大悪司



第一話
第二話
第三話
第四話
第五話
第六話
第七話
第八話
第九話
第十話
第十一話
第十二話
第十三話
第十四話
  棘 −麻美−
第三話


 オオサカ、ナンコウ。
 深夜のナンコウに人影はほとんど無く、時折沖合いから汽笛が悲しげに響いてくるだけだった。
 かつては多くの船がその巨体を休めたこの港も、今では数えるほどの船影を見るばかりである。
 その一角。
 倉庫が立ち並ぶ区域に、二つの人影がまるで人目を憚るようにして立っている。
 一つは開襟シャツをだらしなく身に着けた男だった。どう控えめに見ても堅気には見えない。
 もう一つの影は、夜よりなお暗い闇に融け、その輪郭すら伺うことが出来ない。
「あんた、初めて見るな。いつものヤツはどうした?」
 男が訝しげな口調で言った。
「これからは私が交渉役だ。ちょっとした人事異動でな」
 影は静かに答える。男は不機嫌そうに眉をひそめた。
 交渉相手のあからさまな態度にも、影は別段反応を示さない。
「特に問題もあるまい? 早速取引に入ろうか」
「ちょっと待ってくれ。――悪いんだがな、もうウチはこの件から引かせてもらうぜ」
 焦りからか男の声は上擦り、視線は泳ぐように空を彷徨った。それを悟られまいとしてはいるが、その思惑が成功していないのは明らかだった。
「――ほう。また急な話だな」
 影は変わらず落ち着いた口調だった。
「一体どうしてかな? そちらにとっても悪い取引では無かった筈だが」
「し、しらねえよ。決めたのは上だ。俺はただ言われてアンタらと交渉しに来てるだけだ。とにかく、今後ウチはヤクは扱わねえ」
「随分と虫のいい話だな。今までに卸した量だけでも結構な稼ぎになっただろう」
 ゼニカネの問題じゃねぇよ、男は半ば吐き捨てるように言った。
「ペースが早過ぎるんだよ。そりゃアンタらの提案通り、できるだけ分散させるようにして捌いてきたけどな。それにしたって限度がある。ウチとしちゃ、これ以上危ねえ橋には付き合えねえとよ」
「それは本当にそちらの総意なのか? 危険と釣り合うだけの価値があるから乗ってきたのだろう。例の男が持ち込んだヤクで市場の下地は出来ていたのだろうしな」
「だ、だから限度があるって言ってんだよ。それにアンタら、ウチのシマ以外じゃずいぶんと派手に動いてるそうじゃねえか。――やりすぎだよ。遅かれ市議会に知れるぜ。そん前にウチは手を引くっていってんだよ」
 男の額を脂汗が伝う。こちらの思惑を気取られる訳にはいかない。
 影は無言で男の言葉を聞いていた。その半ば殺気を込めたような無言の圧力に、男は気圧される。
 ――クソッ。疑ってやがるのか?
「――いいだろう。では契約通り、例のものを渡してもらおうか」
 一転して影の口調が和らぐ。男は全身から汗が噴出すのを感じていた。
 ――よし。上手くいった。
「例の? ――ああ、あれか。へっへっへっ、そういやアンタら最初っからあれが目的だったな。充分ヤクも金も持ってんのに、どうしてあんなもんに拘るのかね?」
 わからねえなあ――恐怖を誤魔化すためか、男はヒステリックな笑い声をあげる。
「最初から我々はあれが欲しいと持ちかけたのだからな。契約は守ってもらうぞ」
「そりゃ取引が終わったらの話だったろ? ウチは途中で手を引くんだから契約も無効だわな。ただ――」
 男の目に野卑な色が浮かぶ。
「出すもんさえ出しゃ、話は別だけどな」
 男は指で金額を示した。
「随分とふっかけるな。最初の話とは随分と違うが?」
「危険手当だよ。アンタらのおかげでウチが市議会に目ぇつけられないとも限らねえからな。嫌なら諦めな。――ま、そんときゃあれは余所に渡っちまうだろうがな」
 恐怖を隠しきろうと、男は懸命に捲し立てる。ここで下手を打つわけにはいかない。
 影が再び沈黙する。
 男は自らの交渉手腕に酔い、密かに勝利を確信した。
 ――チョロイもんだ。
 次の瞬間。

