大悪司



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第十四話
  棘 −麻美−
「若、こちらです」
 数人の組員を引き連れた悪司の姿を見て取ると、島本は声をかけた。
「おう」
 悪司は憮然とした表情のまま言葉を返し、辺りを見渡す。
 ナンコウ、その倉庫街の一角。
 倉庫間を縫うようなその細い通路には幾人もの男達が集まり、まるで戦前のナンコウを思わせた。
 周囲を組員によって固められたその場所で、島本は青いビニール包みの横に立っていた。
「――で、どうだ?」
 悪司が尋ねる。その表情に変化はない。
「確認が取れました。やはり、若が仰っていた内の一人です。三日程前から組には顔を出していないようですね」
「もう一人は?」
「そちらも同じです。捜させてはいますが、足取りはまだ――」
 島本の話を聞きながら、悪司が顎を動かして指示をした。組員の一人がそれを受けてビニールを剥がす。
 横たえられた男の死体が露わになった。
「首を捻り折られています。まだ詳しく調べていませんが、これが死因で間違いないでしょう。殺害現場の特定も出来ていませんから犯人が単独なのか複数なのかも判じかねますが」
 ふん、と悪司が鼻を鳴らした。
「随分と洒落た衣装じゃねーか。嬢ちゃんの話といい、最近はこんなのが流行ってんのか?」
「殺害した後に施したようですね。あと、こんなものが」
 島本が紙を差し出した。
「これを口にくわえさせて、そこの壁に埋め込まれていました」
 島本が背後の壁を示す。
 古い、煉瓦造りの倉庫である。
 その煉瓦の壁。
 そこに棺桶の様な形に穴が穿たれていた。
「穴は拳で穿たれたと思われます。強引にねじ込んだ様で、引き出すのに少々苦労しました。六人掛かりで先程ようやく」
「ミイラにゃ棺桶ってか。律儀なこった」
「我々への挑発――でしょう」
 悪司は紙切れと死体を交互に眺める。
 ――なるほどな。
 聞き取れぬほどの声で悪司が呟いた。
 その憮然とした表情の中、瞳に僅かな変化があったのを島本は見逃さない。
「――島本。残りのもう一人、ぜってー見つけ出せ。最優先だ」
「解りました」
 すみやかに、島本が部下に指示を始める。
 悪司は横たわる男の棺となった壁を見上げて――そのまま空へと視線を移した。
 立ち並ぶ倉庫に阻まれて、曇り淀んだ秋の空が細く、小さく見える。
 普段にも増して、その空は黒みを帯びていた。
 ――ひと雨来やがるか。
 悪司は少しだけ目を細めてその黒雲を眺める。
「どうにもキナ臭くなってきやがった。――気に入らねぇ」
 秋の風が、死体を包む包帯を揺らして去っていった。


