大悪司



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  棘 −麻美−
第七話


 驟雨の中を二つの人影が駆けて行く。
 後方を行くのは麻美である。
 秋の雨は冷たい。すでに麻美の全身はしとどに濡れ、その体から熱が奪われていた。
 麻美の眼前を同じく大杉が駆けている。
 だが、視界を覆い隠す雨に阻まれて、その輪郭は一向にはっきりとしない。
 ――私は、なにをしているのだろう。
 ただひたすらに脚を動かし、両の腕を振って駆け続ける。
 まるで、その作業が永劫に続くような錯覚を憶える。
 雨に煙る街並みは、先程までの病院内と同じく現実感に乏しい。
 気を確かに持たねば、この異世界に取り残されるような気がした。
 ――もう、手遅れかもしれないけれども。
 あの女達。
 二人の看護婦――否、何者、か。
 麻美達が女達の術中に嵌っているのは明らかだった。

 ――くれぐれも、山本悪司氏には宜しくお伝え下さい。
 ――色好いご返答を期待しています、と。

 そう言い残し、彼女達は姿を消した。
 場合によっては力尽くで突破しようと考えていた麻美と大杉は肩透かしを喰ったような格好になったが、それ以上彼女達に構う余裕は無かった。
 万が一、真わかめ組本部が陥落する様な事があれば、いままでの全てが水泡に帰する。
 無論、彼女達の発言が虚実である可能性もあるだろう。だが真実である可能性が僅かでもある以上、危険すぎる賭には乗れない。
 ――いや、あれは嘘じゃない。
 麻美には確信があった。それこそ意味が無いからだ。目的は果たしたと、そう言っていたのだから。
 胸に手を当てる。
 冷雨に晒されて、冷え切った体があった。激昂に沸き立ったような感覚は、既に冷気によって完全に払拭されている。
 だが――。
 麻美は感じる。
 まだだ。まだ終わってはいない。
 ――何処かに、潜んでいるのか。
 居るのだ。麻美の何処かに。
 認めようとも、認めざるとも。

 ――貴女にはしばらく耐えて貰います。

 ――手のひらの上、か。
 予定調和だ。麻美の行動、その全てが。
 仮に、麻美と大杉が如何なる行動に出ていたとしても、それは彼女達にとっては痛くも痒くも無い事なのだろう。
 全ては計算の内だ、と。
 女のあの余裕は、それを無言で示している。 
 ――嵌っている。
 確かに茶番劇だと、麻美はそう思った。

「山沢さん」
 急に大杉が立ち止まった。ぼやけていた背中の輪郭が明瞭になる。雨足が弱まったのか。
「どうしたんです――」
 そう言いかけて、麻美は周囲の景色が見慣れたものに変わっていることに気が付いた。知らぬ間にミドリガオカに着いていたのだ。
「どうやら、嘘ではなかったようですな」
 麻美はその言葉に薄ら寒いものを感じて、慌てて大杉の横に並んだ。

 ――黒い。
 そう見えた。
 見慣れた街並みの中で、黒い異物――そうとしか表現できなかった――が蠢いている。
 異物が――麻薬中毒者の群れが、真わかめ組事務所の周囲に取り巻いているのだ。
 三十人は下らないだろうか。そう広くはない組事務所前に人垣が出来上がっている。それはまるで砂糖に群がる蟻の様にも見えた。
 雨音に紛れて微かに人の声が聞こえる。怒号だ。
 目を凝らすと、幾つか人影が異物と組事務所の間に立ちはだかっているのが確認できた。組員が抵抗しているのだ。
 だが、その数は十人にも満たない。辛うじて防戦をしているのがここからでも見て取れた。
「どうやら、まだ持ち堪えているようですな」
 大杉が僅かに安堵の色を見せる。だが、すぐに精悍な顔つきに変わった。
 無言のまま大杉が麻美に視線を向ける。麻美も何も言わずに視線を受けた。
 ――いまは、迷うな。
 自分にそう言い聞かせる。
 例えこれが何者かの手の上だとしても、麻美に選択の余地など――初めからありはしない。
 頷き合う。
 二人は黒い異物の群れに向けて疾走った。

