大悪司



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  棘 −麻美−
第五話


 暫くの間、麻美と大杉の間に会話らしい会話は無かった。麻美が言葉を迷ったのか大杉が気を遣ったのか、どちらにしても奇妙な沈黙が二人の間に流れたのは確かである。
 そもそも麻美は口数が多い質の人間では無い。適当な話題でも見つけて世間話の一つも出来れば良いが、麻美は生来その手の機微には疎い。加えて、例え運良く話題があっても、まずその話題が相手にとって興味が有るものかどうかを考えてしまうのだ。結果、言葉が口を出る前に自ら口を噤むことになる。
 有り体にいえば間が持たないのである。
 結局、二人は道中の半分以上を黙り込んだまま、目的地へと辿り着いた。


 サカイ、天才病院。
 麻美はその白い建物を見上げた。
 傲慢な名である。麻美はこの医院を目にする度いつもそう思う。
 まず、天才という言葉を以て病院の名としていることの意味が麻美には解らない。
 医師が天才なのか、その他の職員を含めたすべての人間が天才なのか、設備を天才が考案したのか。
 自信を誇示する為なのか、自負の現れなのか。
 ――それとも患者が皆天才なのか。
 麻美は悪司がこの病院の治療を受けた事が有ったのを思い出して、最後の可能性は忘れることにした。

「病院、ですか」
 医院を見上げて無為な思考をしていた麻美の横で、大杉が唸るような声を出した。意外だったのだろう。
 先刻、大杉は悪司に呼びつけられるなり、まともな説明も無いまま麻美の供を命ぜられたのだった。麻美は悪司にすら行き先を告げてはおらず、ならば大杉がそれを知る由もないのである。
「山沢さん、どこか具合でも? 怪我をされた様にも見えませんが――」
 麻美がなにかしらの治療の為に訪れたと思ったのか、大杉が気遣うように言った。この男、常態が無骨であるからか、僅かに表情が変わるだけでも随分と受ける印象が変わるのである。
 ここに至って、麻美は自分が大杉に何の説明もしていないことに気付いた。
「ち、違います。私の治療じゃありません。強いて言うならお見舞いですが――」
「はあ――強いて、ですか」
 大杉は安堵と困惑が綯い交ぜになったような表情を浮かべた。確かに半ば日陰者の麻美が白昼堂々と病院へ見舞いに行くのも妙な話ではある。
 しかも、強いて言うならとはどういう意味なのか。
「こちらにお知り合いでも?」
「ええ。でも――知り合い、といっても数回顔を合わせた程度なんですが」
 はあ、と大杉は再度力無く相づちを打った。確かに数度会っただけの人間を見舞う者もそうはいまい。
 麻美は苦笑すると、無骨で人の良いこの同伴者にどう説明したものかと考え始めた。


 三日前。
 麻美が渓奈と数ヶ月ぶりの再会を果たし、自らの周囲に再び麻薬の影があることを知った日。
 麻美は大いに煩悶していた。
 流入している麻薬に対する真わかめ組の方針が決定した為である。
 麻美は、組が大々的な捜査を行うことの危険性を十分理解はしてはいた。
 だが、それならば現状を放置しておくことの危険もまた有ると思っていた。確かに市議会に――否、川瀬監督官につけ込まれる隙を見せることはできないだろう。だが、かといって現実問題としての麻薬を放置すれば、いずれ真わかめ組に嫌疑の目が向けられるのは時間の問題ではないのか。
 この場合、なにも手を打たないという選択肢は無いように思えた。
 しかし、当の悪司はただ鷹揚に一言、
「様子を見る」
 と普段と何ら変わらぬ様子で言ったのだそうだ。
 組の決定を聞いたとき、麻美は呆れることすら忘れてしまった。
 悪司はなにを考えているのか。
 それが麻美にはまるで解らない。
 ――あの人は危機管理という言葉を知っているのか!
 麻美は憤慨し、
 ――知っているはずがないか。
 そして消沈した。
 愚問である。
 おそらく胸を張って知らぬと言うだろう。
 だが――所詮麻美は真わかめ組の一構成員に過ぎない。組織に属している以上、軽はずみに独断専行はできないのだ。そう自分に言い聞かせ、組の決定には従おうと決めた。
 しかし、頭で解ってはいても心がそれに従わない。
 妥協という名の諦観と、焦燥を伴った苛立ちの板挟みになって。
 結果、麻美は大いに煩悶することとなったのである。

