなかったが、よく見ると大雑把に薄板で補強してある。
 そして自分が寝ていた布団とシーツも古いしみだらけ。

 昨日、陳が言っていた。ここは門下の書生たちが使っていると。

 陳自身が主催しているわけではないが、ここは「陳塾」と呼ばれている。彼を慕う学
生や若手官僚などが集い、勉学や研究に励む場となっているらしい。実際、ここの出身
で国政の中枢に参画している者も少なからず存在し、そうした自称OBたちが足しげく
この館を訪れて後輩の面倒を見ているのだ。

 だいぶ改善されてきたとはいえ、男尊女卑が未だ根強い九龍。さすがに女性の姿は見
当たらない。男だけだとこれほどになるのかと、シグルーンは心底あきれ果てた。

 簡単に身繕いを終え、先刻リムリアの声がした方へと向かう。
 その場所を一目見ただけで、さっきの叫び声の意味が完璧に理解できてしまった。

 そこは、恐らく、台所だと、思われる場所だった(苦)。

 床に散らばるなべやかん(別に筋肉達磨のことではない(笑))。
 まるで整理されていない、大きさも種類もまちまちな食器の押し込められた棚。
 いつから洗っていないのかわからないほど黄ばんだ流し。
 そして悲しいほど無残な形に切り刻まれた食材の山。

 今日の食事当番なのだろう。まるで似合わないエプロンを突っかけた青年が、頭一つ
低い少女(無論リムリアである)にペコペコと頭を下げている。

「あなたたち、まっるで炊事の仕方がわかってないっ! これまで一体どんな食生活を
してたの! いくら男所帯だからって、限度ってものがあるわよ! ちょっとそこどき
なさいっ! いい、まず包丁ってのはね……って、あ、シグ、起きた?」
「う、うん。……でも凄いね、これ」
「凄いじゃなくて酷い、よ。あ、そうだ。ありりん呼んできて!」
「アリーヌ? あ、そっか」
「こういう時はあの子の出番よ。……でもその前に片付けが先か。ミコもお願いね」
「わかった。わたしも手伝うね」
「うん。……じゃ、あなたたちは食堂で大人しく待ってなさい。これ以上、絶対、何も
するんじゃないわよ! いいわね!?」

 おどおとと頷いて逃げ去る青年。その姿に、顔を見合わせて苦笑する二人。

「困ったモンね。それなりに頭はいいんでしょうけど、これじゃあねえ」
「そこまで言ったら可哀相よ。まだ苦学生の身分なんだから」
「だったら少しは工夫しなさいっての。まあいいわ。始めましょ。……あ」
「え、なに?」
「あ、うん。えっと……ううん、なんでもない。じゃ、ありりんとミコ」
「わかった。ちょっと待ってて」

 シグルーンの姿が消えてから、リムリアは一人ごちた。

「あたしもライザッハでは、だったからな……言っちゃったら卑怯になるか」

 同じ人を好きな女の子同士での友情、か。
 全く、何を少女漫画みたいなことやってんのかしら、あたしたち。

「でも、やっぱりちょっと辛いな。ホント……」

 リムリアには、シグルーンが二人を連れてくるまでの時間がとても短く感じられた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 朝の食事は、彼女たちにとってはいささか物足りない内容だった。

 だがその横には、同じメニューをむさぼるように食べ漁る野郎どもの姿があった。
 こんな美味い食事は数年ぶりだと言って、涙を流す者までいたくらいである。

 おかわりを求めて台所に殺到した男たちは、そこが別世界に変わっているのを知る。
リムリアがその職分を発揮して整理清掃を指揮したそこは、ようやく人が口にするもの
を調理するに相応しい状態になっていたのである。男たちにしてみれば、まるで天上の
楽園にも思えたことだろう。

 更に。そこにいたのは、おたまを手にして、「慌てなくてもおかわりあるですの」と
優しく微笑む天使のような少女。

 たちまちアリーヌは、男たち全員のアイドルになった(笑)。

 嵐のような朝食タイムが終わり、ずずっとお茶をすするシグルーン。
 なぜか周りに男たちの姿が無い。そこにリムリアがやれやれと近付いてきた。

「あの人たち、どうしたの?」
「どうしたもこうしたもないわよ。全員台所で食器洗ってるわ。よっぽど嬉しかったん
でしょうね。これから大変よ、ありりん。クスッ」
「ふふ……ね、リム?」
「ん?」
「これから、どうしようか?」
「う〜ん、ライザから話は聞いてるけどね。動けないんじゃどうしようもないでしょ?
今は大人しくしてるのが一番よ。みんなも納得してるわ」
「そうね。仮にもここは九龍だし……でもホントにみんな、ちゃんと大人しくしていら
れるかしら?」
「それなら大丈夫。やることはいっぱいあるわ」
「え?」
「だって、ほら?」

 リムリアの視線が、部屋中を動き回った。すぐにシグルーンも察する。

「そうね。せめて『人の住める場所』にしましょうか」
「うん。……いい、あたしたちは『犯罪者』なのよ。当然、強制労働させられてしかる
べきよね」
「ふふ、凄い犯罪者よね。逆に看守たちを仕切っちゃうんだから」
「どうせ他にすることも無いし。いっそのこと、この屋敷全部、どうにかしちゃいまし
ょうよ」
「決まりね。じゃあまずは備品調査からかな?」
「うん。使えるものと使えないもの分けて、その後は修理と大掃除。配置や間取りも考
え直さないと、またすぐ駄目になっちゃうわ」
「布団干したり……ああそう、洗濯もしないと。さっき押し入れ覗いてみたけど、カビ
とキノコの苗床になってたわよ(苦)」
「それもあったか。じゃそっちはあたしがやるわ。う〜んと、ジーマとミコとアルピナ
こっちによこして。ありりんも台所終わったら手伝ってもらう。で残りのみんな使って
そっちの方お願いね」
「わかった。……でも、質はともかく量が凄いから大変ね。一週間くらい見ないと」
「それで済めばいいけど(笑)。あ、それから」
「ん?」
「男たちには手出しさせないでね。役に立たないどころか邪魔してくれそうだし」
「勿論。彼らには大人しく『お勉強』しててもらうわ」
「あと……」
「まだ何かある?」
「セイルも、休ませてあげてね。なんか最近ちょっと変だったし」
「……やっぱり、気付いてた?」
「そりゃわかるわよ。……聞いちゃ悪いとは思うけど、昨日どうだった? 二人で話、
したんでしょ?」
「……うん、『ごめんね』」

 謝りの言葉など聞きたくはなかった。なぜならそれは。

「違う、別に責めてるわけじゃないの。ただセイルがどんなこと言ったか、気になった
から」
「……ホントにごめん。今は言えない」

 今度の「ごめん」には、微妙に違うニュアンスが含まれていた。

(そんなにひどいの? セイル……)

 うつむいて手を握り締めたまま口を閉ざすシグルーンの姿に、リムリアはこれ以上聞
くべきではないと判断した。

「わかった。じゃセイルのことは任せるわ」
「え!? リム……」
「いいのいいの! それよりさっさと始めましょ! モタモタしてるとあの子達、自分
で勝手に動き出しちゃうよ? 目的与えてやんないと何しでかすかわっかんないし」
「うん。……ありがとリム。じゃあこっちは任せてね」
「おっけ〜。みんな集めて、打ち合わせしましょ?」

 かくして、陳塾の歴史に『火の七日間』と記された一大騒動が始まる(爆)。
 この時の事を、学生たちは後日、以下のように述懐した。

「彼女たちは破壊の女神だった。
 我々が慣れ親しんできた学び舎と慣習を完膚なきまでに破壊し尽くした。
 後に残ったのは、心地よい寝床と美味い食事。そしてほんの少しの堅苦しさだった」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 七日目。ようやく塾生たちは日常を取り戻したかに思った。
 だが彼女たちの「安息日」は、その一日だけだった。

 翌日から新生「陳塾」は、ラワンの一大名所に成り上がっていたのである。

 セイルとの話し合いの結果、一同はここの修復に自分たちの所持金を一切使わないと
決めていた。主である陳の性分を察してのことである。彼らがこれまでに培った財力を
もってすれば、この程度の屋敷の修復など朝飯前なのだが、それでは陳が自らを律する
ことで示してきた宰相としてのけじめを無駄にすることになる。

 よって彼女たちは資財の調達に際し、自らの「芸」をもってした。

 ティロルとファローラのコンビ芸は、芸達者の多いクーロンでも高い評価を得た。
 リンスの明るい歌声とシグルーンの美しい演奏はファンを二分した。
 武術道場を開いたルーとチョルラには、名うての達人も敵わなかった。
 エリスンとシルヴィアの塾には、書生たちも耳を傾けた。
 リムリアとアリーヌが練り上げたレシピは、クーロンの家庭にも受け入れられた。
 ジーマの囲碁(イーゴ)の腕前が相当なのはまだしも、アルピナにその才があったの
には仲間たちも驚いた。
 そしてミコとクウが主導し、パッティの五人が手伝う託児所には、母親たちから感謝
の言葉が引っ切り無しに届けられた。

 元々陳塾は、地元の人たちから幾許かの支援を受けている。陳母子の人徳もあるが、
塾生たちの素朴な生真面目さが好評だったのである。無論、彼らが将来国政を担う人材
であることも支援の一因だが、それ以上に「塾生さん」と親しみを込めて呼ばれる存在
だったことが大きかった。
 とはいえ、決して一般民衆の暮らしに余裕があるわけではないし、陳が帝國の重鎮で
あることも変わりがない。屋敷への出入りに特別の制限があったわけではないが、彼ら
が頻繁に通うというわけには行かなかったのである。

