大悪司



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  棘 −麻美−
第十二話


 ――なんと言ったのだったか。

 冷たい板張りの床に座ったまま、麻美は幾度目かの回想を終えた。
 やはり想い出せない。
 あの日の渓奈の言葉は一言一句鮮明に憶えているのに、自分の言動はやけに曖昧だ。おそらく反射的に言葉を返したのだろう。まるで記憶に無い。
 それに――考えてみれば、あの問いかけに対する返答が、自信を無くしただのなんだのといった泣き言では会話自体が成立していない。
 では麻美の思い違いか。こんな胡乱な記憶では当てにもならない。
 ただ――麻美の返答を聞いた渓奈の、その満足気な笑みだけはいまでも想い出せる。ならば少なくとも渓奈の満足するような返答ではあったのかと、麻美は今更ながらに思った。
 たった一年前の、自分の事なのに。
 ――遠い昔の出来事のよう。

 その日以降。
 果たして麻美のどこを気に入ったのか、渓奈は麻美に先輩監督官として様々な助言をするようになる。
 これは五里霧中を地で行く麻美にとってはまさに渡りに船だった。以来、自然と行動を共にする事も多くなり、そのなかで麻美は渓奈から明文化されない仕事を学んだ。
 地域管理組合との駆け引き、地域住民への根回し、情報収集とその活用。
 いずれも監督官のマニュアルには載っていない、現場で培われた生きた仕事である。
 なかには麻美の性に合わないような遣り方もあった。だが渓奈は別段自分の遣り方を押しつけるような事はせず、麻美が吸収するに任せた。
 意外だったのは、他の同僚達に対して渓奈が殆ど無関心である事だった。
 渓奈曰く、自ら好んで腐っていくような者に興味は無いという。
 同僚達の畏れようから推察するに口煩い人物を想像していたのだが、実際にはまるで正反対であったことになる。
 事実、渓奈が復職したからといって課の様子が劇的に変化する事はなかった。さすがに堂々と職務怠慢を行うような者こそいなくなったが、これは渓奈の不在によって緩んでいた課が以前の状態に戻っただけのようである。
 汚職に手を染めるような者がいれば話は違うのだろうが、麻美の見る限り渓奈はあえて傍観を決め込んでいるようであった。
 麻美にはそれが不満だった。加えて、更正を促す事もせず見切りを付けるのは少々冷たいようにも思える。
 だが、当の麻美も自らが範を示す事による周囲の自浄を願いこそすれ、直截的な説得など無駄だと思っていたのである。
 ここは子供の遊び場ではないのだ。オオサカ市民の安全と秩序を司るべき市議会であり、働いているのは公正を以て常とするべき公務員である。
 ならば察する者は放って置いても察するだろうし、自らを省みる事も出来ないのであれば、そもそも公務に携わる資格などあるまい。
 麻美ですらその程度の事は理解できる。
 ならば、渓奈もやはり言葉ではなく、行動を以て周囲に問うているのではないのか。
 麻美がそう尋ねると、渓奈はただ一言、

「――そうかも知れないわね」

 と言った。
 渓奈も同じ考えなのだ。だからただ黙して己の為すべき事をしているのだと、麻美はそう感じた。
 同じものを見ているのだと。
 それから数ヶ月間。
 麻美は渓奈の背中を追い続けた。
 進むべき路を示す道標を、前しか見えていない幼子の様にただひたすら追いかける。
 鉛のように鈍く重い現実を、鋭く切り開いていく後ろ姿に。
 一度は見失いかけた理想が、そこには見えていた。