 居ても立ってもいられないとはこういう状態を指すのだろう。
 何かせねばならないと焦り、ならば何をすれば良いかと狼狽する。
 結局なにも出来ないまま時間だけが過ぎて、麻美は半ば鬱ぎ込むように自室に戻った。


 独りになると余計に鬱いだ。
 ――川瀬さん。
 なぜ、嘘を吐いたのだろう。麻美はそのことばかり考える。
 何故か、それが気にかかる。
 ――そんなこと、解ってるじゃない。
 現在の麻美は市議会監督官では――渓奈の同僚ではないのだ。
 否、それどころか立場上で言えば麻美と渓奈は追う者と追われる者である。ならば嘘も蜂の頭も無い。悪司の言ったようにカマをかける為の嘘だったのだろう。
 すでに二人は敵同士なのだ。
 使える手段は全て使うと、渓奈を指して表現したのは麻美自身である。ならば嘘の一つや二つがなんだというのか。
 しかし麻美はどうにも納得がいかなかった。
 否、納得というよりも――。
 違和感。
 麻美の知っている渓奈と、今日会った渓奈には、なにかしらの齟齬が在るような気がしてならない。
 ――怒っていたから?
 麻美は今日の渓奈を思い出す。
 数ヶ月ぶりの再会は最悪だった。
 紆余曲折を経たとはいえ、現在の麻美は決して人に誇れるような立場ではないし、ならば目をかけてくれた渓奈にすれば忸怩たる思いだったのかも知れない。
 しかし。
「もちろん――怒ってはいたのだろうけど」
 声に出す。
 それは、当然怒ってはいたのだろう。
 怒り、落胆し、憐れんではいたのだろうけども。
 ――なんだろう。
 解らない。違和感の理由が。
 それとも、嘘を吐かれたこと自体がショックだったから、こんなに気になるのだろうか。
 ――嘘か。
 疑問はやはりそこに戻った。
 悪司の言い分を信用するならば、渓奈が麻美に語った素敵医師の目撃情報は文字通り騙りである。
 問題は、そんな嘘を吐いても得られるものは殆ど無いということだ。
 仮に渓奈が麻薬の流通を知っていた上で真わかめ組に嫌疑を持ったとしても、現状では何の証拠も無いのである。確かに揺さぶりにはなるだろうが、それは逆に相手に警戒を抱かせる事にもなる。現に真わかめ組は渓奈を警戒して表だった動きをしていない。それに、わざわざ捜査を宣言するようなことは相手に証拠隠滅の時間を与えるだけなのだ。
 渓奈がなんの算段も無しにそんな愚行を冒すとは思えない。
 あるいは、まだその裏に――罠が。
 麻美はそこで溜息をついた。
「これではいくら考えても無駄ね」
 麻美には渓奈の真意がまるで解らない。
「嘘を吐く理由――か」
 ――いや。
 そもそも、本当に嘘なのか。
 素敵医師逮捕の顛末。麻美は悪司が語ったその話を無条件に信用している自分に気が付いた。
 山本悪司。
 麻美にとっては雇い主であり、麻薬中毒から麻美を救った恩人――甚だ不本意ではあるが――である。
 しかし、果たしてあの男の全てを信用できるのだろうか。
 麻美を上手く操るために、都合の良い真実を騙っている可能性が無いと――断言できるのか。

 ――駄目だ。

 麻美は考えることを止めた。
 これ以上は、疑心暗鬼に陥るだけである。
「情報がなければ、これ以上なにも判断出来ないわ」
 素敵医師逮捕の真実。
 まずは、それを知ることだ。
 真わかめ組の構成員からでは駄目だ。悪司の息がかかった人間以外でなければ。
 ――よし。
 そして漸く、麻美は麻美として機能し始めたのである。