 そこに現れた彼女たちは、陳塾と民衆を結びつける鎹(かすがい)となった。

 彼女たちと共に学ぶこと。
 彼女たちと共に楽しむこと。
 彼女たちと共に生活すること。

 全てが陳塾の「塾生さん」たちに繋がることだと、人々にはわかっていた。人の口に
戸は立てられぬとの言葉通り、すぐに彼女たちの立場も知れわたったが、損得勘定に聡
い庶民根性とでも言おうか、その程度で怯むような者など近隣には存在しなかった。

 塾生たちも、程なく悟る。
 この生活が自分たちの現在を満たすだけでなく、将来の試金石となることに。

 「治」の本質とは何か?
 それは、人に何かを「強制する」ことである。

 その根拠が経済的満足であるか軍事的恐怖であるか精神的信念であるかは体制による
が、いずれの場合にも必須とされる存在がある。

 「強制の執行者」である。

 民衆は基本的に「強制」を嫌う。そしてこうした抑圧に対する反感は、顔の見えない
発令者ではなく、実際に自分たちに相対する「執行者」に向けられてしまう。官、即ち
「役人」が嫌われ者であることは、統治における宿命と言って良い。

 では、役人に求められる資質とは何か?
 その第一に「質素」を挙げる論がある。

 一体誰が、自分より甘い汁を吸っている奴の言うことを大人しく聞くというのか?
 詰まる所、論拠はこれに尽きる。

『役人に謙虚さなど必要ない。ただひたすら高慢であれば良い。
 しかし決して、己個人の物質的豊かさを誇示することなかれ。』

 だから役人は、自分の前に立つ民衆の心を知らねばならない。
 わがままでいいかげんで欲深で、そして自分たちに敵意を向ける人々の心を。

 彼らの存在など意にも介さない、堂々と自らの煌びやかさを誇る発令者のために。
 君臨者という、最大の権力を得た代償に最小の自由しか与えられない者のために。

 そして彼の代理人として「実際の執政」を遂行する愉悦のために。

 塾生たちは、民衆が彼女たちに見せる、「自分たちには決して見せない顔」を見た。
 将来自分たちを抑圧する存在になるであろう塾生には、決して見せない顔を。

 愕然とした。落ちこむ者もいれば憤慨する者もいた。
 それでも彼らは確かに賢明だった。自らが陳塾に集った理由を思い出したからだ。

 陳瑞錬という「名宰相」を手本とする。
 その人脈と評判に自らの名を連ねる。

 そんな簡単な気持ちだった。単なる憧れだったのかもしれない。
 だが今の生活が思い知らす。陳が実行しているのは凄まじく辛い事だと。
 単に物質的なことに留まらない、強靭な精神力を必要とされることなのだ。
 ただそこにいるだけで、人の反感を甘受せねばならない存在であるということは。

 『自分たちにその覚悟があるか?』

 答えは要らない。ただその問いを常に意識に留めておくだけで良い。
 全ての「官」がそうであれば、国家が朽ちることは無い。

 逆説的に、それは歴史が証明している。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「あれ? セイルこっちじゃなかったの?」
「え? ああ、そういえば託児所の方行ったよ。向こう手伝うってさ」

 リンスとのストリートライブ(笑)を終えて陳塾に戻ってきたシグルーンは、食堂で近
隣の主婦たちと料理やおしゃべりを楽しんでいるリムリアにそう聞かされる。

 ふふ。最近セイル、あそこばっかりね。
 結構、子供が好きなのかな?

 門から入ってすぐの所にある中程度の館。元々集会などの場として造られたらしいこ
こを、ミコたちが託児所として使っている。まだ日が落ちるまでには時間もあり、午後
の昼寝を終えて早速はしゃぎ出した子供たちの声が、近付くにつれてますますはっきり
とシグルーンの耳に届いてきた。

「ごめんなさーい。あ、ミコ!」

 遠慮無く扉を開くと、そこには散らかされた布団を丁寧に畳むミコがいた。

「お帰りなさいませ、シグルーンさん。今日もお疲れ様でした」
「お互い様ね、クス。……そうそう、セイルは?」
「皆さんと一緒に、外で子供たちと遊んで下さってます」
「そう? ……ん〜っと、ねえミコ? 最近セイル、どうかな?」
「どう、とおっしゃいますと?」
「言葉にするのは難しいんだけど……ちょっと落ち込んだりとか無理してるみたいだと
か、そんな感じ、無い?」
「いえ、全然。あ、いいえ、そう言えば……」
「何かあったの?」
「いいえ。最近はとても明るくて、いつも通りのセイルさんです。ただ初めてこちらの
手伝いに来て頂いた日は、確かにちょっと無理してる感じでした。でも子供たちに囲ま
れてらしたら、すぐ元気になられたんです」
「そう……じゃ、今は全然?」
「はい。ただ私にはそう見えるというだけですが……」
「ううん、あなたの言葉は一番信用できるもの。そう言ってくれて安心したわ」
「恐縮です。あ、あちらですよ?」
「うん、ありがとミコ。ちょっと私、行ってくるわ」

 はい、と笑顔で頷くミコを跡目に、シグルーンは裏へと急いだ。
 口ではそう言っても、自分の目で見るまで安心できない自分を悲しく思う。

 館の裏手にある草むら。元は観賞用の庭園だったらしく、苔むした置石や、今は蛙や
虫の住処(すみか)となった小池などがある。皮肉にも、子供たちの遊び場としては適
度に荒れた具合になっている。

 シグルーンはすぐに、子供たちと戯れるセイルの姿を見つけた。
 手を振り上げて声をかけようとする。だがその手が止まった。

 セイルは、とても楽しそうに笑っていた。
 かつて見せていたのと同じ、シグルーンたちが好きになった笑顔そのものだった。

 でもその笑みは、子供たち以上に、共にいるライザに向けられていた。

 心底楽しそうに、声をあげて笑いあうセイルとライザ。
 傍目から見ても、その二人が振りまく雰囲気は「幸せ」なものだった。

 どうしようもなく、嫉妬に身を焦がしてしまうくらい。

 シグルーンはそこに足を踏み出せなかった。
 どうしました、と尋ねるミコに答えることもできず、彼女はそこから立ち去った。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 その夜。シグルーンは一人、林の中の池のほとりで、一人リュートを弾いていた。
 何も考えたくなかった。ただ弦の響きにだけひたっていたかった。

 それなのに、彼女の研ぎ澄まされた神経は、彼女の訪れを告げてくる。

「……女の子の一人歩きは危険よ、ライザ?」
「あなただって同じじゃない、シグルーン?」
「私は、平気だもの。……あなたとは違うわ」

 嫌だな。本当に嫌になる。
 何でこんな風に言っちゃうんだろ、わたし。

 ライザはそれでも、嫌な顔一つせずシグルーンの横に腰を下ろした。
 そのまましばらく、彼女の奏でる旋律に耳を傾けていた。

 演奏が終わる。静寂が訪れる。
 そしてライザが、ぽつりぽつりと語り出した。

「わたしね、弟がいたの。……知ってるよね」

 シグルーンは頷いたが、お互い相手の方を見てはいなかった。

「両親がね……あの子が八才の時に事故で死んじゃったから、わたしがずっと面倒見て
いたの。ふふっ、でも私だってその時はまだ十二。大変だった、すごく」

「私ね、小さい頃から霊感っていうのかな、そういうのが強くて。ずっと近くの教会で
手伝いとかしてたから、結構いろんな人が助けてくれた。きっと私一人じゃ、あの子の
こと何にもできなかった。……うん、大変だったけど、きっと幸せだったんだね、あの
頃は」

「両親が牧場やってて。小さい牧場だけどね。私たちだけになって困ったけど、その時
雇ってた人がいい人で。あの子が大きくなって、何とか一人で仕事できるようになるま
で一緒に頑張ってくれた。何にもお礼できなかったな……」

「あの子に牧場任せられるようになって、少し余裕が出てきた頃かな。私もだんだんと
霊感が強くなってきたの。元々変な夢を見る癖があったんだけど、予知夢っていうの?
そういうのを見るようになったわ。それが評判になって、あちこちから教会に人が訪ね
てくるようになった。……恥ずかしながら、それでちょっとだけお金もらって」

 ふふふ、と笑うライザに、ようやくシグルーンは視線を向けた。

「いいじゃない。誰だって同じよ。……でも、聞いていい?」
「何?」
「変な夢を見る癖があったって、どんな夢?」

 ライザが振り向いた。その顔から笑みが消えた。

「巨大な何かが世界中を壊し回り、そこに住む人全てを踏み潰していく夢」
「……それが、そうだったの?」
「うん。私だけじゃない。私たちパッティの五人は、皆『それを知ってた』の」
「だからマーティス様に従ったのね」

 こくりと頷き、再び視線をそらせてうつむくライザ。

「私も最初は、ただの夢だと思ってた。父さんや母さんが生きてる頃、よくその話をし
たわ。笑って母さんはこう言った。『昔々、神様は地上で悪さをしていた五匹の悪魔を
退治なさったって言うわ。ライザの見た何かって、もしかしたらその悪魔かもしれない
わね』。……まさか本当にそのものだったなんて、百年前にトラム山の地下で『あれ』
を見せられるまで信じられなかった。……いいえ、信じたくなかった」

 そうだ。今のシグルーンにもはっきりとわかる。
 もしも「あんなモノ」が、何の制約も受けず地上で暴れまわったら?