第六話


 その痛みが、自らの妄想がもたらした偽りの感覚では無いと理解する前に、麻美は弾け飛ぶようにその女――看護婦から離れた。
 考えるより先に体が動いたのは、一重に日頃の鍛錬と――あの忌まわしい記憶の賜物だった。
「くッ」
 体勢を立て直す。
 看護婦はまだ先程と変わらぬ位置、変わらぬ姿勢で麻美を見ていた。その手に細長い筒が見える。注射器だ。
 麻美は体重を乗せるようにして一歩踏み込むと、看護婦の腰部に向けて右回し蹴りを放った。
 低く鈍い音と共に、肉を打つ感触が脛に伝わる。加減はしない。
 だが――。
 看護婦は麻美の蹴りをまともに受けているのも関わらず、倒れることはおろか呻き声の一つも出さなかった。
「なっ!」
 麻美の脚が動かない。看護婦が体で受けた蹴りをそのまま左腕で絡め取っているのだ。
「――これはなかなか。でも、これで終わりではないのでしょう?」
 そのまま右手に持った注射器を麻美の脚に突き立てた。
「さあ拝見しましょう。貴女の実力を、ね」
 ずぶずぶと、薬品が体に注がれる感触。
 刹那。
 厭な顔が頭に浮かんだ。
 包帯の間から睨め付けるような、あの視線。
 ――私に付き纏うな!
「このおッ!」
 右足を取られた不安定な姿勢のまま、麻美は看護婦の顔面めがけて右正拳突きを仕掛けた。看護婦は両腕が塞がっている。こちらも腰の入らない不安定な状態だが、この距離では外さない。
 だが。
 拳が看護婦の顔面に届く寸前。
 麻美は衝撃と共に背後の壁へと叩きつけられた。
「かはッ」
 強かに背を打ち、呼吸が止まる。咄嗟に顎を引かなければ危うく後頭部を強打している。
「有利な状況にあると思いましたか。詰めが甘いですね」
 看護婦はそう言いながら注射器を投げ捨てた。ガラスの割れる甲高い音が病室に響いた。
 麻美はなにが起こったのか理解出来なかった。ただ拳が届く寸前に看護婦の体が一瞬沈み込みこんだことは判った。
 その直後の、衝撃。
 ――肩。体当たり?
 麻美は朧気に理解した。看護婦は麻美の腕が伸びきった瞬間を狙い、姿勢を低くして一歩間合いを詰め、肩口から背中――所謂「靠」と呼ばれる部分で体当たりをしてきたのである。つまり、殆ど密着に近いあの状況から麻美は数メートル吹き飛ばされたのだ。
 ――手強い。
 異国の――大陸の武術か。ニホンの武術ではあまり用いられないものだ。
 麻美は呼吸と姿勢を整える。
 至近距離では不利だ。麻美が蹴りを主軸とする以上、組み付いての攻防は向こうに分がある。
 とはいえ、ここは狭い病室である。ならば距離を取りつつ有利な位置関係を維持するべきだ。
 麻美はそう判断した。周囲の状況を確認する為に、一瞬相手から目を離す。
 その瞬間。
 目の前に看護婦の姿が迫った。
 一足飛びの跳躍で数メートルの間合いを一気に詰めてきたのだ。
 突き出された右拳が、的確に麻美の鳩尾へと向かってくる。
 麻美は体を捻り急所への一撃を避けたが、拳は左肋骨をかすめる。
 全体重と突進力の組み合わさった拳はさながら鉄球の様だった。かすめただけの肋骨が悲鳴を上げた。
 強烈な痛みが襲う。その激痛に耐えたまま、麻美は左腕で抱えるように相手の腕を取った。そのまま引き寄せ相手の頭部を右腕で押さえ込む。
 そして右膝を看護婦の腹部に突き立てた。
 肉が肉を打つ鈍い音を立てて、看護婦の体が麻美の腕の内で跳ね上がった。そのまま膝蹴りの威力を殺させまいと、上半身を使って跳ね上がる体を押さえ込む。
 二度、三度。
 麻美の膝は容赦なく看護婦の胴を撃つ。
 五度目の膝を打ち上げた時、看護婦の左腕が麻美の右膝を掴んだ。そのまま強靭な力で締め付ける。
 ――なんて力。
 それは、もはや女性のものとは思えない力だった。麻美の足は微動だにしない。
 ――それなら。
 麻美は相手の後頭部に対し肘打ちを狙おうと、体を起こし右腕を振り上げる。
 看護婦が短く息を吐く音が聞こえた。
 同時に。
 そのままの姿勢で、看護婦の右脚が轟音をあげて病室の床を踏み込む。床のタイルが割れる音が聞こえるより速く――ナースキャップ越しに看護婦の頭部が麻美の胴体を打ち上げた。
 今度は麻美の胸部に衝撃が走る。無意識に体を衝撃の逆へと反らすが、右膝を固められている分動きが固定される。
 頭突きの反動で看護婦の体勢が崩れた。腕が緩み、ようやく麻美の脚が自由になった。
 後ろに倒れ込むのをなんとか堪え、姿勢を整える。
 二人は再び距離を取った。
 麻美は病室の窓を背に、看護婦は入り口を背に再び対峙する。
 廊下は薄暗い。開け放たれた扉の前に立つ看護婦は、まるで暗いカンヴァスに描かれた絵画の様に見えた。
 麻美の荒い息が病室に響く。
 胸を押さえると激痛が走る。咄嗟の判断が功を奏したのか、辛うじて骨は砕けていないようだった。
 だが、対する相手は呼吸さえ殆ど乱さず、腹部の痛みに耐えている様子もない。
「――なるほど。素質は十分、ということね」
 看護婦が不敵な笑みを浮かべた。
 ――効いていない?
 愕然とした。
 麻美は蹴り技には絶対の自信がある。先程の渾身の膝は確実に看護婦の腹部を捉えていた。
 容赦は一切していない。
 そんな事をすれば死ぬのは麻美である。
 例えそれがどんな状況、どんな相手であろうとも、対峙した以上は一切の迷いを捨てると心に決めている。
 だが。
 目の前の状況が、現実を麻美に突きつける。
 やはり麻美自身が思う程に、この体は回復していないのか。
 それとも。
 床に散らばった注射器の残骸を見る。
 ――何を打たれた?
 意識ははっきりしている。吐き気や頭痛もない。
 精神は高揚しているが、それが薬物に因るものなのか格闘に因るものなのか麻美には判断できない。
 即効性の毒薬や弛緩剤の類では無いようだが、遅効性のものなら終わりである。
 あるいは、それ以外の薬品。
 ――まさか。
 厭な考えが浮かんだ。首筋に手を当てる。
「心配しなくても――」
 看護婦が麻美の心を見透かしたように口を開いた。
「すぐに死ぬようなものではありませんよ。安心して下さい」
 麻美が唇を噛む。
「何者だ」
「看護婦ですよ――見ての通りの、ね」
「巫山戯ないで。目的はなに?」
 看護婦は、麻美の問いには答えず口元だけで嗤った。
「さて、貴女が合格すれば教えてあげましょうか――」
 そう言うと、音もなく背後の闇へと消える。
「待て!」
 麻美はベッドの上の死体と、床に残された硝子の破片に一瞬目を遣って――看護婦の後を追った。


