大悪司



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  棘 −麻美−
第十三話


 墓石を思わせる半壊したビルの街並みを抜けると途端に視界が開けた。
 その空間の急激な変化に麻美は思わずふらつくような錯覚を覚えるが、すぐに気を取り直すと注意深く周囲を見渡す。
 街は黒く煤けていた。
 爆撃の痕跡が未だ至る所に残されている。路面には亀裂がはしり、壁面の焼け焦げた跡がその激しさを物語っている。終戦からすでに一年以上の月日を経ているが、その被害の殆どは簡易な修復を施されたまま放置されているというのが現状であった。現在のオオサカではさして珍しくもない風景ではあるが、それでも麻美は目にする度に無性に虚しくなる。
 街の傷痕が目立つようになったのはすでに市街の中心を外れた所為なのだろう。こうしたものは活気のある場所ではあまり気にならない。
 ここはまだ街が死んでいる。
 人が集まることに因って糊塗された戦争の記憶は、そこから一歩でも外に踏み出せばすぐに発露する。そうして忘れた振りでもしなければ、半壊した街を復興させることなど出来ないのかもしれない。
 忘却は時として人を前進させる原動力になる。
 そんなことを考えながら麻美は死んだままの街を眺めた。
 先程までの喧噪が嘘のようだ。周囲に怪しい人影が無いことは一目瞭然だった。
 なのに。

 ちくりと、刺すような視線を首筋に感じた。

 苛々する。
 昨日の、長い眠りの目覚めからこれで幾度目になるか。その感覚は時間を追うごとに次第に強まり、鋭い棘のように麻美の心に一筋の疵を残しては消えていった。
 そしてその度に――麻美は少しずつ落ち着かなくなる。
 視ている者など、居る筈は無いというのに。
 誰かが麻美を視ている。
 ――集中するのよ、麻美。
 視線を振り払おうと瞳を閉じ、必要以上に気を引き締める。その麻美の――

「――だから未来ちゃんは言ってやったにゃりよ。そんじゃたこ焼きの大食いで勝負するにゃりって」
「なんでそうなるの。未来ちゃん、それならほかの屋台で買えばいいじゃない」
「その日はそこの屋台って前の夜から決めてたにゃりよ。それをあの看護婦共は屋台ごと買い占めるような真似してたにゃりよ智子ちゃん。これは許せんにゃり!」
「――それで、結局どうなったの?」
「いい勝負だったにゃり! 屋台の材料全部食べ尽くしても決着が着かなかったから勝負は預けておいたにゃり。なんか全然喋らない変なヤツだったけど、あれはタダ者じゃあ無いにゃりね」
「屋台全部って――いったいいくら掛かったの?」
「ん? 知らないにゃりよ。もう一人の看護婦がお金出してたみたいだけど、未来ちゃんは一銭も払ってないにゃり。とっととズラかったにゃりよ〜」
「はぁ、気の毒ねぇ」
「なんか途中で諦めたような表情してたにゃり!」

 ――麻美の背後では、このような不毛な会話が繰り広げられていた。
 努めてその内容を気にしないように心掛けていた麻美だが、ここにきてその忍耐も限界に近い。
「――加古さん、私語は慎んでください。どこに信者がいるか判らないんですよ」
 感情を押し殺そうとして思わず声が大きくなる。
「ご、ごめんなさい山沢さん」
「だーいじょうぶにゃりよ。昨日も全然見かけ無かったじゃにゃいにゃりか。だいたい見つかったところで、未来ちゃん達が真わかめ組だって分かるわけ――」
「それが駄目なんです!」
 麻美は慌てて目の前の人物の口を塞ぐ。
 ――これなら、単独行動の方がずっと良かったわ。
 情けない表情で空を仰ぎながら、麻美は心の中でそう呟いた。