「……でも不思議とね、あの子はこの夢の話を楽しそうに聞いてたわ。今日はどんな夢
だったの? 今日はそいつらどんなことしたの? って、朝ご飯食べる時になると必ず
尋ねてくるの。両親がいなくなってからは特にそうだった。……ふふ、変な子だった。
だって子守唄がわりに魔神の話を聞きたがるんだもの」

「今思うとね、寂しかったのかなって思う。私だってそうだった。たった一人の家族、
ちょっとでも長く一緒にいたいって思って当然よね。あの子、私が話をするたびに言う
の。姉さん凄いね、きっと姉さん、将来凄い人になるんだよって。喜んであげるとあの
子も笑ったわ。もしかして、あの子なりの気遣いだったかも」

「変な話だけどね。幾つになってもあの子、私の後ばかりついてくるの。毎日仕事が終
わると大急ぎで私を教会まで迎えに来て。よく言ってた、姉さんに悪い虫がつかないよ
うに僕が守ってあげるって。……どこでそんな言葉覚えたんだか。可愛いし明るいし、
真面目に働く子だったから、周りの女の子達にも人気あったんだけど、誰から申し込ま
れても誰とも付き合おうとしなかった。姉さんが落ち付くまで恋愛なんでできないって
言って。じゃあもしも私が誰とも結婚できなかったら? って聞いたら」

 クスッと笑う。

「僕が姉さんと結婚してあげる、って」

 馬鹿な子よね。そうライザは口の中で呟いた。
 兄弟のいないシグルーンにはよくわからない。

「私が十八になった年だった。その前の年辺りからなんだか変な天気が続いて。私たち
が暮らしてた地方だけじゃなく世界中がね。なかなか食べ物も手に入らなくなったし、
病気も流行ったりしてた。私たちはなんとかしてたけど、実際みんな、何となく不吉な
ものを感じるようになったわ」

「私の夢もますますリアルになっていった。夢の中の化物の、肌の手触りまで感じられ
るくらい。怪物の吐き出した雷に焼かれた家や人の、吐き気をもよおすような匂いがわ
かるくらい。……そう、それが今からちょうど百年前。グナガンが一度目覚めかけた時
のこと」

「ある日私は教会で一人、神様に祈りを捧げていたの。その時だった。突然あたりが真
っ白になって、目が覚めるとそこに、とても美しい神様がいらっしゃったわ」

 恋愛神マーティス。グナガン監視の任に就いていた上級神の一人。

「神様はおっしゃられた。今の異変は、大昔この大陸の地下深くに封ぜられた魔神が、
永き眠りから目覚めようとしているからだと。もしこの魔神が本当に目覚めたら、地上
は地獄と化すだろう。そう、『君も知っているように』、と」

「そして私は、それまで自分の見ていた夢が、過去実際に起きていた事だと知ったの。
……思い出したくない、口にするのもはばかられる。およそ人として生きていく限り、
決して体験したくはない悲劇の全てがそこにあった。あんなことが繰り返されるかもし
れないなんて、絶対に許せなかった」

 ライザは、静かに自分の服の裾を捲り上げる。
 もう幾度となく見せられた、魔神を封じるための紋章。

「神様は私にこれを下さった。そして言われたわ。もし私にその覚悟があるのなら、次
の満月の夜、もう一度ここに来なさいと。ただし、もう二度と誰とも会えなくなる覚悟
が必要ですよ、と」

「覚悟はできていたわ。けど、結局私は最後まであの子にこの事を話せなかった。何も
言えないまま時が過ぎてしまって、ついにその日の前日になってしまったの。なのに、
その日あの子は食料調達のために山向こうの町へ出かけることになって、帰ってくるの
は二日後になるって言うの。……馬鹿よね私。なんできちんと自分の口で、さよならを
言ってあげられなかったんだろう? 私は結局、それまでのことを記した日記を残して
おくことしかできなかった」

 運命の日が来る。ライザたちが「パッティの封印」と化す、その時が。

「本当にいいのですね? そう尋ねる神様に、私ははいと答えたわ。私の体は光に包ま
れて、天上へと浮かび上がって行くの。その時だった」

 ぎゅっと、ライザの手が握り締められた。
 言葉に、嗚咽が混ざっていた。

「突然教会の扉が開かれて、あの子が駆け込んできたの。何か不都合でもあって予定よ
り早く戻ったのね。当然日記も読んだんでしょう、神様に向かってあの子が叫んだわ」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  『どうして、どうして姉さんなんだ!?』

  『此ノ者、神ノ御意識ト調ズル魂ヲ持チタリ』

  『だからって、なんで! 神なんだろ? あんたたち、神様なんだろ!?』

  『神ト魔神ハ天秤ノ両端。神ノ御手ヲ以テ事ヲ成ス事能ズ』

  『ふざけるな! だから人間を犠牲にするってか? 姉さんを使うってのか!』

  『全テハ世界ノ調和ノ為。神ト人ノ世ノ平和ト安寧ノ為』

  『誰かを犠牲にしてか!? 自分以外の誰かを犠牲にして、しかもそれを誰も知ら
   ないままでか!?』

  『事態ニ一刻ノ猶予モ無シ。此レ唯一ノ手管也』

  『そんな言葉でごまかすな! 返せ、姉さんを返せ!』

  『此ノ者、自ラ承レリ。万事此ニテ納レリ』

  『嫌だ! 絶対に嫌だ! 姉さん! ライザ姉さん!?』

  『封印ノ儀、今正ニ始ラン』

  『姉さん、姉さーん! 待ってて、僕がきっと助け出すから! 絶対にもう一度、
   姉さんを自由にするから! だから姉さん、ライザ姉さん……!』

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

  『僕を忘れないで』

  『僕はいつでも、ここにいるから』

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 シグルーンの両目から、知らず涙が零れ落ちていた。
 ライザはうずくまり、膝に顔を埋めたままくぐもった声で続けた。

「……私は、あの子の最期を見取ってあげられなかった」
「そんな! それはあなたのせいじゃないでしょう?」
「でもあの子は、最期の最後まで、私のことを想ってくれてた。私はあの子に何もして
あげられなかった、何も!」

 シグルーンが初めて聞く、ライザの叫び。
 沈黙が続いた。長い沈黙だった。

 それを破ったライザの言葉は、シグルーンの感情をも切り裂いた。

「ねえシグルーン? 今日、託児所に来てたでしょ? 何で声をかけなかったの?」

 心臓が止まるほどの衝撃。
 何で? どうして今それを言うの?

「一年前、封印から開放された時、セイルさんは私に向かってこう言ったわ。『あなた
たちだけが犠牲になる世界など許さない』って。……驚いちゃった。だって、『リース
にそっくりの男の子』が、『リースと同じ事を言う』んだもの」

 ライザはそう言いながら顔を上げ、シグルーンを見つめた。
 笑っていた。まるで、勝ち誇ったような顔だった。

「あの人、もしかしたらリースの生まれ変わりかもね」

 ライザはそう言って立ち上がる。膝やお尻の泥を払う。
 そしてくるりときびすを返して駆け去って行った。

 ライザとリース。
 リースとセイル。

 そして、『セイルとライザ』。

 三つの名前が、シグルーンの頭の中をぐるぐると回り続ける。
 何もわからなかった。何一つ理解できなかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「あ、おはようございます。お勤めご苦労様です」
「……おはよう」

 朝食前の掃除をしていたリムリアは、夜勤明けで朝帰りの陳の帰宅に遭遇する。
 そんな彼の後ろ、陳とは対照的にきらびやかな上着をまとった人物が続いていた。

「おはよう、ございます」

 お客様かな? リムリアはきちんと頭を下げて挨拶したが、彼は無視している。
 少しムッとしたリムリアだが、顔には出さない。すると彼は陳に言った。

「あまり表に出すべきではないのではないかな、兄上?」

 兄上? 閣下に弟なんていたの!? でも確かに顔立ちは似てるかな?

「ここは私の家だ。家の中の事は全て私が責任を負う」
「もう少し自重してくれ兄上。陳塾の事といい、宮廷に波風立てるような事をされては
私が困るのだ……大体兄上は……」

 母屋の方に向かう対照的な二人。
 リムリアはしばらく呆然としたまま、掃除を忘れて立ち尽くしていた。

「……で、それが朝食を食べ損ねた理由?」

 苦笑しながらシグルーンはそう聞き返した。

「その後いろいろ彼のことを塾生さんたちに聞いてたのよ。それが凄いの。彼、なんと
あのTAO総監なんですって!」
「総監! TAOの!?」
「なんでも九龍って、表向きにはTAOの存在を公認して無いんだってね」
「うん。まあ今更ってトコもあるんでしょうけど」
「彼も名目上は皇帝直属の情報機関総監ってコトらしいわ。でも公私内外問わず、情報
と名の付くもので彼の知らない事は無いって。官僚や貴族のお目付け役として、彼を恐
れない者はこの九龍にはいないそうよ。……そうそう、この間シグたちが謁見の時に見
たっていう皇帝の腰巾着、彼の右腕とも言われてるって」

 あの嫌味ったらしい顔を思い出して一瞬むかついたが、ふと疑問を感じた。

「え? でもあいつ、陳閣下と対立してたみたいよ? ……じゃあ兄弟で対立派閥に分
かれてるってこと?」
「う〜ん、その辺が微妙らしくてね。塾生さんたちも、その辺りはよくわからないって
言ってた。まあ幾ら陳さんが疎ましくても、あれだけ官僚と国民に人気のある人だから
ね。下手に手を出せないんでしょうよ」
「ふ〜ん」

