大悪司



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  棘 −麻美−
第十一話


 自信を無くしました――だったろうか。
 それとも。
 どうにもならないのでしょうか――だったか。

 どちらにしても、泣き言繰り言の類ではあったように思う。
 それならば、今更どうでもいいかとも思うのだけれど――。

 正和三十四年十月。
 渓奈に初めて逢ったあの日。
 麻美は自分が口にした言葉が何だったのか想い出せない。
 もう、あれから一年になる。


 真新しい市議会の制服に袖を通し、希望と熱意に溢れる新米職員だった麻美が、理想と現実の落差に打ちのめされるまでにそれ程長い時間は必要としなかった。
 麻美に与えられた監督官という職務の現実は、思い描いていた理想とはまるで懸け離れていたからである。

 同僚達は皆、判で押したかの様に一律に無気力だった。
 朝礼もそこそこに一人、また一人と職場を後にして、気付いたときには麻美一人が職場に取り残されていた。
 もしやそこまで多忙な職場なのかと一瞬錯覚したが、実状は直ぐに知れた。
 監督官という職務は、その特殊性ゆえに個々の裁量に委ねられる部分が多く、遣りようによっては職務内容を限りなく簡略化する事が容易なのである。
 つまりは手抜きである。
 サボタージュなのである。
 その結果がこの有様だった。幾ら何でもこれは少々異常な事態だろう。しかも、麻美より数ヶ月先輩だと云う鴉葉などは自ら職務怠慢を明言し、これを麻美に勧める始末だった。
 これではまるで質の悪い冗談である。
 かといって、担当先へと意気込んで向かったところで門前払いを――意味不明な札束と共に――される。
 最初はその意味するところがまるで解らなかったが、後でそれが厄介払いの為の賄賂だと判った時には――無論、後日丁重に返却した――腹立たしさと情けなさで目の前が暗くなったのを憶えている。

 初日の職務を終える頃には、麻美は混乱は最高潮に達した。
 この現実を怒ればいいのか嘆けばいいのか、それとも呆れればいいのか――あるいはその全てなのかさえ判らなかったのである。
 勿論、自ら進んで閑職に甘んじるような同僚達には怒りを覚えるし、当然の如く袖の下を通そうとする地域管理組合を嘆かわしいとも感じる。
 だが、だからといってただ呆れ果てたままこの職を退くような真似は御免だった。それでは理想を自ら曲げる事になる。
 正論を翳して皆を糾弾することは容易い。しかし、ついこの間まで女学生だった様な小娘が口先だけで幾ら諭そうと、どれ程の説得力が在るとも思えない。寧ろ、あえて行動を以て示す事こそが最も効果的であり、自分にできる唯一の事の様に思えた。
 そうすることで、何時かは皆の意識を変えることが出来るかもしれない。
 ならば――監督官として、自分が正しいと思う行動を貫き通すまでだ。
 例えそれが自分一人だけの理想だとしても。
 麻美はその時、そう決意したのである。


 翌日から麻美の孤独な闘いが始まった。
 だが――躍起になればなるほど同僚達の反応は冷たく、担当先からは露骨に煙たがられる日々が続く。
 周囲で麻美に理解を示す者など一人も居なかった。ただ陰に隠れた嘲笑と、非難めいた視線だけが向けられた。
 そして麻美はますます意地を張った。
 尤も、現在にして思えば当時ニホンは敗戦直後という特殊な状況下にあった訳だし、そんな時下ではそれは様々な事情もあったのだろうと――想像することはできる。
 だから、そんな状況で実直に生きる事が、必ずしも賢いやり方で無かった事は理解できるのだけれど。
 一年前の麻美には、そんな方法しか思い付かなかったのである。
 強情で――単純だったのだ。
 例えそれ故に孤立を招こうとも、麻美はまるで構わなかった。

 理想を示して疎まれようと、理解を求めて拒まれようと、麻美の信条はそれで揺らぐほど脆くはないし、
 了見が狭いと誹られようと、愚直であると嗤われようと、麻美の心情はそれで移ろうほど薄弱ではない。