 次の日、麻美は行動を開始した。
 渓奈が如何なる意図を持っているかは定かではない。彼女の真意に少しでも近付くために、彼女が現在どれだけの情報を得ているかを知らねばならない。
 これは麻薬の捜査ではないと、そう自分に言い聞かせて命令違反の罪悪感から逃れた。

 なにから始めるべきなのか。
 麻美は思い出す。
 ――それに私の持っている情報網で、ミドリカオカにある地域管理組合事務所に素敵医師らしい人物が運ばれた、という情報が手に入ったのよ。
 情報。
 言うなれば、それは渓奈最大の武器である。
 情報は全ての基本だと、渓奈は口癖のように言っていた。
 人の口に戸は建てられない。
 例え巧妙に隠蔽された事実でも、僅かな噂が元で馬脚を現すこともある。
 風聞が真実でないとは限らないのだ。
 情報を収集し、判断し、そして行動する。
 単純である。だがその単純で基本的なことを忘れている者がどれほど多いか。
 ――敵を知り、己を知れば百戦危うからず、よ。
 そう冗談の様に言って、渓奈は笑ったのだった。
「敵――か」
 麻美は複雑な心境になる。
 かつて渓奈は、そうすることで市議会内部の不正や地域管理組合の横暴と闘っていたのだ。
 そして今は、麻美自身がその敵なのである。

 情報収集は難航した。
 一口に情報といっても様々である。
 井戸端会議のような他愛もない噂から、所謂情報屋が扱う胡乱なものまで。
 巡回をこなしながら足を棒のようにして歩いた。
 だが。
 いかにミドリガオカが小さい街とはいえ、麻美一人でどうにかなるほど手狭でもない。
 加えて麻美は渓奈の持つ情報網を正確に把握してはいなかった。短い同僚時代、僅かに見聞きした程度である。
 自然と、場当たり的な聞き込みになる。憶えている限りの場所をとにかく当たった。
 慣れないので難儀した。
 そもそも監督官は地域管理組合と市議会の橋渡し的な存在である。通常ならば監督官が独自で情報収集に当たることなど無いのだ。
 渓奈は例外中の例外なのである。暴走していたとも言える。
 ――だから、惹かれたのか。
 結局麻美は渓奈にはなれないのだ。本質が正反対なのである。麻美にはそれほどに己の我を押し通す事は出来はしない。だが、正反対の質でも向かうべき信念のベクトルが同じであるから――麻美は現在でもそう思っている――余計に、自分に足りないものを彼女の中に見てしまう。
 所詮、無いものねだりなのだろう。
 なにも成果の上がらぬ自分に苛立ちながら、麻美はそんなことを考えていた。
 瞬く間に二日が過ぎた。


 三日目の朝。
 麻美に一通の手紙が届いた。
 そこには簡潔に、
 ――川瀬渓奈監督官ニツイテ情報アリ。至急コラレタシ。
 とだけ記されていた。
 宛名は知らぬ名で、サカイにある天才病院の部屋番号が書かれている。
 届けたのは真わかめ組事務所に出入りする若い衆で、見知らぬ男に今朝託されたと麻美に説明した。
「変なオッサンでしたッスよ。俺が真わかめ組のモンだって知ってるみたいだったッス」
 風体のわりに純朴な話し方をするその男は、手紙の主を怪しむだけ怪しんだそうだが、結局折れて手紙を預かったと言った。
「朝からやたらと浮かれてるオッサンで、気持ち悪かったッス。――山沢さんの知り合いッスか?」
 容姿を細かく説明されているうちに、麻美は差出人の名前に思い至った。
 情報屋である。といっても本業は新聞記者かなにかで、副業として表沙汰に出来ないような情報を渓奈に売っていた男だ。監督官時代、何度か渓奈と共に会った事がある。
 麻美は返答に困り、適当に誤魔化すとなにやら心配そうな顔をしている男に丁寧に礼を言った。