 そんな事もあるのだな、と特に気にはしないシグルーンだったが、その後用事で門の
前を通った時、一人の小役人っぽい男に呼びとめられた。

「失礼。瑞祥(ずいしょう)総監がご訪問されているはずだが?」
「瑞祥、総監?」
「宰相閣下の弟君の事だ」
「あ、ああ、はい。確かまだお帰りにはなられていないと思いますが」
「急ぎの用がある。この手紙を渡してはくれないか?」
「わかりました、弟君のほうですね」

 シグルーンはいそいそと母屋へ向かう。顔を見てみたいと思ったからでもある。
 目的の屋根が視界に入り、小走りを始めたその時だった。
 突然、扉の向こうから叫び声が聞こえた。

「兄上! 九龍のためですぞ!?」

 思わず足を止めてしまう。そして静かに壁に体を寄せて聞き耳を立てた。

「それは私が判断する」
「兄上自身おっしゃっておられただろう? 既に九龍直属マスターの八割が喪われたの
だ。侍従長も皇帝の手前、大っぴらには口に出せなかったが、実は内々の承諾は取りつ
けてある」
「……」
「ここで虎の子の四天王さえ喪うことになれば、人的資源の損失は計り知れぬ。宰相と
して採るべき手段は一つしかあるまい!」
「ふむ? つまりそれは、この事態が四天王でも解決できない難事だと認めるという事
か? お前が手塩にかけて育て上げた、『自称』世界最強の戦闘機械軍団でも?」
「そうは言っておらぬが、万一と言うこともある。……確かに私とて万全の自信をアレ
に持っているわけではない。これまでの経緯と損失からすれば、もしかしたらアレとて
犠牲者の列に加わるかもしれぬと恐れるのは無理なかろう?」
「そこまで事態の本質が見えていながら、なぜ皇帝を説得しないのだ、瑞祥?」
「それを言うのか? 私は兄上とは違う! 私は所詮、皇帝の手駒に過ぎん!」
「私とて同じだ。私とて九龍統治機構の一歯車でしかない」
「話をすり替えるな兄上! 『君臨者』と『執政者』の分離こそが九龍の本質であり、
その一方の長と認知された上での尊敬だと、他ならぬ兄上自身がご承知であろう!?」
「話をすり替えているのはお前だ、瑞祥。そう言って事態の責任を私に委ねようとして
も無駄だ」
「だが事態の解決に『彼ら』の力が必要なのは確かだ! それは認めざるを得まい?」
「……」
「そもそも『彼ら』自身がそれを求めてこの地に来たのだろう? 利用させてもらえば
よいではないか? 後の事は後の事だ。コトが済んでしまえば、幾らでも処分の方法は
ある!」
「瑞祥!」
「……ふん、やけに『彼ら』に入れ込むではないか兄上? 情でも写られたか? この
屋敷も随分まともになったようだし、それになかなか可愛い女子もいるようだしな。愛
妻殿を失われてもう五年か。そろそろ寡男(やもめ)暮らしも寂しくなられたかな?」

 そこに別の人物の声が挟まれる。

「瑞祥! 失礼ですよ、兄上に対して!」
「母上は口を挟まないで頂きたい! これは政治の話です。……そもそもいつまでこの
あばら屋にいるつもりですか? 私があれほどお迎えの準備を整えていると申し上げて
いるのに?」
「ここはお前たちの父上の家です! 私はこの家に嫁ぎました。ここを離れるつもりは
ありませぬ」
「……その家を継いだ兄上がこんな甲斐性無しでもですか? あの美しい御殿をこんな
有様にしてしまった兄上など、いい加減お見限りになって下さい!」
「黙らっしゃい! 瑞錬は立派に父上の遺志を継いでくれました。お前こそ目を覚まし
なさい! いつまでそんな恥ずかしい仕事を続けるつもりですか?」
「ふん。恥ずかしい、ですか? でもそんな仕事を続けているからこそ、今や兄上など
足元にも及ばない豊かな生活を送れるのですよ? 『官僚は質素たるべき』などと現実
ばなれの教えに拘って馬鹿を見続けるのがそんなに誇らしいですか? 愚かな庶民連中
が兄上のことを何と言ってるかご存知ですか? 『見栄っ張りの唐変木』ですよ!」
「瑞祥!」
「……すいません、言い過ぎました。今日はこれで失礼します。ですが兄上! 九龍の
ためにどうすべきか、兄上にはお解りになっているはずだ。一刻も早い対応をお願い致
しますぞ。……その為の協力なら幾らでも致しますので」

 シグルーンは思わず身を隠す。兄弟が家の外に出てきた。
 戸口で弟が去るのを見送る兄。その姿が消えたのを確認して、瑞錬は言った。

「もう、出てきて良いぞ」
「……すいません。お聞きするつもりは無かったのですが」
「あいつにも解っていたようだ。わざわざ君に聞かせるように声を上げていたしな」

 赤面するシグルーン。そして意外そうに瑞錬が尋ねた。

「それにしても。人払いをしてあったはずだが、何故ここに来た?」
「あ、弟君の部下らしき方から、これを渡すようにと」

 と、結局渡せず仕舞いだった手紙を取り出した。苦笑する瑞錬。

「……中を見てみろ」
「え?」
「いいから」
「は、はい」

 白紙だった。絶句するシグルーン。

「よほど君に聞かせたかったらしいな。あいつの仕掛けそうなことだ」

 シグルーンって「いいひと」だからTAOに利用されるよ。
 地下牢でエリスンに言われた言葉が、改めて身に凍みた。

「まあ聞かれてしまった以上仕方ない。……どうするかね?」
「私の一存では決められません。でも」
「そうだな。許可が出れば、今すぐにでも君たちは宮に向かうだろうな」
「そのために、来たのですから」
「瑞祥に言われるまでも無く、私とて直ちにその許可を出したい。だが」
「駄目なのですか? 彼らの黙認があっても?」
「黙認は黙認であって公認ではない。今君たちが事態を収拾してくれたとしても、独断
先行及び管理不行き届きということで、君たちのみならず、私と私に随う者たちを処断
する口実にするかもしれない」
「まさかそんな?」
「君はまだ政治を知らない。……両親は懸命だな、こんな世界に君を近づけないように
したのは正解だ」
「……」
「だがもう選択の余地が無い。それに、……『時間』は、どうなのかね?」

 シグルーンは躊躇したが、言わねばならぬと思った。

「長く見積もって、あと二ヶ月……いえ、一月半」
「それで間に合わなければ九龍のみならず、全世界が、というわけだな」
「はい」

 瑞錬は目をつぶった。そしてそのまま言った。

「この期に及んで卑怯な振る舞いをする事を許して欲しい。これは私の独り言だ」

 息を呑むシグルーン。

「もはや九龍の力ではどうにもならぬ。誰か助けて欲しい。お願いする」

 シグルーンは、無言でその場から立ち去った。
 彼女はその足でセイルの所へ向かう。すぐさまリムリアとシルヴィアも呼ばれた。

 その夜。
 申し合わせたかのように、陳瑞祥の手の者と名乗る間者がセイルの所にやってきた。

 セイルと少女たちは、既に全員、戦闘の準備を終えていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 翌朝。一同は朝食前にミーティングを開いていた。

「で、調査結果はどうだったの?」
「うん。まずラワン中央にあるカイト本宮ね、あそこから八方向、つまり各聖補殿へ向
けて放射状に発せられてる力があった。恐らくこれまでの火災の原因は、この力の圧力
に耐えきれなくなって生じた魔力の爆発ね」
「でも……てんでバラバラだったじゃない、火災の順番?」
「そうでもないの。最初の斜め方向の四つ、昨日回ってみたんだけど、ここはどれも宮
自体の結界が弱いのよ。これじゃちょっとプレッシャー受けたら駄目だろうな、っての
すぐわかったわ」
「じゃあ残りは?」
「その前に、この資料見て。西、北、南の炎上した日よ。どう?」
「……これが何か?」
「ニッブいわねえ! じゃあ最初! あたしたちがアーハイムで最初の魔神倒したのは
いつだった!?」
「あーっ!!」
「そう! 後のは全部、あたしたちが魔神攻略した瞬間に燃え出したの。それもご丁寧
に、西北南の順番を合わせてよ?」
「つまり、何か関係があるって事よね」
「こっちの四つも昨日回ってるわ。パッティのみんな連れてね。で」
「西の封印は私のと同じだったわ」<ハンナ
「北のは私のと」<シーラ
「当然、南はあたし」<ココリコ
「言うまでもなく、東」<ネーナ
「どういうこと? 変じゃない、それって?」
「何が?」
「これまでの例からすれば、ここにいるのは『火』の魔神、ネーナの奴なんでしょ?」
「でしょうね」
「だったら何でそれ以外のがあるのよ? そもそも今の話だったら、東の宮にそいつが
いてもおかしくないよ? でも昨日実際に中へ入らせてもらったけど、本当に何の問題
も無いただの像だったよ、東の聖補殿の奴は」
「怪物がいるのは中央本宮だけだって話だし。奴の居場所はそっちだね」
「だから変でしょ? なんなのここって?」
「それだけじゃないわ。実はもっと変よ、ここ。例えばアーハイムの城の周りにあった
四つの塔、あれは周囲からの力を『防御』する結界だった。でもここラワンのはむしろ
他所からの力を中央へと『結集』する装置みたい。まるで逆」
「まさかここの中央にいるの、グナガンだったりしないでしょうね?」
「さすがにそれはないわよ。でも……まだ、地上まで出てきてない、よね?」
「どうだかねえ……何も異常が始まってないから大丈夫だとは思うけど」
「とにかく、今は中央をこじ開けるしかないね」
「それが問題よ。だって敵は怪物じゃなくて人間なんだもん」
「そうよねえ……一体どこまで『TAO』の連中が信じられるんだか」

 は〜ああ。器用にも、寝不足のあくびと一緒にため息をつく一同であった。

「……ねえ、後どれくらい時間ありそう?」
「現実には一月ってトコでしょうね。それに今回は全員でノコノコ行くわけにもいかな
いわ。夜しか動けないし、交代で回さないと」
「……間に合う?」
「間に合わせるの! これまで通り!」

 出た、お馴染の科白。
 ネタに乏しい筆者をご勘弁下さいませ(苦)。

 そろそろ塾生たちが起きてくる時間となった。
 とりあえず今日はここまでと、少女たちは解散した。

(……ちょっと、シグ?)