 加古未来。
 衣笠智子。
 共に真わかめ組団員、つまりは麻美の同僚である。
 だが入団から日の浅い麻美とは違い、この二人は真わかめ組の前身である奉仕青年団からの古参である。治安維持の任務に就く事が多い彼女達と、専ら制圧任務に駆り出される事の多い麻美とでは接点は殆ど無く、これまで二三度顔を合わせた程度の面識しか無い。
 同僚とはいえ、麻美はこの二人の事をまるで識らないのだ。
 この二名と彼女達の部下である男が四名。これが今回の任務で麻美に与えられた全戦力――である。
 これは如何にも心許なかった。
 確かに件の宗教組織との総力戦が控えている以上、この任務に戦力が割けない実状は理解できる。だが「遺産」の確保云々を危惧するのなら、人選や装備にもそれなりの考慮を払うべきでは無いのかと麻美は思う。
 なにしろ麻美以外の面子は全員が非戦闘要員なのだ。聞けば部下は全員揃って実戦経験は無いという。それに比べれば古参の二人は素人という訳ではないのだろうが、正直なところ過度な期待は禁物だろう。
 というのも、今回の任務はその性質上ゆえに人目を引くような武器を携帯することが出来ないのである。銃器類などは優先的に制圧組に回されており――そもそも銃器を扱える者などこの中には一人もいないのだが――結局は各自が携帯できる最低限度の武装がやっとだった。
 その他には大きめの袋が一つあるだけである。これは「遺産」の入ったスーツケースを偽装して運搬するために必要な道具が入っている。
 四肢が得物の麻美は兎も角、無手では団員とて一般市民と何ら変わりない。この面子での任務遂行に不安が残るのは確かだった。

「いいですか――」
 麻美が珍しく声高になる。その様子に気圧されるように智子と部下達は身を固くするが、肝心の未来はどこ吹く風といった様子で周囲を見回している。まるで落ち着きがない。
「今回の任務は隠密性こそが重要なんです。再三説明しましたが、この地域では敵対組織のゲリラ的な破壊活動が横行しています。私達の任務を補佐する意味も含めて昨日から巡回が強化されてはいますが、これが逆に敵組織に刺激を与え、攻撃性を高めてしまっている可能性も捨て切れません。加えて、私達にはこの通りの最低限の戦力、装備しか与えられていません。戦闘行為は絶対に避けなければならないのです。その為にこうしてわざわざ一般市民の方たちに紛れるような扮装までしているのに大声で組織の名前を叫んでは意味がないで――聴いているんですか加古さん!」
 目を離した隙にふらふらと歩き回る未来に向けて、麻美が声を荒げて指を差した。しかし。
「麻美ちんのほーがウルサイにゃりよ〜」
 当の未来は麻美の剣幕にもまるで動じず、しらっとした表情でそう言う。
 その態度に麻美は絶句した。
「な――なななッ!」
「や、山沢さん、落ち着いて下さい。未来ちゃんもいい加減になさい。ごめんなさい――あの子、悪気があってしてるんじゃないんです」
 取りなす智子の言葉に麻美は深呼吸で心を静めた。苛ついているのは確かなのだ。
「――悪気が無ければ良いというものでもないでしょう」
「それは勿論そうですけど――あの子、山沢さんと一緒の仕事なので昨日から少しはしゃいでるみたいなんです――」
「私と、ですか?」
 予想外の言葉に麻美は驚いた。
「ええ。山沢さんが曜子――青葉によく似てるって言うんです」
 青葉曜子も麻美達と同じく真わかめ組の団員である。未来、智子と共に奉仕青年団の中心的人物だったと聞いているが、監督官時代に担当外だった麻美には当時の面識は無い。
 麻美の入団後は幾度か組事務所で顔を合わせた。自ら旗揚げした組織の急変に戸惑っているのか、深刻で、寂しげな表情しか印象に無かった。
 似ている――だろうか。
「――似てますか?」
 麻美はおずおずと尋ねた。
 似てないと思う。
「顔かたちのことじゃないと思いますよ。青葉も生真面目な性格ですから、私も未来ちゃんの言う事は分かる気がします。そうですね、雰囲気というか――」
「薄幸そーなところにゃり!」
「きゃ!」
 智子が悲鳴をあげる。突然二人の背後から未来が覆い被さってきたのだ。
「くそマジメにいろいろ考えてもぜーんぜん上手くいかなそーなとことか、どーにもならないことまでぜーんぶ背負い込んで眉間にシワ寄せてるとことか、面白いくらいそっくりにゃり!」
「も、もう未来ちゃん! 山沢さんに失礼でしょ!」
「だから麻美ちん見てると飽きないにゃりよ〜」
 麻美と共に未来にしがみつかれたままで智子が窘めるが、当然、効果はない。
「薄幸――」
 麻美は未来を振り解くこともしないまま、再び空を仰いだ。