 ――さて。
 怪しい手紙である。もう、これ以上なく胡散臭い。
 しかし。
 麻美は迷った。
 罠である可能性は存分に高い。と、いうよりこれは典型的な罠の手口であろう。古典的ですらある。
 だが、地道な情報収集がこれ以上実を結ぶとも思えない以上、例え少々の危険を冒してでも動く価値は在るのではないかと、麻美はそう考えていた。
 焦っていたのだ。
 まず、渓奈が罠を張っているとは思えなかった。それなら麻美は三日前にすでに捕らわれている。
 こんな遣り方は彼女らしくない。
 それに、万が一その他の人物が仕掛けた罠でも、現在の麻美には切り抜ける自信もあった。
 ――何の。

 ずきり。

 何の根拠があるのだと、麻美の内でもう一人の麻美が言う。
 麻美を冷ややかに見ている。
「もう、麻薬になんて――負けるものか」
 小さく疼いた痛みから顔を背けて、麻美はそう呟いた。


「では、その情報屋がなにかしら我々の知らない事実を掴んでいる――と?」
 大杉は怪訝そうに言った。半信半疑の表情である。
「それは少々都合が良すぎませんか」
「――ええ。タイミングも良すぎます。罠である可能性もあるでしょう。でも、逆に手がかりになるとも思うんです」
 麻美は大杉に今朝受け取った手紙の説明をした。無論、悪司を疑って情報収集をしていた事は隠している。なにしろ相手はその悪司の右腕ともいえる男であるのだ。悪司に絶対の忠誠を誓っているような男にそんなことを話せるわけがない。
 それに――後ろめたかったのだ。
 真っ直ぐな視線も、言葉も、現在の麻美には重圧でしかない。
 罪悪感と劣等感が重くのしかかる。
 大杉は低く唸りながら少し考えていたが、
「いや、山沢さんの仰る通りですな。古人曰く、虎穴に入らずんば虎児を得ず。危険を承知のその心意気、この大杉、誠に感服致しました」
 いきなり熱弁をふるい始めた。
 どうやら麻美の行動に、どこか感じ入るものが在った様子である。
「――はい?」
「さすがは若が見込まれただけのことはある。この不肖大杉、本日は山沢さんの護衛を勤めさせて戴きますぞ」
「――はあ。い、いえ、大杉さんに護衛をさせるなんて――」
 麻美の言葉を遮って大杉が自分の胸を叩いた。
「もとより若に命じられて付いてきたのです。心配、遠慮は御無用。いや、そもそも山沢さんには護衛など必要ではありませんかな?」
 失敬失敬と笑いながら大杉は先行するように医院に向かう。
 ――なんで、そうなるのかしら。
 麻美は早合点をしたままの巨漢の男を追いかけ、白い建物の中へと入っていった。


 待合室は静かだった。
「――まだ診察時間前でしたかな?」
 大杉が周囲に気を配りながら言った。
「いえ――違いますね」
 麻美も同じく臨戦態勢のまま答えた。
 そんなわけはない。時刻はすでに正午近いのである。
 麻美は静寂に包まれたロビーを見渡す。

 無人だった。

 待合室の座席にも、受付のカウンターにも。
 見渡す限りの無人。
「どういうことですかな」
「当然、罠――でしょうね」
 半ば予想通りとはいえ、ここまで大がかりであるとは思わなかった。 
 第一、いったいどんな手段を使えば、こんな大病院を無人に出来るというのか。
「どうしますか山沢さん」
 ――どうするか。
 麻美は暫し逡巡する。だが、すぐに答えは出た。
「とりあえず、調査してみましょう。例え罠でも、なにが起こっているのかは把握しないと。この辺りは真わかめ組の管理下ですし」
 異変である事は事実なのだ。ならば地域管理組合としては無視できない。
「承知」
 大杉が短く答えた。