 その時、シルヴィアが小声でシグルーンを呼び止めた。

(どうしたの?)
(考えておくことがもう一つあるわ)
(え、なに?)
(クーロンからの脱出方法)
(!?)
(多分奴ら、コトが済むまであたしたちに手出しはしないでしょうけど、これだけクー
ロンの極秘情報知ったあたしたちをただで帰す筈が無いわ。場合によっては力づくでも
国外に逃げ出す算段立てておかないと)
(……そこまでやるかしら?)
(お願いだからもう少し現実を直視してよ、シグ? 今こうしていられるのは、結局陳
閣下の個人的なお計らいに過ぎないの)
(だったらいっそ閣下にそのことを……)
(それも絶対に駄目! 彼だってクーロン側の人間よ? いつ手のひら返されるかわか
ったもんじゃないわ)
(……)
(ムスっとするのはわかるけど、お願いだから理解してよ。それにもしうまく助けても
らえたとしても、そしたら今度は閣下にご迷惑かかるでしょ? そう思えない?)
(わかった。……ごめんなさい)
(いいってば。まあとにかく、なるべく口の固そうな人間選んで段取り考えてみて。後
でいろいろ検証してみるから)
(うん。色々ありがと、シルヴィア)
(あたしの身のためでもあるもん。幾らなんでもここで犯罪者として死にたくないわ)
(そうね。みんなのためにもどうにかしないと)
(そうよ。じゃお願い)

 ぽつんと一人残されるシグルーン。
 当てなく視線を動かして、最後に自分の組んだ手を見つめる。

 どうしたんだろ、私?
 当然じゃない、シルヴィアの言ったこと。
 ちょっと休息の期間が長かったかな? 久しぶりの「行動」で、なまってたのかな?

 違う、そうじゃない。わかってるくせに。

 考えられない。
 考えたくない。

 ガタっと椅子から立ち上がる。
 何かしていないと、何かに自分が押しつぶされそうになる。
 部屋の中を歩き回る。窓の外を見る。扉から外に出る。

 朝日がまぶしかった。
 その向こうに、二人の人物を見つけた。

 楽しそうに語り合う、セイルとライザの姿。

 シグルーンの中で、何かがプツりと切れた。
 足早に、無表情に二人の所へ近付くシグルーン。
 二人が自分に気付く。そして無表情のまま言った。

「セイル、ちょっといい?」
「何ですか、シグ?」

 その笑顔には、先日まであった暗さも冷たさも無い。
 自分には、この笑顔をセイルに取り戻してもらうことができなかった。
 それを成し遂げたのは、横にいるライザなんだ。

「大事な話があるの。ちょっとセイルの確認をとっておきたくて」
「はい、わかりました。……じゃライザ、また後で」

 笑顔で手を振り合う二人。目を背けたくなるほどの嫌悪感。
 シグルーンは、まるでセイルを引きずるようにして、林の奥の池の前に来た。

「……なんですか、話って?」

 セイルが何の邪気も無しに笑う。
 シグルーンは無言のままそれに抱きつく。

「ちょ、ちょっと、シグ……んっ?」

 自分から唇を求めた。舌を差し出し、彼の唾液を自分から飲み込んだ。
 自分の手が、まるで自分の意識とは別の生き物のように彼の体を這い回る。
 胸を、背中を、そして次第に固さと熱を帯び始めた彼の男性自身を確認する。

「シグ……どうしたのですか……?」
「どう、って……セイルだってこの前、私にこうしてくれたじゃない……」
「あの時は……」
「お願い、好きにしてセイル……私、もう駄目なの……」

 その瞬間、セイルの瞳に哀れみと悲しみが浮かんだ。
 前者はシグルーンに対してのもの、そして後者はセイル自身に向けたもの。

 シグルーンは、また自分が愛する人を追い込んでしまったことに気付く。
 馬鹿だ、私。なんで私はこういう風に愛することしかできないんだろう?

 でも止まらなかった。
 このあまりに苦しい心の痛みを、彼の欲望で満たして欲しかった。

 シグルーンは彼にしがみつきながら、体を下へと下げていく。
 そして彼の股間で存在を示し始めたそれを、手と唇でいとおしく愛撫した。

「ん……シグっ!」

 自分の頭をつかむセイルの手に、熱いものがこもり始めた。
 嬉しかった。また自分は、この人に愛してもらえる。

 シグルーンは、幾度と無く絶頂を極めた。
 自分がこれしか考えられないような白痴になってしまえばいい。
 そう思いながら、自分の体に叩きつけられる白い欲望を飲み込み続けた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 クーロンには、セイルたちのような「怪物退治」の専門家はいない。
 しかしそれでも、この国の持つ力は強大だった。

 セイル・シグルーン・リムリア・ミコの四人が、第一陣として中央本宮の地下に足を
踏み入れた時、彼らは本当に驚かされたのである。この迷宮に存在する敵は、トラム山
最下層とは言わないまでも、明らかに一千階の後半付近にいるのと同等の力をもってい
たのだ。十分に訓練された兵士であっても、一度に十人単位で殺傷するだけの力を持つ
連中である。

 そんな怪物の亡骸が、山のように積み上げられていた。

 本当に自分たちの力が必要なのか? そう思ったが、この戦果を挙げるために費やさ
れた人命の「真の数量」を聞かされ、一同は慄然とした。先にセイルらが御前に引き出
された時、官吏は百数十人の犠牲と言っていたのだが、事実はそれよりなんと一桁も上
だったのである。

 セイルたちは驚く。クーロン兵の強さに対してではない。
 それだけの人命を秘密裏に犠牲にできる、クーロンという国家に対してだ。

 セイルは半ば、怒りと共に言い放った。
 これ以上、一人も犠牲者を出さないで欲しいと。
 後は全て、自分たちが始末をつけると。

 この一晩でセイルたちは、クーロンが十ヶ月をかけて挙げた戦果の、実に1/4に相
当する敵を平らげた。夜明け近くになり、地下から出てきた四人を見た案内役の兵は、
彼らの全身に付いた返り血と、憤りに血走った瞳の色の区別ができなかった。

 この四人は正に鬼神の如くであったと、TAO総監の陳瑞祥は報告を受ける。

 そのことに対して彼は、何の言葉も発しなかったという。ただ、以後も変わらず彼ら
に協力するように、とだけ言い残して官舎を去った。

 どんな異常事態でも、それが三日続けば日常と変わらない。
 官吏たちがそれを悟るのに、さほどの日時を必要とはしなかった。

 彼らが探索に参加し始めて、三週間が経過する。
 グナガン再臨まで、既に一月を切っていた。

 その日、ついに八つ目の鍵が開かれる。
 残るは「皇の間」を開く唯一の扉に穿たれた、九つ目の鍵だけとなった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「そんな無茶な! 危険過ぎるわ!」
「静かに……でもそうしないと、逆に残りのみんなが危険になるの」
「だからって、よりによって『三人だけ』なんて! わかってるはずよ? 今度の魔神
は下手するとグナガン並の強さを持つ、最強の奴かもしれないってのに!?」
「わかってるわ、リム。でもこれはセイルの『命令』なの。ここにいる全員が無事に帰
れるためには、四方に配置するパッティのメンバーに、絶対確実な護衛を付けるしかな
いのよ。それもわかるでしょ?」
「シグ、あなた……」

 リムリアの驚きは、その無茶な作戦ではなく、「セイルの命令」という言葉を使った
シグルーンの揺るぎ無い眼光によるものだった。

(今度はあなたなの? 一体どうしたってのよ、こんな時になって……)

 言葉を失ったリムリアに声をかけたのはセイルだった。

「お願いします、リムリアさん。ここがクーロンでなければこんな無茶はしませんが、
みんな、というより彼女たちを守るにはあなたたちに頼るしかないんです」

 そう言ってパッティの五人に視線を向けた。五人とも申し訳なさそうな顔をしていた
が、リムリアに責めるつもりなど微塵も無い。わかってはいるのだ、そもそもこの五人
の力を当てにしての作戦なのだから。

 先に述べたように、ラワンにおける封印の配置はこれまでと大きく異なる。既に三体
の魔神が封じられているとはいえ、これまでの経緯からも、実際にコトに臨んだ時何が
起こるか知れたものではないのだ。
 そこで彼らは、ライザ以外の四人を、各々の封印の力に対応する聖補殿に配置する事
にしたのだ。ここなら各人は己の封印の力を最大限に発揮することができ、もし中央で
何かあっても対処できる可能性が高くなる。「火」の魔神の対抗封印を持つネーナを東
の聖補殿に置いてしまうと、攻略後の完封儀式ができなくなるが、それについては方法
があるとネーナとライザが言った為、この方法を強行することにしたのだ。

