大悪司



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  棘 −麻美−
第九話


「これでよしっ、と〜〜。山沢さん、他に怪我はないですか〜〜」
 夕子が麻美の右手に包帯を巻きながら尋ねた。
 大丈夫ですありがとうございますと丁寧に礼を言って、麻美は改めて周囲の様子を見た。
 真わかめ組事務所に隣接する道場である。
 負傷した組員達が治療を受けている。重症を負った数名は横になり、それ以外の者は皆うなだれている。さながら野戦病院の様相を呈していた。
 麻美は打ち身や内出血を無数に負ってはいたが、幸い骨折や切傷は殆どなかった。唯一、右拳に裂傷を負っていたが、それは自分で硝子を割ったときに出来たものだ。こんなものは負傷とはいえない。
 だから麻美は先程まで、他の組員達の手当に掛かりっきりだった。
 全身に鈍い打撃の痛みが充満している。看護婦達との格闘によるダメージなのだろう。先程まではまるで感じなかったその痛みも、薬の効果が消えるとじわりと現れ始めた。効果が切れたときの全身を刺すような痛みこそ治まったが、いまは入れ替わるように鈍痛が身体に溢れ返っている。
 それでも麻美は構わず動き回った。
 鈍い痛みは思考を限りなく緩慢にしてくれる。
 いまの麻美には、その方が楽だった。


 道場の出入り口に黒い職員の姿が見える。麻美達を監視しているのだ。
 結局、真わかめ組の立ち入り捜査は棚上げされた――らしい。
 らしい、というのは麻美達にはなにも知らされていないからである。
 渓奈と悪司の間に、なんらかの取り引き――他の何だというのか――が成立したのは間違いないだろう。
 麻美達は道場に集められ、怪我人の手当をすることが許可された。無論、逃亡を防ぐ為の見張り付きではあった。
 大杉と傷の軽い二人の組員だけが手当もそこそこに悪司に呼び出された。麻薬中毒者達の亡骸を片付ける為である。手伝おうと腰を浮かせた麻美を止めて、大杉は麻美に自分の手当をするように言うと出て行った。
 それから、すでに半時間ほど経過している。
「んん〜〜〜〜。いつまでこうしてるのかしら〜〜〜〜」
「そう――ですね」
 麻美はうんざり顔の夕子に言葉を返した。
 といっても夕子の表情は普段と変わらない柔和な笑顔である。ただ僅かに歪んだ眉と普段以上の間延びした口調で、それがうんざりとした表情だと麻美が勝手に理解したのだ。
 それでも一緒に居るだけで随分と和む。
「山沢さん、顔色悪いよ。横になった方がいいよ〜〜」
「だ、大丈夫です」
 鈍痛に馴れる頃には、今度は吐き気と頭痛が麻美を苛んでいた。
 頭が暗々とする。嘔吐感を飲み込んだのも一度や二度ではない。
 不意に、麻美の額にひんやりとした手が添えられた。
「大丈夫じゃないよ〜〜。熱があるじゃない」
 そうなのか。改めてそう言われると、頭が煮えるように感じるのが不思議だっだ。
 不意に寒気が増したようにも感じられた。湿ったままの衣服を恨めしげに見る。
「雨に降られて濡れたままだったもんね。みんな風邪ひいちゃうかも――そういえば、あの人達も濡れたままなのに平気なのかしら〜〜」
 見張りの職員を指さしながら夕子が言った。なるほど、見れば彼女などはいまだに水滴が滴っている。寒くはないのだろうか。
「急いでても、傘ぐらいもってくればいいのにね〜〜」
 相づちを返そうとして、麻美はふと思い出した。
「――神原さん、雨が降ってきたの、いつ頃だったか覚えてますか?」
 う〜〜ん、と夕子が戸惑う。
「時間まではわかんないね〜〜」
「それじゃ、襲撃される前だったかどうかは?」
「あ、それならジャンキーさん達が襲ってきたほんのちょっと前だよ。雨なんか降るとは思わなかったから合羽もなーんにも用意してなくて、慌ててみんなで飛び出したから」
「突然降ってきましたからね。――やっぱり変ですね」
 そこで麻美は声を落とした。先程、漠然と気になっていた事が次第に形を成していく。
 職員に気付かれないようにゆっくりと背を向け、夕子に向き合う。
「なにが〜〜?」
「雨が降ってきたのが襲撃とほぼ同時だとすると、当然市議会に通報された時点で雨は降っていた筈ですよね。でも川瀬さ――職員たちは皆ずぶ濡れでした」
「んん〜〜? でも車かなにかでここまで来たんでしょ〜〜。あんな大勢だし〜〜」
「ええ。市議会にはウィミィ軍払い下げのトラックがありますから。一応幌も付いてます。でも、ボロボロの幌ですから雨はかなり降り込みますね。だから一人も雨具を付けていないというのはおかしいですよ。それに彼女達が到着したとき既に雨はあがってました。トラックをどこに停めたのかまでは判りませんが、そう遠くはないでしょう。なのに全員頭から足下まで濡れていて妙だと思ったんです」
「んんん〜〜? どういうこと〜〜?」
「職員達は――あらかじめ待機していたのかもしれません」
「ええ〜〜!! モガッ!」
 叫びそうになった夕子の口を麻美が慌てて塞いだ。
「聞かれます!」
「モガガ〜〜。で、でも、あの人たち真わかめ組を疑ってたんでしょ〜〜。張り込んでたのかもしれないよ?」
 見張りが気付いていないことを確認して麻美は続ける。
「張り込み最中に襲撃事件が発生して、これ幸いとばかりに捜査に来たとも考えられますが――。でも、あんな大勢で張り込む事は無いですね。一人、多くても二人いれば良いです。それだと――」
「全員が濡れてるワケないね〜〜」
 麻美は頷いた。深く息を吸って慎重に次の言葉を探す。
「もしかしたら――私達は囮に使われたんじゃないでしょうか」
 おとりぃ、と夕子がおっとりした口調で反復する。
 麻美は天才病院で謎の看護婦に襲撃された事の顛末と、その看護婦たちが今回の麻薬中毒者による襲撃の首謀者らしいことを説明した。
 大杉のときと同じく、悪司を疑った事は伏せた。
「それじゃ、その看護婦さん達が麻薬を?」
「しかも、かなり大規模に扱ってますね。ちょっと信じ難い規模です。例の宗教組織やPMにまで被害が出ているそうですから、組織的な集団であるのは間違いないです。おそらく市議会の――いえ、この部隊の狙いはその麻薬組織じゃないでしょうか」
 対麻薬犯罪課。
 その実力実行部隊。
 麻美は黒い職員の正体をそう結論付けた。
 もちろん麻美の憶測である。だが、それほど間違ってはいないと思った。
 三日前の渓奈の接触、麻薬流通の発覚、看護婦達の暗躍、事務所への襲撃――。
 偶然で片付けるにはあまりにも都合が良すぎる。


