大悪司  無題 −秋光−
 柳秋光は浅い眠りから目覚めて、ようやく先程までの温もりは己の願望が見せた
泡沫の夢に過ぎない事を悟った。
 秋光は暗い室内で独り椅子に座り、僅かな夢の余韻を味わっていたが、やがてそ
の残滓も跡形もなく消え去ると、窓から差し込む光の帯が室内を鈍く浮かび上がら
せた。
 ――まるで時間が凍ったようだ。
 還らざる主を待ち続けるその部屋は、主が過ごした時間を切り取ったままで凍り
ついていた。
 どれほど眠っていたのだろう。
 秋光は気だるい体を投げ出したまま、胡乱な思考を巡らせる。
 やがてすぐに現実に対する興味は彼の心から滑り落ちて、結局秋光は自らがこの
時間の中に生きてはいない事を知らされる。
 何度同じことを繰り返すのだろうか。
 それとも。
 何度でも同じことを繰り返すのだろうか。
 そんな自嘲さえも、彼の磨耗した心にはどこか虚ろに、遠い地の出来事のように
響いた。
 やがて彼の手は無意識に、己が肩に掛けられた物へと向かう。
 そこにあるのは彼の切り取られた時間。彼の凍りついた過去。
 そして、かつて。
 彼が生きた、まごうことなき現実の残り香。
 ――!
 しかし彼の手は、そこにあるべきはずの物を探し当てられず、まるで寒さに震え
る幼子のように自分の肩を抱き抱えた。
 そして一瞬の逡巡もなく立ち上がり、失われたものを捜しはじめる。
 ――暗い。
 僅かな光だけが差し込む室内は、まるで彼の心を投影したかのように全てが曖昧
で、影と闇とでその輪郭を隠していた。
 まるで光を拒むように。
 ここはこんなにも――。
 こんなにも暗かったのか。
 やがて自らの望む物を見つけられぬまま、彼はその凍りついた部屋を後にした。
 少しだけ、躊躇にも似た思いが秋光に湧き上がった。

 気がつけば、家の入り口に人の気配がする。
 どうやら来客らしい。実際には少し前から秋光を呼ぶ声がしていたのだが、彼の
耳にはなにも届いてはいなかった。
 さしたる感情も湧かぬまま、彼は玄関へと目をやる。
 取り合う気など微塵もなかった。
 秋光にとって、他者など煩わしいだけの存在でしかない。
 ――ふと。
 彼の求めていたものが、その目に止まった。

 空中に――。

 空中に色褪せた着物が、まるでそこで誰かが着ているかのように。

 ――ああ。

 ――そこにいたのか。

 そしてそれは、やがて音もなく。

 ふわりと、

 床に落ちて広がった。
 
 秋光は、捜し求めていた着物を肩に掛けると玄関の扉を僅かに開けた。
 見知らぬ男がそこに居た。
 男は何かを口にしていたが、秋光の耳に言葉はなにも届かず、やがて秋光はその
来訪者にも興味を失った。
 秋光が扉を閉じようとしたそのとき、
「待て」
 鋭い声が秋光を呼び止めた。
 凛としたその声は、まるで楔のように秋光の心に突き刺さる。
 男の声ではない。
 秋光が目をやると、そこに。
 ――その少女は立っていた。
 
 短い契約を交わして秋光は部屋へと戻り、再び椅子に腰を掛けると、力なくその
四肢を投げ出した。
 そして無意識に、だが愛しく着物を撫でる。
 手にした小さな紙切れには、先程の少女がいるはずの、そして自分が向かうであ
ろう場所が書かれている。
 ――オオサカ、ミドリガオカ。
 切り取られた時間は元には戻らない。
 凍った過去はもう溶けることはない。
 それでも――。
 それでも柳秋光は、この現実が浅い眠りが彼に見せる儚い夢ではないことを――
 ――ただ静かに願った。