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第十四話 ぽとり。 薄墨に、朱色がひと雫。 色味のない床に崩れ落ちたモノからは、 静かに、 どくどくと絞るように色彩が流れ出て、 程なく、 まとまりのない不規則な染みを描いて、 枯れた、 枯れてしまった。 不意に間近から聞こえた嗚咽が麻美の意識を混濁から揺り戻した。 急速に現実感が還ってくる。 誰の声だったのか。 智子か、男達か、それとも麻美自身の呻きだったのかもしれない。 何れにせよそれを契機にして麻美は恐慌状態から脱した。 途端に息苦しさを覚える。 ずっと息を止めたまま倒れ込んだ部下の屍体に魅入っていたのだ。 屍体。 ――死んだ。 死んでしまった。 何故。 何が起きたのかまるで理解らない。 自力で歩いてきた部下が突如倒れた事は理解できる。 しかし。 部下の周囲に人影は無かった。 銃撃を受けた様子も無かった。 ――何が、起こったの。 同じ疑問が循環する。 「や、山沢さん」 背後から智子が声を掛けてくる。麻美は倒れ込んだ屍体に目を奪われたままで生返事を返した。 「あの、あの人は――」 生死を問うているのか。あの出血ではすでに死んでいることに間違いはないだろう。 どう――説明すればいいのか。 状況が飲み込めない。それは全員が同じだろう。 ならば、いま徒に不安を煽ることは避けねばならない。 麻美は停止していた思考を無理矢理に活性化させ、可能な限り冷静を装った。 「ざ、残念ですが――おそらく、もう手遅れです。皆さん、落ち着いて下さい。迂闊に動くと――」 危険ですと言い切れずに麻美の言葉尻は消えた。 なんだか滑稽だったからだ。 何がどう危険なのか、当の麻美自身が理解っていないのだ。これでは説得力の欠片もない。 それでも、言葉にすると幾ばくかは現実味が増した。 「い、いえ――そうではなくてですね。あの人は刃物かなにかで斬りつけられたのではないかと、そう思うのですが――」 「――え?」 その冷静な口調に思わず麻美は振り返って智子の顔を視た。 落ち着いている。 蒼白で震えている智子の姿を勝手に思い描いていた麻美は、その想像との差違の大きさに思わずその顔をまじまじと凝視してしまう。 麻美の視線に気が付いた智子は何故か顔を朱色に染めた。そして落ち着かない様子で頬に手を当てる。 「い、いえ――。あの、もちろん違うかもしれないんですけれど――」 語尾が聞き取れないほど小さくなった。そして麻美の視線を避けるように瞳を泳がせる。 どうやら、麻美が自分の言葉を否定していると思っているらしい。 麻美はこの予想外の反応に驚きながらも、とりあえず言葉を継いだ。 「――あの、衣笠さん。どうしてそう思うんですか?」 「は、はい――」 出来るだけ柔らかい口調で尋ねた成果か、智子はそこでようやく麻美と目を合わせた。もしかしたら睨んでいると思われていたのかもしれない。 「ここからでは暗くて良く判りませんでしたが――倒れる瞬間、肩口から斜めに、こう、袈裟がけのような形で血が吹き出したんです」 自分の身体の同じ箇所を示しながら智子が説明する。麻美は慌てて屍体に目を向けるが、倒れ込んだいまとなってはここからは確認のしようがない。暗い路地に朱い染みが見えただけである。 「そ、そうですか。私には判りませんでしたが――」 正直なところ麻美は全く気が付かなかった。 只でさえ今日の麻美は注意力が散漫であるし、況や先程までは重圧に晒されたある種の極限状態だったのだ。 そこへあの憤死である。 一瞬にして麻美は混乱の極地へと落ち込んだ。部下の男達など未だ呆然と同僚の屍体を見詰めている程だ。 だが。 智子は一人冷静だった、ということなのだろう。 「でも、それなら斬りつけられる瞬間が判らないのはおかしいです、よね――」 まるで独り言のように智子が麻美に同意を求める。麻美の陥っていた疑問の循環と同じ様だが、智子はもう一歩踏み込んでいたという事になる。 ――この人。 麻美が改めて智子に向き直る。と同時に。 「や、山沢さんッ!」 そう叫んで智子が眼鏡の奥の瞳を見開いた。 反射的に麻美が再び視線を屍体に戻すと――。 いつのまにか。 