 廊下は先程よりも暗かった。
 窓から差し込む光量が減っている。オオサカの上空、常に陽光を遮る雲の幕が、明らかにその厚さを増しているのが判った。
 黒く、まるで墨を零したような雲が垂れ籠む。雨が近いのか。
 漆黒の院内で、麻美は白い影を求めて奔走していた。
 見つけたと思えば消える。
 見失えばまた現れ、常に一定の距離を取るかのように麻美を翻弄する。その繰り返しだった。
 麻美が冷静だったならば、その誘うような動きに気付いただろう。
 だが、麻美は冷静さを欠いていた。
 一人の男の死体が、得体の知れぬ薬物が、麻美から正常な判断力を奪っていた。
 人気の無い、まるで作り物めいた漆黒の世界を麻美は駆け抜ける。
 白い影は現れ、そして消えた。
 私は追っているのか――それとも逃げているのか。
 影と闇との境で、麻美にはその事実さえ曖昧に思えてくる。
 もし、逃げているのなら。

 まるでいつかの私だ――。

 麻美の内の何処かで声がした。

 あの時もそうだった。私憤を公憤と履き違えて――。
 大人しく寝ていれば良いものを。何も出来はしないのに――。
 挙げ句の果ての犯罪者扱い。そんなものがお前の望みだったのか――?

 ――違う。

 ではなぜ大人しくしていなかった。
 すでに十分な失態を演じておいて。

 正義か?

 それは本当に正義感だったのか?
 監督官としての、義務だったと?

 笑わせる――。

 お前は恨んでいたんだ。
 あの男を、麻薬を。
 だから病院から抜け出した。

 私怨を晴らす為に。

 ――違う。

 違わない。

 お前は恨んでいた。
 お前は憎んでいた。
 殺したいほどに。

 逮捕だと――。

 お前にそんな資格があったのか?
 お前のせいで何人の人間が麻薬の犠牲になった?
 さっきの哀れな男を見ただろう?
 あれは、誰のせいだ?