 まず、オオサカ全域に拡がる麻薬の捜査の為、ヒロシマ市議会から部隊を引き連れ渓奈が復帰する。
 麻薬被害は各地域管理組合の壁を越えて拡大している。組織的な犯行であるのは明らかだ。
 そこで彼女は、数ヶ月前に大規模な麻薬犯罪を引き起こした素敵医師という男に着目した。その生死は市議会にはいまだ不明である。嫌疑の目はかつて根城にしていたわかめ組と関係の深い真わかめ組に向けられる。
 麻美の存在も渓奈の疑惑を深める一因となったのだろう。
 素敵医師は生きている。
 渓奈はそう考えた。
 だが、彼と真わかめ組だけではこれ程の広範囲に勢力を拡げることは出来ない。特にPMは巨大な組織である。統制も他の組織の比ではない。新興勢力の真わかめ組だけでは実力差が大きすぎる。

 やがて捜査線上に実行犯らしき謎の集団が浮かび上がった。真わかめ組とは別の組織である。だが、生き馬の目を抜く現在のオオサカで、外部の組織が地域管理組合を出し抜くとは考え難い。
 では、真わかめ組が外部の麻薬組織と手を組んでいるのではないかと、渓奈はそう考えたのではないだろうか。
 それを裏付けるように、真わかめ組の支配下地域だけは麻薬被害が他の組織に対してごく僅かだった。
 不自然である。これは嫌疑の目を自分達に向けさせない為の偽装であると渓奈は考える。
 そして渓奈は疑惑を確信に変えた――。

 悪司が麻美に語った素敵医師の末路が虚構ならば、この筋書きもあながちありえない話ではない。
 口では何とでも言える。麻美には素知らぬ顔を向けたその裏側で、悪司が麻薬を扱っているのかもしれない。
 結局、麻美の悪司に対する疑惑は何一つ晴れてはいないのだ。