 ナンバは市内でも指折りの繁華街である。
 戦時中、このナンバは幾度もの爆撃に見舞われた。おかげで戦前には栄華を誇った街並みも、いまでは廃墟のような有様である。
 もっとも、ナンバに限らずオオサカ市内の人口密集地域はのべつくまなく爆撃されている。軍需産業の中心――現在のオオアナと呼ばれる地域を不毛の地に仕立て上げて戦争を終結させるまでに、一体幾つの爆弾がオオサカに落とされたものか、麻美には見当もつかない。これでは目的と手段が入れ替わっているのではないかと勘ぐりたくもなる。
 そんな倒壊寸前の街並みでも復興が進んでいるのは頼もしい事だった。通りには簡易な店舗や屋台が並び、街は徐々に戦前の姿を取り戻そうとしている。
 オオサカの商人は逞しいのである。
 それら復興中の商業地域から南へ向かうにつれて、次第に町工場の数が増えてくる。
 ナンコウに近接している地理条件もあってかナンバ南東部には水産物の加工会社が多く集まり、中小の食品業者が軒を連ねる工業地域の顔も併せ持っていた。
 しかしナンコウでの水揚げが皆無の現在、その殆どは廃業状態にある。

「ここ、ですね――」
 閉鎖された町工場の門前で智子が呟いた。
 二階建ての工場兼社屋である。この近辺では比較的新しくやや規模が大きいが、それでも下町の町工場といった印象は拭えない。道路に面した正面口は厳重に戸板で塞がれ、ここが長らく本来の用途に使用されていない事を雄弁に物語っていた。
「眼鏡水産――間違いありませんね」
 埃にまみれた屋号を見付けて麻美は確認した。所在地は間違いなく島本に提示された地図に記されていたものだ。
「ここを入れてあと三つ。そろそろ――当たりでしょうか」
 智子が指を折って麻美にそう尋ねる。
「島本さんの記憶に間違いがなければ、という前提ですが――その心配はないのでしょうね。どちらかというと、私の記憶力の方が心配です」
 おそらく例の地図はすでに処分されているだろう。そうなると、「遺産」の隠匿候補の正確な記録は島本の頭の中にしか存在しない。最悪の場合、組事務所にとって返し再度説明を請わなければならないが、それではかなりの時間を無駄にしてしまう。
 そうでなくともすでに一日無駄にしている。近いキタハマの制圧は総力戦の開始を意味し、抗争はさらに激化するだろう。そうなると隠密の任務を行うことはさらに難しくなる。万事、急ぐに越した事はない。
 それに、麻薬組織が麻美の行動にいつまでも気付かないとは思えなかった。
 勿論、細心の注意を――少なくとも麻美は――払っているつもりだが、あの組織は底が知れない。仮に麻美達の行動が読まれていれば、襲撃される可能性が最も高いのは「遺産」を確保した瞬間だろう。そうなったら、おそらくこの戦力では一溜まりもあるまい。
 それだけは避けねばならない。
 不安からくる焦りが顔に出ていたのか、智子が麻美を気遣うように言った。
「隠し場所の数なら間違っていませんよ。私も島本さんに説明をしてもらってますから」