昏い隧道に新たな人影が滲んでいた。 朧な輪郭が浮かんでいる。 白い。薄墨に滲んだ色はその装束の映えたものか。 やがて、ゆらりと浮かび出る。 女だった。 真白の和装に橙袴。紺の羽織がふわりと揺れる。 その小柄な躯に似合わぬ程の長刀を腰に下げて。 女は――未だあどけなさを残したままの少女は。 幽鬼の如き様相で麻美を睨めつけていた。 肌が粟立った。 ちりちりと首筋が痛む。 臓腑が締め付けられるような緊張感。 ――拙い。 本能が警告する。 ――この相手は危険だ。 「な――なんだぁ。小娘一人じゃないか」 突然、部下の一人が素っ頓狂な声をあげた。 「そ、そうですね。他には誰も居ないみたいですよ」 少女の他に人影が現われない様子を見て、違う部下が声を返す。 どうやら混乱から回復したらしい。 だが、急激に湧き上がった安堵感が冷静な判断力を奪っている。たかが少女一人と見くびっているのである。 莫迦な。麻美は大いに慌てた。 ――あれがそんな生易しいものか! 「み、皆さん落ち着いて下さい! さっきの攻撃はおそらく彼女の仕業なんですよ!」 麻美は浮き足立つ部下達を一喝する。だが、場慣れしていない男達は、連続する恐怖に思考麻痺の状態に陥っていた。 「――そんな事言ったって、このまんまじゃどのみち串刺しですよ! それとも山沢さんアンタ両方とも何とかしてくれるのか!?」 見るからに大人しいその男は、急に激昂した様子で麻美に食って掛かった。目が血走っている。 その非難めいた口調に麻美は思わず黙ってしまう。 「そ――そうですよ。さっきも言ってたじゃないですか。あっちの路地から逃げるしかないんでしょう。なら――チャンスなんじゃないですか? あの娘さえ振り切ったら――」 もう一人が激昂した男に同調した。最後の一人は蒼白のまま震えている。 「――よ、よし、行こう。二手に分かれて左右を走り抜けりゃあいいんだ」 「だ――駄目です、迂闊に動くと竹槍が」 隣にいた智子が制止しようと縋り付く。だが死の恐怖に我を忘れた男はまるで聞かなかった。 「うるさい!」 「きゃっ!」 智子が弾き飛ばされ、木箱の陰から外れて倒れ込んだ。 同時に二人の男は脱兎の如く駆け出す。智子を囮として竹槍から逃れようとしているのである。 「なにをするッ!」 麻美は咄嗟に智子を庇う。覆い被さるようにして智子の躰を掴むと自分の背後へと押し遣り、襲い来るであろう竹槍の攻撃に備える。 しかし。 なにも起こらなかった。 慌てて智子と共に木箱の陰へと戻る。竹槍の飛んでこない理由は解らないが、だからといって安全な訳はない。 「あ――ああ」 智子が震えている。さすがに怖かったのだろう。 呆然とした智子を横に麻美は男達の行方を目で追う。二人はちょうど工場の裏門を過ぎて、敵――和装の少女の立つ路地へと差し掛かっている。 車両一台通るのがやっとの通路である。手を伸ばせば届きそうな程の広さしかないその路に、幽鬼の如きその少女は佇んでいる。 異様な迫力だ。 少女は現われた場所から全く動いていなかった。間近に迫った二人を気に留めるどころか、見向きもしない。 ただ、麻美を睨めつけていた。 二人が躊躇するのが見て取れた。だがその一瞬の迷いの後、殆ど同時に両脇を駆け抜ける。 それでも少女は動かない。ただその刹那、肩の羽織が二度三度小さく風に舞った。 命がある事の安堵からなのだろう、二人は意味不明な叫びをあげて、そのまま薄墨の隧道へと駆け込んだ。 そしてその歓喜の声を響かせたまま。 二人同時に絶命した。 ぱっと色彩が弾けた。 朱い、華のようなその色は薄墨に一瞬の彩りを与えて消え去る。 跡には惨めな二つの屍体が横たわっていた。 智子が息を飲む。 「え? い、いまのは。何が――」 狼狽している。 「――すれ違い様に斬りつけたんです」 「ほ、本当に? あの女の子が? 山沢さん――見えたんですか?」 二、いや――四斬。 ――迅い。 達人級。畏るべき手練れだ。これだけの剣術遣いはニホン広しといえどそうはいまい。 「剣術――」 ふと思い出した。 「衣笠さん、たしか例の宗教組織に剣術の達人が居るという情報――ありましたよね?」 「え? あ――は、はい。あの組織の最高幹部――聖女、でしたか。