大悪司



第一話
第二話
第三話
第四話
第五話
第六話
第七話
第八話
第九話
第十話
第十一話
第十二話
第十三話
第十四話
  棘 −麻美−
第一話


 心地よい秋の風を頬に受けて、山沢麻美は一つ溜息をついた。
 訓練を兼ねた巡回の途中である。
 とはいえこの巡回は別段強制されたものではなく、麻美自身が己に課した信念に基づいて行う――趣味と仕事を足して二で割ったような、いわば日課と呼ぶべきものだった。
 麻美は、以前勤めていた市議会を先日退職した。
 その顛末が果たして一般常識でいうところの「退職」であるかどうかは兎も角、麻美は武術の腕前が落ちるのを恐れ、現在の職務に就いてもなお以前と同じような、あるいはそれ以上の訓練を自らに課した。
 現在の職務は以前とは比べるべくも無い激務だ。自主的な訓練は麻美にとっては至極当然な選択だったし、少なくとも体を動かしている間は、何も考えずにすんだ。
 ――それでも、元どうりとはいかないのね。
 体はよく動く。走ったために荒くなった息も一呼吸すれば元に戻る。
 以前の麻美を知るものが見ても、現在の彼女になにかしらの変化を感じることは無いかもしれない。
 しかし麻美は時折、自分の体が自分の物ではないような、そんな違和感を感じる。
 ――違和感。そう、違和感だ。それこそが彼女が抱える憂鬱の原因である。
 麻美自身、それが何なのかはよく判らない。
 例えるならば、それは棘のようなものだ。
 指先に刺さった棘は、痛みを伴う違和感でその存在を明確に誇示する。
 どんなに忘れていようとも。
 あるいは。
 どんなに忘れようとしても。
 鈍い痛みと共に、その違和感は首をもたげる。
 僅かな反応の遅れ、些細な注意力不足。
 麻美自身しか気付かない違和感が、抜けない棘のように麻美を苛んでいく。
 ――もう、元には戻らないかもしれない。
 棘のもたらす鈍く小さな痛みに、麻美はまた一つ溜息をついた。
 

 巡回ルートも大半が過ぎ、まもなく現在の麻美の勤め先――他に相応しい呼称を麻美は思いつかない――である地域管理組合真わかめ組事務所が見えてくる。
 出かけるときは最後まで走りきるつもりでいたのだが、なぜか気が乗らず、結局は散歩をしながらの巡回になってしまった。
 ミドリガオカの町並みは次第に秋の気配が色濃くなる。空は相変わらずの曇り模様だが、それでも確実に四季は巡っていく。
 そんな風景を眺めながら、麻美は歩みを進めた。
 この街を、いやオオサカ全体の治安を守る。それが麻美の願いであり、成すべき事だった。
 少なくとも、麻美自身はそう信じていた。
 しかし、市議会を石をもって追われ、半ば身を隠すように地域管理組合に所属した今、麻美は以前の自分と今の自分の立場にどうしようもない格差を感じている。
 もちろん、街の治安を守るという意味においては市議会も地域管理組合も大差はない。むしろ地域住民と同じ目線に立っている現状の方が、柔軟かつ迅速に対応できる。
 しかし市議会の監察官であることに誇りを持っていた麻美は、現状を割り切ることができないままでいた。
 麻美は、そんな不器用な自分が歯痒くてならない。
 ――自分自身がこんなに未練がましい人間だとは思わなかったわ。
 無論、職に貴賤の差などないと、頭で理解してはいる。しかし、そう頭で理解すればするほど、自らの過去と現在に対する立場の隔たりを心は感じてしまうのだ。
 頭と心の二律背反は、やがて新たな棘となっていく。
 晴れることのないオオサカの空と同じ様に、麻美の中にも雲がかかっていた。