「うおおおおおおおおおおおお!」
 大杉が咆哮を挙げた。
 外側に居た数人が振り返った。そこに助走をつけた大杉の渾身の拳が叩き付けられる。
 ぐしゃり。
 なにかが潰れるような、形容し難い不快な音を立ててその男が吹き飛ぶ。
 数人が巻き添えになって、入り組んだ肉の塊となって転げ回った。
 それでもまだ、殆どの麻薬中毒者はなにが起こったのか理解していなかった。幾人かは惚けたように吹き飛んだ者達を見ている。
 そこへ麻美の蹴りが振り上げられる。
 無防備な体めがけて押し出すような前蹴りを撃つ。的になった男とその後方の数人を一纏めにして吹き飛ばした。
 人垣が割れた。
 半数ほどの意識が二人に向いた。敵対者と見なすやいなや、途端に各々手にしていた凶器を麻美達に振り下ろしてくる。
「うおらぁ!」
 意味不明な声と共に、麻美の頭上に棒状の影が落ちた。体を捻りやり過ごすと、音を立てて鉄パイプが地面にめり込む。
 鉄パイプを振るった男が不思議そうな表情を浮かべた。外れることなど思いもしなかったのだろう。
 麻美が惚けたままの男の脚に下段蹴りを撃つと、呻き声も上げずに男が崩れ落ちた。それでも尚、手にした鉄パイプを振るおうとする。麻美はパイプを握った手を踏みにじり、男の頭部を蹴り上げる。
 すぐに他の麻薬中毒者が襲いかかってくる。鉄パイプの男はその人波に踏みつけられて動かなくなった。
「貴様等の相手はこちらだ!」
 大杉がまた咆哮を上げ、その豪腕を振りかざす。少しでも多くの注意をこちら側に引きつけようというのだ。
 大杉は凶器をまるで意にも掛けず、その丸太の様な腕を振るった。その度に何人かの麻薬中毒者が倒れる。

 場は、完全な乱戦となった。

 幾人かの麻薬中毒者は狙いも定めず滅茶苦茶に武器を振り回した。当然、同士討ちが展開されることになる。だが仲間からの攻撃を受けた者もそれを意に介する様子もなく、ただ麻美の方へと向かってくる。
 不気味だった。
 麻美の攻撃も同じく意に介さぬ様子だが、脚を薙ぎ払えば倒れるし、胴を撃てば動きが止まった。効いてはいるのだ。
 ただ、痛みを感じている様には見えない。
 ――やはり、あの薬か。
 確かに異常な興奮や痛覚の麻痺は見られる。だがそれ以外の身体能力が別段変化している様には見えなかった。これでは一般的な麻薬中毒者よりも動きや判断力が通常に近いという程度である。
 ――こんなものなの?
 看護婦のあの余裕は、麻美達の注意をこちらに引きつけるためのハッタリに過ぎなかったのか。
 だが、やはりこの数は脅威だ。恐怖心が麻痺した人間は、場合に因っては最悪の敵になる。それこそ、例の宗教組織の信者の様に。
 もし麻美達が間に合わなければ、消耗戦の結果組事務所が陥落していた算段も高いだろう。
「せッ!」
 麻美の蹴りが何人目かの男を捕える。まるでキリがない。
「山沢さん」
 不意の声の後、麻美の背に感触があった。大杉である。
「――おかしいですな」
 背中合わせのままそう言った。大杉も麻美と同じ疑問を抱いていたのだろう。
「あの看護婦の自信に満ちた言い方からして、我々が加勢したぐらいではどうにもならぬかと思いましたが」
「――ええ。確かに数は多いですが、統率はまるでとれていない。戦力としては疑問ですね」
「我々が間に合わないとタカを括っていたのでしょうか」
「そうとは――思えませんが」
 それはあるまい。これだけ周到に準備をしておいて、最後のツメがそれではあまりにお粗末である。
 また、麻美は大杉が指摘した以外にも何か不自然な印象を受けていた。だが、それが何なのか、具体的には良く解らない。
 奇異というならこの全てが奇異なのである。
「とにかく、今は敵勢力の排除が先ですな――ふん!」
 麻美の背後で鈍い打撃音が聞こえた。大杉の正拳突きがまともに入った哀れな男が、吹き飛んで不自然な体勢で倒れ込むのが見えた。
 気が付けば、すでに半数近くの麻薬中毒者は地面に倒れていた。だが、組事務所周囲に取り付いた一団だけは、距離をとって麻美達の様子を窺っている。その連中には、幾ばくかの判断力が残っているという事なのだろうか。全体からすると奇妙なほどに冷静である。
 ――個人差の範疇、なのかしら。
 数人が麻美達に対して壁を作った。組事務所を攻めている者から麻美達を遠ざけようとしている。これは明らかに組織的な行動だった。
 それだけでは無い。倒れていた数人の麻薬中毒者が立ち上がり、その壁に加わった。中には折れたままの脚で這いずるように動いている者さえいた。
 ――指示を出している者がいる?
 にわかには信じ難い。この手の暴徒が組織的な動きをする事など通常無いからだ。ましてや麻薬で錯乱しているような人間に、冷静な指示など行えるとは思えない。
 それに、指示を受けた麻薬中毒者の動きも不自然だ。幾ら麻薬欲しさとはいえ、既に逃げ出してもおかしくない程の傷を負っているのだ。恐怖心が麻痺し、痛みを感じなくても、それは他者の命に従う理由にはならないだろう。
 これでは軍隊――いや。

