大悪司



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  棘 −麻美−
第八話


 澱んだ空が向かい合う二つの群れを見下ろしている。
 一つは満身創痍の者達だった。
 地域管理組合真わかめ組の面々である。
 対するは。
 黒制服に黒眼鏡。
 周囲を威圧するかの如く立ち居並ぶ者達。
 異形の市議会職員。
 その先頭に立つのは――。
 漆黒の女、川瀬渓奈。


 ――どうして。
 麻美は混乱する。
 息が詰まるような緊張が押し寄せる。一呼吸ごとに全身を刺す痛みも、今の麻美にはまるで感じられない。
 現実感が皆無だ。もしかしたら、自分はいま夢でも見ているのではないかとさえ思う。
 もし、夢であるならば、これほど酷い悪夢はない。
 だが、現実であるならば。
 麻美は軽い目眩を覚えた。


「麻薬取り扱い――だと?」
 大杉が低く呟く。懸命に現状を把握しようとしているのが傍目にも容易に知れた。
「その令状、正式なものなのだろうな?」
 大杉自身も無駄を承知なのだろう、形式じみたその問いかけには普段の様な強さが無い。
 渓奈はその言葉を聞いて少し眼を細めた。面白がっているようにも見えた。
「残念ながら――」
 威圧するように一歩前に進み、手に持つ令状を誇示する。
「これは正規の手続きを踏んだ正式な令状だ。市長の印も押されている。とりあえず――こちらの代表者を呼んで貰おうか」
 相手の要求に大杉と夕子が顔を見合わせた。
「殺さまは――」
「この時間だと、さっちゃんはまだ学校ですね〜〜」
「では――とりあえず夕子さまが代理として対応する他ありませんな」
「んん〜〜、それはいいですけど」
 夕子はさらに声を潜めた。
 ――山沢さんはどうするんですか? あの人と、知り合いみたいですよ〜〜。
 ――とりあえず、他人ということで通す他ありませんな。苦しい言い訳ですが、山沢さんはまだ手配されているはずです。
 鴉葉と結託して裏工作を講じているとはいえ、麻美の手配はいまだ有効である。つまりこの状況は、真わかめ組が指名手配犯である麻美を匿っているという決定的な証拠なのである。
 この事実を認めることは避けなければならない。例えそれが見え透いた嘘でも、吐き通さねば組の立場が更に悪くなる。
「内輪話は済んだかな?」
 眼前のあからさまな密談を別段気に止める様子もなく、渓奈は平然と言った。
 それを承けて、夕子がしぶしぶ手を挙げて話し出す。
「あの〜〜いま、さっちゃ――代表の岳画はですね、その〜〜学校の方に――」
 ああ、と渓奈が夕子の言葉を遮った。
「そんなことは承知している。私が呼んで貰いたいのは岳画殺氏ではない」
「――はい?」
 大杉と夕子が再び顔を見合わせた。
「真わかめ組の真の代表、山本悪司氏を呼んで貰おう」


 目の前で、なにか問答が繰り広げられている。
 麻美はただ黙ってその言葉の羅列を聞いていた。
 自分の鼓動がやたらと煩い。頭が茫とする。
 ただ、自分の存在がこの状況を更に悪化させるという認識だけが、麻美の心に重くのし掛かっている。
 相手は渓奈である。この状況を利用しないとは考えられなかった。自分が居るという、ただそれだけで真わかめ組は多大な被害を受けるのである。場合によっては組の取り潰しすら有り得るかもしれないのだ。
 ――私が居るというだけで。
 これは思い込みの劣等感でも、独りよがりな罪悪感でもない。客観的な事実なのである。三日前、渓奈に再会したときから最も恐れていた事態が、いま正に目の前にある。
 ――どうする。
 どうも出来まい。今の麻美に出来るのはただ諾々と状況に流される事だけだ。
 仮に組員全員で口裏を合わせ別人を装っても、渓奈に対してそんな三文芝居が通じる筈もない。それこそ茶番に過ぎるというものだ。
 先刻、麻美は逃げることを止めた。
 だが、いまは逃げることすら許されない状況にある。
 何度目かの目眩が麻美を襲う。
 結局麻美は渓奈から視線を逸らして――ただ俯いた。