 背後に人の気配を感じる。
 巡回の途中から気づいてはいたが、麻美はあえて構わなかった。
 途中何度も襲撃に適した場所は在った。それでも何の動きもない事から危険はないと判断した為である。すでに事務所は目と鼻の先だ。こんな場所で襲ってくるようなリスクを冒す者はいないだろうし、ならば無用な争いは回避すべきである。
 ――と、不意に背後の気配が消えた。
 やはり、敵対する何らかの組織の人間か。
 先ほどまで人の気配がしていた場所を振り返り麻美は思った。もしかしたら件の宗教組織の関係者かもしれない。
 現在、真わかめ組はオオサカ西部で、ある新興宗教組織と対立状態にある。おそらくはその斥候か何かだろう。
 麻美はそう考え事務所へと向かうことにした。
「随分と隙だらけね」
 振り返った麻美の目の前に、一人の女が立っていた。
 麻美はとっさに身構える。まるで気づかなかった自分が恨めしい。場合が場合なら致命的な隙である。
 しかし、その女の顔を見て麻美の表情は思わず緩んだ。
「川瀬さん――」
 それは、かつての同僚である市議会監察官、川瀬渓奈だった。
「久しぶりね。変りない――と言いたいところだけど、随分変わったわね麻美」
 渓奈はあからさまな落胆の表情を浮かべた。
「久しぶりにオオサカに戻ってみれば、かわいい後輩は市議会を追われる身。噂で地域管理組合に似た人間が居ると聞いたから、もしかと思ったんだけど」
「川瀬さん、私は――」
「言い訳なんて聞きたくないわ」
 開きかけた麻美の口を渓奈は黙らせた。
 そして哀れむような視線を麻美に向ける。
「長谷川の事は聞いたわ。まさか、あなたほどの人が麻薬に溺れるなんてね。しかも市議会を裏切ってまで麻薬にすがるなんて」
 信じたくなかったわ、と渓奈は吐き捨てるように呟いた。
 麻美は唇をかんだ。誤解だ、と叫びそうになるのを堪える。
 しかし、例え麻美自身が望んだことではなくても、麻美の体が麻薬に負け、現在もその影響から逃れられないことは事実なのである――少なくとも麻美の中では。
 無論、麻美に非がある訳ではない。麻美は監察官としての正義をもって事態に当たったに過ぎないのだ。その事情を隈なく話せば、あるいは渓奈は理解してくれるかもしれない。
 ――しかし。
 しかし麻美はここで自問してしまう。
 あのときの自分の行動に不備はなかったのか?
 隙を突かれたのは自分の油断からではないのか?
 そのせいで、さらに多くの人々が麻薬の犠牲になったのではないのか?
 麻薬に。
 麻薬に負けたのは、自分が弱かったからではないのか。
 ――自分が。
 刹那の、そしていままで幾度となく繰り返してきた自問自答。
 決して答えの出ない、無限に続くような思考の循環。
 その負い目が、麻美の口を閉ざしてしまう。