「――え。そうなんですか?」
「はい。山沢さんの補佐の意味で一通りの説明は――。私だけですけれど」
 二人はちらりと未来を横目に見る。やけに静かだと思えば、少し離れた屋台で部下を連れて買い食いをしていた。なにか食べている間は静かなものだ。
「なら――どうして言ってくれなかったんですか? 隠しておく必要はないでしょう」
 麻美の語調が無意識に強くなる。
「ご、ごめんなさい。隠していたわけではないんです。昨日は山沢さん、なんだか急いでいたので、言いそびれてしまって――」
 謝る智子の言葉はか細く消えていく。その卑屈ともとれる態度に麻美は何故か苛立ちを覚えた。
「いえ――すみません。それならいいんですが――」
 無理矢理心を落ち着かせる。麻美自身、このささくれたような気分には困惑していた。普段の麻美にはまるで縁遠いものだ。
 智子は再び消えるような声でごめんなさいと謝った。
 このいじましいとも、そして卑屈とも思えるような態度が、麻美の苛立ちを幾ばくか助長させている事に間違いはない。
 被虐嗜好――麻美はそういった言葉は嫌いだ――を連想させるような、自信のない、過度に周囲を気遣う態度がいまの麻美にはただ矮小に映ってしまう。だが、これは言い掛かりに等しい身勝手な所感だろう。
 もちろん麻美は加虐嗜好など微塵も持ち合わせてはいないし、普段であれば智子のような女性は麻美にとってはむしろ庇護の対象である。なんだか放っておけない気がするのだ。
 これでは――八つ当たりだ。
 そう頭で分かってはいても。
 騒々。
 ざわざわ。
 落ち着かない。
 気分を紛らわせようと、麻美は再び周囲を警戒する。
 怪しい気配は無い。閑散とした街並みは静寂で満ちている。
 無理もなかった。この周囲には民家は数える程しか存在しない。町工場の密集した地域なのである。
「ナンバもこの辺りまで来ると寂しいですね――」
 麻美の様子に気付いたのか、智子が同じように周りを見渡して呟いた。
「ええ。どちらかといえば――ナンコウみたいですね。輸送や立地上の条件でこの辺りに水産関係の工場が多いとは聞いていましたが、こんなにあるとは思いませんでした。とはいっても、いまどれだけの数が操業しているかは判りませんけれど」
 肝心のナンコウからの水揚げが無いのだ。操業したくてもしようがあるまい。
「静か――ですね」
 智子が寂しげにそう言った。
「あまり時間もありません。探索を始めましょう。とりあえず――」
 戸板で塞がれた正面口を見る。ここからの侵入は無理だろう。不可能では無いが、あまりに目立ちすぎる。倉庫として利用されていた以上は別に入り口が有るはずだ。
 ――裏へ回るか。
 智子に目配せする。同じ事を考えていたのか、智子は何も言わずにただ頷いた。
「んじゃー、ぶっ壊すにゃりか!」
 唐突に未来が二人を押しのけて前に出た。どこで見付けたのか、その手に子供の頭ほどの石を持っている。

