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『蕾』 |
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それは咲くものだったのだ。 初めて見たときにはそれは蕾だった。まるで咲く事を拒んでいるかのような硬い蕾に見えた。 未だ開かない花はいつも俺に咲かないままに落ちた花を思い出させる。花開く事無く永遠に失われてしまった花を。 その思いに、胸に去来するその感傷のままに、誘われて側へと来た。 蕾は俺を拒まなかった。 蕾は俺を受け止めようとしてくれた。 蕾は… 本当ならば生涯じくじくと乾く事無く血を流しつづける筈だった俺の傷口を乾かしていった。 確かに癒えるわけではない。癒される事はない。 ただ、絶えず疼き続けていた傷の痛みを、蕾は忘れさせてくれた。 蕾は俺に言った。『甘えてもいいのだ』と。 それから、二年。 俺は今更になって思い出した。いや、多分思い知らされた。 蕾とは花開くまでの過程の期間。 蕾は開いて花になるのだと。 その蕾は開き始めていた。 山本悪司は久し振りにその門を潜っていた。 オオサカ、ミドリガオカ。 悪司の派遣の第一歩でもあったその場所には相変わらず『悪司組』の看板の下げられた建物がある。全国制覇へと乗り出して早くも一年半が経っていたが、結局『悪司組』の本拠地は変わることなくここだった。尤もプレハブに毛が生えた程度だった事務所の建物自体は建て替えられて、小奇麗な姿へと変わっている。一軒家のような様相で、一階が事務所、二階が居住区となっていた。勿論地下牢も健在である。 そこを預かるのは岳画殺、悪司の叔母にあたる女子高生である。 『ういーす』と気軽く声をかけて事務所へと入った悪司を出迎えたのは、その殺の憔悴しきった姿だった。 「悪司か…」 吐息のような声で名を呼ばれ、悪司は同伴した妻の元子と思わず顔を見合わせた。 「さっちゃん…?」 悪司は恐る恐る事務所の中へと踏み込み、デスクに頬杖をついた状態で深い溜息を落としている殺の顔を覗き込んだ。殺は声同様憔悴しきった目でなおざりに悪司を見返してくる。 「おいおいおいおいさっちゃん、熱でもあるのか?」 「久々に会った叔母への第一声がそれなのかお前は」 「久々に会ったってーのにんなシケたツラぁしてんからだろーが?」 ふうと息を吐き出し、殺は小首をかしげた。 「そんなに酷いか」 問い掛ける口調でさえないところを見ると自覚はあるらしい。悪司は傍らにやって来た元子ともう一度顔を見合わせ、その憔悴しきった様子の殺をまじまじと眺めた。 一年半。別れた時は中学生だった殺は今や女子高生だ。それだけ顔を合わせないでいればこの年頃の少女は驚くほどに変わっているものだが、それとは全く意味合いが違う。 まあ、そう言った意味でも女慣れした悪司が目を見張るほどには殺は様変わりしていたが。制服姿は相変わらずだがその制服はSSS学園のものに変わっていたし、左右に高く結い上げて括られていた髪は今は背中へと流れている。小柄なのも相変わらずだが、その体には多少の肉がつき女らしい曲線を描き出している。つまり中々綺麗になっているのだが、問題はそういうことではない。 産声を上げた時から備わっていただろうと万人に思わせた覇気がない。目にも生気がないし、声にも力がない。とことん元気がないのである。 悪司は俯いてしまった殺の顎をついと持ち上げその瞳を覗き込んだ。 「うーわ、目の下にクマまでできてんじゃねーか。マジでヒデエぞ」 元子が頷く。 「本当に…どう、したんですか?」 「うむ…」 殺は掌で悪司の手を軽く払い、俯いた。悪司と元子が見下ろす後頭部から、深い深い溜息が聞こえてくる。 悪司が安心して本拠を任せられるほどの度量と実力を持った前代未聞の女子高生が、それこそ前代未聞な程に萎れ切っている。 「おい…」 何事かと問いただそうとした悪司の言葉を遮って、ふいに顔を上げた殺が口を開いた。 「そう言えばお前たちは一体どうした? 次は沖縄だとはしゃいでいた筈だろう。何故、戻って来たのだ?」 「あー、そういやさっちゃんには連絡いれてなかったか」 ぽんと手を叩き、悪司は頷いた。 