 ――操り人形だ。

 麻美の思惑を余所に、麻薬中毒者のバリケードが組事務所の前に出来上がる。それは、先程までの統率の執れていない動きとは明らかに違っていた。
 人垣の向こうから、組員と思しき悲鳴が聞こえる。
 ――時間がない。
 麻美は歯噛みする。このまま持久戦になっては、組員がいつまで持ち堪えられるか。
「一気に片を付けるしかないですな」
 そう言って大杉が麻美の前へと進んだ。
 さすがの大杉も呼吸が乱れている。考えてみれば、休み無しでミドリガオカまで走ってきたのだ。いくら強靭な身体でも体力は無尽蔵ではない。薬の効果か、麻美はいまだに痛みも疲れも麻痺しているが、これがいつまで続くという保証もない。
 ――いつまで保つか。
 麻美は無意識に自分の胸に手を当てる。爆弾を抱え込んでいるような気分だった。
「山沢さん、私が突破します。あなたは組員の加勢に向かって下さい」
「――解りました」
 数の上では圧倒的に不利。ならば一気に頭を叩くしかない。
 大杉が姿勢を低くした。四肢に力が漲っているのが傍目にも解る。
 麻美は大杉の背後に立ち、その動きに備える。
 大杉と麻薬中毒者が束の間睨み合う。
 降り続ける雨の音が、一瞬消えたように麻美には感じられた。

 大杉が弾けるように走った。
 低い姿勢のまま、まるで地を這う様に――いや、地中を進むが如く駆け抜ける。
 人の動きとは思えなかった。なにか、巨大なモノが地中を移動している――としか見えない。
 疾い。麻美の眼ですら動きを追いきれない。相対していた麻薬中毒者は突然消えた大男の姿を探して目を泳がせている。
 突如、その眼前で大杉が飛んだ。
 実際には極端に低い姿勢からやや体を起こした程度に過ぎない。だがその変化の激しさは、まるで眼前に巨大な獣が突如現れたような威圧感を与えているだろう。
「ふッ!」
 短い声と共に、巨大な拳が忘我したままの相手に叩き込まれる。