 誰かが視ている。

 閉じていた瞳を心持ち開き、麻美は板張りの床を眺める。
 どこか不快な、ぼんやりとした視線。
 しかし麻美はその視線の主を確かめる事はしなかった。長い眠りから目覚めてこちら、視線を感じてもその先には誰もいないという事を幾度も繰り返している。
 どうやら神経が少々過敏になっているらしい。
 一通りの稽古を終えて精神修行の真似事を試みたが、やはり一朝一夕にはいかないのか、茫洋とした視線のような感覚を断続的に感じる。
 聞けば五日間も昏睡していたらしい。随分と高熱が続いたらしいからその所為なのだろう。
 一つ深い息を吐く。
 こうして一人で座しているとこの道場もやけに広く感じられた。
 麻美が目覚めたのは今早朝――正確には午前三時、深夜とも呼べる時間であった。
 その気怠い目覚めからずっと、麻美の脳裏を支配しているのは一年前の事だった。
 あの日渓奈と出会い、進むべき路をその背に見出さなければどうなっていたか。それは監督官の職を追われても尚――いや、だからこそ余計に思う。
 監督官という仮初めの衣を剥ぎ取られ、犯罪者という忌むべき烙印を押された時、麻美は全てを失ったと感じた。
 残されたのは――進む方向を見失い、くすぶるような信念の残滓が澱のように漂う、空虚な器だけだった。
 姿を隠し、名を伏せ、汚名を削ぐ事も叶わぬまま送る不本意な日々。
 それでも自分が人としての路を踏み外さずにいられたのは、渓奈の背中を追ったあの日々が在ったからではないのか。
 麻美はそんな事を考える。
 だからこそ、渓奈に認められた事が嬉しかった。

 あなたの覚悟、見せて貰ったわ――

 麻美、素敵医師の遺産を探しなさい――

 遺産。
 素敵医師の遺産。
 忌まわしい響きだ。
 それがいったい何なのか、なぜ渓奈がそんなものを必要とするのか麻美には想像もつかないし、知りたいとも思わない。
 だが、それを見つけ出す事が渓奈の期待に応える事になるのならば、麻美はこの身を賭しても構わないと思っている。例えそれが真わかめ組に背く事になろうとも。
 確かに組には恩もある。信頼できる、尊敬すべき仲間も多い。
 悪司への疑惑も――完全ではないが――払拭はできた。
 それでも渓奈が自分を必要としているのならば、それに応えたいと思う。
 それがかつて追いかけた渓奈への、麻美ができるただ一つの事だからだ。

 視線の感覚はまだ続いている。
 やはり雑念まみれのこんな状態では精神修行にはほど遠い。それとも渓奈の言葉を思い出して神経が高ぶっているのか。
 ――すぐにでも動くか。
 麻薬流入の発覚以来、団員の勝手な行動は禁じられている。だが、命令違反を承知でも、麻美はこれ以上じっとしていられる気分では無かった。
 その結果組を追われる事になろうともそれは覚悟の上である。
 ――よし。
 そう決意した麻美が腰を浮かそうとしたとき、
「よお。調子はどーだ?」
 そう声が掛けられた。
 麻美が顔を上げると道場の入り口に悪司が立っている。
「山本さん――でしたか」
 いつから居たのか。
 では先程からの視線は悪司のものか。どうやら錯覚と勘違いしていたらしい。悪司は別段気配を殺していた訳でもないのだから、考え込んでいた麻美が気付かなかっただけなのだろう。
「意識が戻ったって聞いたんでな。ちょいと様子を見とこうと思ったんだが――だいぶ良いみたいだな」
「――お陰様で。ありがとうございます」
「礼なら夕子さんに言いな。姿見ねェが、まだお前さんの部屋か?」
「ええ。そのまま休んで頂いてます」
 目が醒めた時、夕子は麻美の上に崩れ掛かるようにして熟睡していた。どうやら夜通し麻美の傍に居てくれていたらしい。起こすのも忍びなかったので布団を掛けてそのままにしておいた。
「ご迷惑をお掛けしました」
「なに、たいした事はしちゃいねえよ。それより妙な薬打たれたってハナシだが――そっちの方はどーなんだ」
「大丈夫です。前よりも身体が軽いぐらいですから」
 これは誇張ではなかった。倒れる寸前の異常な感覚は勿論のこと、あの夏の事件以来麻美を苛んでいた身体の不調が嘘のようだった。まるで違和感を感じない。
 ともすれば監督官時代――いや、麻美にはこれ程までに調子の良い時期など無かった。つられるように精神も高揚しているのか、少し落ち着かないぐらいだ。
 抜けない筈の棘は――何処かへと消えてしまったのである。
「さすがに五日も経ちゃ毒気も抜けるか。夕子さんの話じゃお前さん結構大変だったんだぜ。熱は全然下がらねえし、妙に苦しむってな」
「そう――ですか」
「身体に触ると暴れるって話だったな。どうにも痛がってるみたいで、汗拭くのも一苦労だとよ。実際、手配したヤミ医者が実はヤブ医者なんじゃねえかと思ったぐらいだが――」
 まあよかったよかったと悪司はわざとらしく言った。
「市議会の――いえ、川瀬さんの捜査はどうなったんですか?」
「あん? あのカラス女か。好き勝手要求突きつけてそれっきりだ。ありゃ地域管理組合をパシリかなんかと勘違いしてやがんな。良い度胸だよ」
「山本さん、その事なんですが」
「まあ待てって、その話は後だ。それよりよ、折角だからいっちょ手合わせしようぜ」
「――手合わせ、ですか?」
「おうよ。よく考えてみりゃまだ嬢ちゃんとは一度も訓練してなかったしな。それともアッチの手合わせの方がいいか? 最近ご無沙汰だしよ」
 悪司は真顔でオヤジのような事を言った。
 普段なら悪司の下品な言葉に真っ赤になって拒否反応を示す麻美だが、いまはただ無言で首を振った。
「いいえ、私は――」
「んだよ、ノリ悪ィな。そんなんじゃオオサカ市民失格だぜ? ま、心配すんな。ホントに調子が良いようならすぐにでも働いてもらうからよ」
「ですから私は」
「お前さんのことだ、どうせ止めても聞かねえだろうからな。望み通りにさせてやろうってんだよ」
「――え?」
「『遺産』探し、な。これがお前さんの新しい仕事だ――」
 解ったらさっさと立って構えなと悪司は言った。