「いやなー、なんかしらねーけど柳のヤツが給料上げてくれってー俺に直接連絡入れてきやがったんでなー…っておいおい!?」 悪司の言葉が終わらぬ先に、殺はがっくりと肩を落とした。それどころかぺったりとデスクに懐き肩を震わせている。 「く、くくくくくく…」 悪司は思わずギクリと身を引いた。 怒りが限界を超えると思わず笑いが零れる。オオサカ制圧の最終局面であったエデン戦の前に殺自身の口からそのことを聞いた記憶が、悪司にはあったのだ。殺の気性は小型核弾頭と称していい。それがこんな風に笑うとなれば、それは非常警報と同義である。 「殺さん?」 「おいさっちゃん?」 心配げに問い掛けてくる甥夫婦に向かい、殺はがばりと顔を上げた。そのまま椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がり、むんずと悪司の腕を掴む。 「お、おい?」 「ちょっと来い」 「いやだからどーしたって…」 「いいから来い!」 有無を言わせぬ勢いで殺は悪司を引っ立てた。 その場には呆然と立ち尽くす元子だけが残された。 「………」 悪司は無言だった。殺も同様である。なんともいえない白い空気が二人の間に立ち込めていた。正確には、二人の眼前に広がる空間に向かって。 それは部屋だった。二方に窓がある十分に光彩を考えられた、十二畳ほどの部屋である。事務所を建て替えるときに殺の私室にと用意した部屋である。 なんと言うか、かなり正気ではない有様だった。 置いてある家具はそれこそ立て替えたときに殺と共に買いに行ったものと変わらない。だからこの場が殺の部屋であることは間違いないが、間違いないからこそ何かが果てしなく間違っている。 窓には二種類のカーテンが吊るされていた。絹を何枚か織り込んだ艶やかな淡い桃色のカーテンと、そしてその裏に細やかな網のレースのカーテン。殺の性格を現すかのようにきっちりとベッドメイクされたベッドの上にもまた、見事なピンク色。こちらは素材はサテンだろうが、カーテンと同色である所を見ればセットで誂えたものだろう。やはりピンクのカーペット。 ここまでなら何も悪司が言葉を失う事はなかっただろう。だが室内はただピンクなだけではなかった。 床といわずベッドと言わず所狭しと並べ立てられたぬいぐるみ。テディベアからウサギにパンダ、更には端にレースのついたハート型のクッションやドライフラワー。そして様々にラッピングされた箱や袋の数々。 「…アイドルの後援事務所かここは…」 長い沈黙の末に悪司が吐き出した感想こそ妥当と言うべきだろう。 殺はゆっくりと頭を振り、そのピンクの洪水の中へと足を踏み入れた。そしてリースやドライフラワーで飾り立てられたロードワーブの扉を開いた。 悪司はまたしてもぱかりと口を開け、その中に視線を留めたまま硬直した。 おびただしい数の洋服がそこには収められていた。まあ確かに一般的女子高生からは遠く離れた殺の収入であれば買い揃える事も可能だろうが断じてそれはない。 そこに溢れ返っている服は、激しく正気ではなかった。 やはり尤も多い色彩はピンクである。そのどれもが良く袖や裾の膨らんだシロモノで、フリルやらレースやらがついていないものを探すほうが難しい。服だけに留まらずアクセサリーや帽子靴の類いも並んでいる。そのどれもが酷く可愛らしい。そしてロードワーブの床にもまたおびただしい数の箱や袋が転がっている。 「さっちゃん…?」 悪司は知らない生き物を見るような視線をロードワーブを開け放ったまま悪司に背を向けている殺へと送った。 殺はカクンと首を折り曲げ肩を震わせて笑い出した。小さな手は握り締められ、小刻みに震えている。 「く、くくっ…」 「おいおいおい、さっちゃん?」 「このままでは一週間も持たずに気が狂う所だったぞ悪司。あれを雇っているのは私ではないのでな」 くるりと悪司を振り返った殺の顔は、酷く残忍な笑みを浮かべていた。 「よく帰って来てくれた。許可を貰いたい」 「…いやあの、おーいさっちゃん?」 「追い出すでは飽き足らん…殺す。息の根止めてくれる」 「…殺、さん?」 