 壁を形成していた数人の麻薬中毒者が文字通り宙を舞った。

 ――凄い。
 土竜。噂には聞いていたが麻美はこのとき初めて見た。
 突進しての拳撃。言ってしまえば単純ではあるが、あの質量があの速度でぶつかったのでは受けた方は一溜まりもあるまい。ほとんど鉄塊の直撃を受けるようなものだ。
 人間離れした妙技を目の当たりにして、麻美はしばし放心する。が、直ぐに大杉の後を追った。
 大杉の一撃で壁は崩れた。その向こうには、なにが起こったのか理解できていない者達が居た。数人の組員と麻薬中毒者。
 ――どれが頭だ。
 走りながら麻美は敵を選定する。おそらくは一番理性的な目をした者。
 一人の麻薬中毒者がなにか叫んでいる。指示を出しているのか。
 違う。意味不明な叫びでしかない。
「山沢さん、左から三番目の女です!」
 大杉が叫んだ。
 ――女?
 そう、女だ。これだけ麻薬中毒者がいるのに女は数えるほどしか居ないのだ。
 不自然さの答えはそれだ。
 麻美は大杉が示した女を見つけた。その目は理性を残している。
 ――あれが頭か!
 麻美の視線を受けて、女が他の麻薬中毒者の影に身を隠そうとする。
 周囲の麻薬中毒者が新たな壁を作ろうと動き始める。
「大杉さん、背中お借りします!」
 全て聞く前に大杉が察して背を屈める。麻美はその背に飛び乗って――。

 跳躍する。
 新たな人の壁を飛び越す。
 目測通りの位置に女が立っている。

 ――もらった!

 前方に一回転して遠心力を得る。
 麻美の踵が、まるで斧の様に。
 女へと振り下ろされた。

「せえええええいッ!」

 麻美の全体重の乗った鉄斧のような踵落としが、女の肩口を捕えて――。
 直撃する。
 骨の折れる、乾いた音が響いた。
 防御すら出来ず、女が地面に沈み込んだ。
 倒れた女が動かないことを確認して、麻美は周囲を見渡す。
 ――事務所は?
 入り口へと向かう。
 まだ二三人の麻薬中毒者が取り付いている。負傷した組員が、それでも事務所を守るように座り込んでいるのが見える。
 背後では命令系統を失った麻薬中毒者が再び乱戦を開始していた。大杉の咆哮が聞こえる。
 麻美の蹴りが数人を薙ぎ払う。最後の男を引きはがそうとしたとき。
「グヘェ!」
 その男が奇妙な呻き声をあげてこちらに吹き飛んできた。その顔面には厳つい棘の付いた鉄球が食い込み、陥没している。
「あらら〜〜また大当たり〜〜?」
「か、神原さん!?」
 鉄球を振るっているのは美しい女性だった。
 気の抜けた声、柔らかな物腰。それらと相反する、剣呑な得物。こんなアンバランスな人物は麻美の知る限り一人しかいない。
 地域管理組合真わかめ組団員、神原夕子その人である。
「あら〜〜、山沢さん〜〜?」
「無事ですか神原さん。他の人たちも――」
 十人にも満たない組員達は麻美の声に手を挙げて応えた。麻美と大杉の到着で勝機が見えたからだろう、皆憔悴しているが生気のある表情をしている。
「これだけの人数で――良く、無事で」
「んー、そろそろあぶなかったよ〜〜。私も、もーへろへろ〜〜」
 夕子はそう言って笑った。普段と変わらない笑顔に見えるが、さすがに疲労の色は見える。
 それを承けてか、倒れ込んでいた組員達も立ち上がり各々防戦を始めた。命令系統の定まらない麻薬中毒者ならばこの人数でも問題ないだろう。
「あーくんの留守は私達で守んなきゃって張り切ってたんだけどね〜〜。さすがにおおすぎ〜〜。でも逆に直接攻めて来られる人も限られるでしょ。だから一人ずつ、えいっ! って」
 夕子は鉄球を振りかざす真似をした。つまりは各個撃破で対応していたということである。
「みんなも頑張ったからね〜〜」
 夕子に褒められた組員達は一同に照れ臭そうな顔をした。
 ――この人も、凄い。
 同じ立場にあったなら、麻美にも同じ事が出来ただろうか。
 ――出来ない。
 無理だと思う。身体が動かなくなるまで独りで戦い続ける事は出来る。だが、他人を纏める事が自分に出来るとは思えない。
 監督官という立場にあってさえ、麻美は誰一人として説得出来なかった。
 ぐらり。
 麻美が揺れる。
 大杉に、夕子に、悪司に。そして渓奈に。
 なんだろう、この感情は。他者が皆、自分に無いものを持っている気がしてならない。
 ――否、そうでは無い。自分が何も持っていないのだ。麻美は端から諦めているのだから。
 ならば。
 ――羨望か。
 それとも。
 嫉妬か――。