 次に渓奈は麻美に接触し、組に対する嫌疑と捜査を宣言する。
 同時に麻薬捜査の手が組に及ぶという情報を、独自の情報網を通じて流布する。
 これは組内外からの揺さぶりを狙っての事だろう。
 真わかめ組は動きを封じられる。
 そして、よもや地域管理組合に司直の手が入るなどと考えてはいなかった麻薬組織は大いに慌てた。このままでは自分達にまで捜査の手が及ぶ。そうなれば共倒れは必至だ。
 一刻も早い証拠隠滅を狙った組織は真わかめ組へと麻薬中毒者を誘導し、襲撃を謀る。現在、真わかめ組は宗教組織との抗争に大部分の戦力を割いている。守りの薄い本拠地に奇襲をかければ勝算は高い。
 それを察知した渓奈は部隊を引き連れて待機、麻薬中毒者ごと一網打尽に押さえ込み、真わかめ組に対する捜査と引き替えにして麻薬組織の情報を得ようと取り引きをもちかけ――

 ――いや、待て。

 それではあの看護婦達の行動は一体何なんだ。麻美を誘き寄せ、得体の知れない薬品を投薬する必要がどこにある?
 麻美は新参者だ。組内部の情報は何も知らされていないに等しい。リスクを冒してまで麻美を狙う意味が解らない。
 人質? 末端の構成員、しかも新参者に人質としてどれ程の価値があるというのか。
 それに、わざわざ捜査情報を流しても麻薬組織が真わかめ組を襲撃するという保証など当然ない。動きを封じることは出来ても、その間に内部の証拠隠滅は十分可能だし、それで麻薬組織との繋がりを断たれれば意味はない。
 麻美は頭を抱えた。これでは以前考えた事と同じではないか。麻薬組織という第三者が加わってより複雑になっただけだ。
 渓奈が麻美に接触した理由。
 それが未だに解らない。
 これらは渓奈の視点に拠った上での仮説である。その渓奈の視点から見ても、麻美に対する接触は意味不明だ。
 ――らしくない、のか。
 麻美が感じた、かつての渓奈との齟齬はこれが原因なのか。
 かつての渓奈なら、こんな回りくどい揺さぶりなどはかけない。確実に証拠を掴み、相手に気取られることなく最後の一手まで詰め寄る。それが彼女の遣り方だ。
 これではあまりにも――らしくない。

「ふぅ」
 麻美は溜息をついた。思考することを放棄したのだ。
 麻薬被害は実際にある。謎の組織も実在する。麻薬中毒者の襲撃も、渓奈の来訪も現実だ。
 だがそれらを結ぶ糸がない。
 一見連続したように見えるこれらの事象、その銘々を結ぶ意図が解らない。
 あるいはどこかに、麻美に見えていない糸があるのか。
 あるのだろう。現にいま、なんらかの取り引きが行われているのは間違いないからだ。
 ――あの二人は、同じものを見ている。
 そう思うと、麻美の胸中がすこし騒めく。
 二人が居るだろう方向に目をやる。
 亀裂の入った壁が、麻美の視線を遮っていた。


 軽い寝息が聞こえた。
 ふと見ると、夕子が座したままで船を漕いでいる。
 考え込んだ末に沈黙した麻美を待つ間に眠ってしまったのだろう。麻美は小さく謝ると、夕子の背に毛布を一枚掛けた。
 その拍子にふわりと香りが舞った。雨に打たれた後だというのに、暖かな日差しに似た匂いがした。
 不思議な女性だと、麻美は思った。
 母性を感じる。
 さほど年の差も無い女性にこんな感想を抱くのも失礼だとは思うが、麻美は他に適当な言葉を思いつけない。
 ――ふう。
 再び熱い溜息をついた。身体の表面は冷めきっているのに、内面はまるで煮立つようだ。
 頭が重い。熱の所為だろう、思考が上手くまとまらない。
 麻美は目を閉じて、脈絡のない思考が頭の中を駆け巡っていくのに身を任せた。


 ウィミィは女性の絶対的な優位を謳う。
 女は男より優れた生き物だと標榜する。
 麻美は、そこに母性を感じることが出来ない。
 無論、母性だけが女性を象徴するものでは無い。様々な女性像が在って当然だし、まして麻美は自分自身に母性が存在するとは思えなかった。
 だが、女性を中心に世界を纏め、治めようとするならば、少なくともそこに母性は必要不可欠ではないか。
 従わぬ者を力でねじ伏せても、どこかで痼りは残るものだ。それを癒し、補うのが母性ではないのか。
 しかし、戦後ウィミィが執った政策は植民地に対するそれと同じである。ならば侵略戦争とどう違うのか。女性開放という建前があるだけ始末が悪い。
 ウィミィの思想は「彼女達が忌み嫌う男性的な思想」によって成り立っていると、麻美にはそう思えてしかたがないのだ。