 それは麻美の監督官としての在り方でもある。
 それに、なにもいまさら他人に指摘されるまでもない。自分がどれ程に融通の利かぬ性分であるのかなど、すでに十二分に理解している。
 自分自身でも、この頑固さは生来の気質と諦めている。それを曲げてまで生きる意味を麻美は見出せなかった。
 だから――。
 だから結局、どこまでいっても自分は自分でしかないと独り嘯いて――強がっていたのだ。


 監督官に就任して約三週間。
 その頃の麻美はまるで足が地に着いていないような不安定な状態で、ふらふらと漂う糸の切れた凧の様な気分だった。
 資料室で見つけた監督官のマニュアルを頼りに、独り本来の職務を遂行しようと悪戦苦闘の日々を続けてはいたが、まるで思うようにはいかなかったのである。
 否、上手くいく筈がないのだ。
 マニュアルは所詮マニュアルである。それが作られた当時と現在では社会の状況がまるで違うし、その違いに上手く順応するような器用さも、麻美は持ち合わせてはいないのである。
 この場合、掲げる理想が高ければ高いほど、現実ではそれが重い枷となった。
 教えを請うような人物が身近にいれば少しは違っていたのかも知れない。だが、ただ独り実りのない職務をひたすら繰り返す、棘の路を素足で歩むような毎日の中で、麻美の精神はゆっくりと疲弊していった。

 そんな中、麻美は一人の監督官の噂を耳にした。
 同じ職場の同僚を掴まえて噂もないのだが、なにしろ麻美はその同僚と一面識も無いのである。聞けば終戦間近に大層な負傷を負い、長らく市議会に顔を出してはいないらしい。
 その監督官が近々復帰する、と云うのである。
 それだけならば別にどうという事はない。ただ無気力な同僚が一人増えるかと溜息の一つも出るだけだ。
 だが、その話がもたらされた際同僚達の間に奇妙な緊張感が生まれたのである。あの鴉葉までもがやや強ばった顔でその浮ついた笑みを不自然なものにしていた。
 訝しんだ麻美が問いただすと鴉葉はただ、
 ――うん、ちょっとね。変わった人なんだよ。
 と誤魔化すようにそう言った。
 軽薄が服を着て歩いているようなこの同僚の、未だ見たこともないこの様子に興味を覚えた麻美は、知り合いの職員を掴まえてはその同僚の事を聞いて廻った。
 監督課内ではまるで禁忌の如きその同僚の噂も、暇を持て余した他の職員達にとっては格好の話題なのか口は軽かった。どうやら市議会内では存外有名人であるらしい。それぞれに好き勝手な噂話を咲かせては麻美に聞かせた。

 曰く、検挙する相手に上司も幹部もない、猪突猛進な暴走監督官である――。

 曰く、戦前からのウィミィ政策の信奉者であり、女性権利拡張論者である――。

 曰く、壊滅させた地域管理組合は両手で足りない、冷酷無比な戦闘狂である――。

 聞き込んだ噂を並べてみて、正直なところ麻美は困惑した。噂話には尾ヒレが付くのが常とはいえ、これではあまりに怪しい人物である。そもそもこれで公務員が勤まるとは思えぬ。
 なかにはウィミィの送り込んだスパイであるとか、素手で熊を五頭同時に倒したとか、再三の暴走にも関わらず懲戒されないのは実は名家の出身でありその威光の為なのだ――等の、妄想ともやっかみともつかない様なものまで出てくる始末である。三文小説のネタ程度にはなるだろうが、現実にそんな突飛な話があるとは思えない。
 結局、誇張の部分を割り引くことでようやく大まかな事実を知ることができた。

 まず、その職員は戦前から監督官として辣腕を振るっている。
 市議会幹部を検挙したことも、幾つかの地域管理組合を解散に追い込んだことも事実であるらしい。越権行為であるとの指摘も有ったようだが現在まで処罰は免れているようだった。

 次に、その職員はオオサカ全域でも指折りの格闘術の使い手である。
 非公式ではあるが国体――国家武道大会の優勝者を破った記録も存在するらしい。ただ公の場に出るのを嫌うのか、未だに正式な国体出場はしていないし、それに準ずるような公式記録も存在しないようだった。