「――では、問題の『遺産』はこれらの施設のいずれかに?」
「ええ」
 島本が麻美の言葉に頷きを返す。
 真わかめ組事務室の机上にはオオサカ市内の詳細な地図が拡げられていた。一部の地域の幾つかの場所に、赤くバツの字が印されている。
 来客用のソファに落ち着かない様子で座る麻美。正面の島本は対照的に落ち着き払っている。
「ただ、残念ながらこれ以上の特定は無理でした。なにしろ元々記録を残すような事柄ではありません。この手の処理は万全を期すために可能な限りアシの付きにくい方法をとらせていますし、関わる人間も極少数です」
 島本が事無げに説明した。
「処理――ですか」
 麻美は思わず嫌悪感を露わにする。
「嬢ちゃんよ。いまさら説教はやめてくれよ。キレイ事だけじゃやってけねえのは知ってんだろ?」
 麻美の表情を見て取ったのか、悪司が自分の定位置で椅子にふんぞり返ったままで言った。
「それは――解っています」
 麻美は不承不承に頷いた。
 確かにいまそんな事を論じても始まらない。麻美には一刻も早く為すべき事があるのである。

 先刻。
 訓練終了時、悪司は早急に組事務所へと来るよう麻美に言った。
 つまりは仕事への復帰が命ぜられたのである。
 逸る気持ちを抑えて着替えのために自室へと戻り、早朝と同じ姿勢のまま完全に熟睡している夕子に布団を掛け直すと、麻美は駆けるようにして事務所へと向かった。
 そこには既に悪司と島本が待っていた。麻美の姿を認めると島本は事務的な挨拶の後、即座に手持ちの地図を拡げ始めた。麻美の身体を気遣うような言葉も素振りもない。
 悪司は二人を眺めているだけである。どうやら自分で説明をする気は微塵もないらしい。面倒なのだろう。
「『遺産』と呼ばれる物が素敵医師の所持品だったのは解りました。それで、それは一体どんな物なんですか?」
 急かせるように麻美は尋ねた。探し出そうにも形状が解らなければ探しようがない。
「おいおい慌てんなよ、らしくねえな。仕事に就いて貰うからにはある程度は状況を把握しておいてもらわにゃ困るぜ」
「お言葉ですが、そんな必要があるのですか?」
 悪司の意外な言葉に麻美は驚く。
「大アリだよ。こりゃあ巡回だのケンカだのとは訳が違うんだぜ? どーにもお前さんは自覚が足りねえな。あのカラス女と何があったのかは知らねえが頭は切り替えろよ。仕事は仕事だろうが」
 図星を突かれて麻美は言葉を無くした。確かに悪司の意見は正論である。ただ、よもや悪司の口からこんな真っ当な言葉を聞くとは思わなかった。
「――すいません」
 わかりゃいいがなと尊大に言った後、悪司は島本に説明を命じた。
「わかりました。では、順を追って説明しておきましょう」