 ただ――以前のニホン社会が正しかったのかと問われれば、麻美は言葉を濁してしまう。
 能力の有無を問わず、女性が男性の日陰であったのもまた事実なのだ。麻美自身、そういう世間に歯痒い思いを感じたことが幾度もある。
 ウィミィ体制下でなければ、麻美がこの若さで監督官に抜擢される事など無かっただろう。
 ウィミィを無条件に支持することは麻美には出来ない。だが、無意味に拒絶するだけの根拠もまた、麻美は持ってはいなかった。
 結局――どんなものにも功罪はついて回るということだ。

 その功罪を認めた上でも、麻美は現在のニホンに杞憂に似た不安を感じる。
 麻美のようにウィミィによる女性解放の恩恵に与る女性は当然いるだろう。だが、ウィミィの行為を侵略とみなす女性も、また多くいるのではないかと麻美は考えている。
 特にニホンには、女性もまた誇り高く強くあれという思想が根強い。大小の差はあれ、それは他の被侵略国にしてもそう変わりはあるまい。
 負けたのだから従えと言われても、はいそうですかと簡単に割り切れるほど人の心は単純ではない。まして、先の戦争は男対女という図式の方が先に立っている。
 ならば、いずれ女性同士の不和が表に出てくるのも時間の問題だろうと、麻美は漠然とした危惧を抱いている。
 五年か、十年か、それとも五十年先か。それがどれ程虚しい諍いになるのか、麻美には想像も付かない。そこには女性解放という美麗な建前は存在しないのだ。

 ――かといって、それが真わかめ組に所属している言い訳にはならないけれど。
 悪司がしている事は、いわば男達の復権である。女達に奪われた覇権を取り戻そうとしている。
 少なくとも麻美にはそう見える。
 ではその悪司の下で働く麻美は、そういった誇り高いニホン女性にすれば、どちら付かずの根無し草としか見えまい。
 渓奈なら何と言うか。
 ――そういう話はあまりしない人だったな。
 監督官時代から、渓奈はそういった時勢に関する話はあまり好まなかった。麻美にしてもそういう話題は得手ではなく――正確にいうと当時の麻美にそんな余裕は無かった――二人の間でその手の議論が交わされた記憶など皆無である。
 いや――。
 ――ううん。一度だけ、そんな話が出たっけ。


 あれはいつだったか。良く憶えていない。
 確か渓奈が所用でエデンに行った時のことだ。麻美は渓奈に誘われただけの見学のようなものだった。
 風の強い日だった。渓奈が用件を済ませる間、麻美はエデンに建設されるウィミィ専用住居の工事を眺めていた。
 壮観だった。
 ウィミィの建築物は鉄筋やコンクリートを多用した要塞の様な外見である。木造の平屋が立ち並ぶオオサカの下町を見慣れた麻美の目には、まるでそこに異国が降って湧いたように見えた。
 一般市民用の集合住宅とはいえ、ニホンの住宅水準を考えれば十二分に高価である。ましてオオサカは度重なる空爆でかなりの家屋が破壊されている。住む家を焼き出された者の数など見当もつかないし、倒壊したままの家屋などどこにでもある。
 それなのにエデンには連日相当数の建築資材が運び込まれていた。
 麻美は黙ってそのトラックを眺めていた。
 そのときの気持ちはうまく表せない。
 馬鹿にされているような、嘲笑われているような、そんなどこか惨めな気分であったように思う。
 気が付くと隣に渓奈が立っていた。
 しばらく二人とも無言でエデンを眺めていた。
 渓奈は普段と同じように感情の読めない表情をしていたし、麻美は漠然とした不快感の様なものを持て余して、それを上手く渓奈に伝えられない自分が只、もどかしかった。
 甲々と鉄を打つ単調な音だけが、奇妙なほどに大きく、近く聞こえていた。