「山沢さん、うしろ!」
 麻美の思考を夕子の言葉が遮る。
 とっさに前方へと跳ぶ。麻美の居た場所を蹴りが呻りを上げて通り過ぎた。
 麻美は、前へ出ようとする夕子を庇うように立つ。夕子はもう限界だ。
 ――この人は絶対守る。
 自分の内に湧いた浅ましい気持ちを打ち消すように、麻美は敵と対峙する。
 相手は、先程の女だった。
 あの渾身の技を喰らってなお、動ける女。
 ――あの薬だ。
 直撃した左肩はおそらく折れている筈だ。まるで上がらぬ左腕がそれを物語っている。
 本来ならば激痛で動くことも叶わないだろう。
 その目は麻美を見ていない。怒りも、憎しみも、あらゆる感情は鳴りを潜めている。
 ただ奇妙に冷静な、理性的な瞳。
「勝負はついたわ。た――投降しなさい」
 逮捕します、と言いかけて慌てて言葉を換えた。逮捕でも投降でも差違はないが、麻美は言葉を選んだ。自戒のようなものだ。
 当然の様に女は反応しない。麻美もそれは承知の上だった。もう、この女に言葉は通じないだろう。
「――よ」
 女が何か呟いた。
 意思疎通が可能なのかと麻美は訝しむ。
「これ以上の抵抗は無駄です。おとなしくしなさい」
 女が構わずに一歩進んだ。口元だけが僅かに動いている。
 ――無駄か。
 麻美のすぐ背後には組事務所の入り口がある。夕子達が守ったのだ。いまさら一人に辿り着かれたところでどうなる訳でもないが、麻美は死守するつもりだった。
 麻美が女に近寄る。女はすでに両の手をだらりと下げ、闘う意志を示していない。
 自ら砕いた左肩に触れるのは躊躇われた。相手の右肩に手を掛け動きを封じようとする。
 麻美と女の顔が近づく。
「わたしは――」
 女が呟いている。
「わたしは、えらばれたのよ」
「――え?」
 麻美の視界がぶれる。
 身体が左に跳ねた。見慣れた景色がくるりと周り、鈍い音が遅れて耳に届く。
 さらに遅れて痛みが津波のように押し寄せてくる。
 ――痛み?
 激痛が麻美の脇腹を貫いている。
 夕子が麻美に危険を知らせる声が聞こえた。
 認識する前に、本能的に麻美がその場から離れる。
 風切り音が麻美の居たところを通過する。女の蹴りだ。
 麻美がようやく立ち上がる。途端に身体の至る所に激痛が走った。
「痛ッ!」
 ――薬の効果が切れた?
 まるで麻酔が覚めていくように、身体に痛みの感覚が還ってくる。同時に心臓が跳ね上がり、呼吸が困難になる。
 ――こんなときにッ!
 意識が遠くなる様な痛みと、頭に霞がかかるような息苦しさ。さっきまでが嘘のように身体が重い。
「山沢さん!」
 誰の声だろう。気が付くと目前に蹴りが迫っていた。
 左腕で防御する。強烈な打撃に腕の骨が軋む。
 ――この女、強い。
 あの薬の所為か。いや、それ以前に武術の心得がある筈だ。他の麻薬中毒者達とは動きが違う。
 女が連続して蹴りを放つ。麻美は防ぎきれず何発か喰らう。
 その度、直接打撃を受けていない場所にも激痛が走る。
 全身に針で刺したような鋭い痛みが満ちる。
 私の身体に何が起こっているの。
 これでは、まるで。

 ――まるで棘のようだ。

 怖い。
 痛みが、闘いが。
 痛みというのはこれ程恐ろしいものだっただろうか。
 逃げ出したい。
 苦痛からも、恐怖からも。
 どうせ、何も出来はしないのだから。
 逃げて逃げて逃げて。
 でも。
 ――どこへ逃げるというの?