「監督官の鴉葉からおおよその話は聞いている。別段そのことを問題にする気はない」
「――どういう事だ?」
 繕う必要が無いと判断した大杉が夕子の代わりに応えた。すでに市議会職員が公然と口にするような内容ではない。
「君では話にならない、という事だ。山本氏が不在なのであれば、我々は直ぐにでもこの令状を執行する。もし妨害をするのであれば実力で排除、そしてその時点で真わかめ組の組合免許は失効――ということになる」
「――むぅ」
 大杉が唸る。圧倒的に不利である。そもそも市議会と公に事を構えるわけにはいかない以上、妨害など出来はしない。
 再び堂々と密談が始まる。
「若はいつ頃戻られますか?」
「それが、私も知らないんです。ちょうど入れ違いになったみたいで〜〜」
「誰か聞いていないか?」
 他の組員も顔を横に振った。どうやら、突然に極少数の組員を引き連れて出掛けたらしい。島本とその部下が早朝から慌ただしく動いていたが、悪司が出掛ける直前にその内の一人が戻っていた様だった。
「私と山沢さんが出た直ぐ後のようですな。誰にも行き先を告げていないとなると、なにか問題でもあったか――。このままだと少々厄介ですぞ」
「でも、実際は麻薬なんて扱っていないんだし、捜査されても問題ないんじゃないですか〜〜?」
「地下室に例の宗教組織の捕虜が数名います。拷問にかけた者もおりますし、市議会に知られては拙い。それに相手の狙いが本当に麻薬かどうか――。それ如何では捜査の結果に関係なく、本当に組の取り潰しもありえるでしょう。危険すぎます」
 夕子は少しだけ眉根を寄せた。現状の理解に苦しんでいるのだが、それでも和らげな印象は変わらなかった。
「でも〜〜正規の令状を持ってきてるのに、どうしてあーくんを出せなんて言うのかしら」
「令状は脅しでしょう。額面通りに受け取るのは尚早かと。どちらにしても、若が戻らなければ手の打ちようがありません。今の我々が出来るのは精々時間稼ぎぐらいです」
 夕子は空を仰いだ。
「んん〜〜。あーくん、早く帰ってきてよ〜〜」


 視線を感じる。
 誰の視線なのだろう。麻美の身体に、絡みつくような感覚が纏わり付いている。
 それでも麻美は目を伏せていた。顔をあげるのが怖かったからだ。
 そこに、渓奈の侮蔑のこもった眼を予感していた。
 それだけは――耐えられなかった。
 全身に冷水のような汗が滲んだ。
 筋肉が硬直する。極度の緊張で指先が痺れ、呼吸が困難を極めた。
 視線の感覚がより強くなった。
 言い様のない圧迫感に耐えきれず、ついに麻美は視線だけをあげた。意識して遠方を見る。
 ミドリガオカの街並みが見えた。遠くに見える高台に意識を向けて、視線の主と眼が合うのを避ける。
 それでも、まだ視線を感じた。
 深く息を吸い込むと、渓奈を見ないように意識しながら、ゆっくりと周囲を見渡す。
 同時に見慣れた制服が目に飛び込んでくる。
 眼前に十数名の黒い市議会職員が整然と並んでいた。僅かな乱れもなく均等に、まるで麻美達の逃げ道を塞ぐかのように立ちはだかっている。列の後方には捕縛された麻薬中毒者達とそれを監視する者が数名。麻薬中毒者達はすでに抵抗する意志を完全に失ったのか、微動だにしない。
 渓奈を除く全ての者は黒眼鏡を付けているせいで直接表情が窺えない。だが、そのままでも彼女達――職員達は全て女性だった――が全くの無表情であることは判った。
 ――かなり訓練されている。
 筋肉の付き方が違う。デスクワーク中心の人間があんな実戦的な身体をしている訳がない。おそらく全員が武術の心得のある――それも手練れ揃いである。思えば、先程も武器を使っている者は一人もいなかった。通常、治安課職員ですら警棒や銃器で武装している。そうでなければ総武道家国であるニホンの治安など守れはしないからだ。戦争を境に急激に減ったとはいえ、どこに武術の達人がいてもおかしくは無い国なのである。
 そしてあの制服だ。麻美の知る限り、あんな色の制服などは無い。全身これ黒ずくめである。上着はもちろん、ネクタイ、それにシャツまでも、喪服もかくやという程に黒い。その上で黒眼鏡をかけているのだから、これは異様な存在感である。
 よもや管理課の制服を新調した訳でもあるまい。これは麻美が袖を通していた物とは似て非なるものである。
 新設された部課か、あるいは他の市議会。
 どちらにしても。
 ――嫌な雰囲気ね。
 凄まじいまでの威圧感だった。彼女達は一片の無駄もなく統制され、その佇まいは軍隊を彷彿とさせた。
 対する麻美達はすでに満身創痍である。殆どの者は精根尽き果て、その場に座り込んでいる。死者こそ出なかったが、傷を負っていない者など一人もいなかった。これでは対比にすらならない。
 さらに先程の雨で全員がずぶ濡れで、余計に悲壮感が増している。もっとも、雨に降られたのは双方同じだが、ほとんどが地に倒れこんでいる姿はまるで濡れ鼠といった有様である。ならば向こうはさしずめ濡れ鴉か。
 ――雨。
 視線を空へと移す。驟雨は去り、秋空はいつもの濁った表情を見せている。
 どのくらいの間降っていたろうか。四六時中雲に覆われたオオサカの空は天候の変化が読みにくい。今朝、事務所を発つ時は雨の心配などまるでしなかった。
 少し寒い。身体から熱が逃げ始めているのだろう。雨に濡れた衣服が素肌に絡み付く感覚が不快だ。
 ――急に降ってきたものね。
 ふと、何か気になった。
「――では、これより立ち入り捜査を開始する」
 唐突に、渓奈の声が聞こえた。