静かな口調の中に、どうしようもないほどの殺気を感じ取って、悪司は思わず身を引いた。 殺はレースとフリルに埋没しているロードワーブの中をごそごそと探り愛用の重火器を取り出した。 ジャキっという安全装置の外れる音が、ピンクの少女趣味な部屋に場違いに響いた。 殺は安全装置の外れた重火器を肩に担ぎ、すたすたと部屋を横切った。 「ではな、行って来る」 殺はそのまますたすたと傍らをすり抜けようとする。思わず呆然と見送りそうになった悪司は、はっと我に帰ると咄嗟にその細い肩を掴んだ。 「おいおいおいさっちゃん。行くってどこ行く気だ?」 「ウメダだ。多分その辺りにいる」 「いやいるって…一体なんでそんな殺気立って…」 「これを見た上でそんなまぬけなことを聞くのかお前は」 心底不思議そうな顔で見上げられ、悪司は内心冷や汗をかいた。 間違いない。事情は未だ良くは分からないが間違いなく殺は本気である。 その沈黙を肯定と取ったのか、殺は一つ頷くと悪司の手を振り払いくるりと身を返した。 「ではな」 「だーからちょっと待てって!」 悪司は慌ててその小さな背に追いすがり殺を捕獲した。 「離せ」 声を荒げるでもなく実に淡々と抗議してくる殺に悪司は肩を竦めて見せた。そうして小さな殺の体を小脇に抱え上げ、とんとんと音を鳴らして階段を下りた。 事務所で不安げな顔で突っ立ったままだった元子は、武装した殺を小脇に抱えたまま階段を降りてきた夫の姿に目を見開いた。 「悪司…?」 「おー、トコ、茶ぁ淹れてくれや」 「茶などはいらん。離せと言っている」 「離せるかっつーの」 元子は事情はわからないまでも、兎に角お茶を淹れるために台所へと立った。 そうして事態は漸く『事情を聞く』と言う、尤も基本的な場面へと移行する事となった。 居心地がいい筈の応接室は妙な緊迫感に包まれていた。 元子が淹れてきた茶を前に、殺は俯いたまま沈黙している。殺の斜め前に座った元子は所在なさげにもじもじとしていた。平然とした様子を保っているのは相向かいに座った悪司のみであるが、これもまた虚勢に近い。ゼロ戦だけで空母を沈めたという人間技ではない逸話を持つ山本一発の血が殺には自分以上に色濃く出ているのだ。つまり何をやらかすかわかったものではない。 殺は沈黙の果てに、重く、これ以上はないほどに重く嘆息した。漸く上がった顔は眼前にいる甥夫妻を見てはいない。どこか遠くを見る眼差しだった。 「…恐らく、受け取ったのがまずかったのだ」 「…?」 元子が小首を傾げる。悪司の脳裏には先刻見た殺の部屋の様子が思い起こされた。 「受け取ったって…そーいやさっちゃんの部屋箱だらけだったっけなー」 「そうだ。あの中に私が自分で用意したものなどないに等しい」 「…いやテメエで買ってきたって方が怖いけどよ、実際」 「誰が買うか」 心底いやそうに殺は眉を顰めた。 「はじめは入学式だった。祝いだと言ってパンダのぬいぐるみを買って来たのだ」 「あー、さっちゃんパンダ好きだっけ」 「パンダに限らず動物は好きだが。気持ちもパンダも嬉しかったのでな、ありがたく受け取ったのだ」 山本夫妻は大きく頷いた。それが礼儀と言うものだろう。 「それからたまにぬいぐるみを買ってくるようになった。まあぬいぐるみは嫌いではないから、やはりありがたく受け取っていたのだ。さほど頻度の激しいものでもなかったしな」 「…頻度が激しくないにしちゃあ偉いことになってなかったか、さっちゃんの部屋」 「あそこがああなったのはここ一月でだ」 「一月ィ!?」 悪司は思わず腰を浮かしかけた。もう一度部屋を確認したい衝動に駆られたのである。 断言してもいい。一月であれだけのものを買い込むの持ち込むのも至難の技である。 「なんだか知らんが、一月程前から激化したのだ。はじめは学校から帰ってみたら部屋がピンクに模様替えされていた。何事かと思えば無表情でいくつも包みを渡してくる。開ければ中身は全部あの正気を疑うような衣装だった」 「正気を疑うって…?」 部屋自体を見ていない元子が不思議そうに問い掛ける。殺は苦りきった表情で『頭に花が咲いているようなのが着るような服だ』と答えた。大雑把極まりない答えだがそれでも元子は納得したらしい。嘘寒そうに眉を顰めた。 