 お前のせいだ。

 ――私の。

 あの時の油断が、慢心が――全ての原因だ。
 認めろ。現実を、自分の弱さを。
 私は、負けたのだ。

 あの男に、自分に。

 そして麻薬に。

「違うッ!」
 無意識に叫ぶと同時に麻美の拳が病室の扉に叩きつけられた。
 扉は吹き飛び、硝子の割れる甲高い音が聞こえた。
 無音の院内にその音が響き渡る。
 それを切っ掛けにして、麻美は現実を取り戻した。
 周囲を見る。どうやら一階まで降りているようだった。廊下の窓の外は病院の中庭である。
 どれだけ走ったのか良く憶えていない。病院中を駆け巡った筈なのに、息は殆ど乱れていなかった。
 深呼吸をする。震える両の手で頬を叩き、雑念を追い払う。
「――よし」
 意識はかろうじて覚醒した。
 以前に麻薬を打たれたときは、意識が混濁したような状態だった。ならば先程の薬物は麻薬では無いのかと少し安堵する。もっとも、麻美は他の麻薬がどんなものかを識らないのだが。
 ――気休めにもならない。
 だが、自分が普通の状態では無いということは理解できた。
 麻薬でなければ、この高揚感は何だ。この興奮は、よもや性的なそれではあるまい。
 苛々する。
 心がささくれ立つ。
 過去の厭な記憶ばかりが頭に浮かぶ。
 ――落ち着かない。
 何もかも――壊したくなるような。
 麻美は自分の右拳から血が流れていることに気が付いた。扉に叩きつけた際、硝子片で切った様だった。
「いつの間に――」
 気が付かなかった。まるで痛みを感じなかったからだ。
 格闘等に因る極度の緊張と興奮を感じたとき、人体は痛みを和らげる機能を持っている。だが、確かに精神が高揚しているとはいえ、先程の格闘からはだいぶ時間が経っているのではなかったか。
 すでに出血が収まっているのを確認すると、麻美は拳をそのままにした。いまはそれすらも煩わしい。
 ――と、視界の端に白い人影が写った。
 麻美の前方に、音もなく看護婦が姿を見せた。
 無感動に麻美はその人影を見る。
 追いつかれたのか――不意にそんな虚妄が頭に浮かぶ。
 ――しっかりしなさい、麻美。
 だが、すぐさまそれを頭から追い払い、注意深く相対する者を観察する。
 看護婦は先程と同じように麻美を見ていた。値踏みするような視線を感じるが、その表情は半ば暗闇に融けて窺うことが出来ない。
 両者はそのまま、微動だにせず対峙した。
 短い沈黙が流れる。
 ――なんだというの。
 麻美は次第に激昂する自分を抑えられなくなっていた。
 ふつふつと苛立ちが湧き上がる。
 相手からは殺気も威圧感も感じない。が、それが逆に麻美の神経を逆撫でする。
 良いように翻弄されたという思いも、怒りを増長させる一因となっていた。
 そして、いまの自分が致命的なまでに冷静さを欠いていることに――麻美は気付いていなかった。
 苛立ちが臨界を超える。

 麻美が駆けた。

 暗闇の中、一気に距離を詰める。
 相手まで僅かの位置に、ほんの一瞬で滑り込む様に身を躍らせる。間近に寄っても看護婦の顔は影になって見えない。
 右脚が呻りを上げ、左脚を軸に弧を描いた。上半身を蹴りとは逆の方向に捻り姿勢を制御する。
 突進の推力を脚に乗せる。狙うのは、相手の頭部。
 相手の腕が緩慢な動作で防御をするのが見えた。間に合うものか。

 右脚で衝撃が爆ぜる。

 看護婦が吹き飛ぶ。そのまま壁に激突し、轟音と共に看護婦の体を中心に亀裂が入る。
 打撃と逆の方向に反動が来る。体全体がそちらに跳ねるのを無理矢理に止める。
 再び駆ける。
 蹴りを受けて数メートル離れた看護婦は、壁に寄りかかるようにして立っている。
 ――これで決めるッ!
 二度目の蹴りが、相手の脇腹を捉える。
 次の瞬間。
 麻美の視界が回転する。
 放物線を描いて、麻美の体が宙を舞った。
 そのまま床に落ちる。辛うじて頭部を守るが、背を打ち呼吸が止まった。
 ――え。
 一瞬放心する。が、麻美の顔めがけて足が振り下ろされ、紙一重でそれを避ける。
 すぐに立ち上がり姿勢を戻すと、麻美はまた相手に挑み掛かった。
「このおッ」
 冷静さを欠いているのだ。
 掴みかかろうと襟に手を伸ばすが、指先が看護婦の体に触る前に、麻美は大きく宙を舞った。その度堅い床に叩き付けられる。
 何度目かの床の洗礼を受けて、麻美は漸く考えるだけの冷静さを取り戻した。
 相手の動きが先程とは違う。
 麻美の動きに合わせて流れるように力を削ぎ、完全に利用している。これは――。
 ――合気か。
 ニホンの武術、合気である。
 よく見れば先程の看護婦とは体型がやや異なっている。では、目の前の女は別人か。
 ――拙い。
 麻美は相手に悟られぬよう距離を取った。
 同時に背後にも気を配る。敵が複数であるのなら、この細長い廊下などは挟み撃ちには絶好である。
 迂闊だった。激昂に身を任せ、無闇に突進しては勝ち目のある戦いでも勝てはしない。
 ゆっくりと後退する。幸い背後に気配は無い。
 対する看護婦はにじり寄るように距離を詰めるのみである。麻美の思惑に気付いているのかどうかは解らない。
 ――どちらにしても、奇妙ね。
 合気の、それもこれ程の手練れなら、先程の攻撃を受け止め関節を極める位は容易いことだ。冷静な状態なら兎も角、先程の麻美に対抗は出来なかっただろう。
 弄んでいるのか。
 いや――。
 試しているのか?