「山本氏は不在か。ならば、これ以上は時間の無駄の様だな」
 密談が終わったと同時に、渓奈が悠然と言った。声に出さずとも状況は筒抜けである。
 大杉が慌てる。
「せ、せめて何人かを捜しに出させて貰いたい。それほど時間は掛からない筈だ」
「君は自分達の置かれている状況を理解しているのか? ここにいる全員は先程の騒ぎの参考人――否、引いては麻薬取り扱いの容疑者でもある。逃亡のおそれがある者を単独で行動させることなど出来ない」
「地域管理組合の構成員を犯罪者扱いするというのか!」
「それも全ては捜査の結果次第という事だ。疚しい事が無いのなら慌てる事も無かろう」
 大杉は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。完全に相手の思惑通りである。
「我々は襲撃を受け、それに対して自衛したに過ぎん」
「その襲撃された理由こそが問題なのだ。蟻は砂糖に群がるものだからな。この近辺の麻薬の流れはこちらでも把握している。なんの物証もなく令状を出すほど市議会は無能ではない」
 怪しいものだ――大杉は声に出さずに呟いた。
「その、麻薬の流れの中心が真わかめ組だと?」
「口説いな。答えは捜査すれば簡単に出る」
 堂々巡りである。
 建前同士の会話はまるで噛み合わず、ただ上滑りを繰り返すだけだった。
 渓奈は腕時計に目をやる。
「何度も言うが、君では話にならない。そして、これ以上無駄な時間をかける気もない」
 渓奈が右手を僅かに上げて合図をすると、後方で待機していた数人の市議会職員が前に出た。
「全員拘束しろ」
「なっ!」
「ええ〜〜! おーぼ〜〜!!」
 反射的に二人が身構える。それに呼応して、座り込んでいた組員達も反応する。
「抵抗するなら容赦はしない。死人を出した上で地域管理組合の免許を剥奪されたければ、気の済むようにしたまえ」
 一瞬、空気が騒めく。
「――皆、動くな」
 大杉が絞り出すような声をだした。
 渓奈は無感動にその様子を眺めた後、もう一度宣言するように言った。
「では、これより立ち入り捜査を開始する」