 ただしこの作戦における真の問題点は、これらと別のところにあった。
 クーロン当局が、攻略完了後に彼女たちを処分する可能性があるということだ。

 これはパッティの五人だけでなく、セイル、シグルーンたち全員に対しても同様だ。
後者のメンバーは、エゴイストとして行動する限り「自分の身を守る」事に何の心配も
無いのだが、パッティの五人はそうはいかない。人間一人を確実に守りつつ、状況によ
ってはこの国から自力で脱出するだけの気転を求める。少なくとも、それぞれに三人は
護衛が必要だった。

 とすれば、魔神攻略に割けるのはわずか三人だけ。
 採り得る組み合わせは次の一通りしかなかった。

 リーダー及び回復魔法のセイル。
 攻撃力最強のシグルーン。
 魔法力最強のミコ。

 この三人だけで、グナガンに匹敵するかもしれない魔神を倒そうというのだ。
 リムリアのみならず、少女たち全員が悲鳴を上げたのも当然である。

「ミコ! あなた、こんなことできると思ってるの?」

 すがりつくようにミコにしがみ付いたリムリアだったが。

「わかりません。でも、やってみる価値はあると思います」
「ミコ! あなたまで!?」
「……セイルさんのお考えに間違った所は無いと思います。私も、ここにいらっしゃる
人の誰一人として犠牲にしたくはありません。ならば、この方法はやってみるべき方法
だと思います」
「……そうね。ミコの言う通りだわ」
「シルヴィア? あなたもなの!?」
「リムリア、よく考えなさい。あたしたちだって大変なことを押し付けられてるのよ。
たった三人の護衛で、クーロンの包囲網を突破して見せろって言ってるんだからセイル
は。……まったく、相変わらず無茶苦茶よね。いつまでも言う通りにしてると思ったら
大間違いよ? わかってるセイル?」

 口調とは裏腹に、ニヤリとするシルヴィア。セイルは破願した。

「これが最後です。お願いします」
「今まで何度そう思わされたことか。でもいいわ、今回『も』付き合ったげる」

 あたしも、私もという声が一斉に上がる。
 今度は逆に、リムリア一人が孤立した状態になってしまった。

「ああんもう……なんなのよこのメンバーは! いいわよ、やるわよ! やればいいん
でしょ!」
「それでいいの。みんな無事にショートラムに帰れたら、改めてセイルにお返ししても
らいましょうね」
「私にできる限り」
「あ、いいの? そんなこと言っちゃって?」
「ここでの戦いよりは、きっと楽でしょうから」
「……わっかんないわよ。だって」

 そう言ってシルヴィアは、居並ぶじゃじゃ馬たちの顔を見まわす。つられて視線を動
かしたセイルは、意地悪そうに微笑む彼女たちの顔に、思わず身を震わせた。

「そうかも、しれませんね」
「あー、ひっどーい。セイル、覚悟しといてよ?」

 キャハハという笑い声が場を満たす。苦笑してそれに和すリムリア。

(これなら平気かな)

 セイルを見た。右にシグルーン、左にライザがいた。

(……あれ?)

 何か変なものが見えた。
 セイルを視点とする天秤の、両端の皿に載せられた異なる色の感情。

 右。蒼色の情念。
 左。翠色の慕情。

 思わず、胸に手を当てるリムリア。ぎゅっと押し付けられたその手に、とある感触が
伝わってきた。

(あ、そうだ)

 今さっきの漠然とした何かを振り払い、リムリアはセイルに近付いていった。

「セイル、これ持っていって」
「え? あ……。リムリアさん、これって……いいんですか?」
「もちろん。あたしの代わり。それにこれが役立つことは知ってるでしょ? こういう
時にこそ使うものだもん。だから、ね?」
「……はい。ありがとうリムリアさん。あなたもお気をつけて」
「大丈夫。絶対あの子達、無事に逃がしてみせるわ」
「違いますよ『リムリア=キャラウェイ』。あの子達じゃなく『あたしたち』です」
「……うん、わかった。じゃそれ、お願い」
「はい。『奇蹟』はきっと起こります」

 リムリアがセイルに渡したもの、それは小さな白い真珠だった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 準備は全て整っていた。

 塾生たちが全員寝静まった深夜。
 月光の下、十九人の乙女と一人の青年が、二ヶ月を過ごした館を見つめていた。

「ごめんね、さよなら言えなくて」

 リンスの漏らした言葉に、思わず涙ぐむ娘もいる。
 その時だった。

「せめて館の主人にくらい、礼儀は通してもらいたいな」

 全員が、物音一つ立てずに戦闘態勢に入る。
 月を背にして現れた男に、セイルとシグルーンが相対した。

「大変失礼致しました、陳閣下。短い間でしたが、これでお暇させて頂きます」
「君たちの身を自由にした覚えは無いが?」

 今更そんなことを言う陳に、シグルーンは憤りを感じた。

「閣下、お分かりのはずです。私たちは必要とあれば何でもすることを。……阻止なさ
るおつもりですか? 『不可能とわかっている』ことでも?」

 睨み合いが続く。
 そして、先に力を抜いたのは陳だった。

「見た目はそっくりだが、まだまだ母上には及ばぬな」
「……」
「私が君に助言できるのは一つだけだ。アルベルトよりもユネルを範とするがいい」
「え?」
「弱さを自覚する人間が意地を張り続けたら壊れるだけだ。見栄という衣で心を隠して
こそ支えられる強さもあると、少しは謙虚になるがいい。シグルーン=フレグランス」

 シグルーンがそのism(イズム)を咀嚼し終わるのに一年を要する。
 それは彼女にとって、取り返しのつかない後悔の後に果たされた。

「……ふふ。最初に言っただろう? 私はただ、見送りに来ただけだ」

 立ち尽くすシグルーンを無視して、陳はそうセイルに言った。
 そしてようやく、セイルも肩の力を抜く。

「本当にありがとうございました、閣下。ご恩は生涯忘れません」
「だから言っているだろう? 私はただ、九龍のために一番よいと思う事をしているに
過ぎない。それが、私の、職務なのだ」

 セイルは深く頭を下げた。下げ続けた。
 後ろの少女たちも、一人、また一人とそれに倣う。
 最後に、変な雰囲気で我に返ったシグルーンが頭を下げて、別離の礼儀は完了した。

 やがて、館から彼らの気配が全て消失する。
 夜風に吹かれながら、月を見上げた陳瑞錬はつぶやいた。

「やっかいな娘を残したな、シルヴァーナ? いつまでも隠しおおせるものではなかろ
うに。……血は誤魔化せん。あの瞳、父親そっくりだぞ?」

 アーハイムでは穏便に世代交代が済んだと言われているが。
 果たして、その時がこないと言い切れるかな?

「誰一人として、その誕生を祝福出来なかった子供、か……」

 願わくば、我が九龍にとばっちりがこない事を。

(その時まで、手を下す立場に自分がいられるかどうかの方が怪しいな)

 九龍のためだなどと口では言うが、我ながら度し難い。
 苦々と自嘲する瑞錬だった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 「皇の間」の東壁。扉はそこにあった。
 今ここにいるのはわずか九名。

 セイル、シグルーンとミコ、そしてライザの四人。
 鍵を開ける役目を負う王家の代表者と、護衛の者が四人。

「……これが、昨日のうちにネーナが写しておいた紋章よ」

 扉の中央には、ネーナの持つ「火」の紋が描かれている。

「今、これと彼女は魔力の道を通じて繋がってます。あなたたちが魔神を倒し次第、私
が彼女の力をここから引き出して封印の儀を行います。それで全てが終わります」

 いいでしょう、とセイルが頷く。

 王家の者が、恐る恐る、宝箱から取り出した鍵を扉に穿たれた鍵穴に差し込んだ。
 がちゃりという音。その途端、四角い扉を縁取るように光が漏れ出した。

「下がって! 早く!!」

 セイルは彼を護衛の方に突き飛ばし、扉の前に仁王立ちした。
 すぐにシグルーンとミコが彼の後ろに、更にその後ろにライザが付いた。

 護衛に囲まれながら代表が完全に逃げ切ったのを確認して、セイルは呟いた。

「行きます」

 愛用の杖を前にかざしながら、セイルは扉をゆっくりと押し開けた。

「!?」

 一瞬、凄まじい光に視界を奪われた。
 しまった、と思い身構えるセイル。だがふとその焼け付くような熱さが薄まった。

「四人が始めました! 今です!」

 四方の宮に陣どるパッティの四人が結界を強化したのだとすぐに悟る。
 ライザの声にセイルは室内に飛び込んだ。そこにあったのは。

 ほぼ等身大のカイト神像。
 その全身は光り輝き、白く吹き上がる炎をまとっていた。

(これが「火」の魔神なのか?)

 違和感がある。発する力と気配は、紛れも無く魔神のそれである。
 なのに、それと目の前にある存在が結び付かない。どうして?