 オオサカに続発する麻薬事件。
 麻美は、その真わかめ組周囲に関するあらましをようやく知る事になった。
 事の起こりは初秋まで遡る。

 死亡した素敵医師の所有していた麻薬を、真わかめ組団員二名が横領し密売していたのである。

 素敵医師の所有していた麻薬は、その死後真わかめ組が押収しただけでも相当な量となった。真わかめ組はその方針として麻薬の類は扱わず、その為いずれ処分される手筈だった。
 そしてその二名の男――正確には主犯格の男は、組の違法な処理を担当する者の一人だった。つまり抗争や尋問などで発生する様々な物証等の処理を受け持っていたのである。
 そこでその男に悪心が生まれたらしい。
 その立場上、男は容易に麻薬を手に入れることができた。そして舎弟分であるもう一人の男がその密売を担当していたのである。
 とはいえ、もし組に露見すれば只で済むような事ではない。当初は僅かな量を流し、小遣い稼ぎ程度に止めていたらしい。
 しかし未だ素敵医師の残した爪痕も生々しく、街には潜在的な麻薬の市場が残されていた。結果、麻薬は少数とはいえかなりの価格で取引された。
 やがて男は味をしめる。
 露見する恐怖は麻痺し、取り扱う麻薬の量は日に日に増えていった。
 そんなある時、どこから噂を聞きつけたのか男に接触してくる者達があった。
「それが麻薬組織――あの連中ですか」
 麻美の脳裏に能弁な看護婦の姿が思い浮かんだ。
「当然その男は組の名を使わずヤクを捌いていたのですが、組織は最初からその男が真わかめ組の人間と判っていたようですね。その上で組との取り引きを持ちかけてきたそうです」
「取り引きですか?」
「素敵医師と呼ばれた男。その所有物の一切を引き渡す。それが組織の要求です。これにはかなりの額が示されていたようですが――」
 だが――ここで男は考えた。
 組織の示した金額は確かに破格であった。仮に残りの麻薬を全て処分できたとしてもこれ程の値になるかどうかは怪しい。しかし、それならばこの組織はなぜそうまでして「これ」を欲しがるのか?
 なにか秘密がある。組織が大金を出してでも欲する何かが。
 ならば易々と取り引きに応じる事はない――。
 それが男の出した結論だった。
 幸い向こうはこちらを組ぐるみと勘違いしている。真わかめ組という虎の威を借りつつ、このまま有利な条件を示して稼げるだけ稼ぎ、その後国外にでも高飛びすれば良い。男はそういう計画を立てたのだそうだ。
 結局、組織が代用の麻薬をルートごと安価で提供するという条件で契約は成立した。
 だが男には二つの誤算が有った。
 一つは組織から流入する麻薬の量と頻度が予想外に多かった事である。
 真わかめ組支配下での売買は極力避けねばならない以上、独立勢力や対抗組織の支配下が密売の舞台となる。だが人手も足らず、行動も自由にならないような場所では思うようにはいかない。
 もう一つの誤算は、肝心の取り引き材料――『遺産』の紛失である。
「処分したと偽って隠していた『遺産』がいつの間にか消えていた、というのです。組の裏をかいて比較的重要度の低い物と同じ場所に保管していたのがさらに裏目にでたんですね。幸い処理関係を担当する別の男が一時的に保管場所を移しただけだという事実が判明します。ですが移動先を聞き出す前に、その別の男は今回の抗争で――」
「まさか――死亡したんですか?」
 島本はゆっくりと頷いた。
 なんとも間の抜けた話である。
「慌てていくら探し回っても『遺産』は一向に見つからず、一方で組織は捌ける量以上の麻薬を次々と卸してくる。いくら仕入れ値が安くでも、捌けなければ意味はありません。組に泣きつく事もできず、手を切ろうにも肝心の『遺産』がなければ組織は納得しない。まさに八方塞がりだったわけですが――そこに追い打ちをかけるように、組に麻薬流通を知らせるタレコミが入り、そして同時に市議会からの嫌疑が山沢さんを通じて明らかになります」
「あの日の事――ですか」
 渓奈と再会した日だ。では、やはり渓奈は麻薬流通に関する確かな情報を持った上で麻美に接触してきたと考えるべきだろう。
 麻薬組織とのつながりが組全体ではなく一部の者の勝手な行動ならば、その嫌疑を組に知らしめることで両者になんらかの動きがあるはずだからだ。それを見越しての事に違いない。
 ――そうか。
 ならばあの嘘は、渓奈の正義に由った行動だったのだろう。
 麻美はそう納得して、ようやく胸のつかえが消えた気がした。
「組が知った以上は密売も不可能です。そこで男は舎弟分に命じ、『遺産』に関する嘘の情報をエサに組織から最後の金を巻き上げるように指示します。ですが、これは失敗に終わったようです。舎弟分の男は数日後ナンコウにて死体で発見されました」
「そして逃走していた主犯格の男を昨日確保したわけですか」
「男は現在も取り調べ中です。もっとも、組織との直接的な対応は殆ど舎弟分の男にさせていた様ですので、組織についてこれ以上なにかを知っている可能性は低いですが」
 以上が『遺産』を巡る大まかな流れである。