「んーなもん突っ返しちまえば良かったんだろーがよ」 「私は動物は嫌いではないのだ」 「は?」 悪司が問い返すと殺は難しい顔で小首を傾げてみせる。 「どうにも、あの捨て犬のような目を見ていると頭でも撫でてやりたくなってしまってな…」 「頭撫でてやりたくなるよーな犬にんな大物持ち出す気だったのか?」 悪司は肩を竦め、顎で殺の傍らに立てかけられた重火器を示した。殺は憮然とした表情で甥を見据えた。 「頭に血が昇ってな」 「なんでだよ?」 「まだ増やす気なのかと思ったのだ」 山本夫妻はきょとんと顔を見合わせた。そう言えば殺が悪司を引っ立てて部屋へと向かったのはある人物の名を出した時だった。 「えーと、その犬ってのはもしかして…」 「秋光だ」 案の定きっぱりと、殺は答えた。 柳秋光。PMとの抗争の為にシズオカからスカウトしてきた傭兵である。どうやら亡くした妹と同年代の少女にノスタルジーを感じるらしく、はじめは渋っていたくせに殺の顔を見るなり掌を返したと言う中々に現金な男だ。抗争自体が終了した後も殺の側に留まってそのボディガードを勤めている。 オオサカを制圧し全国制覇も間近と言う悪司組にとって殺の存在は大きい。オオサカの管理者としては無論のこと、抗争相手にとっては人質としても多大な価値がある。そう簡単に人質に取れるような殺ではないが、一人オオサカに残しておくのは悪司としても心配ではあった。だから柳の存在はありがたかったのだが、どうやらそうも言っていられなくなったらしい。 「…そいや給料上げてくれって言い出したんだよな…ってオイまさか…」 「…お給料全部殺さんへの…プレゼントに注ぎ込んでるって…ことかしら」 「多分そのまさかだ」 殺ははふうと息を吐き出し、どさりと音を立ててソファーに背を預けた。とことん疲れきっている様子である。 「ぬいぐるみ程度なら喜んで受け取っていられるがな。有り金全部つぎ込んでまであれは一体何がしたいのだ」 「…そりゃ寧ろこっちが聞きてえが…なんだっていきなり激化しやがったんだ。まー方向性としちゃあぬいぐるみからあれってのはそんなおかしくねえと思うけどよ」 「一月前くらいに、何か心当たりはないの?」 問われて殺は考える顔になった。 「…そうだな、変わったことか。親父殿が来たくらいだな」 「じいさんが?」 「うむ」 殺は頷いた。 「親父殿がなもう十六にもなるのだしもう少し色気を出せとか申されてな。それで少し髪型を変えてみたのだが」 殺は背に流れる素直な髪をそっと手で梳いた。光沢のある素直な髪はほつれもなく流れて殺の背中の辺りで揃えられている。それまでの左右に高く結い上げられていた髪型とは確かにまるで印象が違った。少女の匂いが払拭されぐっと大人びて見えるのだ。 悪司と元子はまた顔を見合わせた。 なんとなく、なんとなくではあるが柳秋光の暴走の理由が分かったような気がしたのだ。 眼前で不機嫌に押し黙る殺の姿に。殺が醸し出す『女』の気配に。 「15万4千8百円になりまーす」 明るく響く店員の声に、柳秋光は無言でカードを差し出した。 カードを受け取った店員はそれを機械に通し、笑顔でまた秋光に差し出す。秋光がそれを仕舞い込んだのを確認してから、大量の包みを秋光の前へとずいっと押し出した。 「いつもありがとうございます。またご利用ください」 ぴょこんと頭を下げる店員には頓着せずに、秋光はその山ほどの包みを左手に下げて踵を返した。 カツカツという律動的な足音が自動ドアの外へと消えると、その背中を見送っていた店員達はわっとレジの周囲に集まった。 「…何日目よこれで…」 「そんなの覚えてないわよ」 「忘れるくらい続いてるわよねー、はじめは数えてなかった?」 うんうんと店員達は一様に頷く。一人が神妙な顔でぴこりと人差し指を立てた。 「平均して10万以上は買ってくじゃない。確かに堅気の匂いはしないけどそれにしたってどーよ?」 「ぁ、あたし聞いたんだけど。なんか似たような風体の人が宝石店とかも出入りしてるらしいわよ?」 どよっと一同がどよめく。 「嘘でしょ?」 「マジ。だって友達のトコの店なんだもん。なんか顔つきとか服装とかばっちり合ってるし」 「ちょっとどんな金の使い方よー」 呆れつつも店員の声には羨望の色が濃い。 