 無人の病院というものは、それが例え昼間でも――否、昼間だからこそ余計に薄気味悪いものだと、麻美は思った。
 非現実的である。
 堅い床と壁は二人分の足音を闇雲に反響させて、緊張している麻美をやたらと刺激した。
 窓の外には秋の街並みが見えている。心なしか、街中にも人の姿が無いように思えて、それで余計に静寂さが増したような気がした。
「病室はこの先ですか」
 麻美の前を歩いている大杉が言った。先程から大杉は麻美を庇うようにして前を歩いている。
「そうですね。一番端の病室のようです」
 指定された病室は、この医院でも一番端にある病練の最上階だった。一般的な入院患者の病室とは少し離れている。
「怪しい、ですな」
「ええ、待ち伏せするには絶好の位置ですね」
 やはり迂闊だったか。だがこちらは二人とはいえ、真わかめ組屈指の実力者である。余程のことがない限り、後れをとるとは思えない。
 それに、予測できる待ち伏せに効果は薄い。逆に利用することも出来よう。
 ――と、曲がり角の手前で大杉が足を止めた。そして振り返らずに手だけで麻美に合図する。
 麻美はすぐに大杉の意図を理解した。足音が聞こえるのだ。
 二人は壁に体を張り付かせ、物音をたてないようにして待った。
 カツカツと足音が近くなる。別段忍び足である様子はない。
 奇妙である。
 足音が近づく僅かな時間が、麻美にはやけに長く感じられた。
 白い人影が二人の前を横切ろうとした時――。
 大杉がその巨体からは想像できない俊敏さで動いた。
「キャア!」
 大杉が後ろから掴みかかろうとして動きを止めた。相手が悲鳴と共にへたり込んでしまったからである。
「な、な、何なんですか! あなた方は!」
 若い女の声だった。よほど驚いたのか、白衣姿のままでその場に座り込んでいた。
 看護婦だった。
「まて、我々は地域管理組合の者だ――落ち着け」
 大杉がずいと近づく。その迫力に押されたのか、看護婦は息を飲んで黙った。
「ち、地域管理組合の?」
「そうだ。何故この病院には誰もいない。なにがあった」
「何故って――知らないんですか」
 看護婦は怪訝そうな顔をする。
「どういう事です」
 麻美が看護婦を助け起こしながら聞いた。
「不発弾ですよ」
「不発弾? また見つかったのか」
「ええ。大騒ぎですよ。この辺りの住人は皆避難してます」
 ――なるほど。
 麻美は心中で納得した。これでこの大病院がもぬけの殻である理由が付く。
 考えすぎだったのだろう。
 不発弾自体はさして珍しい事でもないのだ。
「避難するということは、処理するんですか?」
「避難が完了次第するという話ですよ。市議会の方から今朝指示がありましたから」
「ということは避難が完了していないのだな」
「――ええ。見つからない患者さんがいるんです」
 看護婦は口ごもった。病院側の落ち度だからだろう。
「念の為、もう一度病院内も探しておこうという事になって。それが――私が受け持っていた患者さんなんです。今朝無断で病院を抜け出してから見つからなくて」
 一向に見つからないまま不発弾騒ぎが始まり、先程まで大人数の患者の避難に忙殺されていたのだという。
「それで、あなた達はどうして」
 看護婦が訝しげな視線を寄越した。確かにこの場合、麻美達の方が怪しい。
「あの、この病室の患者さんに面会に来たのですが」
 麻美は慌てて手紙の宛名を見せた。
 看護婦は、怪訝そうな表情のまま表書きを見たが、すぐに驚きの表情に変わった。
「こ、この人です。居なくなった患者さんは」
「えっ?」
 今度は麻美と大杉が驚きの表情を浮かべた。

「それじゃあ、今朝病院を抜け出したのは、その手紙を貴女に届けるためだったのかしら」
 看護婦が遣り切れないといった言い方をした。
「――無理に動いて良い状態では無かったのに」
「その人は、どういう理由で入院していたんですか」
 手紙を預かった若い衆は、やたらと浮かれていた男と表した。看護婦の話と矛盾する。
 看護婦は少し躊躇っていたが、大杉が真わかめ組として話を聞きたいと言ったのを受けて口を開いた。