「「駄目です!」」

 異口同音に二人が未来を止めた。


 裏口を見付け出すのには予想外に時間が掛かった。
 原因はこの工場の特異な立地にあった。細長い敷地にLの字に似た形状の工場が建てられており、しかもその周囲を囲むようにして別の工場が建てられている。麻美達のいた正面口からは、この区画をぐるりと回り込まなければ裏口へは辿り着けなかった。
「あっ――。山沢さん、見えましたよ。ここで良いみたいですね」
 左右を壁に挟まれた、まるで隧道のような通路を見つけて智子が安堵めいた声を出した。
 確かに数十メートル先に目的の工場が見えた。両脇には城壁のように塀がそびえ建ち、言い様のない圧迫感がある。幅僅かな通路は薄暗く、ここより先に脇道は確認できない。完全な袋小路だ。
「こちら側を搬入に使用していたようですね。ナンコウからだと、さっきの通りよりもこちら側の方が近いですから。他の工場も似たような造りですね」
 現在地を地図上の位置関係に置き換えて麻美はそう理解した。
「でも、直線だとたったこれだけの距離なのに、随分と遠回りさせられましたね」
「まるで迷路にゃりよ〜」
 未来も辟易とした様子である。
 確かに――迷路じみている。しかもその殆どは無人の工場である。あまり気持ちの良い場所ではなかった。
 そこで麻美はふと疑問を抱く。
「しかし――どうしてこんな利用しにくい施設を接収したんでしょうか。単純に倉庫として使うなら、もっと利便性の高いものが他にありそうなものですが」
 こういった判断はおそらく島本によるものだろう。ならば無意味とも思えない。事実、昨日から廻った施設はいずれも何かしら利用価値のあるものばかりだった。
「そんなのテキトーにゃりよ、てきとー」
「――そう、ですね」
 まるで興味を示さない未来と対照的に智子は深く考え込んだ。
「あの工場はこの辺りでは比較的新しい建物のようです。もしかすると、設備面でなにか利用価値があったのかもしれませんね――」
「設備面、ですか。――ありえますね」
 麻美が同意を示すと智子はさも自信なげに続ける。
「それで、あの――さっき気付いたんですが、この辺りは電線が無傷で残っていました。ですから、仮に電力を必要とするような設備でも使えるんじゃないでしょうか。繁華街の方やウメダでは電力の復旧がまだ完全ではありませんし――」
 なるほど、そういう利用価値も有り得るか。それならば利便性を無視しても押さえておく意味はある。
 問題はそれほどまでに利用価値のある設備とは何か、だが――。
「いつまでウダウダどーでもいいコト言ってるにゃりか〜。さっさと進むにゃり! 時間にゃいって言ってたのは麻美ちんにゃりよー」
 思わぬところからもっともな指摘があがる。少し悔しい。
「――『ちん』は止して下さい。『ちん』は」
「んじゃ麻美たん」
「絶ッ対にお断りします」
 即答で拒否する。
 なおも未来は意味不明な呼称を並べるが、麻美は無視した。
「山沢さん、あのう――」
 智子が背後を気にしつつ麻美に声を掛ける。
「一応、ここに見張りを残した方が良くはありませんか?」
「智子ちゃんは心配しすぎにゃり。だいじょーぶにゃりよー」
「尾行されている気配はありませんでしたが――そうですね」
 確かに、もしこちら側から襲撃された場合は袋の鼠である。工場内部の構造が不明では籠城が有効かどうかも判らない。これでは智子でなくとも不安になるというものだ。
 了解した麻美は部下の一人に残って見張りをするよう命じた。
 一人で残るのが心細いのか、男はいかにも緊張した面持ちである。
「くれぐれも先に発見されることのないように隠れて、なにかあればとにかく合流して下さい。最悪の場合、正面口を突破して逃げます」
 戦闘行為は絶対に避ける。それが今回の鉄則だ。
 敵が信者であればその狙いは「遺産」ではないだろうし、回収される可能性は無いだろう。逃走後に再度探索を行えばいい。
 だが、もし麻薬組織なら。
 「遺産」がここに無ければそれでいい。ひたすら逃げるだけだ。
 しかし、ここに在った場合は。

 覚悟を決めなければならない、か。

 「遺産」を智子達に託して、自らは壁となる覚悟である。
 だが、あの連中相手に麻美一人でどこまで食い止められるものだろうか。
 自信など――まるで無い。
「麻美ちん弱気にゃりね? よわよわにゃりね〜?」
 そう言うなり、未来が麻美の背中をばしりと叩いた。不意を衝かれて麻美はつんのめる。
「な、なんですか?」
「考えてもムダムダにゃり。なるよーにしかならないにゃりよ〜」
 けらけらと屈託のない表情で未来が笑う。その子供のような笑顔に麻美は思わず力が抜ける。
 そんな笑顔で笑えることが――少しだけ、羨ましくなった。
「いざとなったら未来ちゃんが助けてやるにゃり。心配むよーにゃりよ!」
「――当てにしてます」
 アテにされるにゃりと未来が胸を張った。