「しかし、数日間の逃走時間があったのにどうしてその男は逃げられなかったんですか? 資金も十分にあった訳でしょう」
「もちろん流入の事実が発覚した日の内に組からは姿を消しました。オオサカから出られては厄介ですので即座に手配をしましたが」
「いえ、疑問なのはなぜすぐに密売犯を特定できたのかという事なんです。その舎弟分の死体が発見されてからというなら話は解るんですが」
「男の金回りが不相応に良いという情報は以前から入っていましたので、そもそも注意人物ではあったんです。しかも調べてみると二人とも旧わかめ組の組員で、素敵医師が組長だった僅かな時期に麻薬の売買を担当していたようですね。少なくとも麻薬の売買の経験はある。それらを踏まえたうえで男の部屋を家捜しした結果、大量の麻薬が見つかったので断定に至った、という訳です」
 島本は涼しい顔でそう言った。
 これはつまり――真わかめ組構成員の殆どの情報を島本が把握しているという事である。どういう手段で知り得ているのかは謎だが、知られる立場にしてみれば気持ちの良いものではない。
 しかし、その情報の蓄積が犯人の迅速な確保に繋がったのだから――というより元よりこういった事態を想定しての情報収集なのだろう。それはある意味組織には必要不可欠であるし、ブレインとしての島本の有能さを物語っている。
「――凄いですね」
 麻美は正直な感想を述べた。初動捜査としてはこれ以上は望めまい。
「いえ――。そもそも素敵医師の処分を担当した者を洗うよう指示したのは若です。私は指示された仕事をしたまでですから」
「山本さんが――ですか」
 驚いた麻美が見ると、悪司はだらけた姿勢で漫画を読みふけっていた。どうりで先程から静かな訳である。
「それに――タレコミがあるまで麻薬の流入を察知出来ませんでしたからね。偉そうな事は言えませんよ」
 ほんの僅か自嘲気味に島本はそう言った。この男には珍しい態度である。
「でも、この辺りでは僅かな量しか売買していなかったんですよね。組織は他の地域では派手に動いていた様ですし、そちらの情報と入り交じってしまったのではないですか?」
「そうかもしれません。男達は組織の提案でヤクをできるだけ分散するように捌いてもいたそうですから。しかし、それだけの理由とは思えませんね。素敵医師もかなり巧妙な手段でヤクの売買を行っていたという話ですが、今回はそれ以上です。麻薬中毒者の奇襲にしてもそうですが、情報戦の分野では少々後手に回ってしまいました」
 言葉とは裏腹に島本の表情に先ほどの自嘲は見えない。
「――近い内に取り返しますがね」
 どうやら――情報戦で遅れを取った事が島本の自尊心を少なからず刺激しているようである。この手の人間に余計な慰めは必要ない。寧ろ侮辱に当たるかもしれぬ。そう思って麻美は黙った。
「まあそうそうリキむこたーないさ」
 読み終えた漫画を放り投げて悪司が言った。
「勝負の風向きはしょっちゅう変わるんだ。まずは『遺産』とやらを拝まねえとな」
 二人は無言で頷きを返した。