「山沢さん、右に低く!」
 大杉の声。麻美は無意識でその指示に従う。
 低く身体を落とした麻美の頭上を、女の回し蹴りが通過していく。
 女がバランスを崩した。
「このおおおおおおッ!!」
 立ち上がりさま。
 麻美の右脚が美しい弧を描く。
 節々が悲鳴を上げる。神経に直接針を刺したような痛みが全身で爆発する。
 ――動けえええええええッ!
 鈍い感触。
 自分の身体が地に倒れる音。
 しばしの無音。
 冷たい。雨に濡れいているから当然か。
 柔らかい指の感触がする。
「山沢さん! 大丈夫!?」
「神原――さん?」
 夕子が麻美を抱えている。
 麻美は自分が倒れ込んでいることに漸く気付いた。
「あの、女は?」
「ん〜〜大丈夫みたい〜〜。もう、動かないよ」
「そう――ですか」

 何に。
 何に選ばれたと言っていたのだろう。

 明日は我が身。
 そんな厭な予感が麻美を襲う。
 夕子に礼を言って立ち上がった。
「無理しない方がいいよ。何だか山沢さん、ぼろぼろ〜〜」
 思わず苦笑した。違いない。
 大杉がこちらに近寄ってくる。
「さすがは山沢さん。見事な回し蹴りでした。この大杉惚れ惚れいたしました!」
「そんな。大杉さんの指示が無ければ私は――」
 死んでいただろう。麻美はその事実を改めて噛み締めた。
 麻痺していた痛みと恐怖心が還ってくる。その急激な変化に麻美の身体は混乱していたのだ。
 麻美は拳を握りしめる。まだ何処かに潜んでいるのか。これで終わりとは思えない。
「大杉さん。ジャンキーさん達どうなりました〜〜?」
 夕子の声に麻美は漸く周囲の様子を見る。
「残った連中はなんとか追い返せた模様です。とりあえず深追いはするなと言っておきましたから、問題ないでしょう。やはりその女がなんらかの指示をしていた様ですな」
 三人は無言で少し離れた場所に横たわる女を見た。誰かが掛けたのか、男物の上着でその顔は見えない。
「蜘蛛の子散らすみたいに消えちゃったね〜〜」
「第二波が無いという保証はありません。一刻も早く体勢を整えなければなりませんが――。問題はこの後始末ですな」
 大杉の指摘した通り、組事務所周囲はいくつもの麻薬中毒者の屍が散乱している。
「せめてもう少し人手が――おお、連中帰ってきましたな」
 大杉の示した方から、組員達が走ってくる。しかし、勝利の余韻に浸っているような姿には見えなかった。
「――様子がおかしいですよ」
 数名の組員は転げるように麻美達の元へと辿り着いた。
「どうしたお前達」
「たっ、大変っスよ! 残ったジャンキー追っ払おうとしたら、む、む、むこうの角から――」
「いいから落ち着いて話さんか!」
「ああ〜〜。解っちゃった〜〜」
 夕子が声をあげる。麻美はその視線の先に――。

 新たな麻薬中毒者の群れを発見した。

「あ、あ、あれっス! 逃げ出した連中もあれに合流したっス!」
「これは――厄介なことに」
 大杉が唸った。無理もない。人数こそ先程に及ばないが、こちらは満身創痍の状態なのだ。
「んん〜〜、あーくんが帰ってくるまで保つかしら〜〜」
「保たせるしか無いでしょうな。鈍っていた身体にはちょうど良い鍛錬ですよ。山沢さん、夕子さまと事務所の守りをお願いできますか」
「私も前に出ます。一人も通さなければいい訳ですから」
 そう。逃げる道など残されてはいない。何も持っていない自分だからこそ、出来る事もあるかも知れない。
「――承知」
 奇妙な連帯感。残りの組員も無言で事務所の守りを固める。
 麻薬中毒者達が迫る。数メートルを開けて二つの集団が睨み合う。
 先頭にはまたしても女。やはり他の者より理知的に見える。
 ――さっきの女よりも手強いか。
 雰囲気で解る。かなりの手練れだ。
 いつの間にか雨は止んでいた。