 まるでそんな戸惑いを見透かしたかのように、神像から炎の槍がセイルに向かって突
き出された。

「しまっ……!」

 凄まじい速さに避けることもできない。両手を前に組んで顔を覆った。

 『バシュウーッ』

 セイルは目を疑った。炎が、自分の眼前で蒸気を上げながら四散していたのだ。
 一体何が、と思うセイルに、ミコの叫びが届いた。

「リムリアさんのです! シグルーンさん、今!」
「うんっ!」

 セイルの右後ろから一陣の風が走り抜けた。
 未だセイルに攻撃を続ける神像に、シグルーンが横から袈裟切りをかけた。

「もらった!」

 凄まじい剣圧が、神像のまとう炎を全てなぎ払った。
 輝く神像の肩口から腰にかけて、黒い切り筋が走っている。
 終わった、誰もがそう思った。だが。

「駄目ーっ! シグルーンさん、下がって!!」

 シグルーン自身、何故それが出来たのか不思議だった。
 まるで自分が風にでもなったかのように、ふわっとセイルの後ろへと身を隠せた。

 神像の切り筋は、跡形も無く消えていた。

 そしてさっきのがぬるま湯に思えるほどの新たな灼熱をまとった神像から、無数の炎
が四方八方に絶え間無く吐き出されていた。石室の壁が、その炎にあぶられてたちまち
炭化していく。もし生身でこれを受ければ、恐らく一瞬で焼き尽くされるだろう。

「効かないの? あれが!?」

 セイルがリムリアから受け取った真珠を握り締めながら、三人の前方に結界を発生さ
せている。とりあえず一命を取り留めたことに安堵しながら、シグルーンは信じられな
いという叫びを発した。

「どういうことですか!?」
「さっきの攻撃、魔法との複合剣技だったのよ! 剣での切断と魔法の攻撃を両方同時
に、しかも私の今の全力で食らわせたはずなのに! 何で全然効かないのよ!?」

 セイルは慄然とした。もしそれが本当なら、我々は奴に勝てないのではないか?

「……シグルーンさん。今の、もう一度お願いできますか?」

 やけに落ち着き払ったミコの言葉に、ギョッとするセイルとシグルーン。

「無理よ! 今この中に飛び出したら、攻撃前に焼き殺されちゃう!」
「私が魔法を撃って炎を掃います。その一瞬でなら出来るはずです」
「そんな、そんなこと!?」
「『あの人』はできたんです! 『DALK』ならできるはずです!」

 ミコはこの時、自分が何を言ったかを自覚していない。
 でもその真摯な瞳に、思わずシグルーンは頷いてしまった。

「行きます!」

 躊躇する間も無かった。ミコが、これまでシグルーンたちですら見たことの無いほど
巨大な魔法を、今度は神像の左側に向かって撃ち放った。

(やって、くれる!)

 シグルーンは、まるで自分が本当に風になった気がした。
 さっきと同等以上の、会心の一撃を神像にぶち当てた。

(戻れるかっ!?)

 自分の足元に、なぜかふわっとした風がまとわりつく。
 体が一回転する間、嘘のようにシグルーンはセイルの後ろに戻っていた。

 この時やっと、自分の胸元からこぼれ出た青いペンダントが光を発していることに気
づいたシグルーン。戦闘の真っ最中だというのにその輝きに気を取られ、セイルの叫び
が耳に届くまでの一瞬、神像のことを忘れてしまった。

「くっ、やっぱり駄目ですか!?」

 さっきと全く同じだった。神像にダメージらしきものは全く無い。ところが。

「いいえ、思った通りです!」
「どういうこと、ミコ?」
「今確認しました。頭部です! 額に、黒い宝石のようなものがありました! あれが
『火』の魔神の本体です!」

 今は、光と炎に隠されてよく分からない。
 それでも、ミコの言葉が正しいことを二人は信じた。

「どうやって、攻撃しますか?」
「私の剣とミコの魔法、同時に食らわせたいけど……」
「もう一人、どうにかして炎を掃える人がいればなんとか……あっ!」
「何!?」

 ミコは懐を探った。そして、ナイフのようなものを取り出した。

「お願い、起きて! 力を貸して!」

 黒く錆びたそれに話しかける姿は、いささか滑稽にも見える。でもミコが両手にそれ
を握り締め、目を閉じて力を込めた瞬間、笑うことなどできなくなった。

 ズム、と音を立ててミコの体躯から湧き上がる魔力のオーラ。

(この子、こんなに凄い魔力を持ってたの!?)

 同じ魔法使い手として、シグルーンはその桁違いの魔力に呆然とする。
 更に続けて、ミコの手元から光り輝く剣の刃が生み出された。

「よかった……これで勝てる。シグルーンさん、これで」

 そう言ってミコは、自分が生み出した光の剣を手渡してきた。
 鉄片の中央に埋め込まれた紅の玉が輝いている。

「私の魔力を込めてあります。あれを切る時に開放してください」

 そう神像を見やるミコだが、はっきりわかるほど消耗していた。

「大丈夫? 無理しないで!」
「平気です。あと一撃くらいなら、なんとか……」

 という間にも、ふらっと足元がおぼつかない。
 未だに華奢さを保った体を支えてくるシグルーンに、ミコは囁いた。

(ごめんなさい、早く、早くしてください……)

 シグルーンは覚悟を決めた。
 右手に「赤」の光剣を、左手に「青」の雫を握り締めた。

「セイル、出来る限り間合いを詰めて!」
「……はい!」

 セイルがかざす「白」い真珠が、輝きを増したように見えた。
 たちまち、この結界をも突き抜けてくる高熱が彼らを襲う。

「……まだ! もう少し!」
「……っ!!」

 ミコの肩を支えたまま、ジリジリと前へ踏み出すセイルの後ろをたどる。

「限界です! シグっ!」
「行きます! これで本当に最後っ! ミコ、頑張って!」
「……はい!」

 シグルーンの手から離れるとミコは、自らの足で床を踏みしめ、深呼吸をする。
 失神寸前だったミコの瞳が、ふっとガラス玉のように深く沈み込んだ。
 両手の五本の指がゆっくりと、互いに触れ合わされたその時。

 ガラスの瞳の奥で、何かが光った。
 シグルーンの体が風になったのと、それは同時だった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 「黒」い宝石が、全ての光と炎を吸い込んで沈黙する。

 三人はそれを、どこか遠くの世界の映像であるかのように見つめていた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「ありがとう、みなさん」

 ライザの声に、シグルーンは目を覚ました。

「……え?」

 ライザは、跡形も無くなった神像の台座跡に膝をつき、何かをしている。

「たった今、『これ』の封印が終わりました。あなたたちの役目は終わりです」
「……らい、ざ?」

 すっと立ち上がるライザは、まるで天使のように輝いている。

「本当にありがとうございました。これで、もう二度と、魔神がこの世に現れることは
無いでしょう」

 まるで重さというものがないような動作で、ライザは、未だ意識を失って床に伏せた
ままのセイルの所へ近付いてきた。

「『これ』をどうするかはあなた次第です。でももう二度と、こんな苦しいことを続け
ようなんて思わないでね。……あなたの優しさは、時に残酷なほど辛いんですから」

 ライザは、黒色の何かをセイルの手の中に包み込んだ。

「ありがとう。楽しかったです、この一年。二度と人として生きられないと思っていた
私に、こんな素敵な思い出をくれて。……あなたでよかった、本当に」

 そう言ってライザは、セイルに優しく口付けた。
 セイルの目が、ゆっくりと開かれる。

「……ライザ、さん?」
「ありがとう、セイル。……さようなら」

 その時もう、ライザの体は台座跡の所まで後退していた。
 そしてようやく、セイルはライザの言葉の意味を理解して跳ね起きた。

「ライザさん! 一体何を言って……ライザ!?」

 突然、ライザの周囲に緑色に輝く光の壁が湧き上がった。
 光の魔方陣がライザの足元に描かれる。

「ライザ、どういうことです! さよならって、一体!?」

(ごめんなさい、セイル……これが、私の、本当の役目なの……)

 高くそびえ立つ光の円柱に、突然四方から四色の光の帯がまとわり付いてきた。

(あの子達も発動しました……この四色の光……これこそが『魔神』の実体です)

 これまでになく幻想的な光景。いつの間にか目を覚ましていたミコと共に、シグルー
ンは言葉も無くそれに見入っていた。

(ここラワンこそが、実は魔神の最終的な『処分場』なのです)
(東西南北に位置する四つの宮で、『主を失った魔神の力』を操作)
(それを中央のここで結集します。そして……)

 ライザが、悲しげな表情を浮かべる。

(私の紋章は、トラム山地下一階とつながっています。そこに流し込むのです)

「そんな!? それではグナガンが力を得てしまいます!」

 ミコの叫びに、ライザはニッコリと微笑んだ。

(大丈夫。『あの体』に、この全てを受け入れる容量はありません)
(力を御しきれず、またそれを転送する対象も失っているグナガンは飽和)
(あの迷宮もろとも、自らの力に溺れて今度こそ本当にこの世から消滅します)
(これこそが、神々が千年以上の歳月をかけて遂行してきた最終魔神処理計画)

(コードネーム『パッティ』の最終段階なのです)

 そこに、ミコの更なる叫びが投げかけられる。

「ちょっと待ってください! ではライザさんはどうなるんですか? それほど巨大な
力の通り道となる、ライザさん自身は!?」

 ライザは答えなかった。なぜなら既に、その答えをセイルに告げていたから。
 それを悟ったセイルが、光の壁にしがみ付いた。

「ライザ、ライザ! 出てきてライザ! 止めるんだ!」

(ありがとうセイル。本当に嬉しかった。私を目覚めさせてくれたのがあなたで)

「止めてください! あなたはまた、またしても私を置いて行ってしまうのですか!」

(ううん、セイル? 人の別れなんていつどこで起きるか誰にもわからないわ。だから
人は、一緒にいられるほんの僅かな間を一生懸命過ごして、大切な思い出にできるの。
私たちの出会いも別れも、それがあったというだけで何よりも素敵な宝物なのよ)

「違う、違う! あなたがしているのは結局、自分一人が犠牲になればいいなどという
思い込みです、欺瞞です! それはただ、他人に利用されるだけの哀れな生き方なんで
すよ!?」

(セイル? あなただってこの前、自分を犠牲にして私たちを護ろうとしたじゃないで
すか? それに……人が等しく、誰一人犠牲にならず幸せに暮らせるなんて思い上がり
です。それこそ、自分を神様か何かと勘違いした傲慢に過ぎません)