「それでは――改めて任務の内容を説明しましょう」
 仕切り直すように島本が説明を始める。
「山沢さん、あなたの任務は素敵医師の『遺産』の確保です。先程も説明しましたが、現在『遺産』はこの数箇所の施設に紛れ込んでいる可能性が最も高いと思われます」
 机上に拡げられた地図はウメダ、ナンバ地区のものである。
「印を付けた施設は全て工場、または倉庫の類です。いずれも戦時中に廃業になったもので、我々が地域を支配下に置いた際に接収し、以後は組の倉庫代わりとして利用していました。機密上この地図の携帯は許可できませんので場所は全て覚えておいて下さい」
 ここまでは宜しいですかと島本が言った。
「これらの施設が特定されたのはなぜなんですか? 記録は残っていないし、隠した当の本人も行き先を知らなかったんですよね?」
「理由は簡単です。私が憶えていました。処理に関しては記録こそ残しませんが、必ず私に報告する事になっています。男の供述から『遺産』の移動時期を推定すると、このいずれかの施設に運んだ可能性が最も高いのです。直接処理を担当した者が一人もいない現在、この事実を知っているのは私だけです」
 確かにそれでは誰も判らないだろう。全ての情報が島本の元に集まって初めて『遺産』の場所を特定できるのである。
「では、すぐにでも『遺産』を回収しないのは何故ですか。ウメダ、ナンバは現在共に真わかめ組の管理地域ですし、人員を動員すればそれほど時間が掛かるとも思えません」
「ここ数日で信者たちの活動が急激に活発化しています。特にこの両地域は商業施設が密集している事もあってゲリラ的な破壊活動が頻発し、すでに幾つかの施設は信者達に占拠されているとの情報もあります。この両地域は現時点では我々の管理下にあるとは云え、非常に不安定な状態なのです」
 島本が地図上の北西を示す。
「おそらく今週中にも我々はキタハマを制圧することになります。ここを制圧すれば宗教組織の本拠地のあるシキナは目と鼻の先で、今後敵は総力を挙げて抵抗してくると予想されます」
「つまり『遺産』探しに割く余力は無い、という訳ですか」
「キタハマ以外の地域に対しても同時に掃討を行います。また奇襲の可能性も捨てきれない以上、事務所の守りも無視できません」
「正直な所、嬢ちゃんが戦力から外れる事自体が痛手なんだぜ。まあ解ってくれや」
「私は――別に構いません。制圧が目的ではないのですから、むしろ一人の方が動きやすいです」
 麻美には夕子のように他人を纏める自信などない。ならば身軽なほうがいい。
「いえ、さすがに単独行動は許可できません。現在この両地域は危険な状態です。万が一信者に発見されれば戦闘を避ける事は難しいでしょう。単独では『遺産』の確保に差し障りがあります」
「心配すんな。お前さんのお供はキッチリ用意してある。まあ戦力的にアテになるかどうか微妙だがな」
「――了解しました。それでは『遺産』の形状を教えて下さい」
「黒いスーツケースが数個。目印として取っ手に包帯を巻き付けてあるという話ですから、直ぐに解るでしょう。必ず、スーツケースごと全てを回収して下さい」
 以上ですと島本が言い終わる前に麻美は立ち上がり、二人に一礼すると踵を返して歩き始めた。


以下次話