 深く息を吸い込む。
 再び躰に力を込める。
 この方が、自分らしい。

「では、行きましょう」
 麻美の言葉に全員が頷いた。


 敷地内は乱雑の一言だった。
 あちらこちらに山積みで放置されている木箱が、この工場がかつては正常に機能していた事を示していた。もうずっと放置されているのだろう、雨風に晒されて見るも無惨な光景である。
「なんだか、薄気味悪いですね――」
 木箱の陰から敷地内を窺っていた智子が不安げに呟いた。
 予想通りの細長い搬入路は木箱の山に阻まれて見通しが悪い。さらに、両側にそびえる建物の影になって敷地内全体が夕刻のように薄暗かった。
 麻美達は裏口から最も近い場所に積まれていた木箱に身を隠していた。
 向かって右側はL字の縦線部分、左側は隣の工場である。狭い敷地を有効に利用するためか、どちらも二階建てである。その全ての窓には板やテープで目張りが施されていた。爆撃の振動で窓が割れるのを防ぐ為なのだろう。
「しっかし、ヘンな形の工場にゃりね〜」
 未来が呆れたような感想を口にした。
 敷地内に入ってみると改めて奇妙な形状であることが理解できたのだ。
 正面口側の通りが狭く、またナンコウからは大きく迂回しなければならないのがそもそもの原因だろう。少しでも搬入に掛かる時間を節約しようとした結果なのだろうが、随分と歪な形に建てたものだ。唯一の搬入路であるこの通路ですら、車両一台が通るのがやっとという有様である。
 左右からの圧迫感も手伝って、まるで監獄の如き様相だった。
「窓からの侵入は無理ですね。扉らしいものも見当たりませんし、とりあえず正面口付近まで行ってみましょうか」
「んじゃ、未来ちゃんが一番乗りにゃり!」
 麻美の言葉を聞くなり未来が一人で飛び出した。智子が慌てて止めようとするが、すでに遅い。
「あっ、未来ちゃん駄目よ!」
「ここまできたらへーきにゃりよ〜」
 ――まったく。
 麻美は再び呆れた。
 皆の緊張にも我関せず、未来はどこまでもマイペースである。
「加古さんいい加減にしてくだ――」

 ちくり。

 まただ。
 首筋に、視線。

 誰だ。
 誰が視ている?

 異音。
 短く、空を切るような。

 ――音?

「伏せて下さい!」
 そう叫び終わる前に麻美は未来の身体を蹴り飛ばした。
「にゃあ!」
「――え?」
 麻美の警告に動きを止めた智子の眼前で、尻を蹴り飛ばされた未来が前方に吹っ飛んだ。
 その未来の身体と入れ替わるようにして、

 轟音と共に細長い異物が地面に突き刺さった。

 コンクリートの床が砕け、辺りに粉塵を巻き上げる。
「あ、ああ――」
「衣笠さん、伏せて!」
 呆然とする智子を麻美が引き倒した。部下達もそれに倣って慌てて身を隠す。
「ふがー! 麻美ちんひどいにゃり! ケリ入れることはないにゃりよ!」
「立たないで! 身を隠して下さい!」
「にゃにを言って――」
 文句を口にしながら立ち上がる未来の頭があった空間を何かが通り過ぎた。
 遅れて再び轟音が響き、粉塵が舞う。
「ふあ!」
「身体を出さないで!」
 未来が動物じみた動きと速さで少し離れた木箱の陰に身を隠した。
「な――何なんですか?」
「――狙われてます」
 身を隠したまま地面に突き刺さった異物を凝視する。激突の瞬間からしなやかに揺れていた「それ」は漸くその動きを止めようとしていた。
 長さは二メートルほど。緑色の表面には等間隔に節がある。コンクリートの床に穿たれた二つの「それ」は、異物と呼ぶにはあまりに見慣れたものだった。
「た、竹――?」
「は、はい。竹、ですね――」
 信じがたい麻美の言葉を智子が反復する。

「「竹槍!?」」

 思わず顔を見合わせる。
「ど、ど、どこからですか?」
「判りません。正面口の方からだとは思いますが――」
 麻美が身を隠したまま様子を窺うが、暗くて良く見えない。
「でも――でも、ここまで五十メートルくらいはあります。それにこんな暗い場所で、しかも竹槍をここまで正確に投擲出来るなんて――」
「事実ですから仕方がないでしょう!」
 思わず麻美が声を荒げる。智子がその迫力に圧されて小さく息を飲んだ。
 継いで、か細い声でごめんなさいと謝るのが耳に届く。
 途端に麻美は自己嫌悪に陥る。
「す、すみません、衣笠さん――」
 ――私は何をしている!
 智子に当たって如何なるというのか。この状況で狼狽えるのは当然ではないか。見れば部下の男達も竦みあがっている。
 ――私がしっかりしなければ。
 先日の夕子の姿が脳裏に浮かぶ。
 あのとき。麻美は夕子のように他人を纏めることなど出来ないと思った。それはいまでも同じだ。
 それでも――やるしかない。
 さもなくば。