「麻薬患者だったんです。それも重症の」

 ――まただ。
 またしても、麻薬。
「山沢さん」
 大杉か声をかける。気遣っているのだろう。
「大丈夫、ですよ。もしかしたら、という予感はありましたから」
 大杉に麻薬の話を聞いてから嫌な想像が膨らんでいた。その一つが現実になったのである。
「その人は――いつからここに?」
「ええと、夏頃だったかしら。そのころ麻薬中毒の患者さん多かったから」
 やはり、あの男の。
 あの男の被害者なのか。
 どこまでも――付き纏う。

 ――ずきり。
 痛む。
 何処が痛いのか。
 麻美には、それすら解らないというのに。

「では私は外の様子を見てきます。避難状況も確認したいですからな」
 とりあえず、麻美達は二手に分かれる事にした。この状況が罠であるという可能性も薄れたからである。
 麻美は看護婦と共に病院内を探し、大杉は病院付近を見回ることにした。
 男が病院近辺に戻っている可能性もあるからだ。
 くれぐれも御注意を――大杉はそう言うと巨体を揺らして走り去った。

 看護婦は元々件の病室に向かう途中であるらしかった。誰も気付かぬまま病室に戻っている可能性を考えたのだろう。これだけの大病院の患者が全て避難したのだ、相当の混雑だった筈である。
「こちらの病棟は絶対安静の患者さんばかりですから避難も大変でした。戻っていてくれるといいのですが」
 今度は看護婦が麻美を先導するように歩いた。
 薄暗い院内に白い後ろ姿が浮かんでいるように見える。
 理由が解ったとはいえ、やはり人気のない病院は不気味である。
 二人になった途端、また静寂が戻った。
 その沈黙に耐えられなくて、麻美は口を開いた。
「重症の麻薬中毒って――そんなに酷かったのですか」
 麻美にとって、それは他人事ではなかった。
 顔もろくに憶えていないその男に同情する。
 ええ、と看護婦が前を向いたままで答えた。
「酷かったです。お気の毒に。――余程合わなかったんでしょうね」
「――え」
 聞き違いか。
「合わないって、どういう――」
「そのままですよ。体に、合わなかったんでしょうね」
 意味が解らない。
「それに禁断症状が酷かったですね。特にここ一週間くらいは」
 待て。
「ちょっと、待って下さい」
 麻美は声をあげた。
「どうしました」
 振り向かない。
「そ、それじゃ、その人はここ数日間病院から外には――」
「出ていませんね。だって、出られる訳が無いですもの。絶対安静でしたから」
 どういうことだ。
 それなら、一体どうやって。
 ――私が川瀬さんの事を調べているのを知ったの。
 三日。たったの三日間である。
 その間に禁断症状で苦しむ男が、どうやって。

 ――朝からやたらと浮かれてるオッサンで、気持ち悪かったッス。

 そうか。
 麻薬だ。
 麻薬を、与えられたのだ。
 では、やはり。
 この手紙。
 これは。
「ああ、この病室です」
 看護婦が病室の一つを指した。
 その病室は、外から厳重に鍵が掛かるようになっていた。
「こ、これでは中から開けるのは無理じゃないですか!」
「そのはずなんです――おかしな事もあるものですね」
 看護婦はそう言って扉を開けて中に入った。
 ――この女。
 もしかしたら。
「ああ、良かった。戻っていたんですね」
 中から看護婦の声が聞こえた。
 心から安堵しているような口調。
 ――戻っている?
 麻美は混乱した。
「どうしたんですか。わざわざ面会に来られたんでしょう? どうぞ入って下さい」
 麻美を呼んでいる。
 麻美は、おそらく何も考えずに――その部屋に入った。
 殺風景な病室だった。
 花の一つも飾られてはいない。
 ベッドの横に看護婦が立っていた。
 横たわる男の足が見える。
 ――本当に居るのか。
 近づく。
 胴が見える。その横に投げ出された、力無い腕が見える。
 混乱する。
 麻美の頭は考えることを止めた。
 さらに歩み寄る。
 女の横に立った。

 其処には。
 捻れた首が在った。
 変色した顔が在った。
 この――男だ。
 麻美の記憶にその顔が浮かんだとき。

 ちくり。

 棘にも似た痛みが、麻美の首筋に走った。


以下次話