 なにも言わず視線をそらした麻美を、渓奈は少し悲しそうに見つめた。
「例の長谷川――今は素敵医師と名乗っているそうね」
 再び会話に上がった男の名に麻美が眉をひそめる。
 麻美は、その名に対して嫌悪以外の感情は持ち得ない。
「今あなたが隠れ蓑にしている地域管理組合――真わかめ組だったわね。そこでかくまっているという情報があるのだけど、本当?」
「――え」
 麻美は自分の耳を疑った。世界でもっとも笑えない冗談を聞かされたような気分になる。
「な、なにを言っているんですか、川瀬さん。長谷川は、素敵医師は――」
 もう死んでいます、そう言った麻美の言葉を渓奈は無表情で受け止める。
「市議会では正式に素敵医師の死亡を確認していないわ。それに私の持っている情報網で、ミドリカオカにある地域管理組合事務所に素敵医師らしい人物が運ばれた、という情報が手に入ったのよ」
 渓奈は以前オオサカ市議会に勤めていたとき、独自の情報網を持っていた。それは監察官としての仕事を円滑に遂行するためのもので、渓奈の人柄と行動力があったからこそできたことだ。
 麻美はそんな、熱意あふれる渓奈の仕事振りに憧れていた。
 たとえ市議会といえども、そこにいる全ての者が社会正義の為に働いているのではない。
 ある者は金銭の為。そしてある者は利権の為。
 渓奈はそんな中で出会った、数少ない尊敬できる人物だった。
「もちろん、裏付けはないわ」
 渓奈の瞳に力が宿った。
「そして捜査権限も私にはない。今のミドリガオカの監察官は鴉葉君だから。――あいかわらず小悪党ね彼。真わかめ組の事で調べたいことがあると言ったら、途端に私に食事を奢りたくなったみたいよ。丁重にお断りしたけどね。ついでに私の性格を思い出してもらう為に、少しばかりお小言をしてあげたわ」
 麻美は思わず苦笑した。昔から鴉葉は渓奈に頭が上がらなかったのだ。彼が市議会で唯一恐れていた人物だろう。
「それで真わかめ組と鴉葉君がどういう関係にあるかは大体わかった。別にその事についてどうこう言うつもりはないわ。それで治安が守られるのなら」
 意外な言葉に麻美は驚いた。
 渓奈はかつてそういった取引を嫌悪していた。憎悪していたといってもいい。不当な利権を貪る市議会職員を摘発したことも一度や二度ではない。彼女がオオサカを離れる原因となったのは、その潔癖なまでの正義感が災いしてのことだった。
 驚いた表情の麻美の顔を見て、意外そうね、と渓奈が言った。すこし面白がっているようにも見える。
「川瀬さんがそういう風なことを考えるとは思いませんでしたから」
「私も成長したのよ。人生は経験の連続だから」
 そう言って、渓奈はすこし微笑んだ。
「でも、今回は別よ」
 再び厳しい顔になる。
「素敵医師のような人間を野放しにしておけば麻薬による被害はもっと広がる。それは許すわけにはいかない」
「ですから、もう素敵医師はいないんです。死んだ人間をかくまえる訳がないでしょう」
 根拠はあなたよ麻美――渓奈は呟くように言った。
「麻美、あなた重度の麻薬中毒で絶対安静だった病院から抜け出したそうね」
 唐突に自分の話が出てきて麻美はうろたえた。
「そして市議会に現れた後、森治安課課長の制止を振り切って逃走――以後、消息不明。これがあなたの現状よ」
「――それと素敵医師に、なんの関わりがあるんですか」
「なぜ重度の麻薬中毒患者のあなたが、なんの治療も施されていないのにどうして平然としているの」
「――あ」
 麻美は渓奈の言わんとすることを理解した。
「素敵医師が運び込まれたらしい組織。そして、その組織に瀕死の麻薬患者が助けられ、なんの治療もなしで生きている。この二つを繋ぐもの――」
 ――麻薬。
 渓奈は真わかめ組がなんらかの形で麻薬を扱っていると思っているのだ。
 ――莫迦な。
「川瀬さん、違います! 確かに私は麻薬中毒でした。そこを助けてもらったのも事実です。でも真わかめ組には素敵医師なんていません。それに麻薬なんて」
「それじゃ、あなたはいったいどうやって麻薬中毒から回復したの? 一切の治療もなしで」
「それは――」
 ――言えない。
 麻美の顔が耳まで真っ赤に染まった。
 口が裂けても言えない――恥ずかしくて。
「答えられないようね」
 麻美の沈黙を肯定と受け取ったのか、渓奈は鋭い視線を麻美に向ける。
「確かに証拠は無い。それに今の私には捜査をする権限も無い。――でもね麻美。そんなことは私にとって、さしたる障害ではないことはあなたも解っているでしょう?」
 鋭い視線を麻美に向けたまま、渓奈の口元だけが微笑った。
「近いうちに尻尾はつかむわ」
 必ずね――そう言い残すと、渓奈は背を向けて歩き出した。
 呼び止めようとして麻美の右手が無意識に挙がる。
 しかしそのまま、何の言葉もかけられぬまま麻美は渓奈を見送った。
 ――なんと言って弁明するというの。
 再び湧き上がる自己嫌悪。
 そして麻美の内で、終わることのない自問自答が再び繰り返される。
 ずきり、と。
 麻美の何処かに刺さった棘が、小さく疼いた。


以下次話