「待って下さい!」

 女の声がした。
 一人を除いて、そこにいた全員が声の主を見た。


 短い沈黙が流れる。
 気が付くと、皆が自分を見ていた。
 大杉は驚いたような顔をしている。その隣には、夕子の少し困ったような表情。後ろには呆けたような組員達。黒眼鏡越しの無感情な視線が多数。
 だが――。
 渓奈は麻美を視ていなかった。
 ――視られては、いなかったのか。
 安堵と焦燥。その二つが綯い交ぜになって麻美を揺さぶった。
 自分は、もう視られてさえいないと、そう思ったのだ。
「そこの君。一体なんだ?」
 前を向いたままで渓奈が応える。麻美の呼び止めに対するものである。だが、当の麻美は自分が声を出したことさえ失念していた。
 かろうじて大杉達の意図を理解していたのだろう、無意識に言葉が口を吐いたのだ。
「ち、地域管理組合への監視監督は原則的に担当監督官が行うと規定されている筈です。この捜査も担当である鴉葉さ――鴉葉監督官が行うべきなのではないのですか」
 無駄だ。麻美は言葉を口にしながらそう思った。こんな理屈は通じまい。
 そもそも渓奈の来訪を最初に予見したのは麻美本人である。これは予想し得た当然の事態なのだ。
 もう遅すぎる。それは承知の上だ。それでも時間稼ぎ程度にはなる。
「――君は随分と監督官の職務について詳しいな。確かに原則的にはそうなっている」
 渓奈はまるで初対面の人間に話す様に言った。大杉と夕子が顔を見合わすのが見えた。
 麻美も少し狼狽える。渓奈の意図が読めない。
「では――」
「だが、それはあくまで原則だ。当然例外は存在する」
「それでも――それでも担当監督官が捜査に同行すらしないというのは!」
「君は監督官という職務について誤解しているな」
 視線を前に向けたまま、渓奈が言った。
「彼らは飾りだ。監督官と言えば聞こえは良いが、彼らは何もしない。しようとすらしない。出来ないのではない、しないのだ。大魚に張り付く小魚のように、餌のおこぼれに与ろうと必死になっている」
「そんな――」
 麻美は自分の耳を疑った。
 かつて、麻美に監督官の理想を説いたのは他ならぬ渓奈だったからだ。
「役に立たない飾りなどこの場に必要あるまい?」
「あ――貴女も監督官ではないですかッ!」
 思わず麻美が声を荒げる。
 僅かの間、沈黙が流れた。
「君は――まだ誤解をしている」
 そう言って緩慢な動作で振り向く。
 視線が合った。
 途端に。
 まるで磁場のような重圧が麻美を捕える。
 息が詰まる。脚が震え、立っているのさえ苦しくなる。
 思考が止まる。視界が黒く霞んでいく。
 視界を覆う黒色の中、二つの眼が自分を視ていた。
 ――怖い。
 この人は。
 こんなに恐かっただろうか――。
「私は――」
 ふと、視線が緩む。

「私は監督官ではない」

 ――え。
 いまなんと言った?
「だが、市長よりこの捜査の全権を与えられている。無論、担当監督官も了承済みだ。治安課長から市街における武力行使の許可も出ている」
「治安課――が」
 麻美の脳裏に一人の女性が浮かんだ。
 森薫治安課長。
 麻美は複雑な気分になる。彼女は、現在の麻美を生み出した人物の一人であるのだ。
 しかし、彼女が有能であることは確かだ。融通が利かない性格が難点ではあるが、利己にまみれた有象無象が跋扈する市議会では数少ない切れ者である。
 その森治安課長が許可を出したとなれば、これは余程の事である。少なくともこの事態は、かつての渓奈が行ったような暴走半分の越権行為では無いということだ。
「これで納得したかな?」
 再び磁場が麻美を包んだ。
 このままでは駄目だ。あちらの手際に不備を見つけられないとなると、これ以上時間稼ぎの材料が無い。
 ――いや。
 まだ在った。
「納得出来ません」
 渓奈が目を細める。
「ではどうする?」
「市長に直接掛け合います」
「――ほう。だが今の君は容疑者だ。地域管理組合構成員としての職権どころか、市民としての自由も無い」
「監督官としてならばどうですか」
 大杉と夕子が動揺した。目配せで麻美を止める。
 麻美は二人から視線を外した。どうせ最初からばれている嘘だ。
「面白いことを言う。――そういえば、監督官が一人指名手配されていたな。事実ならば市議会に確認を取らなければならないが。確か名前は――」
 渓奈は促すように麻美を視た。自分で告げさせようという意図だろう。初対面の様な素振りもそれが狙いなのだろうか。
 奇妙な感覚だった。数日前に数ヶ月ぶりに再会し、今日は初めて遇うように名前を告げるのである。
 そう考えると、少しだけ可笑しくなった。
 それで。
 麻美に迷いは無くなった。
 ――これで少しは時間が稼げる。せめて――あの人が戻るまでは。
「私は、オオサカ市議会管理課所属、山――」