「エデンてどういう意味か知っているかしら?」

 唐突に渓奈がそう言った。
 麻美が知らないと答えると、ウィミィの言葉で楽園だと教えてくれた。

「彼女達はこんなふうにして自分達の楽園を世界中に築いていくのよ。そこに存在した楽園を壊してね」

 まるで本当に楽園が存在するような口振りだった。
 困惑する麻美の心を見透かしたように渓奈は続けた。

「そう、ここにも楽園は在ったのよ。たぶんずっと前から。でも誰も気付かなかった。無くなってしまうまでは誰も。無くして、違う楽園が築かれてようやくそれに気付くのよ」

 どこか自嘲めいた口調で渓奈が呟く。
 麻美はただ黙って渓奈の言葉を聞いていた。

「でも、この楽園に私達の居場所はないわ。私達は、彼女達のエデンの外に追いやられたのだから」

 呻りをあげて。
 一際強い風が吹いた。
 巻き上げられた砂塵が麻美の視界を遮る。
 甲。甲。甲。
 音がさらに大きく聞こえる。
 それとも、これは鼓動の音なのか。
 突風に顔を背けた麻美の視線が、僅かにこちらを向いた渓奈の視線と合った。

「だから――」

 渓奈の口がゆっくりと開いている。
 なにか言っている。
 甲。甲。甲。
 なんて大きな音なんだろうか。
 もう、なにも聞こえなかった。

、――取り戻さなければいけない。

 掻き消された呟きの残滓が、掠れるようにして麻美の耳に届いた。
 砂塵に遮られた視界の中で、
 渓奈は。
 僅かに微笑を浮かべていた。


「山沢さん。大丈夫ですか!?」
 肩を揺すられる感覚に麻美が視線を上げると、そこには厳めしい大男がつぶらな瞳で覗き込んでいた。困惑顔である。
「――大杉さん」
 意識が輪郭を取り戻そうとする。
 ――が、上手くいかない。頭に霞がかかったように不安定なまま辺りを見渡し、ようやく自分が何処にいるのかを思い出した。
「――失礼。うなされていたので、つい」
 そう言うと大杉は麻美の肩から手を離し、きまりが悪そうに顔を背けた。心なしか照れているように見える。
「いえ、いいんです。少しウトウトしていただけですから」
 無為な思考を重ねるうちに、いつの間にか微睡んでいたらしい。
 では、あれも夢だったのか。――いや、確かにいつだったかエデンを二人で訪れた記憶はある。だがそれ以上の事は良く思い出せなかった。
 ――あのとき、何と言っていたんだっけ。
 思い出せない。
 そもそも――どこまでが追憶で、どこからが夢なのかさえ瞭然としない。
 ならば、やはり麻美が夢の中で創り出した記憶なのだろう。そもそも、まるで意味の解らぬ内容ではないか。
 そう自分で結論付けると、座ったままで熟睡している夕子を起こさないように小声で大杉に問いかける。
「外は――どうなりました?」
 照れ隠しか、見張りの職員を睨み付けていた大杉がその声で再び麻美に向き直る。
「麻薬中毒者の死体は片付きました。市議会のトラックで搬送しています。残りの麻薬中毒者もトラックが折り返し次第護送するらしいです」
「山本さんと、その――あの先頭にいた職員、は?」
「若は我々に指示を出した後様子を見ていましたが――先程、その職員と事務所の中へ。山沢さん、その――」
 渓奈の事を聞きたいのだろう。察した麻美は簡単に事情を説明した。
「――あれが例の。では――その川瀬という職員、なぜ山沢さんの事を知らないような態度をとったのか――」
「それは――私に自分で認めさせる為でしょう」
 あの態度は、渓奈が自分に与えた罰のようなものだと麻美は思っている。やはり現在の麻美は渓奈にとって許せないのだろう。
「本当に――そうですかな」
 大杉が考え込むように目を細めた。ただでさえ小さい目が線の様になる。
「三日前に向こうから接触してきているのなら、今更誤魔化しが利くような相手でも無いでしょう。私は知らぬ存ぜぬを通すつもりでしたが、そこまで親密だったのならばそれも無駄な事です」
 それは確かにそうだろう。だから麻美もあの場で覚悟を決めたのである。
「やはり、こちらの嘘を暴く為では? 私が自分で宣告すればもう誤魔化せません」
 そこですよ、と大杉が麻美の言葉を止める。
「それならば、そもそもそんな手間をかける必要は無いでしょう。三日前、すでにあなた自身が山沢麻美本人だと認めているのです。その時点であなたを捕えれば良い。一度で済むことです。それに、指名手配犯を匿っていることが露見すれば、いかに地域管理組合といえども只では済みません。それなら、わざわざ令状を用意してまで取り引きを迫らなくとも、山沢さんが格好の取り引き材料になるではないですか」
「――それは、確かに」
 この三日間、それは何度も考えた。
 だが、三日前の渓奈の様子では、狙いは組の麻薬容疑であると思った。故に、組に圧力を掛ける為の伝言人として麻美を使ったのだと。
 しかし、渓奈の本当の狙いが組との取り引きならば話は別だ。その取り引き材料が麻美では駄目だという理由はない。
 では一体なんだ? 本当に、ただの帰還の挨拶だったとでもいうのか。
 ――らしくない。
 これは、徹底的に渓奈らしくない。
「あの女の目的が何なのかは解りませんが――その為の手段の中から、山沢さんは意図的に除外されている気がします」
「――え?」
 どういう意味だ。
「考えてもみて下さい。三日前、山沢さんには組を捨てて逃げるという選択肢も在ったんですよ」