「じゃあ神様ならいいんですか!? 神様なら、誰か一人を犠牲にして他の人が安穏と
暮らせる世界を作り上げても許されるんですか!?」

(……あなたは、本当に昔から、変わらないのね)

「ライザ……お願いだ、もうこんなこと止めてください……」

(でも嬉しかった。あなたがあなたのままで。……心配しないで。私は、いつまでも、
あなたのことを覚えていますよ。決して忘れたりなんてしません)

「またなんですか……私はまた、あなたを自由にすることができないんですか?」

(私はいつでも自由ですよ。あなたが気付いていないだけ……)

「ライザ、ライザ!? 嫌だ、行っちゃ嫌だ! ライザ、ライザ『姉さん』!?」

(ありがとうセイル……あなたに、また、逢わせて、くれて……リー、ス……)

「姉さん!? ねえさーーーん!!」

 緑色の円柱は、凄まじい光の渦となって地の底に飲み込まれていく。
 かろうじて人の姿と確認できていたライザの体もまた、溶けるように消失した。

「あ、ああ、ああーっ、わあああーーーっ!!」

 あまりに呆気なく、それは終わった。
 もうどこにも、魔神の気配も魔力も残ってはいなかった。

 まるで、ひと一人がこの世からいなくなったという事実すら残っていないかのよう。

 その時だった。
 静まり返った室内に、先刻の王族護衛だった四人が入ってきた。

「セイル=W=フェルナンデス、シグルーン=フレグランス、そして春日弥呼」

 シグルーンとミコは、悲しみに浸っていることも許されない自分たちの状況を知る。
 だがセイルは、目の前で消えて行った少女の影を見つめるだけだった。

「大人しく連行されれば良し。さもなくば、この場で処分せよとの命が出ている」

 四人が発する気は、クーロンで出会った人物中最大のモノだった。
 シグルーンは察する。恐らくこれが、あの時瑞祥が言っていた四天王だと。

「お前たちの行動次第では、他の場所にいる仲間たちの対応も変わるとの仰せだ。返答
はいかに?」

 全く、どうしてこういう時に同じような事しか言えないんだろう?
 もともとそんな気なんて無いくせに。

「セイル=『ウォルサム』=フェルナンデス! 返答はいかに!?」

 セイルの背中が、ビクンと震えた。
 ゆっくりと振り返る。顔をしわくちゃにし、顎まで涙で濡れそぼった顔をしていた。

「……静かに、なさい」
「なに?」
「あなたたちには、彼女が何をしてくれたか、わからないというのですか?」
「おい、歯向かう気か?」
「あなたたちも、誰か他人を犠牲にして自分だけ幸せな生活を送る輩なのですか?」
「……貴様! 仲間たちがどうなってもいいのか!?」
「あなたたち……あなたたちのような人間がいるから、ライザはっ!?」

 その時のセイルは、シグルーンでも止められるかどうか疑わしい、一匹の獣だった。

「……シグ、ミコ、行きますよ」

 二人は返事をしなかった。ただ、辺りに散らばる血溜まりと肉塊を見ないようにする
のが精一杯だった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 クーロン脱出は、やってしまえば簡単だった。

 裏で瑞錬と陳塾の塾生たちが協力してくれたのも見え見えだったが、それ以上に九龍
当局の追及の手が緩かったのが成功の理由だった。最初から見逃すつもりだったのは明
らかだ。いわば口実として、最小限の犠牲で済ませたに違いなかった。

 後日、弟は兄に言ったという。

『不可能なことをしようとしても無理だと、ようやくわかりましたよ』

 もしシルヴィアがそれを耳にしたらこう言っただろう。

『あなたたち全員、サンダース教授の所に手伝いに行きなさい』、と。

 セイルたちはラワンから幾つもの川を下って南の海に出る。
 そして民間の船を使い、獣人たちの勢力圏に入った。

 テホンに辿り着くまで、およそ二週間を要した。
 彼らはしばらくそこで休養を取り、再度アルブルズを越える。

 それは、この仲間たちにとって今度こそ本当に訪れた、別れの始まりでもあった。

 ファローラは、獣人の森に残ると言った。
 今度は多くの子供たちを連れてショートラムに遊びに行くと、笑って言った。

 アルブルズを越えた直後、ルーは別れを告げた。
 もうしばらく気楽な傭兵家業を続けると。もちろんクウも一緒だった。

 北と西への分かれ道で、一人西に足を踏み出したシルヴィアが言った。
 昔在籍していた大学に戻るつもりだと言う。ちょっと調べものがあるから、と。

 中央山脈を縦断中、ミコとアルピナが別々の方法へ去っていった、
 ミコは祖母の所へ、アルピナは師匠の所へ一度戻りたいと言っていた。

 ショートラムとライザッハへの分岐点で、最後の別れが待っていた。
 チョルラ、リンス、そしてティロルが、あの豊かな興行都市を目指した。

 リムリア、ジーマ、アリーヌ、そしてエリスンのショートラム組。
 ライザを除く、パッティの四人。
 セイルと、そしてなぜかアーハイムに帰ろうとしなかったシグルーン。

 この十人が、まるで様相の変わったショートラムに帰り着いたのは、最後の魔神攻略
から二ヶ月近くも経過していた頃の事だった。

 あの日、ショートラムではとてつもなく巨大な地震が起こったという。
 そして翌日、町の人たちは信じられない光景を見た。

 霊峰と呼ばれるトラム山が、半分ほどの高さに潰れていた。

 トラム山内の洞窟の全てが失われ、最上階の神の間に行く術も失われた。
 地下にあった一千階の巨大迷宮も、地下一層のみを残して全て埋もれてしまった。

 それほどの天変地異でありながら、ショートラムの町には一切の被害が無かった。
 人々は、神の恩恵だと言って感謝の祭りを執り行ったという。
 それについて、セイルたちは何も語らなかった。

 やがて少女たちは、この町での日常に戻っていく。

 エリスンには程なく、アーハイム王立大学から推薦入学の許可が届けられた。
 ジーマは相変わらず、持ち込まれる見合い話から逃げ回っている。
 弟妹たちも成長し、アリーヌは昼間だけの酒場勤めで済むようになった。
 リムリアは、新しい母親と仲睦まじく宿を切り盛りしている。

 パッティの四人は巫女として、セイルと共に教会で暮すことになった。

 そしてシグルーンは、リムリアの宿に逗留しながら、この町の復興に助力した。
 一度帰ったら、と幾度勧められても、彼女はこの町を離れようとしなかった。

 全ては終わった。
 誰もがそう思った。

 そう。終わろうと思えば、ここで終われたのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

『セイルは、どうしました?』
「今日はトラム山の調査に出ています。神殿の復興のためにと」
『……相変わらず、嘘の付けない子ですね』
『それでどうですか、あなたたちから見て、彼は?』
「優しい人です。それにとても強い人」
「マーティス様が彼を選んだ理由が良くわかります」
『そうでしょう? 永い、本当に永い間、待った甲斐がありました』
『でもいいの? そんな子に、こんなことさせて』
「ミラ様……今更それを言っても……」
『そうよね。御免。あなたたちの方にこそ酷い事させようとしてるんだものね』
「私たちは構いません。納得づくの事ですから」
「そう言うと、またセイル怒るよ?」
『……本当に、不思議な子です。あなたたちがここまで信頼してくれるとは期待してい
なかったんですよ、最初は』
「もちろん、最初は駄目だと思ってました」
「でも、シグルーンたちがあれだけ慕う人ですからね」
「それにライザが、自分を犠牲にすることを厭わなかった人でしょ」
『それはそれで、別の理由もありそうですけど』
『でも、とにかくここまでは来たのよ。あとは……』
「結局、彼次第」
「でも大丈夫でしょ。彼なら」
「そうして、彼の心をズタズタにし続けるんですね、あたしたち」
『ごめんなさい。貴方たちには感謝しています』
「マーティス様こそ。でもそちらの方は大丈夫なんですか?」
『まあ、その辺は』

 ガタン。

「随分、面白そうな話だね。マーティス『様』?」
『ジャン!?』
『どうして貴方が、今ここに!?』
「どうしてはないだろ? 僕は吟遊詩人だよ? 町から町へ、流れ流れてどこまでも」
『……どうする、つもりですか?』
「どうもしないさ。ただ面白そうだから聞かせてもらっただけだよ」
『それで、これからは?』
「面白そうだから、協力したいな、なんてね」
『協力? 貴方がですって!?』
『止めなさいミラ。……ジャン、腹の探り合いは止めましょう。何が目的です?』
「だから目的なんてないさ。僕にとって最大最高の目的は常に一つ」
『何です?』
「時間つぶし、さ。こうでもしてなきゃやってらんないよ、こんな生活」
『そうかもしれませんね……わかりました。ご協力をお願いします』
『マーティス!?』
「ははは、さすが天界第三位の上級神様。話が早いや」
『ただし条件が一つ』
「わかってるってば。『あの御方』には内緒、でしょ?」
『結構です。それでは今後ともよろしく』
「こちらこそ。いやあ、楽しくなりそうだなあ……はっはっは〜のはっとぉ」

『……マーティス、どうして?』
『下手に動かれるより、目の届く所に置いておくべきです』
『でも彼は……』
『わかってます。けど信じるしかありません』
『信じる? 何を!?』
『彼の思いを。彼が「彼」から継承した、「永遠の心」を』



                   《第一章》了
                   2001.4.15

                    The First Chapter, 4th Story :
                    "Two Heart"
                    written by Sayah=Otokami