 ――貴女が合格すれば教えてあげましょうか。

 あれはどういう意味だ。
 いま、なにが起こっている?
 一定の距離を保って後退を続ける。
 廊下から、広い場所に出た。
 そこには見覚えがあった。正面ロビーである。
 ――どうする。
 麻美は逡巡する。
 好機ではある。この看護婦を振り切って屋外へと逃れば、少なくとも閉鎖空間で複数を相手にする可能性は無くなるからだ。もちろん外での待ち伏せも十分考えられるし、その場合さらに多勢を相手にするかもしれない。
 それでも、これ程の手練れを複数、しかも狭い室内で相手にするよりは生き延びる可能性は高いだろう。
 だが――。
 麻美は看護婦を睨んだ。
 彼女達の目的はなんだ。麻美を此処へと誘き出した理由は。
 ――聞き出さなければ。
 体を確かめる。あれほど床に叩き付けられたのに、ダメージは殆ど残って無かった。痛みを感じない。
 もはや、不思議を通り越して不気味だった。
 自分の体に何が起こっているのか、麻美には想像すら出来ない。だがこの状態であれば、単独の相手なら捕えられるかもしれない。
 相手に増援が来るまでが勝負だ。
 麻美は後退を止め、攻撃する隙を窺う。看護婦も歩みを止め、再び両者の間に張りつめた空気が漂う。
「そこまで冷静さを保っているのですか。たいしたものですね」
 唐突に背後から声を掛けられ、麻美はビクリと体を震わせた。
 声に聞き覚えがある。
 前方に注意を向けたまま背後を確認する。
 ロビーの入り口を塞ぐ様に、もう一人の看護婦が立っていた。
「そんな、いつの間に――」
 まるで気配を感じなかった。
「――適応力も申し分無し。これだけ僅かな時間で順応した例は他にないわ」
 前方の看護婦が初めて口を開いた。もう一人に向けたのだろう。
「そう。なら後は耐性だけね――」
 何を。
 ――こいつらは、何を言っている?
 麻美の額を汗が流れる。言い様のない不安感が彼女を包んだ。気付かない間に、得体の知れない獣に囲まれたような。
「とりあえず良かったですね、山沢麻美さん。貴女には合っていた様です」
「なっ!」
 麻美は困惑する。意味が解らない。
「ただ、残念ながらまだ合格とはいえない。貴女にはしばらく耐えて貰います」
「――莫迦げたことを。なにが合格だ」
 麻美の言葉に、入り口に立つ看護婦が声を出さずに嗤った。
「そう、莫迦げたことですよ。その為に、わざわざこんな三文芝居まで演じているのだから」
 看護婦は自分の扮装を、そして無人のロビーを指さした。
「でも、その三文芝居の主役は他ならない貴女なんですよ。どうですか、貴女の為にあつらえられた茶番劇の感想は」
「どういう、意味だ」
「貴女は見た筈です。かつて貴女が犯した過ちの結果を」
 横たわる男。
 捻れた、首。
 思い出すと、再び心がささくれ立つ。
 胸が焼け付くように熱い。気分が悪くなる。
「私を誘き出す為に、それだけの為に殺したのか?」
「よほど麻薬が欲しかったんでしょうね。ボロボロの体で貴女に手紙を届けに行ってくれました」
「――このッ」
 麻美は入り口に立つ看護婦に向き直った。
 またあの激昂が首をもたげるのが自分でも解る。
「気に病んでいるんですか。でも――それならば彼の事で私に憤るのは筋違いでしょう」
 嘲笑うような口調になった。
 その、故意に挑発するような様子に麻美は気付かない。
 そもそも、と看護婦は語気を強める。
「『あの男』がどれ程の数の麻薬患者を生み出したか、考えたことがありますか?」
「それは――」
 ――きり。
「では、どれだけの人間が麻薬欲しさに道を外したかは?」
「う――」
 ずきり。
「それは、いったい誰の責任です?」
「だれ、の」
 私の。

「貴女の責任ですよ。山沢麻美さん」

 その言葉は文字通り棘だった。
 内と外の棘が麻美の心を傷つけていく。
 ――違う。
 その言葉を否定せんと、麻美の心が黒く染まる。
 ――黙らせろ。
 誰かがそう言った。
 いや。
 それは麻美自身の声なのか。
 麻美の体躯に緊張がみなぎる。
 その目に、殺意にも似た感情が宿るのを見て、看護婦は満足気な笑みを浮かべた。