 ――逃げる?
 私が?

 全く予想外の答えにしばし忘我する。
 そんなことは、まるで考えもしなかった。
「顔を見せておいて拘束もせずにそのままでは、これは逃げろと言っている様なものです。それに先程の態度も得心がいかない。山沢さんは嘘を暴く為だと言いますが、そもそも口火を切ったのはあなたの方です。もし、あのまま山沢さんが黙っていれば、おそらくあの女は何も言わなかったでしょう」
「そう――でしょうか?」
「もちろん若の到着が遅れていれば、結果的に山沢さんの前歴は露見していたでしょうが――」
 そこで、これは私の印象でしかありませんがと大杉は念を押した。
「私には、あの女が山沢さんを試しているように感じます」
「――試す?」
 何処かで聞いたような言葉だ。
「的外れな意見でしょうか?」
「いえ――でも、私には」
 解らない。
 もし――これが渓奈からの試練ならば、自分はその期待に応えられているのだろうか。
 ――考えたくないな。
 心に浮かんだ答えから目を逸らして、麻美は板張りの床を眺めた。

「それで――山沢さん」
 大杉が言葉を選んでいる。
「その、口火を切った時の事ですが――。どうしてあんな事を?」
 責める口調ではない。単純に麻美を案じての言葉だと感じられる。
「あの時は、それが最善だと思ったんです」
 これは嘘ではない。
 第一の目的はもちろん時間稼ぎである。
 だが以前から、組が自分を匿っている事が明るみに出た場合を想定し、麻美は一つ筋を書いていた。

 麻美は元監督官だという身分を隠して真わかめ組に潜り込んだ――という筋書きである。

 あの場でそう宣言し、大杉達がその意図を汲んで口裏を合わせてくれれば、少なくとも真わかめ組の責任は軽減される。それは麻美にとっては至極当然の選択だった。
「指名手配された元監督官――それは私自身の責任なんです。組に迷惑は掛けたくありません」
「――むう。しかし山沢さん、それは――」
 大杉が言葉に詰まる。傍目に観ても可笑しいほど狼狽していた。
 組の幹部であり悪司の腹心である以上、大杉が第一に考えるべきは組の――ひいては悪司の護身である。その観点からすれば、麻美の自己犠牲は組員として当然の行為だと認めこそすれ、咎める理由はない。
 しかし、大杉個人の意見は違うのだろう。だが立場上それを明言することは憚られる。
 その建前と本音の葛藤が、失語症の様な状態を引き起こしているのである。
 それから数十秒、大杉は口を開きかけては思い留まるという行為を繰り返した末、遂に決意したように麻美をみつめた。
 実際には、力みすぎてほとんど睨んでいる様に見えたのだが。
「や、山沢さん、そんなことを――」
「そんなこと言っちゃダメよ麻美ちゃん!!」

「わあ!!」
「うお!!」

 素っ頓狂な声をあげて、麻美と大杉が同時に腰を浮かせた。
「か、神原さん! いつから起きてたんですか!?」
「んん〜〜。大杉さんが一人で百面相を始めたちょっと前くらいかな〜〜。じれったくてね〜〜」
 そう言って夕子は一つ大きな欠伸をした。話の腰を折られた大杉は再び見張りの職員を睨んでいる。
 それで、と夕子は麻美の眼前に人差し指を立て、諭すような口調になった。
「自分だけ犠牲になろうなんて考えちゃあダメよ麻美ちゃん」
「――はあ」
 いつのまにか「麻美ちゃん」に昇格したらしい。
「大杉さんもそう言いたかったんでしょ〜〜?」
 夕子が大杉に悪戯じみた声を掛けると、大杉が背を向けたまま頷いた。
「こんな世の中だからね、いろいろあるよ〜〜。でも気にすることなんてないの。みんな一人じゃどうしようもないからココにいるんだから。迷惑かけて、かけられて、それでもなんとな〜く上手くいくもんだからね〜〜」
 そういうものだろうか。麻美にはそこまで楽天的な考えは到底できない。
 だが、にこやかに笑う夕子を見ていると、少しだけ気が楽になる。
 ――やっぱり、凄い人だ。
 麻美はつられるように少しだけ微笑うと、
「そう、ですね」
 と答えた。


