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アトラク・ナクア前章《お市》
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目を覚ますと宿主が少し成長していた。 かなり長い間眠っていたらしい。 白く美しいうなじの、後れ毛の中に、 小さなシミのような痣が生まれていた。 それが蜘蛛の影。 蜘蛛は、宿主がひどくそわそわしているのに気づいた。 宿主の五感を通してそっと外を見ると、 城内が殺気立っている。 「今川義元公は出陣じゃと」 「我らは篭城か?」 「そんなことではだめじゃ、打って出るべし」 駿府の大大名、今川義元が天下統一をめざして出陣したという。 その通り道にあるのが、信長の領地であり、この清洲の城だった。 敵は4万、こちらはせいぜい5千、勝負になるわけが無い。 蜘蛛は周りの思考を読み、つまらなそうにつぶやいた。 『人間同士の争いごとか・・・』 だが、宿主の不安はだんだんひどくなっている。 同化している蜘蛛には、お市の意識も見ようと思えば見えた。 どうやら信長という兄がこの城の城主らしい。 争いごとの向きによっては、自害せねばならないかもしれない。 彼女にとって、自分の死などどうでも良いが、兄様が討ち死にすることは、 この上も無い恐怖であった。 『せっかくの居心地の良い宿主なのに、迷惑な・・・。』 また外に出るのは億劫だった。 蜘蛛は少しだけ『力』を使った。 「これ、そこなお方」 お市は縁側に出ると、 通りかかった一人の武将を呼び止めた。 お市の黒曜石のような瞳が、妖しい金色で縁取られていた。 白と赤の千鳥が舞い立つ上掛けに、淡い紫の着物が鮮やかに映える。 すらりとした肢体が、風に揺れる百合のように美しかった。 妖しい目に囚われ、美しい姿に引き寄せられ、 堂々たる武将が、その足元にひざまづいた。 呆けたようにお市を見つめ、 そのかぐわしい息を嗅ぎ、ふくよかな香りに包まれ、 意識が途切れた。 「はて・・・わしは何をしておるのだ??」 縁側に座っていた男は、誰かに呼ばれたような気がしたあと、 何も覚えていなかった。 ただ、ふと頭に浮かんだことを、急いで信長に言上せねばならぬ。 男は急いで立ち上がると、信長の下へ駆け込んだ。 蜘蛛は長く空を飛んでいたので、 地形や道筋にはひどく詳しかった。 現代で言う航空写真を持っているようなものだ。 この時代は道も狭く、平坦な場所はむしろ少ない。 4万もの大軍が一箇所に集まれるわけが無い。 このような大軍は、前衛、本体、後衛と分かれ、 戦いながら進むのではなく、前衛が織田軍を潰すまで本隊は休みを取り、 安全が確認されれば進めるよう、全軍を掌握できる開けた場所にいるはずだ。 だが、そのような状態の部隊は、単なる烏合の衆に過ぎない。 奇襲が成功すれば、何倍いようと蹴散らすことが出来る。 道中でそれが出来る場所は一箇所しかなかった。 蜘蛛に操られるお市は、魔力で囚われた武将に地図の一点を指し示した。 その場所を桶狭間と言った。 武将は、自分の献策であるかのように信長に報告し、 信長の奇襲により、今川義元は討ち取られ、献策した武将は一番の手柄となった。 蜘蛛にとっては、ただの遊びにすぎない。 再び宿主の胎内で寝付いた。 |