「山田花子だ」

 男の声が麻美の声を掻き消した。
 同時に、空気が騒めいた。
 黒い職員達の向こうから、威圧感が静かに近寄ってくる。
「どうやら――」
 渓奈が視線を声の方向に移しながら言った。その顔には僅かに笑みが浮かんでいる。
 ――笑っている?
「我々の待ち人が来たようだな」
 つられるようにして、麻美もその視線の先を追った。

 黒い人壁が裂ける。
 今まで微動だにしなかった職員達が、気圧される様に一歩また一歩と隊列を崩す。
「その嬢ちゃんは山田花子っつー名前だ」
 黒い女達の狭間に、
 黒衣の男が姿を見せた。
 鷹揚な態度である。ズボンのポケットに手を入れたまま悠然とこちらに向かってくる。
 まるで散歩の途中のような雰囲気である。それでも、周囲の者達は威圧されたように道を空ける。
 猛禽類を思わせる眼と枝分かれした特徴的な眉。長い揉み上げが輪郭を覆っている。顎には傷が一筋。
 だらしなく開いた上着からは引き締まった体躯が覗いている。
 そのままゆっくりと歩みを進めると、麻美達に背を向け、渓奈に立ち塞がるようにして止まった。
 そうして。

 黒衣の男と漆黒の女がここに対峙した。

 数瞬、静まりかえる。
「若!」
「も〜〜遅いよ〜〜」
 大杉と夕子が安堵の声を上げる。麻美はただ黙っていた。
「どーやら」
 黒衣の男――山本悪司は渓奈を見据えたまま静かに声を発した。
「ウチのモンが随分世話になったみてーだな」
「なに、礼を言われるほどの事はしていない」
 ふん、と悪司が鼻を鳴らした。
「確かに片手間だったろーな。市議会にこんな骨のありそうな連中がいるとは知らなかったぜ。――おめーが噂の暴走監督官か?」
「暴走かどうかは知らないが、生憎私は監督官ではない。人違いだろう」
「そうか? おめーの事を誰かに聞いた気がするんだがな。俺の思い違いか」
「そうだろう。君の周りに、私を知る人間など一人も居ないからな」
 ――え。
 どういうつもりなの。
「――さて、茶菓子も出さねえ上に随分待たせて悪りぃが、ちょっとゴタついててな。出直してくれねぇか?」
「わ、若――」
「黙ってな。怪我した奴の手当てしてやれ」
「は、はい」
「勝手な事をされては困るな。ここにいる者は皆容疑者だ。君を含めてな、山本悪司君」
「勝手もクソもねえ。ここは俺んチでコイツらは身内だ。誰にも指図はさせねぇよ」
 悪司の語調が僅かに凄味を帯びる。
 数人の職員が後ずさりする。だが、渓奈はまるで動じない。
「ならば、不出来な身内の起こした不始末の後片づけをするのも君の役目だろう?」
 その言葉に悪司が反応した。
「――どーいう意味だい?」
「我々はもっと歩み寄るべきだという意味だ」
 再び静寂が訪れる。
 麻美は、目の前で何が起こっているのかまるで解らなかった。
 交わされる言語は理解できても、それが言葉としてどういう意味を持っているのか理解できない。
 これでは、まるで異人同士の会話だ。
「麻薬の捜査に来たんじゃねえのか?」
「しているさ。協力を惜しまない地域管理組合との連携でな」
「令状チラつかせて協力もねえな」
「ウィミィ語でいうところのギブ&テイクだよ」
「それがおめぇの常套手段か?」
「君ほどではないがね」