 そして、その職員は――女性である。

 名を、川瀬渓奈といった。


 数日後。件の人物が監督課に復職する日。
 その朝の同僚達の反応はやや異常だった。
 彼らの、その人物に対する畏れようは麻美の想像以上であるらしく、普段ならばだらだらとした空気が漂う職場は始業後数分も経たぬ内にもぬけの殻となった。これは麻美が就任してからの新記録である。
 しかもどうやらサボリではなく、全員なんらかの職務での外出であるという。こちらも麻美は初めて経験する事態であった。どうやら形だけでも仕事をしている様に見せかける為らしい。
 とはいえ、怪我で休職していた同僚が復職するのである。皆で出迎えるのが普通だろう。当の本人が遅れるからといって、なにも蜘蛛の子を散らすように逃げる事はないと思う。
 中でも鴉葉はもの凄い早足で去っていった。いつもなら麻美に軽口の一つも掛けるこの男の、ここまで余裕のない態度は初めて見るものであった。貴重である。
 そんな初めて尽くしの経緯の後、麻美は独り職場に残って待ちぼうけを食うことになった。
 ここに居ても仕事らしい仕事は無い。だが、麻美はその同僚と挨拶の一つも交わしてはいないのだ。初対面の相手に礼儀を欠く訳にはいかない。来るまでは待たざるを得なかった。

 周りに人気が無くなると、麻美は珍しく脱力した。
 本来就労中に気を弛めるような真似が出来ない性分ではあるのだが、連日の心労が思いの外堪えていたのか、周囲に人の目が無くなった途端に気が抜けてしまったのである。
 麻美の席は部屋の入り口を背にした場所にある。廊下を歩く靴音はかなり響くし、人の出入りがあれば嫌でも分かるのだから、それまではこうしているのも良いだろう。
 正面に位置する窓を眺めながら、麻美はそんな言い訳がましい事を考えた。
 思えばこの部屋に一人で居るのも初日以来である。部屋は西に面している。もとより日当たりは悪いのだろうが、日の差さない今のオオサカではまるで暗室の様だった。おまけにこの時期にはかなり冷える。
 復帰早々こんな職場に戻る気分はどんなものだろうかと麻美は思った。
 と云っても、その待ち人の女性に対して麻美はすでにさほどの興味は抱いていなかった。
 確かに他の同僚達の様に無気力な人物でこそないようだが、それこそ風聞から推測した程度の話でしかない。その噂とて、取りように拠っては単に協調性が皆無な人物でしかないとも思えるものだ。実際には会ってみなければなにも解るまいが、過剰な期待は禁物だろう。
 半ば捨て鉢にそう結論付けると、麻美はわざと何も考えないようにして天井を眺めた。
 染みだらけの汚い天井である。お飾りの閑職部課にはお似合いか。
 暫くの間そうして努めて無思考のまま弛緩していると、随分と気が楽になった。
 そうなると、ここ数週間の間しゃにむに走り回った自分の姿がやけに滑稽に思えてくる。
 行動で示すと偉そうな事を誓ったところで、実際にはなにも成果を出していないに等しいのである。
 担当のわかめ組では門前払いこそされなくなったが――賄賂を叩き返した際の麻美の剣幕が多少なりとも効いたらしい。返す受け取らぬの問答の際、逆上した組の若い者を一蹴したのはやりすぎだったと後に反省したのだが――肝心のわかめ組代表者には、いまだ数度会えた程度だった。

 代表者は市橋蘭という気っ風の良い、妙齢の女性だった。
 彼女には麻美の方から治安維持に関する細かい打ち合わせを申し出ても、なにかと理由を付けてはのらりくらりとかわされてしまっていた。
 地域管理組合の監視監督と相互協力こそ監督官の本分である。これでは、とてもではないが一人前の監督官だと偉そうな事を言えたものではあるまい。
 幸いなのは蘭が麻美の事をやや認めるような素振りがあった事ぐらいである。だが、これは賄賂返却の際の立ち回りが功を奏した結果らしく、いわば怪我の功名に過ぎない。
 厳密に云うならば――監督官としての麻美は未だ出発点にすら立ってはいないのである。