「絶対自分のじゃないわよね」 「あったり前じゃない、自分のだったらラッピングしてくれなんて言うわけないし」 「カモフラージュかもしんないじゃん?」 「ばっかねー、だったら同じ店通いつめたりなんかしないわよ」 そうよねえ、と一同は頷きあい、ほうっと溜息を吐いた。 「…誰かしらねー」 「わかんないけど、いいわよねえ」 「そーよねー、なんかエロジジイにだってあれだけ貢がれたら嬉しいわよ」 「だってのに男前なのよ男前!」 一人が拳を振り上げて宣言する。そして総員揃って秋光が出て行った自動ドアを振り返った。当然そこにはもう秋光の姿はなかったが。 「あの人さぁ、入ってくるときは無表情なのに出てく時はほんっと幸せそうな顔してんのよねー」 「そう! 自然に頬が緩んでるって言うか」 「いいわよねえ」 溜息を吐きつつ、店員たちは頷きあった。 それは咲くものだったのだ。 初めて見たときにはそれは蕾だった。まるで咲く事を拒んでいるかのような硬い蕾に見えた。 未だ開かない花はいつも俺に咲かないままに落ちた花を思い出させる。花開く事無く永遠に失われてしまった花を。 その思いに、胸に去来するその感傷のままに、誘われて側へと来た。 蕾は俺を拒まなかった。 蕾は俺を受け止めようとしてくれた。 蕾は… 本当ならば生涯じくじくと乾く事無く血を流しつづける筈だった俺の傷口を乾かしていった。 確かに癒えるわけではない。癒される事はない。 ただ、絶えず疼き続けていた傷の痛みを、蕾は忘れさせてくれた。 蕾は俺に言った。『甘えてもいいのだ』と。 それから、二年。 俺は今更になって思い出した。いや、多分思い知らされた。 蕾とは花開くまでの過程の期間。 蕾は開いて花になるのだと。 その蕾は開き始めていた。 魅了する姿をして、俺の目を惹きつけて。 もっともっと綺麗に咲かせたいと。 俺の手で咲かせて見たいと、衝動的に思って、だから。 蕾にたくさんの水を、肥料を。俺の出来る限り全部投げ打ってでも、お前に。 「いーかさっちゃん」 悪司はソファーの前に据えられたテーブルに肩膝を乗せてずいっと殺の方へと身を乗り出した。 やけに真剣な目をした悪司にがしりと肩をつかまれて、当の蕾は当惑したように小首を傾げた。 「部屋に何種類か鍵つけるからな。ドアチェーンも付けるぞ」 「…合金製よね、やっぱり」 やはり真剣な表情で元子もまた相槌を打つ。悪司は目線で 「プラチナでもダイヤでもかまわねぇよ」 「そうね、この際」 「二人とも何をそんなに切羽つまっているのだ?」 「いいから!」×2 夫婦に揃って一喝されて、殺は目を瞬いて口を噤んだ。二人揃って異常なほどの緊迫感を醸し出している。 悪司は一旦ソファーへと身を戻し、元子と真剣な顔で討議をはじめた。 「電子ロックと…古典的な錠前もつけようぜ」 「いっそ音声識別とかも入れるべきじゃない?」 「だなー」 「窓は…元々防弾よね」 「甘いな、ヤツぁ防弾ガラスくらい切りそうだぞ」 「なら鉄格子もはめましょう。無駄かもしれないけど時間稼ぎくらいにはなるわ」 うんうんと頷きあう山本夫妻に流石に黙っていられなくなって殺は身を乗り出した。 「鉄格子とはまた穏やかではないな」 「穏やかじゃねーんだよ、実際」 「殺さんの為なのよ。いい、ドアチェーンかけたままドアを開けるクセをつけてね」 「寝るときも武装しとけや」 「だから…いやそれよりも秋光の話はどうなったのだ?」 「正にその話をしてんだよ」 うんざりとしたように悪司は肩を竦めた。 「いっそ首にしちまいてぇけどそれだとさっちゃんの身辺警護が不安だしな」 「それ以前の問題じゃない? 今更首にしたところで手遅れだわ」 「だなー。地の果てまで追って来そうじゃねーか」 「…二人とも?」 「兎に角」 夫婦は二人揃ってソファーの前のガラステーブルに両手を付き、殺に向かって身を乗り出した。 「年頃になったんだから気をつけなさい!」×2 そのあまりの勢いに、殺はわけがわからないながらも『うむ』と頷くしかなかった。 その蕾は咲かせる事は出来るかもしれないが手折る事は不可能に近いだろう。 春は遠い柳秋光だった。 |