「あの看護婦どもの狙いは、やはり山沢さん自身と見るべきでしょうな」
 二人の話を総合した後、大杉がやはりという風に言った。
 病院での別行動の後、大杉は麻美と同じく数人の看護婦姿をした連中の襲撃を受けた。しかし麻美を襲撃した二人程の実力は無かったらしく、大杉が応戦をするとすぐに姿を消したらしい。
「投薬やら合格やらがどういう意味を持つのか皆目見当も付きませんが――あのお喋りな看護婦は山沢さんを拉致するつもりだったと思いますが」
「なんでそんなこと〜〜?」
 夕子の問いに二人は沈黙する。解らないからだ。
「ま、まあそれも若とあの女の取り引き次第で明らかになるでしょう。先程の様子では、若もなにかしら掴んでいるご様子。いまは待ちましょう。この騒動にはまだ見えていない部分が多すぎますからな」
 確かにこれ以上推論を重ねることに意味はないだろう。麻美達の視点だけではまるで全体が観えないからだ。
「しかし、見え透いた嘘を使って揺さぶりをかけてきた市議会職員がいたと聞いていたので、どんな木っ端役人かと思っていれば――よもやあんな女傑とは。どこで話が食い違ったのか、島本めも案外役に立ちませんな」
 反射的にそうですねと言葉を返しそうになって、麻美は慌てて聞き返した。
「ちょっ、ちょっと待って下さい! その、見え透いた嘘ってなんなんですか!?」
「はあ、例のミイラ男を捕えた夜のことですが――山沢さん、若にお聞きになった筈では?」
 え――。
 それでは。
「それでは素敵医師は――」
「ええ、そりゃあ酷い匂いでしたなあ。あまりに酷いので事務所に連行する途中で棺桶屋を叩き起こして、棺桶を一つ調達してその中に。あつらえたように丁度良い大きさのものが有りましてな」
「間違いないんですね!?」
「棺桶をここに運び込んだのは私ですから間違いありませんが――。いや、服に付いた匂いが取れずに難儀しました。ああ、夕子さまも御一緒でしたな」
「鼻、おかしくなっちゃったよね〜〜」

 では。

 嘘を吐いていたのは――。

 ぐらりと。
 周りが揺れたような気がした。

「しかし、随分経ちますが――まだ終わらないのですかな」
 大杉がしびれを切らしたように呟く。
「んふふ〜〜。あーくんの事だからね、今頃まーるく収まってるかもよ〜〜」
 夕子が意味深に含み笑った。
「それはまたどうして――おお、その手がありましたな!」
 大杉はその含み笑いの訳を悟ったのか、急に顔をほころばせる。
「――その手?」
 麻美は動揺を必至に隠して尋ねる。
「寝台の上で若に勝てる女などいません! 居丈高なあの女も、今頃は若の虜でしょう!」

 途端に、ベッドの上に絡み合う男女の姿が脳裏に浮かんだ。

 ――川瀬さんが、山本さんと?

 そんな。

「ちょっとぉ〜〜大杉さん〜〜!」
 夕子が慌てて大杉を嗜めた。言い方に気を付けろという事か。
「――は。おお! い、いえ、そんなこともあり得るという話で――」
「でも麻美ちゃん、それで片づくなら一番だよ?」
 確かにそうかも知れない。渓奈が悪司に屈服すれば、問題は半分解決したようなものだ。
 だが――。