 尤も当のわかめ組も国がウィミィ体制に移行したいま、組織内の再編を急いでいるようであった。
 国の方針が変わったところで個人の意識までもが急変する訳もなく、女だてらに旧来の遣り方しか知らぬ男衆を御する事が如何に難しいのか、麻美は想像だにできなかった。
 とはいえ――考えように拠っては蘭と麻美の立ち位置には共通点も多いのである。
 組織の長と新参者では立場こそまるで逆だが、旧態依然とした体制を変えるために奮闘しているという意味において麻美は蘭に敬意を抱くし、共感すら覚える。
 しかし百人からの屈強な男達を相手にする蘭に較べれば、自分の相手などは十数人の無気力な公務員である。これで共感などとは恐れ多いが、少なくとも麻美は蘭の立場を理解しようとはしていた。
 現在は不安定な時期なのだ。わかめ組とて市議会に弱みを見せるような事は避けたいのだろうし、まして麻美のような小娘をいきなり信用しろというのも無理な注文だろう。
 自分自身をそう納得させるようにして、麻美は天井に向かって溜息を吐いた。
 過去が悪い。
 時代が悪い。
 男達が悪い。
 ウィミィとその支持者達は口を揃えてそう合唱する。
 そんな風に時勢やら何やら、自分以外のものに責任を転嫁できれば、それは気分も楽なのだろう。
 だが。
 ――駄目だ。
 麻美にはそれが出来ない。
 ――結局は私の力不足でしかないじゃないか。
 放心を決め込んでいても、いつの間にか自己嫌悪に陥っている。
 厭な性格だと、自分でもそう思う。
 現実を突きつけられて尚、掲げた理想に縋る自分が厭になる。
 ならば――どうする。
 現実を受け入れて閑職の中でその身を腐らせるか。
 己には過ぎた理想だったと認めた上で職を退くか。
 負けるか逃げるか、いずれは選ばなければならないのならば――。
 むしろ傷の浅い内に手を打つのが、賢明な遣り方なのだろうけれども。

 否。

 断じて否だ!

 ――負けて。

 無意識に麻美は口にする。

 ――負けてたまるものか!


「ならば、勝つ為の覚悟を理解しなさい」


 麻美の背後から、冷水の如き声が聞こえた。

 その一言で麻美の全身が凍りつき、総毛立つ。
 動けない。
 まるで首筋に鋭利な刃物が突きつけられているような気分だった。
 迂闊に動けば命はない――そんな脅迫的な観念すら浮かんでくる。

「負けない為の方法は幾つもある。一番簡単なのは闘わない事――逃げる事よ」

 何者かが麻美の背後に立っている。
 気配は疎か、扉を開ける音にすら気付かなかった。
 硬直した麻美をそのままに、声の主はゆっくりと麻美の横を通り過ぎる。

「しかし勝つ為の方法は一つしかない。敵を、そして己を知って、その双方を超える事でしか」

 麻美の視界を黒い人影が掠める。
 音がしない。
 まるで滑るように移動している。

「それを行う覚悟が無いのなら、分不相応な望みなど捨てる事ね。さもなければ――」

 人影は麻美の正面で歩みを止めて窓前に立った。
 昏い。
 濁った空を背にして尚その姿は昏く、朧気だった。

「自ら身を滅ぼす事になるわ」

 ――あなたは。
 麻美は漸くそれだけ口にした。
 目の前に立つ人物は威圧している様子など微塵もないのに、麻美は指先ひとつ動かせない。まるで躰が緊張を解く事を拒否しているかのようだった。
 生身の人間からこれ程の重圧を感じた事など、かつて一度もなかった。
「遅くなるから別段待つ必要は無いと、そう伝えておいたのだけれど――」
 律儀に待っているとはご苦労なことねとその女は言った。
 能面の如く無表情な、心の読み取れない貌である。
 その女はゆっくりと麻美に歩み寄ると、

「川瀬渓奈よ」

 そう言って麻美に右手を差し出した。


 それが渓奈との邂逅だった。


 不慣れな握手による挨拶の後、不如意な自己紹介を終えた麻美に渓奈は監督課の現状について幾つかの質問をしてきた。
 唐突である。お陰で麻美は先程の言葉の意味を問い損ねてしまう。
 同僚達の渓奈に対する畏れようから、さてここは取り繕ってやるべきかと思案した麻美の心情を見透かしたのか渓奈は、
「今に始まった事では無いのだから庇うだけ無駄よ」
 と冷徹に言った。
 それもそうかと思い直した麻美は、自身の目から見たままの同僚達の様子を渓奈に説明し始めた。
 そして。
 それからの数分間は、麻美のこれまでの人生で最も多弁な時間となった。
 尤も、多分に渓奈の聴きよう――思えば誘導的でもあった――に助けられた所はあったのだが。

