アトラク



夕日がなだらかな坂道を下っていく。ゆっくりと、ゆっくりと。真綿を己が色に染めながら下っていく。その歩みは遅々として人には分からない。でも、それがいずれは消えゆく陽、斜陽であることは分かる。そして、その死にゆく光を浴びながら家路につく。
また今日も一日が終わってゆく。太陽が東から昇り、西に降りてゆく。そんな世の理を繰り返していく。当たり前に、私のことに誰も気がつかないのと同じくらい当たり前に、それは繰り返されていく。
また陽が坂道に呑み込まれていく。幾多の喧噪が私をすり抜けていく。当たり前に、当たり前に。
サッカーボールは地面に影を落としながら、また、それ自身も夕日の中で影になりながら、人の足から足へと舞っている。喧噪が一際大きな波になる。ボールは粗末な網を揺らして、転々と転がっていった。波は退いていく。ボールは脇に抱えられた。そしてまた、足の間を舞っていく。


見つめているのは暮れゆく空でも、遠ざかってゆく人影でもなかった。木である。校門のそばに植えられた桜の木。それを遠く上から見下ろしている。風は止んでいる。枝葉は揺らぎもせずに静なる時の中にいる。それを見て、思うことも感じるものも何もない。虚という文字もない。ただただそこに目を向けている。
葉の色は陽を受けてその色を映している。それは先ほどとは違う色に違いなかった。だが、それを見下ろす者はそれを時の流れとは呼ばない。時が止まっても繰り返される、当たり前のことに他ならないからである。


時計を見た。時の流れが円を描いている。文字盤や、自分の白い腕がほの赤く染まっていることも、少女に何かを告げていた。目の前を通り過ぎてゆく人が一人、また一人、校門をぬけていく。地面に映る幾つもの影が笑いあい、浮き立ちながら帰っていく。日は傾いている。その影は長く伸びて、私を一瞬の間暗い世界に包み込んで、すぐに去っていく。また別の影は私を貫いたかと思うと何食わぬ顔で背を向ける。
風が乾いた土と私を撫でていく。孕んでいるのはやがて深まる秋の気配。今の空よりも赤い空気。その風が、足下の砂をそっとさらっていった。


葉と葉の隙間から、家々の屋根がのぞいている。高台の校舎はそんな光景を与えてくれる。その葉先の向こうにも、屋根は整然と、小綺麗に、醜く並んでいる。幾つかの窓にはもう灯りがともり、これから訪れる暗い闇に備えている。冷たい。そう、灯りが。その一つ一つに生活があると、誰が言ったかも知れない言葉が思い起こされる。どうでもいい。そんな冷たい、いえ、暖かかろうと、そんな暮らしなどどうでもいい。どこから取っても大して変わりのない、数十年という中途半端な暮らしなどに、興味など湧くこともなく、何も思うことはない。
目を閉じてみた。昔の家並みが、今と何も変わることなく、そこにあった。


足が動いているのを見て、不思議だなと思った。別に、動こうという意識は持っていなかった。何も思うことなく、ただ足が右左と交互に出ていくのを見ている。その動きは鈍い。ずいぶん足が重く見える。足首に何かが巻き付いて、それに後ろから引っ張られているような心地もする。
鞄が邪魔に思えてくる。両手にかかる重みは鞄本来のものとそう変わらないというのに。いや、重さではない。中に入っているもの、そう、それも確かに煩わしくもう不要のものだ。でも、もっと抽象的な、その存在のようなものが、もう、邪魔なのだ。その鞄も、私を学校に引き留める。引き留める、そう、帰りたくないんだ、私。
もしこのまま校門を出て家に帰ったら、私も数百人の中の一人に見えるのだろうか。朝普通どおりに学校に来て、勉強して、運動して、みんなとしゃべって、そして夕方帰っていくそんな普通の生徒に。
チャイムが鳴った。かなこは校舎と、その上に広がる空を振り返った。
黒い人影が、目に入った。


雲が止まって見える。風が凪いでいるせいかもしれない。恐らくは、そうなのだろう。でも、それ以外に何かあるような気がしないでもない。雲の流れは緩やかである。それは知っている。ためしに目を閉じてみる。暫くして開ける。やはり、雲は同じ場所にあった。
ゆく川の流れはたえずしてしかももとの水にあらず
いにしえの人は、自分のような存在を知らなかったのだろう。雲と同じように、自分の中を流れる川は、たえることはないが、もとの水である。流れることを知らない、哀しい水である。
空の彼方はもう暗い。陽が、落ちようとしていた。その紅と紺がなだらかに混ざり合っていた。雲はまだ、動こうとはしない。
鐘が鳴る。初音は目を伏せた。
淡い髪が、目に入った。


黒衣と黒髪を纏った人影がそこにいた。

少女は、頬を赤らめてやって来た。

漆黒の中に浮かぶ面、自分を見つめる瞳、そのいずれも微動だにしない。

まばたきをしながら、ゆっくりとこちらに歩いてくる。

手が、ほのかな明るさの中に際だつ手が、自分を招く。

儚げな手が、そっと伸ばされる。


二人は、宵闇の中に姿を消した。

<後書き>