その一人が剣術の達人らしいです。確か名前はと――土岐、遙だったかしら――あっ! それじゃまさか、あの子が――」 「あの紺羽織。間違いないでしょう。だとすると――」 ――奴ら、ではないか。 麻美の思い描いていた最悪の相手ではない。だが。 ――最悪ではない、というだけか。 前門の槍、後門の刀。 これでは悪い冗談だ。 「うわあ!」 唐突に金切り声をあげて最後の部下が駆けだした。和装の少女――遙と逆方向、正面口へ向かって逃げ出す。 「あッ!」 麻美は咄嗟に手を伸ばすが男の躰は紙一重ですり抜けていく。思わず後を追おうと立ち上がるが、それを智子がしがみついて止めた。 「だ――駄目ですッ」 「しかし――」 先程は竹槍の攻撃は無かった。それならば。 そう智子に説明する前に、轟音と共に断末魔が響いた。 「まだ敵は居ます」 逆に智子が説くように言った。 木箱の隙間から窺うと、竹槍に貫かれた男が地に倒れる事も適わずに、立ったままで絶命していた。 まるで出来損ないの案山子のようだった。 これで四人。 死んで。死んで。死んで。 死んでしまった。 ――駄目だ。 やはり私には無理なのか。 「竹槍の攻撃が止んでいたのは足止めが成功したからです。でなければとっくに木箱ごと撃ち抜いてきてます」 狼狽える麻美を智子が諭すように続ける。 「あ――足止め? そんな――何のためにですか!」 思わず麻美は激昂する。そのとき。 「そんなの決まってるにゃり、挟み撃ちにしてあの剣術ねーちゃんが止め刺すためにゃりよ〜」 二人の横に動物のような影が滑り込んできた。 「か、加古さん――」 「未来ちゃん、無事だった?」 「尊い犠牲がでている間に逃げてきたにゃり。な〜む〜」 未来はそう言って串刺しになった部下に手を合わせた。 これで三人。すでに半数以上が死亡してしまっている。 これではもう任務どころではない。生きるか死ぬかの瀬戸際である。 「そうですね、未来ちゃんの言う通り目的は挟撃――そして確実な剣術による殲滅、でしょう。足止めはあの女の子が到着するまでの時間稼ぎに必要ですから」 「それでは――」 では、少なくともこの工場へ到った時には、すでに宗教組織に察知されていたということになる。 どこで気付かれた。 ――私の責任だ。 「しかもあの様子だとそーとートサカにきてるにゃりよ。怖いにゃりよ〜」 遙の様子をしげしげと眺めつつ未来はそう言った。本心から怖がっているのだろうが、どうにも真剣味に欠けるのである。 麻美も改めて敵に目を向ける。 未だ動かず通路に立ち塞がり、少女はこちらを――否、麻美を睨み付けていた。 凄まじいまでの威圧感である。仮にも聖女とまで呼ばれる者が、如何なる理由でここまで鬼気迫るのか、麻美には想像もつかない。 気を抜けば、その気迫に呑まれてしまいそうになる。 ――私は、勝てるだろうか? 五分と五分。 麻美はそう直感した。だがそれも一対一での話である。 背後からの竹槍をかわしながら闘ったのではまず勝ち目はあるまい。ならばと正面口側を突破するにしても、こちらには智子と未来がいる。二人を庇いながらあの竹槍をかい潜ることなど不可能だ。 では、どうすればいいのか。 いや、どうするべきなのか。 なにも思い付かない。ただ、誰かに急かされるような感覚だけが次から次へと湧いてくる。 騒々。 ざわざわ。 また、誰かが、視ている。 ――ああ。 苛々する。 「山沢さん――」 未来とは対照的に、悲壮感に満ちた智子の声が麻美を呼んだ。 「これから――どうしますか。こうなっては、あまり時間を与えてくれるとは思えません」 責める口調ではない。それが逆に麻美には堪える。 麻美は眼を閉じた。 首筋が、ずきりと痛む。 見えない棘が纏わりつくかの様に。 もはや麻美に策はない。知恵もない。 だが――。 麻美は眼を開いた。 「衣笠さん」 改めて名を呼ばれ、智子がぴくりと震えた。 「ここからは――貴女が指揮を執って下さい」 智子が一瞬呆けた。 「――え。ええっ! そんな、駄目です! 私では――」 「おおっ、ここにきてリーダー交代にゃりか! そんなら未来ちゃん立候補にゃり!」 大きくかぶりを振る智子の横で、未来が両の手をぶんぶん挙げて自己主張する。 