「全員動くな!」

 凛とした声が周囲に響き渡る。
 麻薬中毒者の向こうから、新たな黒い一団が押し寄せてくる。
 ――なんだ?
 それに気付いた麻薬中毒者が暴れ出した。だが、黒衣の人影は見る見る間にそれを駆逐していく。
「あれは――市議会の制服ではないですか?」
 大杉が言った。確かに麻美がかつて身につけていた市議会の制服の様に見える。治安課職員では無かった。
 だが――。
 黒い。
 それは漆黒の制服だった。
 十数名の黒い市議会職員は圧倒的な強さで麻薬中毒者達を捕えていく。
 麻薬中毒者の女が指示を出している。が、歴然とした力の差の前に意味は無かった。
 その女に一人の市議会職員が歩み寄る。
 女は取り乱しもせず、無言でその職員に襲いかかった。
 次の瞬間。
 女は吹き飛んでいた。
 ぶつかったコンクリート塀が粉々に砕ける。砕けた塀がまるで墓標の様に見えた。
「あの女、いま――何をした?」
 大杉は唖然とした声をあげた。
「え? なに? あの人いま何かしたの?」
 夕子は何が起こったのか理解出来ていない。
 麻美は。
 震えていた。
「川瀬さん――」
「えっ、ええ〜〜! 山沢さんの知り合い?」

 漆黒の女はゆっくりと顔を上げる。
 肩まで届く黒髪。意志の強さを物語るような眉と、力強い瞳。
 しなやかさと強靭さの同居する体躯。
 そのまま、麻美を視る。
 ああ――。
 茶番劇だ。
 こんな不様な茶番劇が、一体いつまで続くのだろう。
 漆黒の女が近づいてくる。
 麻美達はまるで惚けたようにそれを見守った。
「地域管理組合真わかめ組だな」
 凛とした声。
 昔のままの。
 この口調を耳にする度、麻美は呼吸することさえ憚られるような、そんな気分になる。
 漆黒の女は懐から半紙を取り出して広げ、高々と掲げた。

「麻薬取り扱いの容疑で、立ち入り捜査を行う」

 漆黒の女――川瀬渓奈はそう宣言した。




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 第二十九次中間報告

(他項の所在は不明)

 ――かねてよりの有力候補体であるヤマザワ・アサミとの接触、及び投薬に成功。
 これより当個体を被検体第七十八号と認定する。
 適応力極めて高し。投薬後の肉体的、精神的変化にも初期拒否反応は見られず。
 素体としての完成度も非常に高い。
 確保は適わなかった為、以後の耐性検査は引き続き監視を必要とする。

 また、当被検体が所属する民間組織に非適応体を中心とするグループを誘導し、消耗実験を行う。
 痛覚及び思考麻痺による暴力性の増加は見られるも、身体的能力の増加は必要規定値を大きく下回る。
 唯一、命令実行の優先度は期待値を上回るが、改良の余地は残されている。
 この段階の結論として、陽動以外での使用は疑問視せざるを得ない。
 しかし、司令塔として数名混入していた適応体に関しては予想値程度の結果を残した。
 (実験の詳細なデータに関しては別紙を参照のこと)

 上記実験中のイレギュラーな事態の発生により、当初予定していた当該施設の占拠は失敗。
 それにより、オリジナルの所在確認、確保も未だならず。
 引き続き、適応体及びオリジナルの確保を続ける。


 前回のリスト作成後、新たに耐性が確認された適応体一覧

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(インクで塗りつぶされ判読不能)

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以下次話