 男のすぐ後ろにある壁が轟音とともに陥没した。

 男はなにが起こったのか理解できなかった。耳をつんざくような轟音と、それに続く風を感じて、ようやく目の前の人物が何かをしたということが理解できたのだ。
 動きなど、何も見えはしなかった。
「契約を一方的に破棄しておいて、随分と勝手な言いぐさだな」
 影が低く呟く。同時に殺気が男を鷲掴みにする。
「ヒッ!」
 必死に隠していた怯えは呆気なく暴かれた。
「ま、まてよ。もし俺に何かあったら、ウチの組を敵に回すことになるんだぞ! それでいいのか!!」
「嘘だな」
「――へっ?」
 予想だにしなかった反応に男は凍りついた。
「この取引に貴様の組織は関与していないのだろう? 我々が気付いていないとでも思っていたのか。愚か者め」
 知られている。絶望感が男を襲った。
「それでも、大人しく例のものを渡せば良いものを。大方組がヤクの流入に気付いたというところだろう」
 見透かされている。男はこれ以上なく狼狽した。
「ま、待ってくれ! た、確かにアンタの言う通りだ! 組はこの取引を知らねぇ。俺たちが勝手にやってたんだ」
 虚勢が暴かれたと知るや、男は土下座をして許しを乞うた。もとより吹けば飛ぶようなプライドである。
「せ、せめてものワビだ。アレはアンタ達にくれてやる。金は要らねえ。だから――だから見逃してくれ!」
「例のものは無事なんだろうな?」
「――ああ、これを見てくれ」
 男はいそいそと懐から一枚の写真を取り出し渡した。もう、助かるにはこれ以外ない。
「アンタらの指示通り、丁重に保管してる。な、なあ頼む」
 影は黙って写真を見つめる。
「そいつを保管してある場所も教える。だからこの場は――」
「それも嘘だな」
 影は冷たく言い放ち、手にした写真を男に向けた。
「貴様等は組にこの取引の存在が知られそうになって慌てた。そのうえ現在これを確保できてはいない。そこで、あわよくばこれをダシに金を手に入れ、逃走しようと考えた。でなければ、貴様等のような下衆が自分から儲け話を棒にする筈が無い。なにが上の指示だ」
 影は写真を引き裂いた。
「我々を見くびるなよ、小僧」
 次の瞬間。
 まるで地獄から聞こえるような声に背を向け、男は逃げ出した。
 もう、終わりだ。
 その言葉が男の頭を支配する。悲鳴をあげることも忘れ、ただこの影から逃れようと闇雲に走る。

 ――クソッ!
 ――だから俺は最初から嫌だったんだ。
 ――なのに兄貴が無理矢理引っ張り込んで。
 ――そうだ。俺じゃない。悪いのは全部兄貴じゃねえか。
 ――あんなもんを見つけて。これでガッポリ儲けられるって。

 ――俺は嫌だったんだ!
 ――ああ、もう組には戻れねえ。
 ――チクショウ! チクショウ! チクショウ!!

 ――死にたくねえ。
 ――死にたくねぇよ。
 ――なんで、あんなもんを。
 ――あんな、あんな、あんな。

 ミイラ男の――

 不意に。
 男の視界が、完全な闇に覆われた。
 恐怖に麻痺した精神が、現状を理解しようとする間もなく。
 骨が砕ける鈍い音が、倉庫の壁に反響して、消えた。


「処理、終了しました」
 事務的な響きの声がした。
 まるで闇から滲み出るように、影の周囲には幾つかの気配が集まっていた。
「サンプルの存在は確認できた。これより第二段階に移行する。適応者のリストアップは済んでいるな?」
「耐性確認が済んでいない者を数名残していますが」
「ふるいの目は小さくしろ。役立たずは必要ない」
「了解」
 そのやり取りを合図にして、気配達は音もなく四方へと散っていく。
 そして影も、夜の闇へと完全に融けていった。
 口元に、僅かな笑みを浮かべて。
 そして誰も居なくなり。
 かすれた汽笛の音が、深夜のナンコウに静かに響いた。


以下次話