が、麻美は未来を完全に無視した。 「いえ、お願いします。もしこのまま続けて私が指揮を執れば、全滅します。それだけは避けなければ。誰か一人でも組に辿り着いてこの任務の結果を報告しなければ――死んだ人達が、あまりに」 あまりに哀れではないか。 この失態は全て自分の責任だと、麻美はそう思う。 「で、でも私は山沢さんのように強くは――」 「勿論、闘うのは私の役目です」 責任は負う。しかし。 「しかし、私達の誰かが生き残る為に必要なのは、冷静な分析力と判断力なんです。ですから――」 自信無げに揺れる智子の瞳を麻美が正面から捕えた。 先程、全員が混乱の最中に在っても智子だけは冷静だった。 いや、それだけではない。思えば智子は今回の任務中、誰よりも周囲に気を配り、状況を把握し、正確な判断を下していたのである。無意味に気を逸り、昂ぶらせるばかりの麻美とはまるで違っていた。 この状況で二人を守りつつ脱出することは容易ではない。いや、冷静さの欠けた麻美では不可能だと断言してもいいだろう。 だが智子が判断を下して麻美を使いこなせば――あるいは。 「貴女なら大丈夫です」 眼鏡の奥で揺れていた瞳が、止まったように見えた。 「わ、わかりました――」 智子が小さく呟いた。 「ふぬー! 未来ちゃんの立候補はガン無視にゃりか! 二人ともヒドイにゃり! おーぼーにゃりよ!」 自分の主張が完全に無視されて、未来が頬を膨らませて抗議する。麻美と智子はおもわず顔を見合わせて苦笑した。 「そっちがそーゆーつもりなら、未来ちゃんにも考えがあるにゃり! さっき見つけた敵のネタ、教えてやらにゃいにゃりよ〜〜」 「そんな、未来ちゃん。子供みたいな事言わないの」 「そうです。状況を弁えて下さい――で、なんなんですか、そのネタって」 「むふー。聞きたいにゃりか? 麻美ちんの心掛け次第で教えてやらにゃい事もないにゃりよ〜〜」 未来がニヤニヤと不敵な笑みを浮かべた。悪戯をする子供の顔である。これはいよいよ自分の置かれている状況を理解しているものかどうか怪しい、と麻美は思った。――今更ではあるが。 麻美と智子は再度顔を見合わせ、暫しの沈黙の後、示し合わせた様に頷きあった。 「たこ焼き」 「奢ります」 「教えるにゃり!」 即答であった。 短い作戦会議が終わり、三人は各自が次の行動に備えはじめていた。 その間も遙はただ麻美を睨めつけたまま一歩も動かない。背後から竹槍が急き立てることなく、まるで麻美達の抵抗を待っているようだった。 「はぁっ――」 智子が深呼吸とも溜息ともとれない呻きをあげた。 「これで――本当に良かったんでしょうか」 「押しつけてしまって、すみません」 麻美は頭を下げる。最善の策とはいえ、本来は自分が為すべき役目なのだ。 智子は小さく首を振った。 「いえ、それは――いいんです。でもこれでは山沢さんが一番危険に――」 「――覚悟の上です」 いまはこれが麻美の役目だ。 なお気に病んでいる様子の智子に麻美は、 「だから、気にしないで下さい。それに私だって自信はあるんですよ。大丈夫です」 そう言い聞かせる。 「しょーがないにゃりね、今回の手柄は智子ちゃんに譲るにゃりか〜〜」 後日二人にたこ焼きを奢らせる約束を取り付けて、未来は先程から満足顔であった。無論、この場を生き延びなければその約束も意味を成さないのだが、果たして未来がそれを承知でいるのかどうか、それが麻美にはまるで理解らない。 理解らないが――その前向きさは、どこか羨ましくもあった。 「ええ、そうしましょう。それに――さっき言ったじゃないですか。加古さんは『いざ』というときのとっておきですよ」 未来に合わせたのか麻美が珍しく軽口をきいた。 それを聞いて、そうにゃり未来ちゃんはとっときにゃりよと未来が再び胸を張った。その、あまりに自信溢れる様子に智子が思わず吹き出した。 つられて、麻美も笑った。 死と隣り合わせの状況下。 だからこそ。 麻美は奇妙な団結を感じている。 ――この二人は死なせない。 それだけを心に決めた。 以下次話 |
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