 何を、言っている。
 ――この二人。
 同じだ。
 この二人は同じ種類の人間だ。
 麻美はその事に漸く気が付いた。

「おめぇもコイツが目当てか」
 悪司は懐から紙切れを取り出して渓奈に見せた。
 何が書いてあるのか麻美からは見えない。
「目的の一つだ。宮仕えは意外に忙しくてな」
「何もかもお見通しってか?」
「そうでもないさ。猫の手も借りたいくらいでね」
 渓奈が手にしていた令状を懐に仕舞い込んだ。
 三度目の沈黙。
 悪司は暫く渓奈の顔を眺めた後、
「茶は出ねえぜ」
 と言った。
 麻美は黙ったまま――ただ目を伏せた。


「どうやら、予定に修正が必要のようですね」
 付け馴れないナースキャップを弄びながら、その女は手に持った双眼鏡を傍らに立つもう一人の女に手渡した。
 真わかめ組事務所を望む高台に二人の看護婦が立っている。
「こちらの計算が甘かったのか、むこうの運が良かったのか――。占拠に失敗したのは予定外ですが、それでも全体の進捗にはさほど影響しませんね」
 もう一人の女は無言のまま僅かに頷く。
「むしろ手駒の方が問題ですね。予測外の事態が重なったとはいえ、消耗品としてすら用を成さないのではどうしようもない。データを寄越せと五月蠅いお偉方も、少しはそのデータの内容から現場の苦労を理解して貰いたいですね」
 もう一人の女が無言のまま双眼鏡を返し、ある地点を指差した。
「――あいかわらず無口ですね。少しは返事くらいして下さい。これじゃ、まるで私が馬鹿みたいじゃ――ああ、まだ倒れていないようですね。大したものですねー」
 再び双眼鏡を覗いた女は嬉しそうにそう言った。
「でも顔色が随分悪い。あれぐらいの投薬量では、さすがに効果も収まっているでしょう。さて――これからが大変ですよ。耐性が無ければそこで終了、ですが――」
 まさかこれで終わりではないでしょうね、とレンズの向こうに立つ女に囁きかける。
 その視線を感じたのか、レンズの向こうでその女が反応した。
「貴女は実に面白い人だ。後悔と自責の棘を纏って、身動ぎするたびに独りで傷ついている。それでも動くことを止めない。否、止められない。誰も貴女を責めないのに、それでも貴女は自分が許せないんですね。なぜなら、貴女が怒りの矛先を向けられる唯一の相手は、すでにこの世界に居ないから」
 愚かなひとだ、と女は言った。
「愚かで、強靭い。だが貴女は自分の強靭さに気が付いていない。他の誰もが解っているというのに、貴女だけが自分の強靭さに気が付かない。いや――」
 目を逸らしているだけなのですか、と小さな声で呟いた。
 レンズの向こうでその女が顔をあげた。刹那、レンズ越しに二人の視線が絡まって、やがて外れた。
 女は満足げに微笑んだ。
「さて、そろそろ引き上げましょう。データ収集も済んでいるようです。慣れない格好をすると肩がこっていけない」
 もう一人の女が抗議するような視線を寄越してきた。
「そんな顔しないで下さい。確かに言い出したのは私ですけど――あ、そうそう。例によって、今回の報告書もよろしくお願いしま――なんですか。私が報告書作るの苦手なの知ってるじゃないですか」
 更に強まった抗議の視線に女が両手を挙げる。
「わかった、わかりました。あのたこ焼きとかいう食べ物奢りますから」
 途端に抗議の視線は消えた。だが傍目にはその表情に変化は見られない。
「ゲンキンなヒトですねえ。あんなものでそんなに喜ばなくてもいいでしょうに」
 女はそう言うと、相棒から視線を彼方に移した。
 向かい合う二つの群れの中にその女が小さく見える。
「貴女も、たこ焼きでも食べて肩の力を抜けばいいんですよ」
 女はそう言うと、嬉しそうに笑った。


以下次話