 麻美は想像する。

 悪司の前に跪いている女。

 愛欲の虜になっている渓奈の姿を。

「痛ってぇ!」
 道場の隅で悲鳴が上がった。見ると、重傷を負った組員がのたうっている。
「どうした?」
 大杉と夕子が近寄っていく。麻美も脳裏に浮かんだ幻影を振り払って立ち上がる。
「これは傷口が開いたな。大人しくしていないからだ、馬鹿者め」
 組員の脚に巻かれた包帯に血が滲んでいる。どうやら痛みに耐えきれず動いた結果、応急処置した傷口が開いたらしい。
 痛みでなおも動こうとする組員を大杉が押さえつけ、夕子が手際よく包帯を替えていく。
「包帯の替えももう無いね〜〜。たしか、事務所に予備の薬箱があったよね。鎮痛剤とかもあると思うけど〜〜」
「私――取ってきます」
「あ、麻美ちゃん〜〜?」
 麻美は二人の返事を待たずに踵を返して歩き出した。
 じっとしていられない。
 麻美は自分がなぜそう思っているかも解らないまま――道場を後にする。
 見張りの職員は止める事もせず、無言で麻美を見送った。


 事務所前は完全に平静を取り戻していた。
 すでに麻薬中毒者達の姿は何処にもなく、数人の黒い職員だけが哨戒のように立っている。
 麻美の姿を見ても、咎めることはおろか反応すらしない。ただ黒眼鏡越しに視線を送ってくるだけだ。
 それを避けるように、急いで事務所内へと入る。
 途端に目眩がして足下がふらついた。
 壁にもたれかかって目を閉じる。
 躯が熱い。頭が痛い。
 ――私は。
 何をしているんだろうか、麻美は天井を見上げて熱い溜息を吐いた。
 思えば当然ではないか。渓奈が女である以上、悪司は躊躇わずにいつもの手を使うだろう。それが悪司にとって、最も効率が良い手段なのである。
 では渓奈はどうなる。悪司の虜となってその軍門に下るのか。
 部下である多くの女のように。
 いつかの麻美のように。

 ――駄目だ。

 それこそ渓奈らしくない。
 そんな姿など見たくはない。
 なんなのだろうか、この気持ちは。
 結局、麻美は自分の感情さえ満足に理解できなかった。
 無意識に視線が悪司の私室へと向かう。
 扉は閉ざされている。中に人が居るのかどうかも窺う事は出来ない。
 扉を開いて確かめたい衝動に駆られる。
 ――しっかりしろ!
 自分で頬を叩き、頭を振って気を取り直す。
 頭を動かした拍子に吐き気がした。
 それでも――脳裏に浮かんだ幻影は、焼き付いたような影を残していた。


 事務室に近づいた麻美の耳に、微かに人の話し声が届いた。
 ――事務室に誰か?
「――では、これで契約は完了ということだな」
 事務室の前まで来ると、扉越しの声が明瞭に聞こえた。
 ――川瀬さん?
 どういうことだ。渓奈が悪司の私室に居ると半ば決め込んでいた麻美は、ノックも忘れて事務室へと飛び込んだ。
 部屋の中では渓奈と悪司が机を挟んで座っている。二人は同時に麻美を視た。
「――なんでぇ嬢ちゃん、そんなに慌てて。どうかしたか?」
 悪司は普段通りの、まるで気の抜けた調子で話しかける。もはや先程の凄味は欠片も無い。
「い――いえ、薬箱を」
 取りに来ましたという言葉が小さく掻き消えた。
 悪司はただそうかと返した。
「では――私はこれで失礼する」
 そう言って渓奈が立ち上がった。机から何かを手に取るのが見えた。
「そりゃお構いもせず」
「そうでもなかったさ」
 軽口を皮肉で返して、渓奈が麻美の方へと歩み寄ってくる。
「あ――」
 目を合わせられない。麻美は顔を伏せたまま、硬直したように立ち竦んだ。
 ――なにか、言わなくちゃ。
 頭が暗々とする。周りが揺れる。
 いや、揺れているのは麻美の方か。

 ――麻美。

 不意に、優しげな声が耳元で聞こえた。
 懐かしい声だった。
 いつのまにか、渓奈がすぐ傍に立っている。
「あなたの覚悟、見せて貰ったわ――」
 囁くように渓奈が言った。
「え――」
 顔をあげた麻美の眼前に、一枚の紙片が差し出された。
 一瞬にして、視界が白と黒で埋め尽くされる。
 紙片には整然と書き連ねられた文字が躍っていた。
 その中の幾つかの文字が、認識するより速く麻美の精神に入り込んでくる。

 遺――

 遺産――

 素敵医師の遺産――

 ――これは。

 これはいったいなんだ?


「麻美、素敵医師の遺産を探しなさい――」


 渓奈の言葉が自分の心に楔を穿つのを感じながら。

 麻美の意識はゆっくりと、暗く深い処へと沈み込んでいった。


 こうして。
 麻美の長い一日は終わりを告げたのである。


以下次話