 社会に対する疑問。
 戦争に対する憤懣。
 公務員を志した理由。
 監督官に拝命された際の驚きと不安。
 そして、理想とあまりにも違う現実。

 気が付けば、そんな個人的なことにまで熱弁は及んでいた。
 周囲に対する不満や自己に対する嫌悪まで口にしていたかも知れない。普段の麻美ならば口が裂けても他人に聴かせるような内容では無かった。いま思い出すだけで顔から火が出そうだ。
 確かにその頃の麻美は、かつて経験したことが無い程の深い失意の中にあった。
 だが、だからといってそれが初対面の人間に延々と泣き言を聴かせて良いという理由にはなるまい。
 結局は――世間知らずな小娘の泣き言に過ぎなかったのだろう。云うなれば五月病のようなものだ。
 それでも渓奈は、嫌な顔一つ浮かべずに麻美の不満や憤りの吐露を受け止めてくれた。
 あんな経験は後にも先にも一度きりだ。
 どれぐらいの時間が経っていたのだろうか。
 思い付くまま語りに語った麻美が漸く我に返ると、目の前には真剣な眼差しで自分を見詰める渓奈が、最初と同じ様な姿勢のまま座っていた。
 そこで麻美は、ようやく自分がどれほど礼を欠いた行動を取っているかに思い至った。
 途端に羞恥で麻美の顔が耳まで赤らみ、それを視られまいと慌てて俯きながら麻美は、
 ――すいません。
 と小さな声で謝った。
 これでは、一体何に対しての謝罪なのかまるで判らない。だが、今の発言に対して再度謝るのも奇妙である。無礼というのなら先程からの麻美の言動全てが礼を欠いている訳だし、ならばそれらに一々注釈を付けて謝るよりもましだというものか。だが、それならばもっと大きな声ではっきりと謝らなければ失礼だ。
 そんな無為な思考が循環していると、

 あなたは――。

 優しい声が掛けられた。
 刹那、誰の発した言葉か判らず、反射的に麻美は顔を上げた。そうしてこちらを見ていた渓奈と眼が合う。
 渓奈はその能面の如き表情を崩すと、
「面白い人ね」
 そう言って――笑った。

「一つだけ質問して良いかしら?」
 先程までの無表情が嘘のようにひとしきり笑った後、渓奈は麻美に確かめるように言った。
「あなたはこの先、如何したいと思っているのかしら」
 口調は軽い。だが鋭い瞳は変わらなかった。心なしか無表情のときよりも威圧感がある。麻美は再び身の竦むような感覚を覚えた。
 ――どうしたいか、ですか?
 質問の意図の読めない麻美の問いかけに、渓奈は事無げに答える。
「深い意味は無いわ。この先あなたが監督官として――いえ、一人のニホン人としてでもいい。如何いう生き方を望んでいるのか教えて貰いたいだけ――」
 麻美は困惑した。
 設問が漠然とし過ぎている。哲学的とも取れないことはないし、宗教的な問答にも聞こえる。
 こんな暗く寒い部屋で交わされるに相応しい会話とは思えなかった。
 だからなのか。
 麻美は急激に現実感が薄らいでいくのを感じた。
 まるで誰かの書いた筋書きの中にでも迷い込んだようだ。
 麻美は言葉に迷って再び瞳を伏せた。なんと言えば良いのか判らない。
 自分に注がれる渓奈の視線。
 見越しているのか、それとも試しているのか。
 それ自体が、まるで熱を持っているかのように感じられた。
 もちろん、それは麻美の気のせいでしか無いのだけれども。

 私は――。

 巡るように記憶が回る。
 嫌悪。焦燥。孤立。

 理想に拘泥するか、現実を許容するか。
 憂鬱。諦観。決意。

 ――私は。

 麻美は熱に浮かされるように、その口を開いた。


以下次話