「待てええええええええええええい!!」

 静寂を銅鑼声が破った。
 その声で、麻美はまるで毒気が抜かれるように激昂から脱する。
「聞いておれば勝手な御託を並べおって。貴様等の身柄は地域管理組合真わかめ組が預かる! 神妙に縛につけい!!」
「お――大杉さん」
 麻美達とは逆の方向、ロビーの反対側から大杉がその姿を現した。そのままドシリドシリと歩み寄ってくる。
「貴様等、どこの組織の者だ。何を企んでいる?」
 看護婦は大杉の恫喝にもまるで怯んだ様子もなく、ただ視線を向けただけだった。
「これは大杉剛さん――でしたか。先刻は失礼しました。残念ながら、私達が用のあるのはこの山沢さんだけです――貴方には別の者を用意しておいたはずですが?」
 ふん、と大杉は鼻を鳴らして息巻いた。
「あの程度の小者でなにが出来る」
「やはり足止めにもなりませんか――まあ、承知の上でしたが」
「逃げ足だけは一人前だったがな」
 看護婦は忍び漏らすように笑う。合気使いの看護婦は先程から黙したままである。
「貴方程の実力者が同行とは予想外だったもので、至らぬ持て成しは御容赦を。といっても、こちらも一応の目的は果たしたので、今回は痛み分けというところですが」
「どういう意味だ」
「山沢さんに聞いてご覧なさい」
 それを聞いて大杉が麻美の顔に視線を向けた。二人の視線が交叉する。
「山沢さん、お怪我は」
「大丈夫、です」
 麻美は、なにか自分が酷く惨めな気分がして、短く答えると大杉から視線を逸らした。
「さて――」
 再び看護婦が口を開いた。
「ようやく役者が揃った事ですし、この茶番劇も一応の幕と致しますか」
「お前達がお縄になって、一件落着ということだな」
 大杉がさらに距離を詰めようとする。
「それは構いませんが――あまり時間はありませんよ」
 その奇妙な語調に、大杉が動きを止める。
「まだ何かあるというの?」
 麻美が半ば辟易として尋ねた。
「あなた達の組織の本拠地は――ミドリガオカでしたね。今頃は多数の来訪者で溢れんばかりになっていますよ。早く戻って加勢しないと」
「――なッ!」
 麻美と大杉が同時に叫んだ。
「どういう事だ! 貴様、真わかめ組事務所になにをした!」
 麻薬ですよ、と看護婦は事無げに言った。
「あなた達もご存じの通り、いまオオサカには麻薬患者が掃いて捨てるほど――と、まではいかないにしても大勢います。その連中に有益な情報を与えてやったのです。ミドリガオカの真わかめ組事務所には麻薬がある、とね」
 笑止――今度は大杉が嘲笑った。
「片腹痛いわ。それぐらいの事はいままで何度もあった。その程度の事で真わかめ組を潰せると思っているのか。しかも今なら若がおられる。麻薬などに毒された軟弱者など若お一人で蹴散らすわ」
 確かに、過去何度か麻薬中毒者による事務所の襲撃はあった。だが身体能力の著しく低下した麻薬中毒者が何人集まろうと、所詮は烏合の衆に過ぎない。その程度では脅威には成り得ないのだ。
「残念ながら、先程山本悪司氏は数人の部下を連れて外出した模様ですよ。あと、それより前に島本純氏も部下を引き連れてナンコウに向かった筈です。あと、どれぐらいの戦力がミドリガオカには残っていますか?」
「な、なんだと!!」
 大杉が絶句する。現在、真わかめ組の戦力はその殆どが宗教組織との抗争に割かれているのだ。
「それに麻薬といっても色々でしょう。『あの男』が持ち込んだような物ばかりとは限らないでしょうねえ。――山沢さんなら、これがどういう事なのか解ってもらえると思いますが」
「――な、に」
 麻美の息が詰まる。
 薬。
 割れた注射器。
 異常な興奮と、みなぎる力。
 ――まさか。
「まさか、その麻薬中毒者というのは」
 麻美の声が震える。
 看護婦は満面の笑みを浮かべた。
「そう、貴女に与えた薬と同じものですよ」
 外から、降雨を告げる音が聞こえ始めた。


以下次話