 おそらく、全滅する。

 そう思った瞬間、強烈な重圧が麻美を襲った。
 他人の命を背負わされるのは、これ程に怖い事なのか。
 ずきり。
 視線が嗤っている。
 麻美の恐怖を嘲笑っている。
「山沢さん――」
 見かねたように智子が声を掛ける。
「大丈夫、ですか? 顔色が――」
 おそらく今の麻美は蒼白なのだろう。鏡を見なくともそれくらいは判る。
「ええ――。大丈夫。大丈夫――です」
 自分に言い聞かせるように繰り返す。暗示でも何でもいい。

 深呼吸をする。

 覚悟を決める。

「戦闘は不可能です。任務は中断――これより撤退します」
 麻美の言葉を聞いた全員が安堵の表情を浮かべた。
「でも山沢さん、この竹槍が――」
 問題はこの竹槍だ。反転して逃げるにしても、全員でぞろぞろと姿を晒せば格好の的である。しかしいつまでもこうして隠れてはいられない。いつ竹槍がこの木箱を撃ち抜いてこないという保証もないのだ。
 再び穿たれた竹槍を視る。
 もしこんなものを喰らえば、常人なら一溜まりもないだろう。非常識なまでの威力と命中精度である。すでに人間技かどうかも疑わしい。
 だが、麻美独りなら対処のしようも無いわけではない――そんな奇妙な確信があった。これまでとは比較にならない躰の軽さがそう思わせるのか。
 ならば、取るべき選択は一つしかない。麻美は自分の指示を待っている者達に向き合うと、精一杯の冷静を装った。
「私が囮になって竹槍を引きつけます。出来るだけ木箱の陰から出ずに、竹槍の死角になるようにして裏口から逃げて下さい。幸いまだ見張りから何の報告もありません――つまり、敵はまだ裏の入り組んだ路地にまでは及んでいないという事です。あの路地を利用すれば逃走は十分可能です。衣笠さん、そこから先はあなたが指揮を執って下さい」
「わ、私がですか?」
「加古さんに冷静な判断は期待できません! いいですか、見張りの人と合流して路地に逃げ込んだら、直ぐに組の詰め所まで走って応援を――」
「や、山沢さん、あれを――」
 麻美の言葉を遮って智子が背後――裏口を指差した。
 振り返ると、路地の先から人影がこちらに近づいてくる。暗くて顔の判別までは出来ないが、どうやら単独のようだった。
「見張りの人でしょうか――。まさか――向こうにも?」
 智子が青ざめる。
「それにしては――様子がおかしいですよ」
 人影は緩慢に歩いてくる。もし敵襲ならば駆けて知らせに来る筈である。そうでなくとも何かしらの異変があったことに違いは無いのだろう。
 だが、何なのだ。あの緊張感の無さは。
 だから――余計に。
 ぞわりと厭な感覚が麻美の背中を駆け抜ける。
 沈黙が流れた。
 全員が固唾を呑んで来路を見詰める。
 その隧道の如き路地は、まるで薄墨に浸したように見通しが利かない。
 麻美は陽の射さないオオサカの空をこれ程までに忌々しいと思ったことはなかった。
 やがて、その墨色に滲むようにして見覚えのある男が現われた。
 やはり――見張りに残した部下である。
 その様子に慌てた素振りは微塵もない。部下の一人が手を振って合図を送ると、見張りの男は片手を挙げてそれに応えた。
 思わず皆から安堵の息が洩れる。
「どうしたんでしょうか。それより、こっちに近づかないように教えてあげないと――」
 智子がそう呟いた刹那。

 鮮血を撒き散らしながら男が倒れ込んだ。

 全員の呼吸が止まる。

 衝撃。
 動揺。
 恐怖。
 遅れて――混乱。
 その一瞬で、麻美達はこの上ないほどに掻き乱された。

 ――やられた。

 朱血にまみれた屍体が、すでに挟撃が開始されていることを告げていた。


以下次話